3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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三十三間堂で法住寺殿の復元パネルが展示されています 南殿編。

前回の記事「お知らせ」からもう四か月も過ぎてしまいましたが、その間、プロジェクトの一員として参加し作ってきた自分担当の3Dモデル群も完成し終わり、やっと余裕がでてきたので遅ればせながら新しい記事を立てることにしました。ちなみに上記プロジェクトもコロナの影響で納期も延長され完成の披露会も2月の後半、3月に伸びるかも・・・です。日程が決まったら連絡頂けることになっているので首を長~くしながら待っています。

さて、後白河法皇の院の院庁・御所及び堂塔群があった「法住寺殿」の3DCGによる想定復元パネルが三十三間堂の堂内に展示されています。ここもコロナの影響で展示が遅れましたが今はちゃんと展示されています。私も実はまだ現物を見ておりません・・・。もう少しオミクロン等が収まったら見に行きます。落ち着いたら読者の方にもぜひ観て頂きたいと思います。また用事等で近くに行かれる方も宜しかったら立ち寄って観てください。

法住寺殿の範囲図
法住寺殿の想定範囲図 OpenStreetMapより

展示パネルは大きな法住寺殿の想定案内図の下に9枚のCG画像が貼られています。公の中心であった南殿や三十三間堂、最勝光院等が並んでいます。結構、大きいですよ、高さ2mほどにもなります。

参考までに、案内図と全体の俯瞰CGを再アップします。

2021-02-22-法住寺殿復元想定図
           
そして、
法住寺殿俯瞰図 
全体の俯瞰CGです。

展示中の残り8枚のCGは現地で観てください。
今回の記事では別角度から捉えた画像を何枚かご紹介します。本記事では南殿がメインです。
ちなみに展示パネルには、3D制作:梅村重之とありますがこれが本名です。他のプロジェクトや出版社から出る作品にも本名のクレジットが出るのでもう今さら隠す理由もないので本名でいきます。ただ、”梅村京一朗(けいいちろう)”は歌人としてのペンネームとして生き続けます 笑。

法住寺殿を復元するにあたっては建物の配置・平面図及び南殿の室礼の資料は寝殿造研究の権威である川本重雄博士からいただきました。また、京都市埋蔵文化財研究所の研究員・上村和直氏の発掘調査による敷地想定図を参考に同法住寺殿の位置、大きさ、範囲、園池の形等を復元のベースと致しました。

南殿平面図
           
          法住寺殿南殿の平面図 ©川本重雄

法住寺殿地割想定図
法住寺殿の範囲図  上村和直氏作図 『研究紀要』第9号 「法住寺殿の成立と展開」より引用。

法住寺殿の概要について簡単に書きますね。
保元3年(1158年)、後白河天皇は譲位して上皇となり、現在の京都市東山区三十三間堂廻町にある三十三間堂の地に院の御所として建てられたのが始まりです。その後、日吉社、熊野権現の勧進。法住寺殿の敷地は十余町、平家を後ろ盾にした上皇の権威で、北には法皇(上皇)の常の住まいである七条殿、儀式を行う中心とも言うべき南殿、長寛元年(1163年)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立されました。仁安2年(1167年)には手狭だった南殿の御所が新たに建築され、新御堂や不動堂も建立されました。

さらに、法皇の女御建春門院平滋子の発願により最勝光院が南殿の南に広がる広大な園池の西に1173年(承安3)に建立され同院はとても豪華をきわめた寺院であったと言われています。法住寺殿の御所・堂塔の多くは当時の摂関家や受領(国司や地方の有力者)からの寄進によるものが多かったといいます。院の権威、勢力がいかに大きかったかを物語ります。

この栄華も平家打倒を旗印にした源頼朝に呼応して、寿永2年(1183年)、木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)、負けた院側は後白河法皇が法住寺殿からの脱出を図りましたが義仲側に囚われ摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉されてしまいました。そして、最勝光院も1226年(嘉禄2)6月4日大火にあい,以後、法住寺殿も衰退の一路をたどり唯一再建された三十三間堂だけがかつての栄華をわずかに留めるばかりです。

