3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 >  ★テーマ別 >  御所・公家町を3Dで再現 >  京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(八)

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(八)

引き続き、京都御苑外にあった公家屋敷跡の旅、その(八)を書きます。鷹司家は書いたので、残る鴨川沿いの九条家、近衛家、有栖川宮家、鴨川を渡った丸太町通沿いの近衛家桜木邸、澤家、桑原家の六家を周ります。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(八)用
                                 © OpenStreetMap contributors 
青く囲った所が訪ねた屋敷跡です。
改めてですけど、今回のシーリズでは、基本、京都御苑外にあった公家屋敷で且つそこが本邸であった所を周っていますが、五摂家については古写真や指図が残っていたり、話題性のある別邸は取り上げました。近衛家など幾つも抱え屋敷がありました。北区の大徳寺を北へ少し行った辺りに紫竹院という場所がありますが江戸時代はここに近衛家や一条家などの別荘がありました。京の中心から近く風光も明媚だったので公家の別荘地として人気があったのです。後、現在の京大のキャンパスを北へいった昔の田中村という所にも鷹司家の別荘もありました。江戸時代、ここも鄙の風景が愛でられたのです。紫竹院、旧田中村辺りは他にも公家の別荘があったと思います。

摂家以外の公家も結構別邸を持っていました。徳大寺、日野家、東坊城、山科、鷹尾、勘解由小路とかいろいろ。調べればもっと出て来ると思います。明治以後でしたら、公家さんが住んでいた屋敷が京料理の店に変身するなど多種多少。流石にその全てを周る訳にもいかないですが、何らかの形で後世に記録が残るようリストに纏めたりマップに位置を示すなど今のうちにしておくのも必要かなと思います。



Googleマップで屋敷跡の確認です。

一、九条(くじょう)家

言わずもがな近衛家と並ぶ公家の名門中の名門です。江戸時代は所領3052石と公家では一番多かったです。本邸も自ずと大きく何度も書いてますが、敷地一万坪、建坪4000坪を数えました。ただ、その建坪の根拠が何処から引っ張ってきたものかと言われると根拠は薄いです。何かの本から確認した規模だったんですけどね。

よく説明代わりに引用する「華族建家坪数控(京都府京都学・歴彩館蔵)」にも九条家は一切記載がありません。同家は東京に移るのも早く、しかも御苑内にあった建物(主屋)をそのまま東京へ移築して持って行くという徹底ぶりで、そのせいもあって同家の本邸始め他の抱え屋敷の規模もわかりません。もし記載してあったらホントに4000坪もあったのか確認できるんですけどね。

九条家の簡単な概説ですが、

藤原北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とする。藤原基経創建といわれる京都九条にあった九条殿に住んだことが家名の由来。また、兼実の同母弟兼房の子孫も「九条家」に含めることもあるが、こちらは早い段階で断絶している。
兼実の孫にあたる道家の子、教実、良実、実経が摂関となり、それぞれ、九条家、二条家、一条家を立てて、五摂家が成立した。
兼実は異母姉である藤原聖子の皇嘉門院領を伝領し、九条家領の基礎となった。平氏政権、後白河法皇には批判的で、源頼朝の推挙で摂政、次いで関白となり、以後摂関職は近衛流と九条流から出る。兼実の孫・道家は、子の頼経とその息子頼嗣が相次いで鎌倉幕府の摂家将軍となったことにより、朝廷内で権勢を振るった。
中世に九条家領は広がり、江戸時代には家禄2044石を領し、のち3052石(松殿家の所領含む)に加増され、明治に至った。
明治維新後、九条道孝が公爵に叙せられ、その四女・節子は大正天皇の皇后となった(貞明皇后)。以上、(wiki)からの引用です。

先年、平安神宮の宮司をされていた九条道弘氏が亡くなられました。同氏は藤原氏の後裔で組織する藤裔会会長を務めた方です。

手元にある九条家の本邸の指図のコピーは幕末のものはありません。寛永から江戸中期にかけてのがほとんどです。従って鴨川沿いの下屋敷の史料もありません・・・。では、なんで訪ねたかというと、一つは、明治に入って全国に先駆け華族や士族の子女のために設置された学校である女紅場(正式には新英学級及女紅場)がこの下屋敷に創設された歴史があるからです。公家屋敷の跡を巡る旅-その(七)の愛宕家の項でもすでに触れていますが後に移転されそれが現在の京都府立鴨沂高等学校になっている訳です。


0-4-女紅場-2
女紅場が置かれた当時の九条家河原町邸の古写真。

門の左右に長屋が続いてますね。門は薬医門形式に見えます。下屋敷には四足門は使わない?みたいな慣例があったんですかね?

