3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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広いようで狭い京都御所

新年1月ももう半ばになって記事の更新が大幅に遅れ申し訳ありません。
3D動画も続編がまだ出来てない・・・続編では御所の各建物の部屋名や用途等について、またその後では御所の室内から見た風景など、すでに失われた建物をメインにウォークスルーしようかと思ってますが3Dの場合、ちょっと集中力が必要なので少し充電してからにします。
有名ユーチューバーなど毎日のように動画をアップしていますが、実際、編集にかかる時間は大変だと思います。さらに3D動画だと・・・スタッフが必要です・・・そんなことないか (笑)。

そんなこんなで今日は京都御所の題材を一つ記事にしてみようと思います。
タイトルの通り、御所は広いようで狭い、なぜか? 自分なりに3Dで御所を作っていく過程で改めてそう感じたことを書いてみます。

京都御所は東西約250m、南北450m、あわせて11万㎡(3.3万坪)あります。実際に現地を訪れると延々と続く御所の築地塀を見て「いやぁ、広いなぁ!」と実感するのがごく普通な感覚だと思います。見学コースの出入り口・清所門を間違えたらまた一周1キロ歩かなければなりません。こどもだったら半ベソかくと思います。

現在の御所の面積、区画が決まったのは幕末の慶応元年(1865)、それまで大きく欠けていた北東部の区画を御所に編入しそこで初めて整った長方形の敷地形状になったのです。

2019-08-30-安政新造内裏全図
安政新造内裏全図(3D京都蔵)。安政二年(1855)頃はまだ北東部が大きく欠けていました。

内裏図(慶応元年・1865年)_説明付
慶応元年(1865年)の内裏では欠けはなくなりキレイな長方形になってます。
(京都御所渡廊及び附属建物復原工事報告書・宮内庁京都事務所編-より引用)

※ちなみにこの復原工事報告書は自分の蔵書の中でも宝物の一つです。余分なこと書きました 笑。と思ったら本棚から落っことしてしまった!表紙の綴部が一部破損・・・ショックです・・・涙。

本記事とは直接は関係ありませんが、慶応元年の内裏図を見ると東の対屋の下家部分が解体されています。東対屋は明治天皇が幼少期を実母の中山慶子と過ごされた建物で、残る座敷部も明治に改元される前後?に解体されています。明治天皇が過ごされた思い出の対屋なのに何故、明治に変わる慌ただしい時期に壊されたのか? 今一つわかりません。東京奠都に関係するからでしょうか?あるいは、明治に変わる前にすでに東京への遷都を画策していた勢力がいたのでしょうか?何らかの急いで解体する理由があったようにも思われるのです。

御所は江戸時代六度も火災と再建を繰り返してきました(建て替えは除く)。戦国時代は衰微し一町(100m)四方ととても狭いものでした。それが近世になって織田信長や豊臣秀吉、徳川家によって徐々に拡張されました。慶長度(1614年頃)の内裏の規模は、敷地が南側115間半、東側103間、西側119間、北側136間(一間はすべて六尺五寸、藤岡通夫著「京都御所」昭和62年刊・中央公論美術出版刊より引用)とあります。ちょっと歪でますがざっと計算すると東西120間、南北110間に補正した場合、南北236m、東西257m、面積6万㎡(1.83万坪)の規模となり現在の御所と比べると東西はほぼ同じ幅、南北は現在の方が200mほど長く面積的には今の方がほぼ二倍近い規模になります。江戸時代もやはり火災を経るたび規模を拡大していったのですね。

ちなみに、同じく藤岡通夫著「京都御所」によれば寛永19年(1642年)に建造された内裏の建坪規模は約4千85坪。一方、主要部が現在に残る安政度内裏(1855年)は私なりの見立てだと住空間で約8千坪、蔵等含めると1万坪前後はあったのではと思われるので。土地面積と建坪は比例するのだなぁ、、、と手前勝手に感想を述べたりしてます。

さて、ここからが本題に入ります。今回のどこが狭いか・・・について、まず例によって御所図をアップします。

京都御所図と儀式空間
京都御所図 大正三年 日本皇道會編纂

この図及び書き込みに基づき書いて参ります。

図中の南(右)に赤く囲った箇所があります。御所の顔とも言うべき紫宸殿と南庭を囲む回廊からなる朝廷、表の公式儀式空間です。ここで即位礼始め大きな儀礼が行われました。で、回廊群のサイズを見てください。回廊の東西間の距離が約75m前後、南北の回廊の正門である承明門から紫宸殿の直下まで57m前後、南階までだったらさらに距離は縮みます。
このサイズ・空間が国家儀礼の場に相応しい大きさか? 明確には定義できませんが私は狭い・・・と感じます。何故なら、国家的儀式には威厳、荘厳、荘重さの演出が必要だと思いますが。この規模ではそれができないからです。

南庭
南庭の回廊。

たとえば、
月華門

この回廊西の月華門、3Dで作りながら思ったのは左右の短さに対して棟高・屋根が縦長過ぎないか?という印象です。少し不安定なアンバランスな感覚を覚えるのです。なぜ? そこで思ったのは回廊の南北の距離が57mしかないこと。この短い回廊の中点に、それなりの門を設けようとするとどうしても左右の桁行を削るしかない、で縦長になってしまう。つまり無理があると思ったのです。

それと、御所の正門・建礼門から回廊の正面の承明門まで25m前後しかありません。これも実際、現地で見ると狭く感じます。
承明門から建礼門
承明門越しに見た建礼門。人が混んでます。やはり狭い感じ。

南庭回廊の東西はともかく南北が短すぎるのです。

参考までに以前記事に書いた平安京大内裏の儀式の中心・朝堂院について載せます。

朝堂院の3DCGが出来上がりました。

朝堂院が完成したのでブログにアップしますが、その前に、今回の九州熊本から阿蘇、大分と群発地震で亡くなった方々にお悔やみ申し上げます。また怪我や避難生活で辛い思いをしている住民の方の一日も早い生活復帰を願うばかりです。日本にはたくさんの活断層があり、いつ、どこで地震が起きても不思議ではありません。人事とはとても思えません。国民みんながお互いに助け合っていかなければならない、と改めて痛感しました。平安...