今年、NHK大河「鎌倉殿の13人」が始まりました。今はまだ後白河法皇は頼朝の夢枕にしか現れていませんがそのうち物語も佳境を迎えるころには毎週のように出てくることでしょう。頼朝が法皇をさして言ったとされる「日本一の大天狗」も、あくまで武士の鎌倉方からみた史観であり、法皇の朝廷からみれば保元・平治の乱、そして平清盛と武士が台頭してくるなかで如何に朝権を維持していくか・・・それに腐心する姿が朝令暮改のように映ったからでしょう。

当時は、院政と鎌倉方の権力の二重構造でした。力と力のぶつかり合いではどちらかが滅ぶか落人になる・・・というのが世の習いですが、そのなかで朝廷側が実質の政治・権力を行使した上皇(治天の君)と政治には一切関わらず古来より続く国の神事・祭祀の主催者としての天皇に二分化されたことは今からみれば良かったなぁ、と思っています。西洋等にみられる「絶対王権」は日本においては唯一「院政時代」がそれに該当するのかな、とも考えています。

いずれにしても文治元年(1185)、院の後白河法皇は「守護・地頭の任命権」を頼朝に認めることで実質的な支配権を失い鎌倉幕府の始まり、武士の時代に代わり明治になるまで紆余曲折を経て続きました。

しかし、芸術、文芸・工芸・文化面の発信力においては圧倒的に治天の君である法皇・朝廷側が鎌倉側・武士方を凌駕していました。また、その発信力は江戸時代の朝廷、公家にも引き継がれ結果的に日本という国の国柄が明治、そして今日まで維持されてきたと思います。

当時、その芸術・文化の中心が後白河法皇の院御所「法住寺殿」であり、そのなかでも南殿が重要な御所でした。今回はその南殿の姿と殿内の室礼を再現したCG画像を紹介したいと思います。

南殿を南西から俯瞰する
南西から俯瞰した南殿の全体像。

南殿正面
正面から見た南殿と寝殿。

南殿正面アップ
寝殿のクローズアップ

北から俯瞰する南殿
北からみた南殿の背後、俯瞰。 ちなみに寝殿や対の北庇などにこの頃から引き戸である遣戸が使われるようになりました。

今回、再現しました法住寺殿はその最も最盛期だった治承元年(1177年)頃の姿を再現したものです。南殿は儀式の中心で、朝覲行幸(覲は謁見の意で、天皇が親である太上(だいじょう)天皇・皇太后の居所を訪問し拝謁すること。当時は法皇を息子である高倉天皇)等の公の儀式や大餐等の遊興が催されました。また、院の政庁が置かれたことから公卿議定もここで行われました。政治の中心でもあった訳です。法皇は普段は三十三間堂の北にある七条殿に住まわれ儀式等があるときは南殿に赴くという風に公私分かれていました。

南殿を復元するにあたっては外観のみならず寝殿内の室礼も再現しました。最も厳粛な儀礼の一つ・朝覲行幸時の室礼を対象としました。

再現するにあたっては川本重雄博士から『兵範記』の法住寺殿に関係する記述を読み下しにして提供頂きました。兵範記(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間です。同日記は、平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっていて、特に保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は当時を知る第一級の資料です。

この兵範記を読むと朝覲行幸時の華やかな姿、洗練された貴族文化、室内意匠が読み取れ、やはり文化面においては鎌倉武士をはるかに凌駕していることを目の当たりにわかります。

