3D京都

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実は京都御所は江戸城より豪華だった! 後編

ちょっと間が空きました。すみません。前編に引き続き記事タイトルの実は~に迫っていくわけですが、そのまえにお見せしたい御所の古写真とか色々ありまして幾つか紹介します。ネット初公開?のも含まれるかもですよ。

ちなみに、前回記事以来、戦前まで残っていた御所の建物の屋根について情報を得るため宮内庁公文書館へ行って参った次第ですが、頂いた情報・「京都御所屋根之圖明治十三年七月改正」以外にも予め同公文書館の目録からこれはという資料をピックアップしていたので閲覧時に色々拝見しました。写本も含めすべて明治以後に編纂されたものです。なお、以下の図ですけど、資料を直接カメラから撮ったものなので歪んでしまったものが多いです。生の資料は歪んでなどいないのでご了解のほどを(下手くそな自分が原因ですけど・・・)。

大内保存録の表紙
「大内保存録」。

これは明治に入ってから御所を囲んでいた公家町を解体して公園化した時の上地等の細かい記録、報告書を纏めたもので明治10~14年にかけての記録です。公家町の変遷を知る上ではとても貴重な資料です。解体されたのはとても残念でした。後、

京都御所詳細図
京都御所詳細図

御所の建物毎の詳細図面とか。ただ主だった建物だけで台所廻りとかはありません。それでも、とても詳細に描かれています。台所もあったらなぁ・・・と残念な思いでしたね。

西京御所図表紙
西京御所之図。

これは御所を三分割して描かれた建物の平面間取り図ですが、これがまた超ビッグサイズ!。館員の方に手伝ってもらって開いた一枚は横:4m、縦2.5m程もあってぐるっと回りながら撮りましたが、流石に二枚目も手伝って頂くのは気が引けて一枚だけ撮りました。もちろん細分割してですよ。絵図名が西京御所とあって、京都御所の名ではありません。明治に入ってこんなにも変わってしまったんだと、何か寂しい気がしましたね。

安政御造営志表紙
安政御造営志。

一連の台所廻りの3D制作の基礎資料に使っている”安政御造営志”の原本というか、明治18年に写されたもので、同じものが宮内庁の京都事務所にもあります。「翻刻 安政御造営志」は京都本をベースに翻刻してありますが、この公文書館版も副本として使われています。表紙の写真ですけど上の方が欠け申し訳ありません。カメラを台に固定して撮りましたが枠からはみ出てしまいました。資料館等によくあるこの固定台ですけど、上下にスライドするだけで被写体が範囲内に収まっているか判別しにくいですね。何とかならないものか・・・考案して特許でも取ろうか・・・笑。さて、残る紹介資料は明治になって撮られた御所の写真集です。

DSC_0025.jpg
「京都御所写真 坤」。別にもう一冊あります。

この写真集も御多分にもれず紫宸殿や清涼殿等の主要御殿がメインですが、それでも他の付属建物を写した珍しいものもありましたのでアップします。最初にまず、撮った方向・位置がわかるよう、また台所や武家玄関・賄い部屋、番所の位置も示した全体図から掲載します。

非蔵人詰所北口等の位置図のコピー
御所の全体図。→の方向が撮った先。

DSC_0038-非蔵人詰所
非蔵人詰所北口。

これは御所の官吏・非蔵人の詰所を撮ったとても珍しい写真です。全体図で確認してみてください。

DSC_0036-武家玄関
武家玄関の写真。

屋根は瓦葺ですが安政の造営時は杮葺きでした。に、してもこれも貴重な写真です。一番奥に見える棟瓦が大台所ですね。もう電柱も立ってますね。

DSC_0045-馬見所
馬見所。

この馬見所は全体図には載っていませんが、慶応二年に御所の敷地が拡張(欠けていた北東部)された際に設けられた馬場の馬見所です。現在も残っているのでしょうか?

