3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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え? 戦国時代に大内裏が残っていた!?

え? 戦国時代に大内裏が残っていた?!
と、
なんか週刊誌ご用達の「見出し」みたいなタイトルになってしまいましたが、
記事の設定時期は正確には室町時代、応仁の乱の頃でこの時代は戦国時代と被ってま
すんで半ば無理矢理今回のタイトル設定にしました。

でも、応仁の乱(応仁元年・1467年~文明9年・1477年)の頃まで、実は大内裏の官衙が一部残っていた!、
ごく一部の建物は天正13年(1585年)まで残っていた。また機能していた、となると意外性もあると思いませんか?
平安京の大内裏は鎌倉時代、武士が貴族に取って代わって政権を握り、
それとともに貴族政治(律令制)の象徴であった大内裏も時代の波に消えてしまった・・・

それが実は・・・となると気になるかな。

ということで、
今回は私にその意外性を与えてくださった、

現在、明治大学で教鞭をとられている久水俊和博士の論文「室町期の内野における存続官衙」を引用しながら記事を書いてみたいと思います。

といか、ほとんど久水俊和氏の紹介文です。同氏は「室町期の朝廷公事と公武関係」という著書も刊行されています。


さぁ、「目から鱗」の旅に入っていきます。

で、まずは肝心の大内裏のイメージ図から、

太政官-神祇官-真言院官衙図
赤く囲っているところが室町時代に入っても機能していた神祇官、太政官、真言院の各官衙です。「平安建都1200年記念 よみがえる平安京 京都市」から引用。

久水俊和氏によれば、武士の世になってかつての大内裏も荒野と化し、「内野」と呼ばれるようになった。
そこだけ京の都にポコッと空いた巨大が空間、空地。
朝廷の中心だったところだから地盤もしっかりしている。だから人も自然と集まり人家が増えやがて町になる。
そんな営みの変遷もありませんでした。
なぜ?
久水氏によれば、内野と称されるようになっても大内裏、宮城の跡は聖性、一種に畏敬の念をもって見られる地だった。
平安京の出発点であり、律令(法制に基づいた古代統一国家の統治体制、中央集権制度)の理想国家を目指した平安京。

たとえ、内野と言われ荒野になっても、天皇・朝廷の権威は失われず人々の懐古、半ば信仰に近い聖性を伴った聖域として残されてきた・・・、移っていた内裏もあくまで里内裏でいつかまた戻ってくるかもしれない、だから空けておこう、そんな当時の人々の思いを感じます。

また、室町期はまだ公家の力も残存し武家と公家が権力と権威を互いに必要とした側面も内野に聖性を担保した理由の一つかと考えます。

武家は権力の証しとして、誰かから認証されないと正当性を宣言できない。ただ、自称しているだけでは大きな群雄の一つでしかない。伝統的な権威である天皇とその補完である公家の存在が必要となってくる。

そうすると、幕府も朝廷の取り仕切る諸儀式・朝廷儀礼に参加しなければならない。

そして、その儀礼をおこなう機関、聖性を司る官衙として、
神祇官、太政官、真言院、そして神泉苑が継続して残されました。
太政官-神祇官-真言院官衙
大内裏図、「平安京提要」より引用。

では、各官衙、苑がどのような機関だったのか、なぜ、残されたのか?
そのへんを探ってみたいと思います。

神祇官とは平安京の律令制で設けられた、朝廷の祭祀を司る官庁名のことを言います。五穀豊穣・収穫を祝う大嘗祭(新嘗祭)を始め祈年祭、鎮魂祭と多くの祀りを司りました。特に践祚大嘗祭は天皇が即位されるときだけ行われる祭祀で、同祭祀が為されない天皇は「半天皇」と言われたほど重要な儀式でした。窮乏した戦国時代には200年間ものあいだ行われなかったた時期もあります。後、各地方の官社を統括しました。
養老律令(古代日本の政治体制を規定する根本法令)の職員令には太政官よりも先、筆頭に記載されていることから行政のトップ・太政官よりも上位に位置したと思われます。この時代、祭祀がいかに重要視されたかがわかります。長官は神祇伯と呼ばれました。後世、公家の白川家が代々神祇王を名乗り神祇伯の職位が固定され、さらに江戸時代には吉田神道の吉田家が白川を凌駕する形で全国の神官の任命権を得るまでになりました。

ちなみに、神祇官の官庁は大内裏最後の建物として内野に天正13年(1585年)まで残っていたそうです。もう、驚きですね!。記事のタイトルも大げさではありません 笑。で、その翌年の天正14年(1586)、かの有名な聚楽第が秀吉によって内野に建てられ、ここに大内裏は完全に消滅した訳です。

あの織田信長でさえ手を付けなかった内野、それを秀吉は躊躇いもなく破壊したのですから、秀吉の方が伝統の破壊神だったかもしれません。豊臣家が滅んでしまったのも内野を破壊したから?と言えなくもないかも・・・です。
それはともかくとして神祇官は最後の最後まで大内裏に存在し踏ん張ったんですね。

太政官は神祇官が祭祀を司るのに対して政治・行政のトップ機関。左右の大臣の上に太政大臣として君臨しました。
行政以外にも、たとえば天皇が即位式を行う朝堂院での儀式次第を取り決めるなど、儀式全般の運営面での実務も担当しました。広い意味で儀式も政治に入りますからね。神祇官が祭司として祭祀に臨むのとはそこが違いますね。
太政大臣は明治維新まで公家の最高位として受け継がれました。ただ実質面では天皇を補佐する関白の方が位が高かったそうです。