そこで、長文の引用にはなりますが朝覲行幸時の記述を載せます。

御所の装束の儀、
寝殿母屋棟別障子以西ならびに西南両面唐廂、同簀子、および西透渡殿等、広筵を敷く。(二面の廂妻戸の間を除く、各々長押上に差筵を敷く、常のごとし。柱下に間毎に鎮子二枚を置く。)
母屋ならびに唐廂南西二面の御簾皆これを巻く。(母屋の御簾高さ五尺ばかりにこれを巻く。)南廂東第一二間ならびに同廂鴨柄下障子の西面および西廂南第三間妻戸に御簾、各々これを垂るる。母屋の内四面に壁代を懸け廻す。(おのおの高さ五尺ばかりにこれを巻く。)棟分障子西頭ならびに北並戸および西廂障子南辺に、五尺山水屏風を立て渡す。母屋西第四間(いわゆる南階の間、)中央に繧繝帖二枚敷く。(東西妻。)その上に東京錦茵一枚を供し、上皇御所となす。(南面。)同間南廂に同帖二枚を敷く。(東西妻。)その上に龍鬢地鋪二枚を施す。(唐錦縁。)唐錦茵一枚を供す。御拝の座となす。(北面。)西廂御屏風の西第一枚に御拝座帛袷一帖を懸く。(帖のこれを懸くる、院の御服所の調進。)その下に金銅鱗形鎮子四枚を並べ置く。(南向にこれを置く。)同第三枚にまた帛袷を懸くる。(宮の御服所の調進。)その下に同鎮子を置く。
 南廂東第一二間皇太后宮御所となす。鴨柄の下東間東北に四尺御屏風を立て回す。その内京筵高麗端帖二枚を敷く。(東西妻。)坤方に当てて三尺御几帳一本を立つ。その東間また國筵高麗端帖二枚を敷く。(東西二行。)御座間の南、御簾帽額際に几帳帷二帖、(四尺几帳の高さに巻き上げしむ。)その下にまた四尺几帳二本を立つ。東間の御簾の際に一本を立て、女房候所となす。南廂東面妻戸これを開けず。(御簾これを垂るる。)寝殿の北面を主上の御所となす。その中央間以西第二間北唐廂に障子帳、常の如し。その内に京筵高麗端帖三枚を敷く。(二枚相並べ、一枚その上南を首。)御帳間以東二箇間東南二方に四尺御屏風を立て回す。御帳東間に同帖二枚を敷く。(東西妻。)その東に國筵高麗端帖一枚を敷き、辺敷となす。(南北妻。)東屏風西頭に衣架一脚を立つ。主上褻御装束を懸く。(御直衣、有帖様またこれを懸く、次第別紙にあり。)同北孫廂東西二行敷高麗端帖等、その御座の間南長押居迫り御火桶一口、(火箸あり、)西遣戸東辺置蒔絵炭取一口、

西対、(中門北廊を付す。)自屋北第二間より以南、ならびに南(東)二面弘廂及び中門北廊等、廣筵を敷き満たす。母屋東南二面ならびに南第一間西面妻戸および西廂等、おのおの御簾を垂る。(東南二面、妻戸を除き間ごとに鎮子を置く。)北第四五間西北二面に太宗御屏風を立つ。第五間(いわゆる妻戸の内、)西に迫り唐錦毯代を敷く。螺鈿大床子二脚を立つ。(南北妻に相重ねて立つ。)その上に菅円座一枚を敷く。その北の間に繧繝帖二枚を敷く。(南北妻。)その上に東京錦茵一枚を敷き、平鋪御座となす。大床子の南の間の西障子の傍らに両面端帖一枚を敷き、摂政座となす。(東面。)第七間南頭、御簾の傍ら東西行に同帖二枚を敷き、大臣座となす。(北面。)西廂平鋪御座の北の間に当て、東長押敷に逼り小筵二枚を敷く。(東西妻。)同御屏風を立て回す。(南に当て戸を開く。)その内に朱漆小倚子を立つ。(南向。)御装物所となす。北第二間妻戸の内内御方御役送道となす。(期に臨み、御簾を巻く。)
執柄の休所、西釣殿東妻をもってそのところとなす。土馬道以東の母屋ならびに廂等、北東二面に翠簾を懸く。(東面格子撤却す。)北壁傍らに五尺屏風を立つ。(南向。)その前に高麗端帖三枚を敷く。(東西妻にこれを敷く、二枚相並べ、一枚上にあり。)その南の間に南北二行同畳を敷く。右の土馬道以西、中間南掖、北面妻戸に翠簾を懸く。