DSC_0047-中山邸
京都御用邸祐の井御邸御間内。

この写真も全体図には載っていませんが御所の北にあった公家の中山忠能邸内を撮ったもの。これも公家屋敷の室内を撮った貴重な写真です。襖に描かれた鶴の絵がいい感じですね。祐の井とは中山忠能の娘・慶子が祐宮、後の明治天皇を同邸で出産した際の産湯に使った井戸のことです。後、前記事で紹介した「壬申検査」の写真で載せなかった写真も幾枚かアップ。全体図に➡で示しています。

宮内庁公文書館-京都府名勝撮影帖其の一-内侍所
内侍所と左に見えるのは帝の乗られる輿を入れる御輿宿です。

宮内庁公文書館-京都府名勝撮影帖其の一-小御所
小御所と左の廊下は内侍所へ続く渡り廊です。この位置からの写真も珍しいと思います。勿論、廊下は残っていません。

e国宝-壬申検査-京都御所御局所
下級女官だった女嬬の部屋の引戸と廊下を映したもの。撮影の方向先は全体図に示してあります。写っている男性はモデルです。壬申検査の写真はみなモデルがポーズを取っています。以前もブログに掲載したことがありますが今回の方が鮮明に写っています。

古写真については以上です。



それでは「実は京都御所は江戸城より豪華だった」の本題に入っていきますね。徳川将軍の御殿といいますと、二条城二の丸御殿のように天井まで届く豪華な金箔の障壁画や折り上げ天井の華麗な絵、欄間の極彩色の彫り物など、幕府の権力・財力を見せつけるその豪華さに見学者も一様に驚きます。一方の京都御所、今は通年公開されていて二条城を見た後では、おそらく「質素で地味」な印象を受けると思います。しかし、一見、この地味さが御所風の特徴です。清浄感とも言いますか。

小壁
長押の上を小壁と言いますが右の漆喰が御所風です。(名古屋城本丸御殿の上洛殿より引用)

御所は基本、小壁はすべて漆喰、格天井も絵は描かれていません。襖や杉戸、鳥居障子、衝立障子等だけ障壁画や大和絵が描かれています。江戸城の大奥など、天井や壁にカラフルな唐紙を貼っていましたが、御所の場合はやはり漆喰や素木のままです。幕府が御所の造営費をケチった? いや、そうではありません。朝廷サイドから要望自体がなかったのです。

たとえば、後水尾天皇の二条城行幸の後、行幸御殿も御所に移築されましたが、その際、豪華に描かれていた小壁の障壁画も天井絵もわざわざ取り除くよう後水尾天皇ご自身から指図がありました。当代、寛永文化をリードするほどの多能だった御方でも、住む御殿はこのように地味にしたのです。御所の代々の伝統というしかありません。

この辺りのことにいては以前の記事「小 壁」の誇り・・・もしくは矜持」に書いてありますので宜しかったら読んでください。

「小 壁」の誇り・・・もしくは矜持

天皇家と徳川将軍家ってどう違うの?と言っても全然違うので今回は住宅史のある一面から、その違いをちょっと浮き彫りにしてみたいと思います。表記のタイトル「小壁」ですが「こかべ」と言います。まずはこの「小壁」とは何ぞや?から入っていきたいと思います。建築用語辞典によれば、鴨居から天井までの間の壁のことを「小壁」というそうです。じゃ、その小壁が天皇家と将軍家に何の関係があるの?となってくるわけですが、まず...

では、それだと御所の何処が豪華? と疑問に思われる方もいると思います(私もそうでした)。でしたら、一度、空の上から御所、江戸城本丸御殿の屋根を見下ろしてみて下さい。そこに豪華さの、というか流麗さ、華麗さの違いが見えてきます。今回、「賄い部屋の屋根はどんな形状をしていのだろう?」との疑問から始まって読者の方から頂いた情報「京都御所屋根之圖」を宮内庁公文書館で目の当たりにしたとき、「目の前の豪華さばかりに捉われず、屋根に眼を向けてみな。日本建築の豪華さは実は屋根に端的に表れているんだよ」、そんな俄な実感を覚えたのです。その「京都御所屋根之圖」ですけど、まず表紙からアップします。