もう一枚

0-5-河原町御殿
別角度から撮った古写真。玄関らしきものが写ってます。薬医門はすでに冠木門に変わってます。小さい写真ですみません。

さらに九条家の河原町別邸の写真ではないかと思われる一枚、
京都府立第二高等女学校古写真

この古写真については記事「新島八重と一枚の古写真」で触れているので良かったら読んでみて下さい。

新島八重と一枚の古写真

一枚の古い写真を巡って調べていたら新島八重と出会いました。 その古写真とは、幕末、摂家・九条家の河原町別邸と思われる写真です。 (九条家河原町別邸と思われる古写真) この写真は国立国会図書館が所蔵する写真で、以前から気になっていた写真でした。明確に「九条家」の河原町別邸とは確認できなかったからです。 しかし、今回、改めて幕末の御所周辺地図と現在の地図及び所在地の住所など調べるうち、ほぼ九条家の河原町別邸...

河原町邸と全然関係ありませんが、以前書いた九条家の屋敷の記事がありますので載せます。良かったらこれも読んでみてください。

近世の公家屋敷を代表する九条道房邸が完成しました。その一 全体編

お盆も終わり何となく夏の暑さも和らいでいく気分ですね。そう、実際には暑くても盆が過ぎれば気分は夏の終盤を告げます。あの、藤沢周平の小説に出てくる「蝉しぐれ」の怒涛のような鳴き声も鎮まっていきますね。と、そう思ったら台風襲来!「暑さを吹き飛ばす!」とは、良きにつけ悪しきにけ、、、、秋の波浪を伴っていたのですね・・・さて6月来の九条邸の3D制作ですけど、やっと完成しました(室内は将来編に)。自分として過...

後、鴨川対岸の川端通、吉田町あたりにも下屋敷がありました。ここは広い屋敷でした。でも明治になって忽然と消えました。で、代わりに地図に載ってたのは、

明治12年改正再刻京都区組分細図(国際日本文化研究センター所蔵)-2
明治12年改正再刻京都区組分細図(国際日本文化研究センター所蔵)。

何と下屋敷の跡には巨大な「釣生洲」が突如出現しているのです。しかも三階建ての高楼まで建っている豪華な料亭です!。鷹司家の常磐井別邸の三階楼と競ったかもしれません。釣生洲というのは、川魚料理をメインにした会席料理の店、料亭のことで、九条家の建物をそのまま使った可能性もありますね。

丸太町通の鴨川手前にある屋敷跡に行ってみます。現在はフレスコ河原町丸太町店という民間の商業施設になってます。レトロな建物で元は旧京都中央電話局上分局でした。敷地は南にも続き京都市住宅供給公社などのビルが建ってます。そこを過ぎると暫くして鷹司家常磐井別邸があった訳です。

0-1-DSC_0795.jpg

これで九条家を終わるのも何なので、かなり強引かもしれませんが、明治になって建てられた九条家の別邸の古写真を一枚アップ。

0-2-九条家伏見区砂川の九条家別邸

この別邸は伏見区の砂川という所に在った別荘です。「写真集 近代皇族の記憶―山階宮家三代」(学習院大学史料館編集・吉川弘文館刊-から一部転載したものです。

二、近衛家河原町(かわらまち)邸

近衛家は戦前、首相を務めた近衛文麿など知られる超名門摂家です。近衛家の家系も長命な方が多いですね。幕末の近衛忠煕も明治31年に亡くなるまで90歳と長命です。
氏族としての藤原家は中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓の以後、1200年も朝廷の中枢にありつづけ公家の家系の多くも藤原氏系、武家にも多く藤原流を称している家も多く、まさに天皇に次ぐ血流ですね。自分のなかではもうちょっと源平橘に頑張ってもらって勢力の均衡をはかってほしかったですけどね。とにかく一つの氏族が滅亡することもなく千年以上続いているのは世界史的にも珍しいことだと思います。イギリス貴族の名門であるノーフォーク公爵家でも15世紀までしか遡れません。