 この平安京の朝堂院の南北の距離は500mもありました!。最初に朱雀門を潜り次に朝堂院の正門・応天門、そして回廊内に入る会昌門までもかなり距離があり、門を潜るにつれ朝堂院の荘厳さに圧倒される、という演出がなされています。
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No Subject * by -
五反田猫様 コメントありがとうございます。
>「二重虹梁」は、背高になったから採用したのか、
そうですね、よく見たら二重虹梁ですね。江戸時代初期に御所の紫宸殿が現在の仁和寺へ移築され金堂となっていますが、内部も二重虹梁になっているそうです。軒先の垂木も御所だけ(紫宸殿)三重になっていて一般では許されません。やっぱり御所の格式故、このような二重虹梁を持つ回廊になったのかな、と思います。

江戸時代、御所の北東が大きく欠けていましたが、当時の人はあまり気にしなかったのでしょうか?自分だったら落ち着いておれないです 笑。幕末の公家町の絵図を見ても北東、鬼門に
あたる部分は空地もあります。江戸時代、北向き、南向き等は気にしなかったけど、鬼門だけは気にしたみたいです。そもそも城下町の武家屋敷でも拝領屋敷ですから北も南もないですよね。今は建築基準法で隣地から最低50cm離れて建てないといけないですけど、それだと、かなり狭く北側がジメジメします。北向きが嫌われるようになったのは明治以後かもしれませんね。

ご明察 * by 五反田猫
いつも興味深い内容を有難うございます。

なるほど、ご指摘されてみれば、回廊に対して日華門、月華門は、何となく背高な感じです
構造は、切妻屋根に「二重虹梁」という古式な特殊構造。
「二重虹梁」は、背高になったから採用したのか、これを採用したから背高になったのか気になる点です(笑)
 承明門と建礼門の距離は、近いなぁと思っていましたが、これもご指摘で納得です。
周囲が町屋と大路に囲まれているから、敷地が足らないと周囲を変更できない。
そうなると、限られた範囲で、復古した建物を配置してゆく。
結局 南側にしわ寄せが出てしまったのでしょうか。 本来ならば、承明門と建礼門の間には、馬場か松原などを設けたかったでしょうが、これは諦めためたのでしょうね。
こうした制限の中で、よくぞまとめられたものです。

御所が長方形になったのは、慶應になってからなのですね。
確かに、それ以前の絵図をみると、東北が欠けておりました。私達は、現在の御所しか知らないので、どうしても長方形だと思い込んでしまいますが、そうでなかった期間の方が長いのですね。

重ねて貴重な指摘と情報に感謝いたします。

コメント






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No Subject

五反田猫様 コメントありがとうございます。
>「二重虹梁」は、背高になったから採用したのか、
そうですね、よく見たら二重虹梁ですね。江戸時代初期に御所の紫宸殿が現在の仁和寺へ移築され金堂となっていますが、内部も二重虹梁になっているそうです。軒先の垂木も御所だけ(紫宸殿)三重になっていて一般では許されません。やっぱり御所の格式故、このような二重虹梁を持つ回廊になったのかな、と思います。

江戸時代、御所の北東が大きく欠けていましたが、当時の人はあまり気にしなかったのでしょうか?自分だったら落ち着いておれないです 笑。幕末の公家町の絵図を見ても北東、鬼門に
あたる部分は空地もあります。江戸時代、北向き、南向き等は気にしなかったけど、鬼門だけは気にしたみたいです。そもそも城下町の武家屋敷でも拝領屋敷ですから北も南もないですよね。今は建築基準法で隣地から最低50cm離れて建てないといけないですけど、それだと、かなり狭く北側がジメジメします。北向きが嫌われるようになったのは明治以後かもしれませんね。
2020-01-25 * [ 編集 ]

ご明察

いつも興味深い内容を有難うございます。

なるほど、ご指摘されてみれば、回廊に対して日華門、月華門は、何となく背高な感じです
構造は、切妻屋根に「二重虹梁」という古式な特殊構造。
「二重虹梁」は、背高になったから採用したのか、これを採用したから背高になったのか気になる点です(笑)
 承明門と建礼門の距離は、近いなぁと思っていましたが、これもご指摘で納得です。
周囲が町屋と大路に囲まれているから、敷地が足らないと周囲を変更できない。
そうなると、限られた範囲で、復古した建物を配置してゆく。
結局 南側にしわ寄せが出てしまったのでしょうか。 本来ならば、承明門と建礼門の間には、馬場か松原などを設けたかったでしょうが、これは諦めためたのでしょうね。
こうした制限の中で、よくぞまとめられたものです。

御所が長方形になったのは、慶應になってからなのですね。
確かに、それ以前の絵図をみると、東北が欠けておりました。私達は、現在の御所しか知らないので、どうしても長方形だと思い込んでしまいますが、そうでなかった期間の方が長いのですね。

重ねて貴重な指摘と情報に感謝いたします。
2020-01-24 * 五反田猫 [ 編集 ]