3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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謎の人物X氏より新たなミッションを受け宮内庁書陵部公文書館へ行って参りました 前編

先日、謎の人物X氏より新たなミッションを与えられ宮内庁書陵部公文書館へ行って参りました。謎の人物とは誰か? まったく分かりませんが今まで京都御所に関する文献・資料について「ここに、こんな資料がありますよ。一度調べられては?」とアドバイスを非公開経由のコメントで頂き、御所の3Dを制作する上でとても役立ちました。X氏がいなかったら3Dも途中で挫折していたと思います。同氏は御所に関して非常に詳しく並みの人ではないと思います。どんな人か知りたいですけど敢えて聞きいておりません。ただ何となく文体から女性の感じがしないでもないです。いつか、正体を明かしてくれるかもしれません。それは御所の3Dが完結したとき? な~どと思ってます 笑。

今回は一泊でのミッションでした。夜は親しくして頂いてる公家の子孫の〇〇卿とお会いしました。幕末、王政復古に東奔西走、活躍された方のご子孫です。会員制のレストランでとても美味な中華料理に舌鼓を打ち、感謝感激。田舎者の私にはとても楽しい夜でした。

しかし、多々、会話に華を咲かせるなかで、現在における旧公家の跡継問題について色々と切迫している状況も伺いました。今、子供の少子化が進むなかで公家の末裔といえども同様です。さらに女子しかいない家は養子もままならず断絶の危機を迎えている家も幾つかあるとのこと。

最近、ブログに非公開コメントされてきた公家の子孫の方から「ブログに当家の記事を書いていただきありがとうございます。先祖が懐かしく思われます。しかし、私の代で家もおそらく絶えます。ですのでブログの記事を読みとても嬉しくなりコメントしました」と書かれお礼もされました。このお家は歴史好きな人なら誰もが知っている程の有名な家系です。

その由緒ある家系が絶えていくのはとても残念で悲しいものがあります。傍系から養子を迎えるとか何とか絶やさずに続いてほしいと思っています。

この現代に公家が存在することに何の意義があるのか? 単なる時代錯誤と思われる方も多いと思います。でも、たとえば、今、名古屋の河村市長が進めている名古屋城天守閣の木造による再建。これについては反対している人もいますが、じゃあ、コンクリートの天守閣にどれだけの魅力があるのか?少なくとも私は魅力を感じません。言い方は変ですがお公家さんもこの「木造」のような存在だと思います。千年持つ建物を建てるには千年の樹齢をもった木が必要です。公家さんは帝の身近に仕え、千年続いてきました。だから私は公家さんに魅力を感じます。

会食の最後に、〇〇卿に私は「昭和天皇のご意向でもありますし、旧公家の集まり・堂上(とうしょう)会も天皇陛下から年賀のご挨拶を賜っています。公家華族の復活を望みます。ご皇室を支え、日本の国柄の守り人として必要です、ぜひお願いします」と申し上げました。卿は「いゃぁ」、と頭を掻かれていました。

さて、書陵部公文書館の方ですが二日間通いました。主に明治に書かれた、描かれた幕末の安政度内裏に関係する資料や絵図を閲覧しました。その中で、これはと思った資料を何点か一部紹介したいと思います。

まず安政度内裏(1855年建造)の指図を描いたなかでも最高傑作と思いました「安政度西京御所之図南ヨリ壱~四」を挙げます。

安政度西京御所之図南ヨリ壱-
「安政度西京御所之図南ヨリ壱」の表紙。

「安政度西京御所之図南ヨリ壱~四」は"西京"とありますが京都御所のことです。明治になって東京が首都になり東京から見れば京都は西にある都だから"西京"。確かにそうだけど明治以後の京都の立ち位置が何となくわかる題名です。

同図は四枚から構成され御所の南から順番に北端まで四つに区切ったものです。サイズは滅茶苦茶大きく一枚あたり五畳一間ほどあります。それが四枚ですから繋げると南北の縦方向に10m越え、東西に2.5m前後はあろうかという超大判です。館員の方に手伝ってもらって恐る恐る開いてゆきました。開くと建具の細かい所まで精緻に描かれ鮮やかな彩色でした。大きすぎるので、ほんの一部を撮った写真をアップしますね。

