3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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公家町土地区画整理事業 決まる ③ 改めてこぼれ話

前回、公家町土地区画整理事業の割り当てが決まった段階で、何となく思った「こぼれ話」でも書こうかな、と思いましたが、予期せぬ「悩んでます」で書かずじまいでした。今日はちゃんと書きます(こぼれ話ですから肩肘張ることないけど)。
ちなみに、拙ブログでたまに載せてます短歌ですけど「はてなブログ」に引っ越しし独立することにしました。短歌ブログのブログ名ですが、せっかくだから一つ捻ってやろうと思いましたが、結局「梅村京一朗短歌集」にしました。他の短歌・俳句のブログ名みると意外に自分のペンネーム使っている人いるんですね。で、自分も便乗ということです。

これで、3Dは「3D京都」で、短歌は「梅村京一朗短歌集」の二本立てでブログを書いていくことにしました。

よろしくお願いします・・・というところですが、実は”はてなブログ”は初めてなので、はてな?と言う感じ 笑。
fc2とはまたシステムも違うので今悪戦苦闘しながらブログ作りしてます。あの、同じ記事を二つ以上のブログに載せるとGoogle検索のヒットが落ちる?とかネットで書いてありましたけどそうなんですかね?自分も重複しないよう短歌系は全部”はてな”に引っ越し、完了後、3D京都から削除する予定です。

でも、互いにリンクさせるのでたまには「短歌ブログの方も覗いてみようか」となると嬉しいですね。おっと!、まだ新ブログ出来てません。出来次第リンクさせますね。

さてと、こぼれ話に入ります。

実はこぼれ話というよりも「知らなかつた。今回初めてわかった」類ですけどね。まず何が知らなかったというと、今回の公家町、現在の京都御苑ですけど、ここが公家町の内郭だった江戸時代、この区画はてっきり宮家や公家たちだけ(一部、引退した高級女官の屋敷や大工・修理職の作業屋敷は知っていたは別)の屋敷が構えられていた、と思っていたのですが、実はそうではなく、公家よりも位階(家格)の低い地下官人、今で言うノンキャリアや近衛家の筆頭諸太夫であった進藤家など公家の家臣も住んでいた、ということを知った、ということです。

改めて、公家と地下官人の違いを書きますと、厳密に言う公家とは位階が三位以上の世襲家・公卿をさしますが、広い意味では御所の清涼殿の昇殿が許された家が公家、許されていなかったのが地下官人。位階で言いますと従五位下以上が堂上公家です。ただ、たとえば六位であっても、天皇の秘書兼事務方を司った蔵人は昇殿が許されました。一方、位階が四位に昇進しても地下官人が公家になることはできませんでした(一部例外あり)。要は位階云々以前に、「家格」によって峻別されていました。公家でいう摂家、清華、大臣家、羽林家、名家、半家が堂上公家。それ以外の家格は並べて「地下官人」と総称された訳です。

また、地下官人も局務(外記方、押小路家が筆頭)・官務(官方、壬生家が筆頭)・蔵人所出納(平田家が筆頭)の三家が、催官人として地下官人を管掌し、朝廷の各種行事の実務・運営を司りました。催官人を筆頭に並官人、下官人の三つに分かれていましたが、催官人と並官人は世襲。下官人は世襲ではなかったため、それこそ、勝海舟の父が武士の身分を買い取ったように、下官人も一種の「株」の形で身分を売買することが行われました。また、幕末、地下官人不足から京都や周辺の商人や農民が下官人の看板欲しさに身分を買い取ったケースもままあったそうです。

催官人のうち、壬生家と押小路家は華族になりましたが、平田家はなぜかなれませんでした。なぜでしょう?

公家は幕末時点で130数家、地下官人の数は諸説ありますが約500~600人ほどいました。ちょうど徳川幕府でいうと直臣は旗本と御家人の二つに分かれていましたが、これを公家に当てはめますと、旗本が公家、地下官人が御家人に相当します。つまり、幕府の御家人がれっきとした直臣の武家であるように地下官人も朝廷の朝臣であることに変わりはない、ということ。広義でいう公家衆に属するということです。

ですから、そういうことであれば、「何も地下官人が公家町に屋敷を構えてもおかしくはない」となり、今回の区画整理事業でも納得ということです。

じゃ、地下官人等が公家町のどこに住んでいたかと申しますと、以下のエリアマツプを見てもらうとわかります。(図等はどれもクリックすると拡大します)

地下官人エリアマップ

大きく分けると二つのエリアに集中しています。いずれも屋敷地も狭く密集してますね。
これをさらに細かくみていくと、たとえば東エリアの場合(紙幅の関係上横にしました)、