さて、河原町邸は鷹司家の常磐井邸の直ぐ南隣に位置します。東京都立図書館蔵の木子文庫のなかの「間尺坪書」と言って近衛家の各屋敷の土地坪数を記載した書物があるのですが、そのなかの「三本木御殿」が河原町邸に相当すると思います。丸太町通で寸断されていますが、すぐ近くに三本木通りという通りもありますのでやはりここのことだと思います。正式な名称が三本木邸なのか河原町邸なのかはわかりません。個人的には九条家の河原町邸と混同していたのではと思います(事実、女紅場は近衛邸の方だと勘違いしてました)。従って三本木御殿(下屋敷)が正式名称と決定します。

同書物によれば、三本木御殿敷地の総坪数は2967坪。鷹司家の常磐井邸よりも倍近くあります。西側の土手町通りに面した表口は60間、これも鷹司家よりも20間ほど多い。幕末の絵図を見ても同様の規模です。

三本木邸(河原町邸)の指図も残っていますのでアップします。


近衛河原町邸(結合)
近衛家三本木邸(河原町邸)の指図。東京都立図書館蔵。

いかがですか?
土地が広い割には建物はそんなに規模は大きくないですね。もっと主屋部分ですから他の長屋や土蔵を含めるともっと建坪はあると思いますが、それにしてもごく普通の間取りですね。

前記事で鷹司家常磐井別邸を紹介した後ではなんともはや地味ですね。ここは完全に隠居様の下屋敷ですね。なんせ、90歳まで生きられた近衛忠煕様のお屋敷ですからね。明治に入って、忠煕卿は明治天皇様から言われてもなかなか京都から離れず明治11年になってようやく東京へ移ったようです。高齢になるほど生まれ育った地からは離れたくなかったんでしょうね。

三本木邸(河原町邸)のあった周辺を訪ねてみました。現在は京都市の職員会館「かもがわ」等のビルが建ってますね。

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明治に入ってここは木戸孝允が譲り受け別邸としました。木戸の晩年は病気がちで別邸での療養中には、明治十年に明治天皇の行幸があり帝も見舞われました。しかし、その甲斐もなく5月26日亡くなりました。享年44歳。これからというときに残念ですね。で、そのときの木戸が療養した二階建ての瀟洒な建物が残っています。

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木戸孝允が療養した二階建ての建物。

近衛家の別邸らしく瀟洒な数寄屋造りですね。この建物が唯一河原町邸の遺構となっています。

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由緒書きの立札。

0-5-河原町御殿内部

室内です。最初、一言、お願いしてから室内側へ入ろうと思ったのですが人の気配もなくそのまま裏側(室内側)へ侵入してしまいました。不法侵入ですよね。気を付けよう。

そうそう、木戸候の療養した部屋ですけど、指図の何処にあたるのでしょうか? 奥向きの居間と書かれている所かな?二階建て表示もないし、そもそも指図自体がいつのものかハッキリかわりません。木子文庫に残るの指図は比較的新しいものが多いですからこの指図も幕末維新の頃と思われるのですが・・・。

三、有栖川(ありすがわ)宮家

近衛家のさらに南隣が有栖川宮家の別邸です。別邸のお屋敷街はここで終りです。

有栖川宮家はネーミング自体がカッコいいのでマンガやアニメに出てきそうなんですけどどうなんでしょう?(そういえば、平成に入って有栖川宮の祭祀継承者を名乗る者による詐欺事件とかありましたね・・・)

有栖川宮は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった。有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川宗家や水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家や長州毛利家、広島浅野家、久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。また代々、次男以下の子弟を門跡寺院に法親王・入道親王として入寺させていた。
寛永2年(1625年)、後陽成天皇の第7皇子・好仁親王が創設。当初の宮号は高松宮(高松殿)で、親王の祖母・新上東門院の御所高松殿に由来する(wiki)。