DSC_0187-京都御所屋根之図表紙
「京都御所屋根之圖」明治十三年七月改正。宮内庁公文書館蔵

少し内容の違う二冊があります。この屋根図と江戸城本丸御殿の屋根とを比較してみます。まず、江戸城本丸御殿から、

江戸城本丸御殿(弘化二年-1845年-復元体系-日本の城-2-関東-ぎょうせい刊)-文字入り
江戸城本丸御殿(弘化二年・1845年、-復元体系-日本の城-2-関東-ぎょうせい刊)より引用。

この弘化度の御殿はその後焼失し万延元年(1860年)に再建されますが、規模、スタイルはそのまま踏襲されています。屋根から見た特徴は大広間など主要御殿は銅瓦葺。その他は殆ど瓦葺で、能舞台など極一部だけ檜皮葺・杮葺きになっています。また、形式はこれも主要御殿を除いて”寄棟”が多くみられます。表の役人や大奥の広敷役人(大奥の事務や警護)等が詰める建物は殆どと言っていいくらい寄棟になってます。

ちなみに図に赤で丸く囲った所がありますが、ここは「上御鈴御小座敷」といって将軍が正室(御台所)、あるいは側室と夜を営む所です。このエリアの小屋屋根の伏図がります。

上御鈴御小座敷小屋絵図
上御鈴御小座敷小屋絵図(出典:東京都立図書館蔵)。

線が縦横、そして斜めに描かれていますが寄棟形状が多いですね。ここは将軍の寝所ですから流石に主屋は入母屋ですが。屋根を俯瞰した限りでは主要御殿の銅葺きを除き江戸城本丸御殿は意外と地味です。一番格式があり、手間・維持が大変な檜皮葺、杮葺きの入母屋造が少ないのが理由です。

今、見る二条城や名古屋城の御殿も創建時は檜皮、杮葺きでした。しかし、江戸時代も下るほど財政の逼迫から瓦葺に変わっていきます(再建された名古屋城本丸御殿は杮葺きに戻ってますね)。一方の京都御所はどうでしょう? 「京都御所屋根之圖」から常御殿廻りの図をアップしてみます。

DSC_0258-小御所-学問所-常御殿廻り御殿-入母屋破風附き
「京都御所屋根之圖」の常御殿廻り(出典:宮内庁公文書館蔵)。

屋根が歪んでる所がありますが、実際はもっと真っ直ぐで綺麗です。この図で見ると、まず言えるのは檜皮、杮葺きの多いこと。格下の寄棟でも片方の妻側は入母屋破風の狐格子(内側に板を張った格子)にしている建物が意外と多いのが御所の屋根の特徴だと思います。赤く囲ったところがそうですが結構あります。このパターンは何も主要部だけではありません。たとえば、八咫鏡を祀る内侍所など本殿だけでなく奉仕する刀自たち(終生、独身の巫女たち)の生活する建屋も入母屋になってます。しかも杮葺きにもなってます。

DSC_0217-内侍所周辺図
内侍所廻りの建物の屋根。入母屋、檜皮、杮葺きが多い。

もう一図、
DSC_0202-皇后御殿周辺図
皇后宮御常御殿。ここも入母屋、檜皮、杮葺きが多い。

以上、見比べてみました。屋根を見る限り御所の方が変化に富み豪華だと思います。特に安政度内裏(安政二年、1855年)は朝廷の権威が復活した幕末に造営されました。ですので幕府も本腰になって全国から一万2~6千人の大工を集め造営に関わった者は延べ数十万人に達したと言われています。おそらく江戸時代を通じて最も立派な御所であると思われます。

