3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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何と公家屋敷の玄関先を撮った古写真があった!

久し振りに、京都府立京都学・歴彩館(京都府総合資料館から名称が変わりました)の所蔵する『京の記憶アーカイブ』を覗いてみたら新しく目にする御殿、公家屋敷関係の古写真があったので紹介がてら載せます。
すでに見られた方はパスしてください。
最近は国立国会図書館をはじめ各地の図書館・資料館で古文書の電子コレクション化が進みネットでも一部見られるようになりました。

では、まず、今回取り上げる屋敷の古写真の位置を航空写真上に示します。
航空写真(公家古写真位置図)
公家屋敷等の古写真を示す図。

例によって赤く囲った所が屋敷の古写真です。

上(北)の方から写真載せます。
同志社女学校-二条家
現在の同志社女子大学の前身・同志社女学校のあった旧二条家の屋敷門です。

門はいわゆる冠木門といわれるタイプですが、これがそのまま二条家の表門であったかどうかは不明です。門の後ろには番所風の建物が見えます。その奥には当時建てられた校舎が写っています。
塀が摂家の跡にしては簡素ですね。別角度から撮った写真が同志社女子大学のHPに載ってます。遠くに御殿も写っています。
京都御所は江戸時代6度の火災に見舞われていますが、江戸初期の万治四年(一六六一)一月の火災時は、時の関白二条光平邸が火元で内裏始め、仙洞御所、女院御所。それから公家屋敷も119棟、社寺、町屋も558軒焼けてます。火災後の復興では譲位した後西上皇の仙洞御所を建てるため二条家は現在の同志社女子大学の位置へ移転。、公家町の外へ出ました。口さがない人は二条家は「関白でありながら」火元になった、と半ば火事の責任を取らされる形で公家町の外へ追いやられた・・・とも言ってますがどうなんでしょう?確かに摂家で同公家町の外に屋敷を構えたのは二条家だけですけどね。

でも公家町の北の境って今の今出川通で正解なんでしょうか?明治10年の「大内保存事業」で現在の京都御苑の区画が定まりましたが、幕末には公家町外にたくさんの公家、そして宮家の邸宅がありました。

二条家の西、冷泉家を挟んで5軒目あたり徳大寺家邸がありました。ここは明治に入って華族會館の京都分館が置かれた所です。
旧華族会館分館門
華族會館の京都分館が置かれた徳大寺邸の門(正確には旧閑院宮邸の門)。

現在でも門だけ残っていますがさすがに旧宮家の門だけあって立派です。明治12年、同會館が徳大寺邸に定まったときに閑院宮邸からこの表門と玄関・車寄せが移築されています。
大正6年には大幅な増改築が行われ写真のような二階建ての豪壮な会館が出来上がります。
(当ブログの記事”霞会館京都支所のこと”でも取り上げていますので良かったら読んでみてください)。

同志社啓真館(旧華族会館)2
和風二階建ての華族會館。

二階には貴賓室があり天皇陛下はじめ皇族方の来臨にも対応できる仕様になってました。

そしてもう一枚の写真の大きな玄関・車寄せ!
同志社啓真館(旧華族会館)1
玄関・車寄せ。

さすがにこの車寄せは閑院宮邸から移築したものではなく上記大正6年の増改築時に新築したものと思われます。豪壮な入母屋の二階建ては330坪もあり、当時は目立ってたでしょうね。

戦後、同會館は同志社大学が譲り受け二階建て建屋は「啓真館」という名称で引き継がれました。ただ残念なことに昭和47年、図書館建設のため解体され今は残っていません。

話は変わりますが、ここ烏丸今出川の交差点の北東角は幕末、公家・竹内家の屋敷でした。で、その右隣が徳大寺邸。會館の立ち上げ時にも、増築時にも、交差点の手前から見た古写真にも竹内の「竹」も出てきませんけどどうなったんでしょう。道路の拡幅や會館の拡張で消えたのかな。なんか徳大寺家の影に隠れてかわいそうです。いくら半家といえども。

烏丸今出川の交差点から少し南に下がり、通りに接した屋敷が公家・石井家の屋敷です。
写っているのは玄関回りですね。


公家屋敷(石井家)
公家・石井家邸。玄関先から撮った公家屋敷は初めて見ました!