地下官人東エリア

こんな感じで並んでいます。
家名が書いてあるので、家名に従って簡単に説明していくと。
勧修寺は多分別宅だと思います。下の高橋家は地下官人。渡辺家も地下官人。ただ近衛家の侍に渡辺家とあるので公家家臣かとも思われます。渡辺家の下は大乗院里坊とありますが、同坊は奈良・興福寺の筆頭本坊で公家町での別宅にあたります。もっぱら、五摂家の次男や庶子が出家して住持してました。他の坊も同様庶子の就職先でした。明治になって還俗し華族になりましたが、長屋住まいとかで貧窮、中には華族を返上する家もあったそうです。

中根は地下官人にも載ってなくて?です。後、門跡寺院等の里坊や坊官等の屋敷はスルーします。松木家は公家。局は退職後の高級女官の屋敷、以下、局はスルーします。水瀬家も公家、四辻家も公家、進藤家は近衛家の諸太夫、面積は145坪ほど。建坪は多分50坪ほどか。今の東京なら豪邸かな。小森家は地下官人。通りを隔てて南(ここだと右)に行くとおお、局務筆頭の押小路家がありますね。さすがに土地280坪ありますね。愛宕家は公家、後、明治初年、寺町通に大きな屋敷を構えます。禁裏付き武家屋敷が空きになったからかな?梶井宮の別邸もありますね。中園家は公家。土地面積は140坪ほど。ひょっとして最小面積の公家さんかも。ちなみに家禄は130石。家禄の割に土地狭いですね。別の所に本宅があったかもしれない。沢村家。地下官人。検非違使の家系とか。おお、官務筆頭の壬生もありますね。土地はざっと、130坪。押小路家より少ない。結構、裕福だったと聞いていたけどどうしたんだろう?家禄は100石ありました。位階も従三位まで昇進してますけど地下官人は地下官人。いくら官務の筆頭といえども家格の壁は高かった・・・。

ちなみに、幕末、日米修好通商条約勅許に反発し反対運動を起こした廷臣八十八卿列参事件(岩倉具視等主導)の際、地下官人でも官務壬生輔世は出納平田職修と共に地下官人97名の連名による条約案撤回を求める意見書を提出しています。政治に意見を言うのは何も公家だけでなく地下官人も参加、同じ朝臣、公家衆としての同胞意識があったんですね。実際、当時、そう思われていました。

さぁ、壬生家の向かいに小佐野家があります。あの、戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件で関係者として国会に召喚された小佐野賢治のご先祖にあたるのでしょうか?傍系かな。土地は約90坪。ひょっとして公家町最小の屋敷面積かもしれない。というか、多分そう。私の家の方が土地広いです 笑。地下官人、狭い土地、これらが生み出した屈折した感情が奥さんに堀田伯爵家の姫様を半ば強引に妻にするなど、名家好み、華族好みに拘ったルーツか?などと妄想してます 笑。沢村家も地下官人。

小佐野家の隣はあの武者小路実篤で知られる武者小路家の屋敷。家禄130石。190坪と公家としては広くありません。しかも地下官人町に住んだためか、実篤は折にして「本当に公家は貧乏だった!」と強調していたそうですが、その貧乏感もここに屋敷を構えたことに起因してるかもです。また、だからこそ実篤は宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」という理想郷を夢見たのかもしれない・・・という完全なる私のこじつけです 笑。

局のしたは公家の高野家。敷地は300近く。冷泉家の半分くらいか。その上の局は400坪もある。かなり身分のある女官。尚侍・典侍か?尚侍には傍に使える侍女が5人以上いたというから、けっこうな身分。録も100石あった局様。けっこう公家町には局屋敷あるんですよね。

さて以上が東エリア。

次に南エリアの紹介です。まず、エリア図のアップから、

地下官人南エリア

この南エリアは東エリアの特に下の方よりは広い感じ。大宮家は公家、土地240坪ほど。隣の植松家も公家。土地は220坪ほど。大宮家と同じ。植松家の隣は唐橋家。土地300坪。家格は半家でも植松、大宮家より多い。また、となりの桜井家はどうも醍醐寺三宝院の坊官らしい。どういう経由でここに住んでいるのか不明。隣はまたお局。朝廷もお局さんの退職後のこと大事に考えているみたいですね。土地も広い。藤井家は地下官人。

