3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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上げ底の歌

様々な傷跡を残したが台風12号もやっと去っていった、という訳にもいかない最近の台風。まだ九州に停滞しているようだ。

「台風一過雲一つなく」という表現は最近ではピントがずれている。確かに晴天が戻っても、うだるような暑さが残る・・・。以前はカラッと晴れた爽やかさを伴ってきたけど。

台風が去ると再び耳元に聴こえてくるのはセミの鳴き声。もし、この地上にニイニイゼミの「ツーー」という抑揚のない低周波音だけだったら人はおかしくなるかもしれない。それほど私には不快に感じる。幸いというかクマゼミやミンミン、アブラゼミなどが緩和というか夏らしい不協和音に慣らしてくれるので助かる。

不協和音といえば、
人はみな誰しも何らかの耳鳴りをもっている。難聴のような辛いのもあれば、普段の生活には気にならない程度まで様々。耳鳴りが無ければ人間はもっと気分よく暮らせるだろう、と思うけど、

改めてセミの鳴き声を聞いていると、「もし耳鳴りがなかったらセミの鳴き声が洪水のごとく耳に押し寄せる」のでは?、と、ふと恐怖のように感じてきた。耳鳴りは時として人を自然界の音叉から守ってくれている防波堤の役割もあるのでは?とそう思えてもきたのだが、実際、どうなのだろう?

これで8月に入る。夜は鈴虫の鳴き声が心を和らげてくれる。セミの鳴き声と何と違う!ことだろう。

されど、ヒグラシやツクツクボウシの鳴き声は秋の気配を感じさせてくれる、音律のような心地よさだ。同じセミでもなんで秋らしい鳴き声になるのだろう?不思議でならない。

夏セミのあの「喧しさ」はもっと不思議でならない。暑いとセミたちのテンションも上がるのだろうか?求愛も大声を出さないと届かないのだろうか?

必要悪?
いや、そうではないと思う。人にとって不快でも、自然界は必要としている。だから鳴いている。そう、私は解釈することにした。に、してもニイニイゼミの鳴き声が好きな人っているのかな?

★ 停止線 消えかけた田舎の 駅に立ち 早朝ラッシュの 後の静けさ

田舎の駅

最近は無人駅も多い。ローカル電車のスタイルも変わってとにかくセルフサービス。駅に降りそびれるときもある。
そんな田舎の駅。ホームの停止線も消えかかっている。朝夕だけ通勤通学の乗降客でちょっと賑わう。後はお年寄りとか僅かばかりの利用客がいるだけで眠ったような静けさのなかにある。

寂しさは感じない。穏やかな時間が流れる。

たまに、やってくる電車の音。
そして、なぜか電車の匂いが伝わってくる。
普段、感じたことのない懐かしい匂いだ。

停止線に降りかかる枕木の錆びた鉄の色。

それは何十年と走り込まれ、乗客を乗せてきた田舎の駅の歴史の足跡。

何と錆び色の似合う鉄道駅だろう。

★ 上げ底は 開けてみないと わからない 売る人買う人の 思いが重なる

上げ底といえば贈答品。昔ほどではないけど。それでも、少しでも目立ち、沢山売りたい人、あるいは会社さん。一方、少しでも得したい買い物客。中身はともかく大きければ贈られた先も喜ぶだろうと。ちょっと見栄も。

あるいは、あえて高い値段の小さい物を買ってしばし高級感に喜ぶ人。きっとこの高級感を贈る相手先の人も解かってくれるだろう、と、自分のセンスを自画自賛する人。子供だって上げ底は大好き。サンタの贈り物とかね。

みんな知っていても知らない振りして売ったり買ったりしている。でも、それで喜んだり得した気分になれば世の中は円満に回ってゆく。「上げ底」万歳!だ。


★ 雨粒と 雨音のズレを 頬杖に 興じていれば 猫が邪魔をする

雨粒

頬杖は必ずしも気分の重い時にするものでもないだろう。私もそんな頬杖をしながら何となく雨粒を見ていた。少し後からやってくる雨音のズレにも耳を傾けていた。雨音は後から来るとは必ずしも言い切れない。あの避暑地の一夏。前触れもなく降る驟雨は確かに音が先にやって来た。高原の森の奥のコッテージだから。

猫は雨に詩情など感じないだろう。多分。だから、せっかく頬杖を突いているのに目の前に現れて邪魔をしてくる。猫から見れば私の頬杖は「格好の遊び相手」なのだろう。

★ 充実する 貴女(あなた)の顔は 輝いて 寄せ付けないほどに 孤独の影がある


華やぐ女性

こんな一言を言ってみたくなる。颯爽とした貴女を見ていると。
容姿も美しく仕事もできる。歩くのも早い。並みの男ではついていけない。

隙のない才能と行動力。

でも、その隙のなさが十年、二十年後、
孤独を呼び込むかもしれない・・・


★ 舞妓はん 日本を背負うて いるはると 外人客の シャッターを浴びている

舞妓

京都の舞妓さんには何度かお見掛けしている。残念ながら宴席の場ではない。観光ツアーで回るのも何か味気ない。
京都には今も置屋制度が残っていて15~20前の若い女性が唄や踊り、三味線、茶道、華道、接客から礼儀作法までとことん厳しい稽古を仕込まれ、見習い中が「舞妓」と呼ばれ、認められれば晴れて一人前の芸妓(芸者)になれる。だから舞妓さんといえばほぼ京都限定。

私の住む地方都市にも芸者さんがいた。父が昔、取引先との接待でお世話になったからと、毎年の新年交礼会に招いていた。芸者さんたちは「客」として招待されることを大層喜んでいた。一番若い芸者さんでも40代、最高齢は80歳近かった。それでも芸者さんがいるのといないのでは場の雰囲気が違った。そんなささやかな交友も父が亡くなってからは途絶えた。もう芸者さんたちもみんな引退している。

最後の砦。その一つが京都の芸者さん。中でも人気なのが若い舞妓さんたち。西陣の織物を散りばめた艶やかな着物と初々しい芸と礼儀作法。そして京都弁がさらに可愛さを増す。おこぼ下駄で歩く姿を見るだけでウットリする。時代を越えている。

昔、欧米から、日本のイメージといえば「フジヤマにゲイシャ」だった。しかし、今は違う。ゲイシャではなく「芸者」になった。21世紀の現代においてもなお、昔からの伝統と衣装を纏い客をもてなす文化はここ京都だけかもしれない。

だから、外国の観光客の人たちも京都で舞妓さんに出遭うと凄く喜ぶ。スマホやカメラでずっと撮っている。YouTubeにもたくさんアップしている。それに舞妓さんも笑顔で応えている。

芸妓、舞妓さんたちは、その細い肩で日本の伝統を担っている。


★ 紛失物 見つけた時の 喜びを 幸せと言えば 君は俯けり

私は忘れっぽくてよく物を失くす。で、探そうとすると見つからず、諦めようとすると、ひょんな所から見つかる。その繰り返しだ。失くしたときの嘆きより見つけたときの嬉しさの方が勝るから我ながら始末に置けない。「見つかる幸せ」と言ったらいいのか・・・幸せな気分になれるから偶には失くすのもいい?そんな訳の分からないことを妻に言ったら、呆れかえって苦笑いされた。私はその「苦笑い」から「苦い」を取って「笑」にした。だから短歌に出来た。

※先ほどまでは最後の部首は「笑(えま)いて」でしたけど、実際は呆れかえって苦笑い、その後しばしの沈黙・・・が正解だったので訂正し直しました。


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