御所の屋根を通して一つ見えてくるのは、古来より一貫した建築志向・思想が貫かれていることです。それと拘りです。寄棟であってもどちらかの妻側に入母屋破風を配し、檜皮、杮葺で葺くことによって御所独自の柔らかさ、優雅さ、いわゆる「御所風」を醸し出します。また、何も屋根だけでなく、凹凸の殆どない漆喰や選び抜かれた檜材の梁や柱が無垢の経年美を魅せてくれます。過剰な装飾は必要としません。

平安京大内裏において大陸様を取り入れた鮮やかな朱塗りの列柱と屋根の緑釉瓦。でも、帝の住まう内裏は古来のまま檜皮葺の素木造りでした。なぜ、内裏も唐風にしなかったのか? 普通の宮廷であれば華やかさを競ったと思います。

理由の一つとして御所が信仰・神祀りの場だったからだと思います。縄文以来の自然崇拝がやがて天照大御神を皇祖神とする神道として体系づけられ内裏は清浄な空間であることが必要とされたのだと考えます。よく神社へ行きますと透かし塀が本殿を囲んでいます。風を通す壁です。御所の素木も漆喰も檜皮葺の屋根もいずれも通気性に富み日本の気候風土に合った材だと思います。

この適応性が長く素木の御所を伝えてきたと思いますが、ただそれだけでは納得できない、強固な意思の連続性を感じます。それが何かはよく分かりませんが、一つのヒントとして信仰に根差したものではと考えます。

内侍所は前述しました通り、一生、独身の巫女刀自(女官)が奉仕し祀ってきました。その宮中祭祀は今も皇居の賢所で連綿と行われ、まったく表には出ない神官と巫女(内掌典)により守られています。この方たちに聞けばひょっとしてわかるかもしれません。あるいは大嘗祭において天皇霊が降り新天皇と食と寝を共にするといわれる秘儀のなかで帝が引き継がれてきたものかもしれません。



屋根の形状について大台所廻りだけでなく以前3D制作した対屋の下家の屋根も間違っていたことが「京都御所屋根之圖」により分かりました。その辺も含め今回の屋根図と比較した内容を記事の最後に付け加えます。

まず、対屋。
対屋周辺屋根図
「京都御所屋根之圖」の対屋の部分です。

対屋は明治初年に解体されてしまったので区分上、図中には薄く描かれています。図中の上に瓦葺の寄棟が薄っすら見えます。これが対屋の下家で台所や納戸、風呂、侍女の部屋等がありました。ここを3Dでは入母屋に作ったのです。

対屋3D図

赤線のラインが寄棟です。また、手直ししなければ。ちょっと面倒くさいとは思いますが真実を知ってしまった以上捨て置く訳にはいきません。賄い部屋を作ったら直そうと思ってます。煙出しの小屋根は指図にも記載されています。

対屋下家指図
対屋の下家の間取り図。「上ケ塗煙出シ」と書かれています。

今回迷った賄い部屋の屋根もわかりました。
賄い部屋の屋根図
大台所周辺の屋根図。

賄い部屋は入母屋でした。屋根については”桟瓦葺瓦棟”としか仕様には書いてなかったので、まさか、でした。棟の中心ラインは右(南)に寄ってます。変形型です。軒高も右の梁間の方が短いのに一丈五寸、3.1mと低いです。逆に左(北)の梁間は一間ほど長いのに軒高は一丈三尺、約3.9mと高いです。どう解釈したらよいのか・・・庇があるようにも見えないし困ったものです。後、武家玄関、休息所、溜まり間は3Dで作ったとおりの入母屋でした。大台所と清所の接続箇所は寄棟でした。3Dでは切妻で作ったのでここも直さねば。

後ですね、本記事の最初の方で紹介した非蔵人詰所北口の古写真ですが、そこに該当する屋根形状もわかったので載せますね。

DSC_0238-非蔵人詰所北口
非蔵人詰所の屋根図。

赤く囲った屋根がそうです。左に続く薄い部分はすでに撤去された部分です。わざわざ薄く表示するとはご丁寧というか、多分、作者は絵を描くのが好きな人だったと思いますよ。屋根図自体が不思議と立体的にみえる絵そのものですからね。やっぱりこの「京都御所屋根之圖」は素晴らしい!。