宮家の有栖川(ありすがわ)という宮号の由来はわかってないそうです。よく知られるのが9代・熾仁親王(1835年-1895年)で和宮の婚約者でもあった方ですが、公武合体の象徴として和宮が徳川家へ降嫁したため沙汰闇となりました。その後熾仁親王は、慶応3年(1867年)12月、王政復古により新政府の総裁の座に就き、戊辰戦争に際しては東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となりました。元老院議長、左大臣も務めた。1894年(明治27年)の日清戦争では参謀総長を務めましたが戦争中に在職のまま薨去されました。一環して軍人の道を歩まれましたが統率力もあったのでしょうね。

御苑内にあった本邸は明治以後、一部が裁判所の官舎として移築、使われ、現在は平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」として保存されています。この本邸の指図は木子文庫に残っていて私もその写しを持っています、いずれ3D化する予定。

鴨川沿いの別邸の指図は私の知る範囲では残っていません。

現在、跡地は京都市立銅駝美術工芸高等学校になってます。銅駝は”どうだ”と読みます。銅駝という変わった学校名ですけど、由来は、漢の洛陽の都で銅の駱駝像があったとされる区域にちなみ、平安京においてこれに対応する二条から中御門の地域を「銅駝坊」と名付けていたことに由来して第2代京都府知事・槇村正直が命名したとのこと。槇村正直も結構拘りもった人ですね。

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銅駝美術工芸高等学校の学舎。なかなかレトロな雰囲気がいかにも美術工芸高校らしくていいですね。

同校は1880年(明治13年) に 京都府画学校開校として開校。日本で最初に設立された画学校です。

京都區組分名所新圖 - 改正新刻(明治20年・1887)-日文研所蔵地図
明治20年(1887年)発行の京都區組分名所新圖 日文研所蔵)に画学校が載ってます。


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銅駝美術工芸高等学校から鴨川へ出る道。

なんとなく、この古写真と場所似てませんか?

0-3-京都大学 企画展示「第三高等学校の歴史−明治・大正期を中心に」

京都大学の企画展示「第三高等学校の歴史−明治・大正期を中心に」から転載したものですが何となく鴨川河畔へ出る雰囲気が似てると思うのですが、でもやっぱり京都大学の学舎を写したものかなぁ・・・?


四、近衛家桜木(さくらぎ)邸

近衛家桜木邸からは鴨川を渡ります。

同桜木邸の位置は冒頭のGoogleマップで確認してください。
丸太町通を鴨川を渡って直ぐ左手に大きな和風の建物が見えてきます。

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天理教の河原町大教会です。大教会というぐらいですから確かに巨大です。本願寺の御影堂クラスの建物です。
駐車場も広いし空いていたのでさっそく中へ入りました。天理教の教会へ入るのは初めてです。流石に無断駐車はよくないので教会の方にお訊ねしようと受付がどこか探したのですが広すぎてわからない・・・。本堂?の大きな扉を開けてみると、これまたビックリ!荘厳で立派な堂内です。シーンと静まり返っていて人の気配もない・・・。黙礼して重い扉を開け外へ出ます。

そしたら、丁度、教会の信者の女性か?地下の方へ降りていくの見えたので、その後を付いていきやっとそこで教会の方にご挨拶。駐車のお願いの件と「ここが近衛家の桜木別邸跡」であることの確認と遺構の有無をお聞きしたい旨、趣旨を説明しました。するとそこの幹部の方とお会いでき、例によってお聞きすると「そうなんですかぁ、近衛家のお屋敷だったんですかぁ、知りませんでした」。私はなおも「教会内のどこかに幕末に遡るような遺構はありませんでしょうか?」と聞くと、これまた「私ではわかりませんので、何なら当河原町教会の教会長に聞いてみましょうか?、ただ、今、天理の教団本部へ行っているので帰ってきたらご連絡差し上げましょうか?」とご丁寧な応えをいただき、さっそく、携帯番号をお伝えしました。

