3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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公家町土地区画整理事業事始め

皆様、今晩は。
また、頭に花が咲くような記事タイトルを付けてしまいましたぁ・・・。
初めて読まれ方からすれば「何これ?」と思われるといけないので、一言、説明を申し上げますと、現在は市民の憩いの場となっている京都御苑には幕末まで公家町が存在していました。その公家町を3Dで再現してみよう! そのためにはまず、当時の公家町の土地区画整理から始めなければ、というのが趣旨です。

区画整理事業は誰も反対する人はいないと思うので(笑)、自分の裁量で進めます。区画整理が終わった後は、すでに作った公家屋敷を移したり、残っている指図の3D化、また平面図での視覚化を考えています。少なくとも公家町を取り巻いていた屋敷塀や門、長屋、物見等は立体化する予定。また家格に応じた差別化も行い公家町の面白さを引き出したいと思っています。道程は長いですが。

明治維新とともに公家町は寂れ、明治10年に公園として整備するため京都御所や仙洞・大宮御所、桂宮邸などを除いてすべての家屋敷は撤去されました。この整備事業を「大内保存」と言います。

以来、御苑として親しまれてきましたが、私のような歴史好き(特に公家系)からすると、「なにも全部撤去しなくても一部の公家屋敷でも残したらよかったのに。今年も近衛邸跡の糸桜も綺麗に咲きました。でも、そこに当時の屋敷が残っていたらもっと映えたのではと思います。幕末、多くの公家屋敷が維持管理の手易さから屋根が瓦葺だったのに対し、近衛邸は300坪を越える杮葺きの優雅な御殿を始め全体の建坪は3000坪もありました。九条家など敷地一万坪に4000坪もの家屋敷が建っていました。これら一部の屋敷だけでも残っていたら、京都の歴史・文化財産はもっと多彩なものになっていたと思います。京都の観光は圧倒的に寺社が多いですからね。(写真、図はクリックすると拡大します)

旧近衛邸の糸桜
近衛邸跡の糸桜。今年も見事に咲きました!

さて、公家町土地区画整理事業ということであれば区画の線引きをしたいのですが、史実にそぐわない勝手な区画ではいけないので、まずは幕末の内裏・公家町を描いた絵図や明治にかけての古地図等参考に当時の各公家屋敷の規模・形・位置・変化などを調べてみました。

当然、いろんな絵図、古地図を見比べましたが地図って細かいですよね。眺めていてそれなりに楽しいのではありますが、なんか見過ぎて目がショボい・・・、目が回る・・・ってな感じなかなかたいへん。でも事始めしなければ。

今回の「公家町土地区画整理事業事始め」の起点となるものは前の記事でも取り上げた慶応四年刊の「文久改正内裏御絵図 丁版」です。私も本物持ってます!。町の位置、距離の基準点は京都御所。現在の南北450m、東西の250mは慶応2年に整備されました。ですから御所から公家町へと展開してゆきます。


文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)
文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)

私の調べた範囲内ですけど、この絵図が幕末最終版なのではと思っています。慶応4年は1868年。明治元年も同じ1868年。同年の9月8日から明治に改元されましたから、厳密にいうと9月7日まで刊行された内裏・公家町絵図は江戸時代のもの。その観点で見るとこの文久改正内裏御絵図はやっぱり最終形態かな、と思うんですよね。理由を書くと長くなるので割愛しますけど。

というか、最終版がわかったのなら、もうそれで区画整理の線引きを起こしていけばいいじゃん? という話にもなると思いますよね。

ところが、すんなり行かないのが世の習い。
公家の誰それさんは禁裏近くの新在家町に屋敷があるよ。家紋も門の位置もわかるよ。でも肝心な屋敷の面積や形が大雑把でハッキリしないんだよね、と。公家屋敷は当時、表札などなかったから、家紋入りの絵図でだいたいの位置を確認(屋根瓦や提灯の紋章等でわかる)、また正門もわかる。後、石高や家格も色分けされていて解りやすい。つまり便覧です。屋敷の狭い公家さんでも石高・家紋入りだからどうしても表記上、実際の土地面積よりも大きくなってしまう。利用目的が違うから。そもそも面積は適当。九条家など確かに広いけど2万坪ないでしょう・・・(御所との比較で)。

