3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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公家史観

今、「平成版 内裏・公家町御絵図」の中心となる紫宸殿の作成に取り掛かっているところです。3Dは多少の集中力が必要なので少し充電しています。
私は「公家町再建プロジェクト」と題してカテゴリー欄のなかにチョコチョコ記事を載せていますが、具体的にはどう表現していくのか、ハッキリしたことはあまり考えていませんでした。
それが最近、近世・幕末の内裏・公家町絵図を見比べているうち、「私の求めていた公家町はこうなんだ」という一つの構想が浮かんできて、ホントに「コケオドシ」でない再建プロジェクトが私のなかで始動しています。

たまに拙ブログのアンケートのコメント欄を見ます。
「平安時代の清涼殿、藤壺を見てみたい」、「武家屋敷を見てみたい」等々のコメント。何とかご意見に沿おうと思うのですが遅筆ゆえ希望に添えていないのが、いつも気にしています。
コメントのなかでも「蔵米30石の公家屋敷を見てみたい」というご要望は痛いほどその気持ちはわかります。私もそうですから 笑。
「摂家の屋敷はもうわかった、今度は最底辺の公家の屋敷を見てみたい」と思うのは人情?というもの。人の覗き見的趣味は尽きないし、欲求はさらに生身の世界を求めます。

城好きな人は多いですが、最初は「日本の城100選」に満足していたのが、選に漏れた小城、さらに一万石の陣屋、陣屋のなかでも城郭造りの陣屋、さらに伊達藩の要害や薩摩の麓、土佐の土居といった隠れ小城郭や陣屋。それも飽きたら交代寄り合いの旗本陣屋、さらに普通の代官所、そしてとうとう長屋門のある庄屋までと人の知識欲は底を知りません。そう書く私も実はそうなのですが・・・苦笑。

あの、30石蔵米の件ですが、私の手元の指図にはありません。60石が一番小さいかな。
ちなみに「西郷どん」の家が41石。西郷家より少ない・・・とは、公家の体面は保てたのだろうか?・・・と余計ながら心配。

人とは不思議なもので、100%空想の世界よりも多少なりとも実在の人物、史実を混ぜた物語の方を好むみたいです。
多分、リアル感があって、主人公に感情移入し易いからだと思います。

だから、平安の昔より幕末の歴史の方がどうしてもリアルで興味が尽きない。史実と照らし合わせて「あれがどうのこうの」と蘊蓄を楽しむことも出来ますからね。
3Dの世界においてもそれは同様です。
たとえばホントの寝殿造の遺構は残っていません。だから時代を下った鎌倉時代の建物や絵巻を参考にしている。大内裏だって、もし後白河法皇が「年中行事絵巻」を残さなかったら形は復元できなかったと思います。

3Dと2Dで描く「平成版 内裏・公家町御絵図」の世界、
私は志士たちのように公家鑑を持って、そこの大路小路を歩いてみたい。仮想体験してみたいのです。


さて、公家史観とは?

実体のない言葉ですが、
たまたまBSで幕末物を視ていたらそんな言葉が浮かんできました。

時は慶応4年、鳥羽伏見の戦い。
薩長・官軍を前にして幕府(元)は完璧なまでに叩き潰され慶喜は這う這うの体で江戸に逃げ帰った、というのが通説ですが、
実は実態は違った。どちらが勝ってもおかしくはない互角の戦いをしていた、という設定でのBSプレミアムの番組です。

情報が入り乱れる戦火のなか、幕府が時に官軍方を破りその一報が固唾をのんで見守っていた朝廷の公家たちに届く。そうすると、公家たちはオロオロ慌て岩倉卿に「話が違うおませんか!」と喰ってかかる。挙句の果て、徳川方に使者を送ろうどうのこうのと混乱の極み。それを後に維新の元勲たちが「公家は情けなかった。何の力もなく逃げまどってばかりいた。しかも、いつ、勝った方に掌返しするかわからない気位だけは高い喰えない者たちだった」と回想録に記す。
けど、何もオロオロしていたのは公家たちだけでなく幕臣でもオロオロしていたから新選組が出来たんだろう?とも言いたくなる。

固定観念として、公家は戦国時代以来力をなくし、信長や秀吉、家康の前でひたすら首根っこを押さえられ、媚びへつらい、強い者の方にいつでも鞍替えする、というちょっと情けない、陰湿な存在として描かれてきた側面があると思います。
確かにそういった面はあったと思いますが、でも、そんな事ばかりではない、と一方では思うのです。

「オロオロするのが公家の使命」?だと考えたらどう思われますか?

普通、王朝が倒れると仕えていた朝臣たちは雲の子を散らすように逃げていってしまうものです。
あの中国の明朝最後の皇帝・崇禎帝が紫禁城がまさに陥落しようとする時、皇帝につき従っていたのは僅か一人の宦官だけでした。帝国といえども最後はあっけないものです。

では日本ではどうでしょう?
どんなに戦乱の極み、貧窮の極みにおいても天皇の元を見限り逃げていった公家はほとんどいません。中には領地で戦国大名化していった公家大名や有力大名に身を寄せていた公家もいましたが、あくまで一時の避難です。禁裏を守護する公家は御所を離れませんでした。天皇あっての公家ですからね。

なぜ?と問われれば、天皇一系で続き武士たちも先祖を辿れば源氏か平家にたどり着く。つまり、みんなご先祖様は天皇に繋がり、身近にお世話するのが公家だったという日本独自の歴史があって、それも公家が内裏を離れなかった要因であると思いますが、歴史というものはそんなに単純なものだけではないと思います。

日本においても、権力を掌握した者がいつ天皇位を簒奪してもおかしくない機会・場面はありました。
ではなぜ、そうならなかったのか?
有体に言えば「来る者拒まず」です。
源氏が勝てば統治権を委譲し平家が勝てば平家の方、源氏のなかでも義経が有力になれば義経を押し、頼朝が義経を倒せば頼朝に詔勅を下す。それを頼朝は後白河法皇を「天下一の大天狗」と言わしめた変わり身の早さです。

見方によれば、それは節操もない、と言えるかもしれませんが、
もし、統治権の委譲を拒んだら、あの足利義満や織田信長だったら天皇を追い出して自分が取って代わった可能性は十分あったと思います。

公家は天皇を守るため「来る者拒まず」で委譲の発給を出した。それによって天下を統一した者も統治を委ねられたことを天下に宣言することが出来た。

変わらない天皇の権威と、安心して変わることが出来た武家政権の交代。
その絶妙なバランスが日本を安定させ幕末の国家的危機も乗り越えた。

また、それだけでなく王朝交代に付き物の多くの人の犠牲や国土の荒廃を防いだ。
中国を例にだせば、王朝が替われば、反乱分子を根絶やしするため殺害の嵐。
国土も荒廃し、王朝が替わるたび、時に人口は三分の一にまで激減しました。

幸い日本ではそういった悲劇はありませんでした。
しかし、もし日本で王朝交代があったなら多くの犠牲を伴ったことでしょう。

公家がオロオロしたのは保身もあったと思いますが、一方で天皇をお守りするにはどうしたらよいか?
その究極の選択が権力を握った者を「等しく拒まず」です。

「公家はオロオロするのが使命」。それが私にとっての公家史観です。



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