前記事に書きました宣秋門脇の切手番所ですが、この図の下に載ってます。見ますと左右(南北)の棟の右(南)は入母屋になっていて、下(西)に出っ張っている棟は寄棟になってます。仕様には”葺詰”としか記載されてないので入母屋とどう区別するのかわかりません。でも、屋根図で確認できたのでヨシとします。ここの写真も再度載せておきます。

旧切手番所の写真
現在残る番所(宣秋門脇の切手番所と思われる)。

以上、後編でした。次の記事ですけど6月頭にかけて三日間ほど家を留守にするので掲載が少し遅れると思いますが宜しくお願い致します。


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No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

>ところで、写真が2枚一組なのは、立体視出来るようにですか?

私もわかりません。壬申検査では御所のもっといろんな所を撮った写真を見たかったのですが、どうしても紫宸殿や清涼殿などの御殿になってしまいますね。当時の御所の暮らしぶりが分かるような台所や局、詰所などの写真が残ってないのは、当時からすれば当たり前の風景で珍しくもなかったのでしょうね。
現代でもごくに普通のことが後世、貴重な資料になることもあるでしょうね。

御所の古写真では結構、内侍所を寫したものがありますが、当時もやはり特別な存在だったんでしょうか?

橿原神宮に移築されましたが、同神宮の雰囲気もいいですね。

”日陰糸”さっそくググりましたが、見てみて「あぁ、あれかぁ」と葵祭の斎王代を思い起こしました。大嘗祭にも使われるんですね。

屋根の変遷 * by 五反田猫
京一朗さん

前回に引き続き、貴重な資料と、まとめの話を有難うございます。 こうして資料と合わせて、数値化出来るデータを見せて頂けると、御所の屋根や構造がとても良く判ります。

明治の写真は、私も拝見した事があるのですが、結構 瓦葺が多いですよね。 装束も、明治になって直垂が参内用に正式化された時期があり、これも武家風な感じなのです。
(ところで、写真が2枚一組なのは、立体視出来るようにですか?)

一方で、ご指摘のような清浄さという考え方。
これは、外国人のブルーノ.タウトが、檜皮で自然に溶け込む桂離宮と、豪華な日光東照宮との対比でも指摘したのですが、まさに仰る通りなのだと思います。
白木の美しさ、なるべく自然であるものの美しさを表現するのが宮廷文化なのだと思います。
今年は御大礼の年でもあり、そこで出てくる装束に用いられる「日陰の糸」などは、まさにその好例ですよね。

これからも、お話しや3D楽しみにしております。
どうぞお元気でお過ごし下さい。

No Subject * by 京一朗
大原様 コメントありがとうございます。

>銅屋根は中韓にはほとんどなく、日本的だなあと思いましたね(朝鮮通信使も銅屋根を記録し、その贅沢さは異常と記録していました)。

それは知りませんでした。銅屋根も腐食してからがいい趣だしますね。
中国あたりだと紫禁城など、釉薬で焼いた黄金色の屋根が沢山葺かれていますが、あの黄金色の瓦一枚でもとても値が高いそうです。

将軍も、皇帝もまざまざと権力を見せつける感じですね。

檜皮・杮葺き職人ですけど、最近は建物の復原もあって徐々に増えているそうです。

管理人のみ閲覧できます * by -

No Subject * by 大原かずのり
京一朗さんの執念と情熱に拍手です!
4m、縦2.5mとは、ととととんでもない大きさですね(笑)^^;
しかし情報入手のために努力を惜しまずの姿勢に頭が下がります。

武家上流階級は銅瓦屋根が好きだったイメージがあります。日光に立ち寄りましたが銅瓦の連なりが見事でした。特に奥社は銅だらけ^^;
銅屋根は中韓にはほとんどなく、日本的だなあと思いましたね(朝鮮通信使も銅屋根を記録し、その贅沢さは異常と記録していました)。

しかし、やはり京都御所の魅力は檜皮葺きなんでしょうね。おっしゃるように、優美なライン、柔らかさ、優雅さ、これは檜皮や杮でなければ出せないように思います。
維持はますます大変でしょうが受け継いでいってほしいですね。



コメント






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No Subject

五反田猫様 コメントありがとうございます。

>ところで、写真が2枚一組なのは、立体視出来るようにですか?