安政度西京御所之図南ヨリ壱-内侍所-刀自住居図
「安政度西京御所之図南ヨリ壱」に描かれた刀自(内侍所に仕える女官)の住居。

如何ですか?ほんの一部です。三種の神器の一つ「八咫鏡」を祀る神殿であった内侍所に仕えた刀自(内侍所に仕えた女官)の住居で。刀自たちは一生、未婚のまま神に仕えました。拡大してみて下さい。見えるかな? とにかく、これほど精緻に正確に描かれた間取り図は今まで見たことありません。というより、これよりも素晴らしいものはないと断言します。

なので、ちょっと興奮しながら撮りましたが、大きすぎて広角でも当然無理。しかも踏み台禁止なのでホント、バラ撮り、乱撮りすれば何枚かはOKだろう・・・でしたね。自撮り棒? 当然、ダメですよ。

史料的には寸断した写真でも書き込んだ文字までわかればOKですが、あまりの素晴らしさに「欲しいなぁ」と思いましたよ。もちろん、現物は無理ですけど複写なら可能。取り敢えず業者さんに見積もってもらうよう館員さんに依頼。10mを越える絵図だと何分割されるか分かりませんが見積もりの回答が怖いです・・・。おそらく現物の写真撮りしたものは無いと思いますので、仮に複写を依頼すれば、その画像も公文書館の画像データベースに記録されると思います。だとすると、「自分は二次所有者?」と、勝手な自己満足を思い描いてます。買えれば・・・ですけど。

次に、「京都皇宮沿革誌」。一~七の七冊から構成されています。

京都皇宮沿革誌一-表紙
京都皇宮沿革誌一」。

書名通り京都御所の沿革誌です。

その一、では、戦前まで残っていた御所の建物の調書が含まれています。

大正8年京都皇宮建物調書-表
「京都皇宮建物建物調書」。

大正8年京都皇宮建物調書-冒
「京都皇宮建物建物調書」の最初のページ。

冒頭には戦前まで残っていた御所の総建坪が載っています。これには3987坪、ほぼ4千坪と記載してあります。蔵や御文庫も含みます。あくまで明治以後に残された建坪ですから、幕末の盛時には8~9千坪はあったと思われます。部屋数も700前後あったのではと推測しています。高級女官の長局であった対屋など、ここだけでも数えると100部屋もあります。蔵などは含みません。なので私たちが想像するより以上に御所は多くの建物が建っていました。ちなみに江戸城の本丸御殿の総建坪は1万1~3千坪あったといいますから、江戸城本丸に比肩する規模です。江戸幕府の直轄領は4百万石、一方の御所は10万石。単純に石高では比較できませんね。

京都皇宮沿革誌一-表紙-大台所意匠
大台所の規模、仕様を書いた調書の一部。内部の3D化するにはとても役立つ資料です。いつのことか分かりませんが・・・。

二、は飛ばして京都皇宮沿革誌」の三を見てみます。

京都皇宮沿革誌-3-表紙
京都皇宮沿革誌三」。

この中には、「大内保存(明治10年~16年)」と言ってかつての公家町であった現在の京都御苑が整備されたときの記録も残っています。

京都皇宮沿革誌-3-大内保存買
大内保存買上の記録冒頭。

京都皇宮沿革誌-3-御苑図
「大内保存買上ヶ地図」。

大内保存については以前にも記事で取り上げていますので、明治になってから公家の屋敷の買上(上地)された事例を一つ紹介します。

京都皇宮沿革誌-3-西洞院-上地
公家の西洞院家の土地屋敷の買上明細。

西洞院家の例ですと上京区内に三か所土地を所有しているのがわかります。一つ目、258坪の土地が代金38円で買上されてます。二つ、三つ目は同じ椹木町通(御所の西、丸太町通の一本北の通り)の隣り合わせで55坪、代金8円25銭と695坪、代金104円25銭とあり、合わせて1008坪の代金150円50銭。当時の一円は現在だと2万円ほどの価値があるとも言われ、現在に換算してみると〆て300万円。えっ!そんなに安い? 安く買い叩かれたのでしょうか?・・・。なんかよくわかりません。