下段に移って、まず澤家、あの文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追放。結果、長州寄りの公家7人が同長州へ都落ち。俗にいう七卿落ち、その一人が澤宣嘉。家禄は30石。都落ちもしたくなるか・・・失礼、冗談です 笑。政治家としても活躍。明治になってその功績が認められ半家の家格としては唯一伯爵に叙せられました。土地は260坪。公家としては狭い方ですね。公家の場合、土地の大小300坪が一つのボーダーラインですね。

佐竹家。近衛家の諸太夫です。佐竹氏の傍流か?200坪近い土地ですから、さすが近衛家諸太夫ですね。裏松家、公家です。名家で130石。土地200ありません。あの有職故実の研究で有名な裏松固禅の家です。固禅は大内裏の研究や京都御所の平安復古による寛政度内裏の設計の根拠となりました。でも有名で活躍した割に土地は狭い。どこか別邸があったのでしょうか?

隣の富田家は地下官人。そのまた隣は唐橋家。上段にもありましたからここは別宅かな。80坪有りません。あの小佐野家より狭い。でも別宅ですからね。小佐野家のような屈折した感情はなかったと思いますよ。となり、またまた桜井家が出てきましたよ。坊官で公家町に屋敷が2軒もあるとは・・・。坊官って儲かるですかね?

最後に、土地番付をいくらか紹介して終ります。
宮家でみていくと、梶井宮家8690坪、日光御里坊7670坪、閑院宮家7496坪、賀陽宮5000坪、有栖川家4870坪、伏見宮家4200坪、桂宮家3939坪。五摂家だと、二条家7988坪、九条家7980坪、近衛家7160坪、一条家4685坪、鷹司家4089坪。

後、幾つか気になるお公家さんでは、冷泉家890坪、中院家2500坪、醍醐家2900坪、徳大寺600坪、西園寺1378坪、飛鳥井1438坪、姉小路1100坪、岩倉570坪、三条西1400坪、等。切りがないのでこの辺でやめておきます。ただ、元の公家町マップにトレースしましたが、敷地形状がけっこう簡略されているのであまり参考にならないかも。とくに中流以下のお公家さんです。冷泉家でも890坪もあったかな?と、けっこう、大雑把です。

長文、失礼しました。


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NoTitle * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。
素晴らしい趣味をお持ちですね!
私も雅楽とか好きですけど、和歌披講・・・とは雅な。まさか、冷泉家の歌会ではないですよね? 笑。本格的な活動をされているんですね。

普段から公家文化に接している方からコメント頂き本当にうれしいです。

拙い3Dではありますが、励ましを力に頑張ります。ちょうど明日は名古屋で3Dセミナーがあるので勉強してきます。

それでは、これを機縁に今後ともよろしくお願い致します。
                  かしこ

始めまして * by 五反田猫
歴史と伝統芸能が好きで、こちらのページに誘われ、拝見しております。 御所と公家町の3D再現は素晴らしいですね。 私は、伝統芸能では、お香、雅楽や和歌披講をやっておりますので、公家文化はご縁があります。 昔から、京都御苑の公家町に、一部で良いから再現して欲しいと思っておりました。3Dデータでも、こうして拝見出来ると嬉しいです。 日本は観光立国を目指しているならば、公家屋敷のいくつか再現し、参内行列を見せれば世界に向けた文化の発信になり、バッキンガムの衛兵交代のような人気になるのにと思っております。
これからも楽しみに拝見いたします。

コメントありがとうございます * by 梅村京一朗
お久し振りです。元気されてましたか!承明門の3Dお褒め頂きありがとうございます。今、回廊部作ってます。昨日あたりから蒸し暑くなって梅シロップ飲み始めました。昨年の残りですけど美味しいですよ。
地下官人のこと詳しく説明頂き感謝です。そうですか、小佐野家は甲府でしたか。

それにしても、形だけとは言え、平安朝の律令組織が幕末まで残っていたのは驚きですね。財務省も大蔵省のままでも良かったのに。

朝廷は石高収入10万石以外にも幕府や諸大名からの献金、公家の家職や免状
等により裕福な公家もいましたね。一時期は公家さんにも奢侈禁止令が出されたそうですから、公家=貧乏、という訳でもないですよね。30石蔵米は確かにそうでしょうけど。子供だって20人もいた子だくさんの公家さんいましたからね(死産含む)。今に残る桂離宮も桂宮家所領3000石で十分維持管理できたのでしょうか? そのへん、調べていくと面白そうですね。

NoTitle * by taka
地下官人の説明、詳しくなされていますね。地下官人はさながら実務官僚みたいな感じですよね。公務員でいう現業みたいな形だと自分は思ってます。

