3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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戦前まで残っていた京都御所の大台所廻りの3Dにチャレンジ! 武家溜まり間

「溜まり場」と「溜まり間」とどう違うのだろう? そんな軽い疑問から始まった武家溜まり間(正確には溜まり之間)の3Dが完成しました。

溜まり場、というと何となく良いイメージがありません。○○の溜まり場になっている、最近だと”半グレ”の集団がたむろしている場とか、という感じ。語源を調べると「仲間がいつも寄り集まる一定の場所」とか「なすべき物事が処理されず、しだいに増えていったりとどこおったりしたままである」とか良い意味、悪い意味それぞれあるイメージ。

では「溜まり間」とは?
ネット辞書で調べて見ると「江戸城黒書院にある控えの間。会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家の控えの間で、将軍の執務・生活空間である「奥」から最も近いのが-溜間」と言い、臣下に与えられた最高の席であった、としている。「溜まり場」とは大違いですね。

ちなみに、溜まり間の後には主として譜代大名の詰める雁間、菊間広縁、帝鑑間、等あって外様大名は大広間に詰める。いわば、将軍にいかに近いかを示す序列の演出みたいなものだと思います。

で、「溜まり間」の解説はそれで終わり。えっ!御所にも溜まり間があるよ? 忘れてない?、と、つい思ってしまいましたが、実際に御所にもあるのですよ 笑。

御所には沢山の部屋がありますが、公家や地下官人の詰める部屋には「溜まり間」の名称は使われていません。”○○部屋”や○○所、番所、休み所、詰所などと言います。
では、溜まり間が出て来るのは? 今回のような禁裏附き武家エリアの溜まり間と町人(商人)溜まりの二つだけ。後、溜まり間の別名で伺候間もありますが、これも武家の詰所。

以上の事から推測されてくるのは、詰所も身分によって言い方が変わり、朝廷・公家たちからすれば”溜まり間”は武士や商人・町人たちの出入りする、いわば、一つ格下の詰所として捉えていた節があると思うのです。

朝廷からすれば「東えびす、幕府の部屋名なんか使うか!」といったプライドがあって、それが時を経て何となく「溜まり場」へとイメージが下がっていった・・・という類測なのですがどうなんでしょう? 自分のまったく超推理ですが 笑。

えらい溜まり間解説になってしまいました。3Dのアップに移ります。今回は細かい資料は後にしてまずは3D作品から掲載します。

これが、
武家玄関西から-溜まり間なし
これに、
武家玄関西から-溜まり間あり
なりました。
玄関右(南)に建物が追加されてますけど、これが「溜まり間」です。

さらに、今までの武家玄関、休息所、今回の溜まり間はすべて「杮葺き」ですけど試しに檜皮葺バージョンも作ってみました。

武家玄関西から-溜まり間あり(檜皮葺)
檜皮葺バージョン。

どうですか?見比べた印象は人それぞれだと思いますが、個人的にはやはり檜皮葺の方が格式があるというか立派で上品で重みがありますね。ちなみに、杮葺きの方ですけど最高級の「板厚2~3㎜」の薄さにしましたよ 笑。
それと、屋根の合わせ下に魚とヒレの形をした「懸魚(げぎょ)」が見えると思いますが、これも安政御造営図志に盛んに、

懸魚鰭六葉釘隠丸坐樽鋲塗物菊座金箔

とありますのでリニュアールしました。六葉釘隠も金ピカに光ってますよ。見比べてください 笑。後ですね、溜まり間作成に伴い他棟も少し手直ししました。前回記事でアップした作品と上下並べてアップしましたのでこれも比較してみてください。チェック! ですよ 笑。

これが、
武家玄関北から-溜まり間なし
これに、
武家玄関北から-溜まり間あり
なりました。えぇ?どこが違う? 影・・・と御簾が少し変わりました・・・。
懲りなく拡大します。

これが、
武家玄関北から-アップ-溜まり間なし

これに、
武家玄関北から-アップ-溜まり間あり
なりました。
やはり影ができ、とくに御簾を手直ししました。良くなったと思いますが細かい違いですみません。後、玄関も、

これが
武家玄関西から-アップ-溜まり間なし

これに、
武家玄関南から-アップ-溜まり間あり

なりました。少し見栄えが良くなったと思うのですが、段の羽根板とか。あの敷石ですけど、これは盛り過ぎました。実際はこんなに立派ではありません。別エリアの参内殿の車寄せは唐破風に四半敷きといって45度に交差した敷石ですけど。この四半敷ですけど禅宗のお堂に多いですよね。
南側からみた溜まり間ですけど、