公卿座、(殿上侍臣座を付す。)西対の西南卯酉廊母屋七ケ間に廣筵を敷く。棟分布障子以東五ケ間、東西二行に高麗端帖九枚を敷き、公卿座となす。(南五枚、北四枚、東をもって上となす、その南の第一帖執柄座となす、絶席にこれを敷く。)大膳職饗を弁備す。(赤木。)廿前、(大臣座絶席なしといえども、饗は絶席あり、大納言已下相違いにこれを居える。)同障子以西また東西二行に紫端帖四枚をしく。(南北各二枚。)殿上侍臣座となす。内蔵寮机饗を弁備す、(黒柿、)廿前。(その處狭し、六前これを居える。)同廊北唐廂に東西行に同帖等を敷き渡し下侍となす。西寝殿御の装束日ごろの如し、別儀なし。南面皆御簾を垂れる。几帳帷を出さず。東第一間妻戸の内に御遊具を置く。(笛、笙、篳篥、已上笛筥の蓋に入れる、拍子筝琵琶和琴等はともなわざるなり。)
内御方の台盤所、寝殿西北子午廊をもってその處となす。東西二行に紫端畳等を敷く。南の中遣戸の北辺中央に御膳棚一脚を立つ。西遣戸に副えて置物御厨子二脚を立つ。(南北妻。)菓子六十合を居える。(院司若狭守経盛朝臣課す所。)瓶子二口。(酒を入れる、薄様の裏をもって、その口、)青磁鉢二口、(薯蕷粥一口、柿浸一口、銀の匕あり、)二行の座の末に火櫃二口炭取一口を居える。(炭を積む、)女房衝重廿前、年預これを勤む。今度料米十二石、庁官請け取り調備と云々、
同御方御厨子所、北対西北子午屋をもってその所となす。諸司假の棚を作りこれを立つ。紫端帖二枚を敷き、預座となす。黄端帖三枚を敷き、番衆座となす。所々の遣戸等に白垂布を掛ける。東小寝殿御装束日ごろの如し、別儀なし。上皇御所となす。その南面几帳帷出さず。
宮御方台盤所、寝殿東北子午廊をもってその處となす。鋪設装束日ごろの如し、別儀なし。
東釣殿土馬道以北三ケ間、西面格子間、おのおの翠簾を垂れる。几帳等だす。宮女房綵袖を出す、南東北三面幷西廂南面二面格子妻戸等おのおのこれを閉じる。

二階釣殿東南二面格子を上げる。西北二面これを下す。その内東西二行に紫端帖を敷き、院殿上侍臣座となす。饗廿前を儲く。(院庁これを弁備しむ。)御輦宿、西御車宿をもってその處となす。近年所司紺幔をもって北面の柱に付してこれを引くか、是非未詳、尋ぬるべし。
政官座、以同御車宿西妻三ケ間、(尋常時御随身所、)爲其處、東西二行敷紫端帖六枚、弁備机饗廿前、(宮厨家役之、)近年或敷所司畳歟、是非未詳、
侍従座、以政官座南廂爲其處、所司設座、侍従厨弁備机饗廿前、寛治二年、(大炊殿)車宿南立五丈幄一宇爲其座、所司設座、侍従厨設饗廿前、件幄装束所立也云々、
諸衞幄、西門外南北立兵衛衞門等幄如恒、(件幄行幸以後立之、)寛治二年匡房記如此、但近年不立件幄、既略歟、
蔵人所、(御薬陪従是也、)西屏中門以西築垣際片廂(尋常時蔵人所、)爲其處、所司設座、穀倉院弁備机饗、(廿前、)西中門外屏幔去西砌一許丈當中門南北柱立幔柱、(中央又立一本、)引二色幔、同幔北辺三許尺(西向開幔門、)立同柱、東西行引之、(到西築垣下、)門南掖幔、西折自上官座北廂砌、到同廂西妻、更南退三□(西向開幔門、)立同柱、東西行引之、(到西築垣下、)楽屋東釣殿南頭嶋以南池上敷出假板敷、(諸司敷之、)其上施筵、敷砂、池上橋巽方去一丈三尺立太鼓一面、(其面向乾也、台火焔如常、)其左右去四許尺立鉦鼓各一面、(左鉦在艮、右鼓在坤、)去太鼓台前三尺、其中央七尺相分立左右各桙十枝、(…)太鼓南辺立八丈纐纈幔一宇、(東西妻、)其中東西二行敷黄端帖、(南北各六枚、)爲左右伶倫座、(左材北、右材南、各以中爲上、)…
先例立五尺屏風、今度四尺尤不審、又繧繝縁畳也、今度高麗縁如何、又敷御茵、今度不被敷如何、南廂東第一二間出例几帳、西間爲御所、東間女房打出、其東面母屋母屋巡二間同打出、屏六具、其色目、

以上が引用分です。長くなってすみません。引用文の一部を読むだけでもその絢爛豪華、洗練さを垣間見ることができると思います。やはり鎌倉方武士にとっても「ただただ口を開け観るだけ」で超えられない壁を痛感したことでしょう。