私もわかりません。壬申検査では御所のもっといろんな所を撮った写真を見たかったのですが、どうしても紫宸殿や清涼殿などの御殿になってしまいますね。当時の御所の暮らしぶりが分かるような台所や局、詰所などの写真が残ってないのは、当時からすれば当たり前の風景で珍しくもなかったのでしょうね。
現代でもごくに普通のことが後世、貴重な資料になることもあるでしょうね。

御所の古写真では結構、内侍所を寫したものがありますが、当時もやはり特別な存在だったんでしょうか?

橿原神宮に移築されましたが、同神宮の雰囲気もいいですね。

”日陰糸”さっそくググりましたが、見てみて「あぁ、あれかぁ」と葵祭の斎王代を思い起こしました。大嘗祭にも使われるんですね。
2019-06-03 * 京一朗 [ 編集 ]

屋根の変遷

京一朗さん

前回に引き続き、貴重な資料と、まとめの話を有難うございます。 こうして資料と合わせて、数値化出来るデータを見せて頂けると、御所の屋根や構造がとても良く判ります。

明治の写真は、私も拝見した事があるのですが、結構 瓦葺が多いですよね。 装束も、明治になって直垂が参内用に正式化された時期があり、これも武家風な感じなのです。
(ところで、写真が2枚一組なのは、立体視出来るようにですか?)

一方で、ご指摘のような清浄さという考え方。
これは、外国人のブルーノ.タウトが、檜皮で自然に溶け込む桂離宮と、豪華な日光東照宮との対比でも指摘したのですが、まさに仰る通りなのだと思います。
白木の美しさ、なるべく自然であるものの美しさを表現するのが宮廷文化なのだと思います。
今年は御大礼の年でもあり、そこで出てくる装束に用いられる「日陰の糸」などは、まさにその好例ですよね。

これからも、お話しや3D楽しみにしております。
どうぞお元気でお過ごし下さい。
2019-06-03 * 五反田猫 [ 編集 ]

No Subject

大原様 コメントありがとうございます。

>銅屋根は中韓にはほとんどなく、日本的だなあと思いましたね(朝鮮通信使も銅屋根を記録し、その贅沢さは異常と記録していました)。

それは知りませんでした。銅屋根も腐食してからがいい趣だしますね。
中国あたりだと紫禁城など、釉薬で焼いた黄金色の屋根が沢山葺かれていますが、あの黄金色の瓦一枚でもとても値が高いそうです。

将軍も、皇帝もまざまざと権力を見せつける感じですね。

檜皮・杮葺き職人ですけど、最近は建物の復原もあって徐々に増えているそうです。
2019-06-01 * 京一朗 [ 編集 ]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2019-06-01 * [ 編集 ]

No Subject

京一朗さんの執念と情熱に拍手です!
4m、縦2.5mとは、ととととんでもない大きさですね(笑)^^;
しかし情報入手のために努力を惜しまずの姿勢に頭が下がります。

武家上流階級は銅瓦屋根が好きだったイメージがあります。日光に立ち寄りましたが銅瓦の連なりが見事でした。特に奥社は銅だらけ^^;
銅屋根は中韓にはほとんどなく、日本的だなあと思いましたね(朝鮮通信使も銅屋根を記録し、その贅沢さは異常と記録していました)。

しかし、やはり京都御所の魅力は檜皮葺きなんでしょうね。おっしゃるように、優美なライン、柔らかさ、優雅さ、これは檜皮や杮でなければ出せないように思います。
維持はますます大変でしょうが受け継いでいってほしいですね。


2019-06-01 * 大原かずのり [ 編集 ]