これが、
武家玄関南から-溜まり間なし

これに、
武家玄関南から-溜まり間あり
なりました。溜まり間が増え、少し賑やかになったと思います。

今回の3Dアップはお遊び風になってしまいましたがタマにはこんなのも有りです。
さて、先に3Dをいきましたが、溜まり間について位置や間取り、仕様の記述について解説しますね。

まずは位置から、
武家溜まり間位置図

薄っすら赤く塗ったところです。図は、(出典:京都御所 完-大正3年/日本皇道會編)より。

仕様書についてアップします。
武家溜まり間記述部

赤く引いた線分の所が溜まり間の関係です。

これも、お世話になっている「翻刻 安政御造営図志(編集:庄司成男、荒川玲子の二氏、庄司氏は元宮内庁京都事務所長、荒川氏は元宮内庁書陵部編修課主任研究官をされた方。発行は宇土條治氏)」から抜粋したものです。

溜之間三間半三間屋根土居桟瓦葺垂木一軒化
壮木舞物裏板打両妻破風狐格子懸魚鰭六葉釘隠丸坐樽
鋲共塗物菊坐金箔概瓦棟獅子口鬼板共有軒高、一丈三尺同出
四尺五寸床高二尺六寸四分

これによりますと、建物規模は東西梁間が6.86m、南北桁行5.88mの12坪ほど、そんなに大きくはありません。ここは仕切りはなく21畳の広間になっています。間寸法は京間に基づいてます。屋根は両妻破風狐格子ですから入母屋。軒高さは一丈三尺、約4m。棟高は梁間が狭まった分、7.8mほどにしました。床高は0.8m。軒、庇の出は1.36mほど。

そう、それと大事な事なのですが、屋根が桟瓦葺とあります。杮葺きではないのですよ。他の玄関、休息所は杮葺きなのに・・・ではなんで今回、桟瓦葺にしなかったのか? 後ほど説明します。

間取り図も載せます。
武家溜まり間間取り図(書き込みあり)

溜まり間の玄関横の建具は遣戸・障子の引戸にしましたが、古写真で見ると、
武家玄関
腰窓の障子になってますね。間取り図には単に障子4枚とあったので掃き引戸にしたのですが・・・、記述に”中敷居”と書いてあればわかるのですが、建具の記述法も一様ではないので混乱しますよ、ホント。当時の大工さんは阿吽の呼吸で分っていたので良かったのだと思いますが。

で、上記しました今回、最大のミステリー、「屋根は瓦葺?杮葺き?のどっちだったのか!」。

順番に絵図で追っていきます。

安政御造営図志の挿絵では、
内裏大台所絵図-4

溜まり間は杮葺きになってます。
しかし、同じ安政御造営図志の仕様記述には「桟瓦葺」とあります。同じ書物なのにこの違いはなに? 混乱するなかで、他の絵図もみてみます。

武家溜まり間桟瓦葺(東京都立図書館版)

東京都立図書館蔵の安政度内裏図では杮葺きのウグイス色になってます(赤く囲った所)。

一方の、国立歴史民俗博物館の禁裏絵巻では、
国立歴史民俗博物館-禁裏絵図-溜まり間

瓦葺(桟瓦葺)のグレーな色になってます。

折角ですから私が持つ長尾名鳥(幕末勤王家・国学者筆)の新造内裏図3D京都版(笑)も見てみます。
武家溜まり間桟瓦葺(名鳥版)

国立歴史民俗博物館版と同じ瓦葺のグレー色になってます。

さて、何れが真実なのか・・・些細なことですけど、されど気になる3D京都でした 笑。

長尾名鳥の名が出たので、せっかくですから以前書いた関連記事もリンクさせます。幕末の裏面史を書いたものでもあるので宜しかったら読んでみてください。

幕末裏面史 一枚の禁裏絵図を巡って 前編

最近、一枚の安政度内裏(1855年)の絵図を入手しました。これから書くことは、その、「安政新造内裏全図」を描いた一人の名もない国学者の足跡を辿る物語です。5%の真実もないかもしれません。しかし、僅かな史料から浮かび上がってくる人物像は、幕末維新のまさに渦中に生き、そして謎の死を遂げた志士の姿です。歴史に名を刻むこともなく死んで行った多くの志士たち。真実を抱えて逝った者たちも多くいたと思います。今回はそん...

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