せっかく、ということで本堂内を説明も交え拝観しました。幹部の方が言われるには当教会は天理市の教団の中心・「「おやさとやかた」の方角に向け建てられているそう。航空写真で見ると教会だけ斜めに建っていて不自然だなぁ、と思っていましたが納得です。メッカみたいですね。ちょうど若い信者の方がいて独自な拝礼というか舞のような所作をしてました。天理教は明治期の教派神道の一つなのでもっと神道的なお祈りかと思いましたが全然違ってますね。まるでトルコの旋舞教団のように舞を通じて心を清めているというかとても新鮮に映りました。それと、幹部の方が着ている教服がまたカッコいい!儒学者みたいです。


教服

こんな感じ。幹部の導師の方が着る教服だと思いますが、神主さんの着る狩衣系かと思っていたのでこれまた新鮮な驚き。

驚いてばかりいられないので肝心の桜木邸について書きますね。

ここは、一言で言うなら、大河ドラマ「西郷どん」にも登場した篤姫が近衛家の養女となり将軍・徳川家定の御嫁に行く前の花嫁修業に励んだお屋敷。薩摩藩の援助で建てられた(増改築かも)と聞いています。敷地広さは1500坪前後だと思います。

当時の指図が残っていますのでアップしますね。

0-5-近衛家桜木別邸指図
近衛家桜木別邸指図(東京都立図書館・木子文庫蔵)。

この指図も木子文庫の一枚です。木子家は記事で幾度も書いてますが禁裏御所の修理大工頭だった家系です。明治以後は皇室、皇族の離宮や宮邸を多く建てています。

指図から見た感じでは、建物規模もそう大きくなく格式ばった感じもないですね。表と奥も明確には分かれてない風にもみえます。篤姫はここのどこで寝食をし修行に励んだのでしょうか? あの近衛家の上臈(御年寄)であった幾島からさぞ厳しい躾を受けたでしょうね。

その桜木邸の一部が愛知県の西尾市のお城跡に移築され現存しています。

0-4-西尾城桜木邸遺構-1
西尾城跡に移築されている桜木邸遺構。

そして茶室、

0-4-西尾城桜木邸遺構-2

さぁ、この遺構は指図のどこの部屋に該当するでしょうか? 当ててみてください。 えぇっ、画像が不鮮明? 「おあとがよろしいようで 笑」。

ここから、澤家と桑原家跡は近いです。教会の許可を得て暫く車を停めさせて頂きました。

五、澤(さわ)家

澤家は、清原氏の流れを汲む堂上家。家格は半家。
江戸時代の初めの正二位大蔵卿伏原宣幸(ふせはら のぶゆき、1637年 – 1705年)の次男で従二位右衛門佐澤忠量(さわ ただかず、1637年 – 1754年)を祖とする。江戸時代の家禄は30石。幕末には為量・宣嘉父子が勤皇・攘夷派の急先鋒として活躍した。
明治維新後は為量が子爵に叙せられたが、為量・宣嘉父子の功績が認められ、宣量の代に半家の中で唯一伯爵に叙爵されました(wiki)。

澤家といえば、幕末、七卿落ちの公家の一人、澤宣嘉が知られていますね。七卿落ちとは、1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ちのびた事件です。澤宣嘉はその後、王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、明治新政府では外務卿など要職に就いてます。半家で30石、幕末の下克上、きっと伸し上がろうと頑張ったと思います。

その澤家の屋敷跡ですけど、いろいろ確認した結果、近衛家の桜木邸の西隣にあったのではと考えています。

いつもの「華族建家坪数控(京都府京都学・歴彩館蔵)」に載っている同家の記述をみますと、住所が、上京区三十二番組東丸太町とあります。三十二番組とは先の記事でも書いた京都の維新前からあった町内組織を活かし番組小学校の内の32番学区のことを指します。この32番組を地区に当てはめると現在の東丸太町が含まれます。桜木邸のあった現天理教河原町大教会の住所は東丸太町1-1、同丸太町の中心とも言えます。で、幕末の雲上要覧を見ますと澤家は丸太町川東とあります。その名の通り川の東です。鴨川沿いに川端通が続いていて、澤家の敷地図を見ると東側が表口になっています。ということは東側が道路に面していていて地図上で確認すると、桜木邸のあった、現天理教河原町大教会との間を抜ける道路がその道ではないかと思われるのです。なので桜木邸の西、北は梁川星厳(漢詩人)の屋敷跡付近までの間に屋敷があったのではと推測します。