ということで、公家邸の所在はOK。残るはサイズ。

以下からは時系列的に絵図を調査、比較します。
絵図を順番に見ていきますと幕末の激動期、京の町(主に内裏周辺)がどのように変貌を遂げていくのか?
そういった面から比較してゆくのも面白いのでそれらも合わせて紹介しますね。

京町御絵図細見大成(慶応4年刊)
京町御絵図細見大成(慶応4年刊)。

京の町全体を描いた絵図です。このような絵図は「京大絵図」を始め江戸期代幾つも出されていますが、この絵図は明治に改元される七か月前に刊行されたもので版元は竹原好兵衛。ほぼ江戸期最後の京図ではないかと思います。大政奉還直後のため、幕府機関に関連のあった場所の文字が消えています。さすが絵図名人の竹原好兵衛、目ざといです。

そして、御所付近を拡大してみます。

京町御絵図細見大成(慶応4年刊・御所周辺)
京町御絵図細見大成(慶応4年刊)の御所周辺拡大図。

御所近辺のためか幕府機関の名称の抹消とかは見かけませんね。あの少し前の記事で「中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった」と書いた中院家の屋敷も、画面下、公家町外の烏丸通を挟んだ下長者町(現在の護王神社)にちゃんと記載されてますよ。やっぱり幕末最後の公家屋敷の可能性あり、ですね。

内裏・公家町図(明治元年)広域版
明治元年の内裏・公家町周辺図。中院家も例の所に載ってますよ

この地図は京都市編の「京都の歴史 第七巻 維新の激動」に所載されているものです。同地図は幕末(明治元年)の時代の内裏・公家関係から武家、社寺、新政府関係(幕府は大政奉還でもうない)、諸藩、町人地等と道路や水路などライフラインの施設まで色分けして、現代の地図と重ね合わされていてとても理解し易いです。同書は昭和45年刊行の「京都の歴史 第一巻 平安の新京」から始まって昭和51年の第十巻 年表・事典、まで約6年かけて京都の通史として編纂されたもので、刊行から40年以上経っていますが未だ色褪せず、出版社が京都関連の書籍を刊行するときなども同書の、とくに各巻の地図は重宝されてるようです。

地図を見ると、幕府の二条城は太政官代、京都守護職屋敷は軍務官と新政府の行政府名称に変わっているのがわかりますね。

ここでもうハッキリと結論を申し上げると、この「京都の歴史」添付の地図に載っている内裏・公家町が一番正解に近いと思いました。やはり地元だけあって足で歩いて地道に調査した内容結果ですから史料価値も高いです。

明治以後の地図だと、逆に公家町が消えていってしまうので今回の趣旨の参考にはなりません。しかし、どのように消えて行ったのか? それはそれで興味をそそるものがあります。

一つ、現在の地図に公家町を重ね合わせてみました。

京都御苑と公家町透過(地図)04-05


見にくいですかね?
多少なりとも公家屋敷の位置関係や面積とか比較できるのではと思うのですが。

この地図を基に「公家町土地区画整理事業」を進めていきます。まずは線引きですね。

後ですね。
上述しました、明治以後の地図の変遷ですが、
明治4年7月の廃藩置県前、同10年の公家町の大内保存前、そしてその後など、京都の町の変化の様子が見られるので、それもご紹介するのも一考かな、と思いますので次回、補遺・明治地図編として記事をアップします。

何か消化不良な記事になってしもうた・・・
これも地図の見過ぎだぁ・・・かな。

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