頂いた兵範記抜粋から寝殿内の室礼配置図を作りました。

南殿寝殿室礼配置図
南殿寝殿・朝覲行幸時の室礼意匠 © 川本重雄。

室礼配置図を基に実際に配置し再現してみました。なお、寝殿の柱間寸法は3mとなっています。

南殿寝殿内部正面
寝殿正面の簀子に敷いてある差筵は両端が紫の縁になっています。ここに殿上人が並んで座りました。一段奥の南庇の御座は法皇が座られるところ。繧繝縁二帖に東京錦茵が置かれています。

南殿の寝殿の簀子
寝殿正面の簀子。床に差筵が敷かれています。


南殿寝殿内部を西から
西庇から見た母屋及び南庇。
床は広筵を敷くとありますがサイズが分からないので畳表のい草を一面に敷きました。母屋の中心にある御座は天皇の座られる所。時の高倉天皇です。
南及び西庇の柱内側の御簾は南庇東の障子側を除いて全面巻かれています。母屋の内側には全面、壁代を垂らし巻いています。母屋の北、妻戸側と東の障子前には全面、五尺の高さの屏風(山水画風)が立てられました。

東から見た南殿の寝殿内部-2
西側から見た寝殿母屋と庇。
手前左の障子の内側は皇太后の御座所です。この時は法皇の譲位後の后・建春門院 平 滋子だと思います。母屋の天井は組子の入った格天井です。

南殿の寝殿南廂-2
寝殿南庇です。中央に見えるのは法皇の御座。母屋側は天皇の御座です。

南殿の寝殿南廂
皇太后の御座所の内部。
四尺の高さの屏風を立て、高麗縁の帖二枚及び内京筵を敷きます。また三尺の高さの几帳を一つ置きます。屏風で隔てた東隣は女房の控えの間です。

南殿北庇
寝殿北庇は天皇の寝所です。床は京筵に高麗縁の御座が二枚並べてあります。妻戸側と東の障子前には四尺の屏風が立てられています。東障子の前には衣架一脚があり帝の御装束を懸けます。左の一段下がった所は北孫庇です。

南殿北庇の障子帳
東側から見た天皇の障子帳です。帝の寝所です。平安後期には御帳台から障子(襖)が開け閉めできる障子帳へと変わっていきました。

南殿寝殿の北孫庇
北孫庇です。

後、寝殿以外の南殿の主な建物を紹介します。

南殿の西対代への透渡廊
寝殿から西対代へ向かう透渡廊。ちなみに「対代」とは孫庇の無い「対」のことを指すのだそうです。

南殿の西対代への複廊
同じく西対代に繋がる複廊です。手前左の家具は御火桶です。

南殿の西対代
南殿の西対代です。奥左は西中門廊です。

東小寝殿の南弘庇
東小寝殿の南弘庇です。弘が付く庇は壁、蔀等のない吹抜け空間です。東小寝殿は朝覲行幸時の高倉天皇中宮の建礼門院(平清盛の娘で安徳天皇の母)の御在所であったと思われます。

東から寝殿の東弘庇と東廂を見る
寝殿の東庇を見ます。

南殿の西寝殿-2
南殿の西寝殿です。

南殿の寝殿から二階釣殿と池を見る
南殿の南庭と園池、二階釣殿をみます。

南殿二階釣殿と最勝光院
二階釣殿越し、左手遠方に最勝光院が見えます。

南殿小御堂
小御堂です。

南殿懺法堂
南殿懺法堂です。持仏堂のようなものです。

南殿懺法堂と雑舎
南殿懺法堂と雑舎。

南殿西釣殿から見た二階釣殿
南殿西釣殿から見た二階釣殿です。

南殿東釣殿から西釣殿と中門廊を望む
東の二階釣殿から見た西釣殿と中門廊。

南殿の東中門廊と二階釣殿
南殿の東中門廊と二階釣殿。

東から南庭と西中門廊を見る
東から南庭と西中門廊を見る。

二階釣殿
二階釣殿です。当時の寝殿造としては珍しく二階建ての釣殿がありました。二階へ上がれたようです。

ここからはお遊び的CG画像となります。

秋の南殿と園池
秋の園池。右手奥は最勝光院です。

雪の南殿と二階釣殿
雪景色の二階釣殿です。

以上、一通り南殿を紹介しました。次回は最勝光院を案内します。


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