ただ、華族建家坪数控の澤家の項には上京区の東丸太町とあります。現在の東丸太町は鴨川の東ですから左京区に属します。当時とは属する区が違っていたのでしょうか? この辺、まだ確定できない要素ではあります。

この付近の写真を何枚か載せます。

0-3-DSC_0142.jpg
右は天理教河原町大教会です。

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丸太通から教河原町大教会との間を抜ける道路付近。


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それらしき雰囲気のある通り。

六、桑原(くわはら)家

出ました桑原家。いつの間にか荒神口から東丸太町川端へ移ってきました。
桑原家は、江戸時代に五条為庸(正二位・権大納言)(1619年 - 1677年)の四男である桒原長義(正二位・権中納言・式部大輔)(1661年 - 1737年)が起こした堂上家である。本姓菅原氏。家格は半家。家業は紀伝道。極官は桒原長義が得た権中納言・式部大輔である。江戸時代の公家の中でも最も困窮していた家の一つとして知られ、当主がたった一人の従者と揉め事を起こし、口論の挙句屋敷内で殺害してしまう事件を起こすなど、家運は振るわなかった。

江戸時代の家禄は30石。明治維新後に輔長が子爵に叙せられた。しかし家計は引き続き窮乏し、品位保持も困難を極めた。大正8年(1919年)には当主桒原孝長が人妻を射殺する事件を起こし、ついに爵位を返上。孝長には無期懲役の判決が下され、服役中の昭和2年(1927年)3月30日に獄死した(wiki)。

と、その(五)で少し書いた通りです。

華族建家坪数控(京都府京都学・歴彩館蔵)から桑原家の記述をアップします。

0-1-桑原家指図


屋敷の場所は東丸太町川端とあります。敷地坪数は約200坪。主屋は90坪。意外とありますね。現在の場所に当てはめると何処の川端なんでしょう?近くに京都丸太町川端郵便局があります。


0-3-DSC_0111.jpg
丸太通を挟んで京都丸太町川端郵便局があります。


0-2-DSC_0140.jpg
標識看板には丸太通と交差する川端通も表示されています。

現状では川端通は北は天理教河原町大教会で遮られています。同教会の西側にクランクして続く道が川端通ですかね。雲上要覧には「川端丸太町上ル」とありますので、川端通を丸太通に出た所の角、現川端郵便局付近に屋敷があったと推測します。

再度、華族建家坪数控の屋敷図を見ます。表口は西です。北は丸太通に面していたと思われます。しかし、北口は途中で南に八間ほど折れ東に出ています。この不整形は何なのでしょう。おそらくここには他家の敷地になっていたと思います。推測するに川端郵便局のある地がこの不整形地ではないかと思われてきます。

そこで、郵便局付近で不整形な町割り、小路はないかと地図をみていくと、まず川端通の東側は綺麗な等辺の町割りです。一方、郵便局の西付近を見ると、実は見過ごしてしまうほどの小さい小路があったのです。

地図では分かりにくいので写真で説明します。


0-5-DSC_0133.jpg

この小路、先に見えるのは丸太通です。本来、丸太通側から見た方が小路が解り易いのですが写真を撮り逃がしてしまいました。

とにかく狭い小路があるということです。
この小路を南に入っていくと、

0-6-DSC_0129.jpg

こうなって、

0-7-DSC_0132.jpg

こうなります。袋小路でここで小路は途絶えます。なんとなく幕末の頃を想起させる雰囲気があります。正直、暗い感じがしました(住人の方には申し訳ないです)。
なんとなく、桑原家のイメージと重なります・・・・。ちょっと怖い感じ・・・。

あぁ、この不整地感、どうしても桑原家と結びつけてしまうのでした・・・。

以上、その(八)でした。次回は吉田、荻原家、そして土御門家へと、京都のパワースポット、陰陽師の世界へとご案内します。果たして自分は無事、故郷へ帰れるだろうか・・・。