後、今は奈良県の樫原神宮に拝領されている御所の内侍所及び神嘉殿についても記載されてます。

京都皇宮沿革誌-3-内侍所移築
御所の内侍所及び神嘉殿の樫原神宮への拝領記録(明治二十二年)。

京都皇宮沿革誌-3-内侍所移築-平面図
内侍所及び神嘉殿図。

明治になって宮家の久邇宮だけは京都に残り現在の御苑内に屋敷を構えていました(当主、朝彦親王・中川宮が佐幕派とみなされた為)。それも大内保存事業で上地されました。そのときの記録も残っています。

京都皇宮沿革誌-3-久邇宮上地図
久邇宮家の上地の記録(明治15年)。

京都皇宮沿革誌-3-久邇宮上地図-建物図
御苑内にあった久邇宮家の屋敷図。
土地は6390坪。目を引くのが詳細に記載された部屋毎の坪数。

そして、今回の公文書館へ行った目的の一つ、昭和20年、終戦間際まで残っていた御所の大台所や武家玄関、女官部屋等の建物が疎開による解体された経緯を調べること。ひょっとして解体の工事記録・図面が残っているかもしれない。そう思って調べた資料が「工事録1-昭和20年」。

工事録1-昭和20年-表紙
「工事録1-昭和20年」。

同工事録を調べてみた結果、その解体の詳細について、また工事図面等もありませんでした。残っていたのは、
工事録1-昭和20年-明細
たった2ページの報告書だけでした。

当時の御所の全建物の内、三分の一が昭和20年5月に解体されました。今から思えばとても大きな損失であり残念です。解体された部材・用材がどうなったのかも記されていません。定かではありませんが軍隊の焚火にされたとも・・・。明細には解体建物の摘要欄、請負人、解体費用、起工・竣工の日付だけが記載されています。書き込んだ文字は乱れ終戦間際の慌ただしさが肌に伝わってきます。私が出来ること、それは失われた御所の建物を3Dで再現すること。改めてそう思いました。


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No Subject * by 京一朗
大原様 コメントありがとうございます。
お公家さんも長い歴史で色々とありましたが仮に公家がいなくて武士ばっかりだったら、その分、戦国時代のように、国がもっと荒れたかもしれません。
時代劇は幕末や戦国時代物ばかり多くて、たまには公家さん主役の大河ドラマやってほしいですよ。信長や秀吉、家康と同時代に生きた近衛前久とか取り上げたら面白いと思うのですが。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様、
アップして頂いたPDF「戦時下建物疎開の執行目的と経過の変容」拝見しました。眼から鱗というか、全国的に建物疎開が行われていたことがわかりました。名古屋の栄の100m道路も疎開で家が除去されたから戦後出来た面があるみたいですね。
京都はちょっと油断していたんですね。大阪や神戸が空襲にあって慌てて京都も建物疎開したんですね。消防用道路とか確かに必要ですね。でも、この混乱のなかで御所も一部が解体されたのは残念です。戦争を何とか防げなかったのかと思います。今の北朝鮮を逆に見習ってノラリクラリな外交戦術もあってもよかったと思います。米大統領が共和党に変わるまで、じっと耐えるとか・・・。
為になる情報提供ありがとうございます。

女院御所は幕末時、上皇が不在だったのでなかったのではと思います。

昭和20年のどさくさ * by 五反田猫
京一朗さん

>御一新で真っ先に解体
>皇后御常御殿のある後宮エリア
そういえば、仙洞御所は残っているのに、女院御所が残っていないのも同様な理由でしょうか?
戻らないという意味に加え、文明開化で一夫一妻制の導入というのも理由かも、気になります。

昭和20年のどさくさは、戦中体験者の聞き取りでも、色々と聞いております。
東京では1943 年(昭和 18 年)12 月の閣議決定「都市疎開実施要綱」および翌年2月の「決戦非常措置要綱」に基づいて実施。記録を見ると5万五千戸とありますが、実際はもっと多かったように思えます。 それほど記録と実体がいいかげんなのですね。