ちなみに 壬生家 は算術、真継家 は河内鋳物師の頭領という縁から鋳物師系統の権威、ですね。真継家 については 加賀藩 との間で鋳物師集団の今でいう税制特権について大揉めに揉めた経緯もあったそうです。江戸時代の朝廷は免状とかそういうのが主要な収入源だったみたいですが、こと収入に関する事となると 加賀藩 とでも渡り合うたくましさがあるんだなと感心します。

しかしこういうのを見るにつけて、本当に当時の朝廷というのは歪ですね。藤原国主体制を延々とひきずってる体制には、正直眉をひそめてしまいます。北小路家 や 押小路家 ですら地下ですからね。

まあ、歴史上の人物で嫌いな人を一人挙げろ、と言われれば 藤原道長 をあげますね。

そうそう、主さんの疑問ですが、件の 小佐野 は血筋的にも全く関係ありません。配偶者は 旧堀田伯爵家 ですが、本人は代々甲府の貧乏農家です。

コメント






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NoTitle

五反田猫様 コメントありがとうございます。
素晴らしい趣味をお持ちですね!
私も雅楽とか好きですけど、和歌披講・・・とは雅な。まさか、冷泉家の歌会ではないですよね? 笑。本格的な活動をされているんですね。

普段から公家文化に接している方からコメント頂き本当にうれしいです。

拙い3Dではありますが、励ましを力に頑張ります。ちょうど明日は名古屋で3Dセミナーがあるので勉強してきます。

それでは、これを機縁に今後ともよろしくお願い致します。
                  かしこ
2018-06-14 * 京一朗 [ 編集 ]

始めまして

歴史と伝統芸能が好きで、こちらのページに誘われ、拝見しております。 御所と公家町の3D再現は素晴らしいですね。 私は、伝統芸能では、お香、雅楽や和歌披講をやっておりますので、公家文化はご縁があります。 昔から、京都御苑の公家町に、一部で良いから再現して欲しいと思っておりました。3Dデータでも、こうして拝見出来ると嬉しいです。 日本は観光立国を目指しているならば、公家屋敷のいくつか再現し、参内行列を見せれば世界に向けた文化の発信になり、バッキンガムの衛兵交代のような人気になるのにと思っております。
これからも楽しみに拝見いたします。
2018-06-14 * 五反田猫 [ 編集 ]

コメントありがとうございます

お久し振りです。元気されてましたか!承明門の3Dお褒め頂きありがとうございます。今、回廊部作ってます。昨日あたりから蒸し暑くなって梅シロップ飲み始めました。昨年の残りですけど美味しいですよ。
地下官人のこと詳しく説明頂き感謝です。そうですか、小佐野家は甲府でしたか。

それにしても、形だけとは言え、平安朝の律令組織が幕末まで残っていたのは驚きですね。財務省も大蔵省のままでも良かったのに。

朝廷は石高収入10万石以外にも幕府や諸大名からの献金、公家の家職や免状
等により裕福な公家もいましたね。一時期は公家さんにも奢侈禁止令が出されたそうですから、公家=貧乏、という訳でもないですよね。30石蔵米は確かにそうでしょうけど。子供だって20人もいた子だくさんの公家さんいましたからね(死産含む)。今に残る桂離宮も桂宮家所領3000石で十分維持管理できたのでしょうか? そのへん、調べていくと面白そうですね。
2018-05-17 * 梅村京一朗 [ 編集 ]

NoTitle

地下官人の説明、詳しくなされていますね。地下官人はさながら実務官僚みたいな感じですよね。公務員でいう現業みたいな形だと自分は思ってます。

ちなみに 壬生家 は算術、真継家 は河内鋳物師の頭領という縁から鋳物師系統の権威、ですね。真継家 については 加賀藩 との間で鋳物師集団の今でいう税制特権について大揉めに揉めた経緯もあったそうです。江戸時代の朝廷は免状とかそういうのが主要な収入源だったみたいですが、こと収入に関する事となると 加賀藩 とでも渡り合うたくましさがあるんだなと感心します。

しかしこういうのを見るにつけて、本当に当時の朝廷というのは歪ですね。藤原国主体制を延々とひきずってる体制には、正直眉をひそめてしまいます。北小路家 や 押小路家 ですら地下ですからね。

まあ、歴史上の人物で嫌いな人を一人挙げろ、と言われれば 藤原道長 をあげますね。

そうそう、主さんの疑問ですが、件の 小佐野 は血筋的にも全く関係ありません。配偶者は 旧堀田伯爵家 ですが、本人は代々甲府の貧乏農家です。
2018-05-17 * taka [ 編集 ]