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No Subject * by -
Swipetken様
コメントありがとうございます。
お礼のコメント遅れて申し訳ありません。
HP拝見しました。情報ありがとうございます。
以前、拙ブログで取り上げた「先賢の住まい」という本に新村出邸が載っていまして、言われる通り近衛家の下屋敷・河原邸から譲り受け移築したものと記載してありました。本には六つの室からなる書院と玄関・台所が残っているとのことでしたが今も残っているのかなぁ、と思いました。京都へ行く機会があったら重山文庫へも訪ねてみたいですね。
ちなみに、愛知県の西尾市の西尾城にも近衛家の邸宅遺構が移築され残っています。河原邸ではないと思います。近衛家は幾つも屋敷を持っていて探せば他にもひっそり残っているかもしれませんね。

近衛邸について * by Swipetken
京一朗様 興味深い話をありがとうございます。

近衛河原町邸について、現存は現地に残る2階建ての建物のみとされていますが、木戸孝允旧宅は一部が大正12年に広辞苑の編者である新村出邸として移築されており、現在も京都府京都市北区小山中溝町19−1に現存しています。もしかしたら旧近衛邸の遺構かもしれません。(http://s-chozan.main.jp/?page_id=605
このコラムを読んで冷泉家以外にも公家住宅の遺構はたくさんあるのだと驚きました。もっと京都のまちをよく見てみようと思います。ありがとうございます。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

木戸邸の屋根の先ですけど銅板で葺かれていますよね。数寄屋造りにはよく見られる屋根ですが何時頃から始まったのかな、と思ってます。ちなみに、江戸中期に現在のような桟瓦が作られ一気に普及しましたが(おかげで幕末の公家屋敷はみな桟瓦になってしまいましたが)、面白いのは数寄屋造りには桟瓦が似合うんですよね。そこへ銅板を加えれば又違った高級感が出てきます。

利休の生きた頃は、まだ桟瓦がなく本瓦葺きでしたが、それだと重い感じだし、そうなると茅葺か杮葺きの二択しかなかったのかなぁ、と思ったりします。お寺の本堂を見て桟瓦だと安っぽく感じますが、それが数寄屋の屋根なら見事に軽妙感がでる。素材も活かし方次第ですかね。

言われてみれば法服、確かにそうです。思い出しました。紹介頂いた装束のHP拝見しましたが、東京美術学校の制服もこんな感じだったんですね。

何かの写真で、冠と三角帽を交ぜたような頭巾を被った岡倉天心を見たことがありましたが、そうか、この法服シリーズだったんですね。

もう、ネクタイにスーツも飽きましたから、日本発の新しい装束を生み出せたらいいですね。

No Subject * by 五反田猫
いつも興味深いお話しを有難うございます。

近衛家三本木邸の遺構が木戸孝允所縁の建物として残っているのですね。 屋根は四方寄せなのでしょうか、屋根の上にある構造物が面白いですね。

桜木邸は、天理教さんの河原町大教会なのですね。
天理教さんは雅楽の支援をされておりますね、わりとフレンドリーで、私の町内にも教会がありますが餅つきなどでお世話になっております。
本旨でない話しで恐縮ですが、教服は明治の法務官の制服に似ていますね。
http://www.kariginu.jp/kikata/igyou-syouzoku.htm



No Subject * by 京一朗
Hakka様

屋敷地の坪数間違えました。3千坪でした。自分で記事に書いておきながら、公家シリーズでいろんな屋敷を取り上げ混同してしまいました 笑。

No Subject * by 京一朗
Hakka様 コメントありがとうございます。

>内部に入れないとのことだったので断念しました。

そうでしたか。私も外から撮らさせて頂きましたが(多少、苑内に入り東側から撮りました・・・)。室内はやはりダメでしょうね。
ここも明治天皇の行在所ということで一棟残されたと思います。

当時は2千坪近い敷地を有していたようです。鴨川の流れも綺麗だったでしょうね。

No Subject * by Hakka
こんばんは。

先日、京都に行って来ました。旧木戸孝允別邸も行ってみようかと思ったのですが、内部に入れないとのことだったので断念しました。かつてはかなりの規模のお屋敷だったそうですね。