京都の場合には、こちらに資料がありますが、東京、大阪の状況もみて、木造家屋は防火帯を作る事で急いで実施。 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/76/666/76_666_1509/_pdf

他の都市にも共通していますが、場所は決めたら町内会や挺身隊などボランティア組織が実行なので記録がないのだと思います。 公務員(軍人含む)や公共施設は、国民の範となるように進んで応じると言われたので先に進められたものも多かったようです。 御所の場合には、文化財ならば名古屋城のように記録が残りますが、皇室財産だったから却って記録が残っていないのかもしれません。なにしろ当時の天皇陛下は陸海軍元帥という軍人でもありましたので。



No Subject * by 大原かずのり
長きにわたり続いてきたものは、やはり魅力がありますよね。日本は天皇家はもちろんのこと、お公家さんも本当に歴史が長い。それだけに重みを感じます。

木造の例えはなるほどと。最近、尼崎城天守が再建されましたが、その陳腐なこと(苦笑) 木造再建の大洲城の足元にも及びません。

名古屋城天守木造再建に反対する人の心理、理解できませんね。お金の問題ではなく、長きに渡り育んだ、木造文化の問題ですよね。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

御所の建物疎開ですけど、ホント、解体した部材だけでも何処か倉庫に残していたら再建もできたのに・・・と残念です。

3Dで御所を作りながら一つ思ったことなのですが、御一新で、御所のどこから先に建物が消えていったといいますと、東西の対屋、そして皇后御常御殿のある後宮エリアだと思いました。
明治2年に明治天皇が東京へ奠都した際、もう戻る意味もないよう後宮部から壊したのか?あるいは、薩長の志士たちが、富国強兵のためには、女官に囲まれた御所は軟弱過ぎると思って一目散に解体したのか?なにか意味深な所があると思いました。

過去の記録 * by 五反田猫
いつも貴重な記録の紹介を有難うございます。
明治の御所払い下げの実体が良く判りますね。

>西洞院家 38円
当時は、城、武家屋敷、公家屋敷、寺(特に廃仏運動での堂宇)は、過去の遺物として積極的に取り払わられたようですね。
建物も、移築が目的ならば良い方で、酷いのは釘や金具など金属回収が目的の場合もあったようです。
西洞院家の屋敷は普通サイズですから、他も似た様なものだったのでしょうか。 値段が安いのは、もしかすると拝領屋敷だから政府に返納という意味があったかもしれませんが不明です。 御苑として整備され御所の建物が残っただけでも岩倉公に感謝です。

>昭和20年の建物疎開
この時点は、本当に混乱して記録が残っていませんね。 松本大本営への移転話もあり、敗戦後は資料も大量に焼かれましたね。
敗戦のドサクサで、物資の横流しもあったでしょうから、当時を知る人が居なくなると闇の中でしょうか。

それにしても、こうして資料調査の結果もまとめられ、 3Dで建物を復活されると、活き活きと見えてくるものがあります。


コメント






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No Subject

大原様 コメントありがとうございます。
お公家さんも長い歴史で色々とありましたが仮に公家がいなくて武士ばっかりだったら、その分、戦国時代のように、国がもっと荒れたかもしれません。
時代劇は幕末や戦国時代物ばかり多くて、たまには公家さん主役の大河ドラマやってほしいですよ。信長や秀吉、家康と同時代に生きた近衛前久とか取り上げたら面白いと思うのですが。
2019-08-29 * 京一朗 [ 編集 ]

No Subject

五反田猫様、
アップして頂いたPDF「戦時下建物疎開の執行目的と経過の変容」拝見しました。眼から鱗というか、全国的に建物疎開が行われていたことがわかりました。名古屋の栄の100m道路も疎開で家が除去されたから戦後出来た面があるみたいですね。
京都はちょっと油断していたんですね。大阪や神戸が空襲にあって慌てて京都も建物疎開したんですね。消防用道路とか確かに必要ですね。でも、この混乱のなかで御所も一部が解体されたのは残念です。戦争を何とか防げなかったのかと思います。今の北朝鮮を逆に見習ってノラリクラリな外交戦術もあってもよかったと思います。米大統領が共和党に変わるまで、じっと耐えるとか・・・。
為になる情報提供ありがとうございます。