大内裏に残る三つ目は真言院。
真言密教の修法道場。承和元年(834)空海の奏請により唐の青竜寺に倣って設置されました。
神祇官が八百万の神々を祀るのに対し、真言院の方は仏教の法力による国家鎮護を祈った場所です。

真言院図
久水俊和博士の論文「室町期の内野における存続官衙」より引用。


そして大内裏外のすぐ南にあったのが神泉苑。

神泉苑イメージ図
神泉苑のイメージ図。「よみがえる平安京 淡交社刊(CGはNHK)」より引用。

延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑でした。
規模は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園でした。
ここは天皇や廷臣の宴遊、花宴が催された遊興空間である一方、日照りに対して行われた雨乞い神事・法要。また、疫病のときにも鎮静を祈る御霊会が行われ、どちらかと言うと天地の神々に安寧を祈る野外舞台でした。
そんな神泉苑も、中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれてほとんど消滅しました。秀吉より遠慮気味かもしれませんが破壊神の一翼です。こうしてみると信長の方がよほど伝統を守り尊皇家であった、言えるのですが・・・どうなんでしょう? (その前に本能寺で暗殺されてしまった)

以上、ざっと官衙について書きましたが、これら残る官衙からわかってくるのは、
やはり朝廷・祭祀儀礼から帰結してくるその聖性、聖域化です。

内野と言われるとただ単に広大な空き地と思われるかもしれませんが、
たしかに上述した官衙以外の建物は消滅しましたが、大内裏を囲う大垣、筑地などの外郭設備は
保守・維持され郭内の空間、即ち大内裏の空間は守られていきました。都の人々や地方大名、とくに公家からは本源の地として
大事にされてきたのだと思います。

平安宮空撮
現在の京都市街に当てはめてみました。

神祇官の官舎はもちろん平安京のものではありませんが、応永29年(1422年)の頃のものと思われる建物の指図が当時の記録に残っています。室町時代、ここでなお祭祀が行われていた事を示します。応仁の乱の焼失後(1477年頃)も神祇官の空間の維持のため当時の有力大名であった大内氏による牛馬の飼育や伐採を禁じる禁令が度々出されるなど、聖域保護がなされています。天皇の祭祀の場として、やはり神聖視されていたのです。

室町期神祇官図応永29年-1422年
久水俊和博士の論文「室町期の内野における存続官衙」より引用。

鎌倉以後も寛正6年(1465年)の後土御門天皇までは即位式は大内裏の太政官の官庁で行われました。すでに大内裏の中心であった朝堂院は失われていたためです。
大内裏の内裏は建武3年(1336年)の火災後は里内裏であった土御門御所が内裏となり現在の京都御所まで
続いていますが、里内裏に移ってからなおも100年以上、即位式は里内裏ではなく、わざわざ内野の太政官庁で行われたのです。このことも大内裏が本来の即位式場である、という公家の考えが強いことを示しています。


応永32年(1425年)頃の官司図が残っており、それに基づく太政官庁の指図。
太政官庁図
久水俊和博士の論文「室町期の内野における存続官衙」より引用。

なお、太政官庁自体は応仁の乱で焼け、当時、同官庁で即位式を行おうとした後柏原天皇は20年待っても結局、再建・実現できず里内裏の土御門御所で明応9年(1500年)に即位式を行いました。それ以降は昭和天皇まで現在の京都御所で行われることになったのです。

真言院は天皇の安寧と国家護持を祈る場ですが、これも室町期まで機能しました。なぜ機能できたかと言うと空海ゆかりの東寺の管理下に保護されたからです。東寺は「東寺百合文書」という中世来の多くの古文書を残していますが、その文書にも室町期に真言院で度々修法が行われたことが記してあります。
しかし長禄4年(1460年)には建物が大破し、保護していた東寺も土一揆で寺が焼けるなどして再建するメドもたたず、代わりに御所の紫宸殿で行われましたが、その後は廃れました。

最後に神泉苑についてですが、
ここも室町期は東寺の管轄におかれ請雨経法が行われた祈雨道場として機能。また伏流水に恵まれた京都において、その湧き水の発祥地と目された聖域性もあり、芝原の保持と池の掃除を怠りなく行ったが、これも土一揆による東寺の焼失で半ば放置され復旧しがたい状況になりました。時の室町幕府も捨て置けず、せめて汚れてしまった苑を左京からは見えなくするため宝徳2年(1450年)守護大名に命じて東側の築地(塀)と門の修復を行っています。しかし、もうそれが限界でした。後は近世、徳川家康の二条城造営により苑の多くを消失。現在、僅かばかり残った池に弁財天が祀られています。

以上、室町期まで残った神祇官、太政官、真言院、神泉苑について小文を書きました。
紆余曲折ありましたが、近世に至るまで何らかの形で神聖視された内野の管理、幾何かの建物の修築と建立が行われた推移を書きました。

秀吉、家康が内野を完全に破壊し律令体制への懐古と神聖化を断ち切りました。そして秀吉、家康は権現様として新たな神になり明治維新まで続きました。


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