コメント






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No Subject

Swipetken様
コメントありがとうございます。
お礼のコメント遅れて申し訳ありません。
HP拝見しました。情報ありがとうございます。
以前、拙ブログで取り上げた「先賢の住まい」という本に新村出邸が載っていまして、言われる通り近衛家の下屋敷・河原邸から譲り受け移築したものと記載してありました。本には六つの室からなる書院と玄関・台所が残っているとのことでしたが今も残っているのかなぁ、と思いました。京都へ行く機会があったら重山文庫へも訪ねてみたいですね。
ちなみに、愛知県の西尾市の西尾城にも近衛家の邸宅遺構が移築され残っています。河原邸ではないと思います。近衛家は幾つも屋敷を持っていて探せば他にもひっそり残っているかもしれませんね。
2020-07-01 * [ 編集 ]

近衛邸について

京一朗様 興味深い話をありがとうございます。

近衛河原町邸について、現存は現地に残る2階建ての建物のみとされていますが、木戸孝允旧宅は一部が大正12年に広辞苑の編者である新村出邸として移築されており、現在も京都府京都市北区小山中溝町19−1に現存しています。もしかしたら旧近衛邸の遺構かもしれません。(http://s-chozan.main.jp/?page_id=605
このコラムを読んで冷泉家以外にも公家住宅の遺構はたくさんあるのだと驚きました。もっと京都のまちをよく見てみようと思います。ありがとうございます。
2020-06-29 * Swipetken [ 編集 ]

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五反田猫様 コメントありがとうございます。

木戸邸の屋根の先ですけど銅板で葺かれていますよね。数寄屋造りにはよく見られる屋根ですが何時頃から始まったのかな、と思ってます。ちなみに、江戸中期に現在のような桟瓦が作られ一気に普及しましたが(おかげで幕末の公家屋敷はみな桟瓦になってしまいましたが)、面白いのは数寄屋造りには桟瓦が似合うんですよね。そこへ銅板を加えれば又違った高級感が出てきます。

利休の生きた頃は、まだ桟瓦がなく本瓦葺きでしたが、それだと重い感じだし、そうなると茅葺か杮葺きの二択しかなかったのかなぁ、と思ったりします。お寺の本堂を見て桟瓦だと安っぽく感じますが、それが数寄屋の屋根なら見事に軽妙感がでる。素材も活かし方次第ですかね。

言われてみれば法服、確かにそうです。思い出しました。紹介頂いた装束のHP拝見しましたが、東京美術学校の制服もこんな感じだったんですね。

何かの写真で、冠と三角帽を交ぜたような頭巾を被った岡倉天心を見たことがありましたが、そうか、この法服シリーズだったんですね。

もう、ネクタイにスーツも飽きましたから、日本発の新しい装束を生み出せたらいいですね。
2019-01-21 * 京一朗 [ 編集 ]

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いつも興味深いお話しを有難うございます。

近衛家三本木邸の遺構が木戸孝允所縁の建物として残っているのですね。 屋根は四方寄せなのでしょうか、屋根の上にある構造物が面白いですね。

桜木邸は、天理教さんの河原町大教会なのですね。
天理教さんは雅楽の支援をされておりますね、わりとフレンドリーで、私の町内にも教会がありますが餅つきなどでお世話になっております。
本旨でない話しで恐縮ですが、教服は明治の法務官の制服に似ていますね。
http://www.kariginu.jp/kikata/igyou-syouzoku.htm


2019-01-21 * 五反田猫 [ 編集 ]

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Hakka様

屋敷地の坪数間違えました。3千坪でした。自分で記事に書いておきながら、公家シリーズでいろんな屋敷を取り上げ混同してしまいました 笑。
2019-01-20 * 京一朗 [ 編集 ]

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Hakka様 コメントありがとうございます。

>内部に入れないとのことだったので断念しました。

そうでしたか。私も外から撮らさせて頂きましたが(多少、苑内に入り東側から撮りました・・・)。室内はやはりダメでしょうね。
ここも明治天皇の行在所ということで一棟残されたと思います。

当時は2千坪近い敷地を有していたようです。鴨川の流れも綺麗だったでしょうね。
2019-01-20 * 京一朗 [ 編集 ]

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こんばんは。

先日、京都に行って来ました。旧木戸孝允別邸も行ってみようかと思ったのですが、内部に入れないとのことだったので断念しました。かつてはかなりの規模のお屋敷だったそうですね。
2019-01-19 * Hakka [ 編集 ]