女院御所は幕末時、上皇が不在だったのでなかったのではと思います。
2019-08-29 * 京一朗 [ 編集 ]

昭和20年のどさくさ

京一朗さん

>御一新で真っ先に解体
>皇后御常御殿のある後宮エリア
そういえば、仙洞御所は残っているのに、女院御所が残っていないのも同様な理由でしょうか?
戻らないという意味に加え、文明開化で一夫一妻制の導入というのも理由かも、気になります。

昭和20年のどさくさは、戦中体験者の聞き取りでも、色々と聞いております。
東京では1943 年(昭和 18 年)12 月の閣議決定「都市疎開実施要綱」および翌年2月の「決戦非常措置要綱」に基づいて実施。記録を見ると5万五千戸とありますが、実際はもっと多かったように思えます。 それほど記録と実体がいいかげんなのですね。

京都の場合には、こちらに資料がありますが、東京、大阪の状況もみて、木造家屋は防火帯を作る事で急いで実施。 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/76/666/76_666_1509/_pdf

他の都市にも共通していますが、場所は決めたら町内会や挺身隊などボランティア組織が実行なので記録がないのだと思います。 公務員(軍人含む)や公共施設は、国民の範となるように進んで応じると言われたので先に進められたものも多かったようです。 御所の場合には、文化財ならば名古屋城のように記録が残りますが、皇室財産だったから却って記録が残っていないのかもしれません。なにしろ当時の天皇陛下は陸海軍元帥という軍人でもありましたので。


2019-08-29 * 五反田猫 [ 編集 ]

No Subject

長きにわたり続いてきたものは、やはり魅力がありますよね。日本は天皇家はもちろんのこと、お公家さんも本当に歴史が長い。それだけに重みを感じます。

木造の例えはなるほどと。最近、尼崎城天守が再建されましたが、その陳腐なこと(苦笑) 木造再建の大洲城の足元にも及びません。

名古屋城天守木造再建に反対する人の心理、理解できませんね。お金の問題ではなく、長きに渡り育んだ、木造文化の問題ですよね。
2019-08-29 * 大原かずのり [ 編集 ]

No Subject

五反田猫様 コメントありがとうございます。

御所の建物疎開ですけど、ホント、解体した部材だけでも何処か倉庫に残していたら再建もできたのに・・・と残念です。

3Dで御所を作りながら一つ思ったことなのですが、御一新で、御所のどこから先に建物が消えていったといいますと、東西の対屋、そして皇后御常御殿のある後宮エリアだと思いました。
明治2年に明治天皇が東京へ奠都した際、もう戻る意味もないよう後宮部から壊したのか?あるいは、薩長の志士たちが、富国強兵のためには、女官に囲まれた御所は軟弱過ぎると思って一目散に解体したのか?なにか意味深な所があると思いました。
2019-08-28 * 京一朗 [ 編集 ]

過去の記録

いつも貴重な記録の紹介を有難うございます。
明治の御所払い下げの実体が良く判りますね。

>西洞院家 38円
当時は、城、武家屋敷、公家屋敷、寺(特に廃仏運動での堂宇)は、過去の遺物として積極的に取り払わられたようですね。
建物も、移築が目的ならば良い方で、酷いのは釘や金具など金属回収が目的の場合もあったようです。
西洞院家の屋敷は普通サイズですから、他も似た様なものだったのでしょうか。 値段が安いのは、もしかすると拝領屋敷だから政府に返納という意味があったかもしれませんが不明です。 御苑として整備され御所の建物が残っただけでも岩倉公に感謝です。

>昭和20年の建物疎開
この時点は、本当に混乱して記録が残っていませんね。 松本大本営への移転話もあり、敗戦後は資料も大量に焼かれましたね。
敗戦のドサクサで、物資の横流しもあったでしょうから、当時を知る人が居なくなると闇の中でしょうか。

それにしても、こうして資料調査の結果もまとめられ、 3Dで建物を復活されると、活き活きと見えてくるものがあります。

2019-08-28 * 五反田猫 [ 編集 ]