玄関の柱には雨どいが取り付けてあって、どう見ても明治に入ってから撮影されたものと思われます。
撮影者は石井行昌。そうです、石井家の当主です。行昌氏が生まれたのは1876年、明治9年です。ということは、この写真に写る玄関は同氏が成人してから撮ったものということですから、少なくとも明治30年を下ることはないかと・・・。京都御苑内ではなかったから残っていたんですね。

石井行昌氏がもうちょっと早く生まれていれば、カメラ好きの徳川慶喜や慶勝(尾張徳川家)さんに並ぶ公家カメラマンとして、もっと幕末維新の京都や公家屋敷を撮りまくり歴史に名を残したかも知れないのに、と残念がるのは私の勝手な早合点ですかね 苦笑。
でも、公家の邸内、玄関先から撮った古写真など一枚も見たことありません。建築史的な面からも、とても貴重な一枚だと思います(他にもどこかの蔵に残っているかも、多分)。

次は御苑の中に入ります。京都迎賓館の上、北あたりに幕末あった准后里御殿の古写真です。
京都府師範学校(准后里御殿)1
准后里御殿の古写真。

准后(じゅごう)とは、朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた方への称号名です。幕末だと誰が相当したのか? 皇女和宮様の妹にあたる淑子内親王も准后の称号を与えられましたが後に桂宮家を継いでいるので違う。想定できるのは、孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母(実母ではない)にあたる九条 夙子(くじょう あさこ)、英照皇太后様かな。江戸時代を通じて、典侍を頂点に御所の高位の女官は自分の屋敷・里御殿を拝領していました。公家町図にもたまに載っている「局」がそれにあたります。里帰りというか退職後の屋敷です。禄150石を賜る女官もいて公家も顔負けです。

もう一枚。
京都府師範学校(准后里御殿)2
准后里御殿の古写真 その弐。

准后里御殿は明治になってから 京都府師範学校として利用されそのため写真も残ったと思います。ただ、学校ですから結構改築されています。門廻りの塀はコンクリートかな?郵便ポストもあります。ホント、あっと言う間に面影は変わってしまうんですね。教室の窓あたりも薄っすら写っています。

最後は御所、公家町の南端、丸太町通を鴨川に進んだ川沿いにあった九条家の河原町御殿の古写真。
英学校及び女紅場-旧九条殿河原町邸
ここも明治初期、英学校及び女紅場(女子のための普通教育、職業訓練の女学校)として転用されたものです。写真で見ると二階建ての長屋と薬医門が見えます。長屋の窓ももう改造されてますね。お隣には近衛家の河原邸があって、近衛家の方の指図は持っていますが九条家のは持ってません。ですので、指図と見比べることが出来ないのが残念。

この鴨川沿いには多くの公家や宮家、藩邸そして下屋敷などが立ち並んでいましたが、不思議と同川の左岸(下流に沿って)にはほとんどありませんでした。右岸より左岸の方が位は上?なのに。やっぱり京童にとっては鴨川を渡ったら洛外ということで、みんな無理してでも洛中が良かったのかな。しかし、防火上の事を考えれば本宅はともかく別宅や下屋敷は洛外に置いた方がイザというときの避難場所にいいのでは?と思いますけどね。と、思いきや、あの江戸時代、京都を焼き尽くした天明の大火の火元は鴨川の東、東山だった!。燃え盛る紅蓮の炎は鴨川さえも防ぎきれない・・・ということか・・・。
今夜はこんなところで。



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NoTitle * by -
レインボー様
コメントありがとうございます。
出雲大社神殿の復元の記事でもコメント頂き、その節も励みになりました。ありがとうございます。
最近、記事を書く関係で内裏・公家町の絵図をもっと見たいと思い昨日、「新修 京都叢書 本巻23冊」を購入しました。まだ届いてませんけど。本には絵図集もあり慶応4年から明治にかけての流れがまた少しわかるかな、と楽しみにしています。また、公家屋敷指図の収集もしています。幾つか探しだしました。東京・立川の国文学研究資料館にも何点かありそうなので行く予定です。それでは、ごきげんよう、です。

公家の家、火災など * by レインボー
>不思議と同川の左岸(下流に沿って)にはほとんどありませんでした。右岸より左岸の方が位は上?なのに。やっぱり京童にとっては鴨川を渡ったら洛外ということで、みんな無理してでも洛中が良かったのかな。

〇記事と写真、興味深く拝見しました
 公家の家、昔の屋敷を思い出させる写真でした。
 また、火災などいろいろと面白い考察でした。
 草々

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レインボー様
コメントありがとうございます。
出雲大社神殿の復元の記事でもコメント頂き、その節も励みになりました。ありがとうございます。
最近、記事を書く関係で内裏・公家町の絵図をもっと見たいと思い昨日、「新修 京都叢書 本巻23冊」を購入しました。まだ届いてませんけど。本には絵図集もあり慶応4年から明治にかけての流れがまた少しわかるかな、と楽しみにしています。また、公家屋敷指図の収集もしています。幾つか探しだしました。東京・立川の国文学研究資料館にも何点かありそうなので行く予定です。それでは、ごきげんよう、です。
2018-02-14 * [ 編集 ]

公家の家、火災など

>不思議と同川の左岸(下流に沿って)にはほとんどありませんでした。右岸より左岸の方が位は上?なのに。やっぱり京童にとっては鴨川を渡ったら洛外ということで、みんな無理してでも洛中が良かったのかな。

〇記事と写真、興味深く拝見しました
 公家の家、昔の屋敷を思い出させる写真でした。
 また、火災などいろいろと面白い考察でした。
 草々
2018-02-13 * レインボー [ 編集 ]