3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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畳考

まずは3D制作現場から、
今、制作中の楼閣3Dですけど屋根が一揃いできました。一口に屋根と言っても入母屋や切妻、方形、唐破風、千鳥派風、むくり屋根とフタを開けたら15パターンもの屋根ができました。単体の楼閣だからと甘く考えていたのは間違いでした。この楼閣、かなり複雑な外観をしていて完成したら「一ひねり考えた記事名」にしようと思っています、なんか、「あぁ、あの楼閣かぁ」と多分わかってみえるかなぁ、と思ってますけどね 笑。何度も書いてますが日本建築は屋根が大事、ここが上手くできれば3Dもそれなりに納まる。ということで屋根が終わってふぅーと一息です。

「たまに短歌」の久しぶりの更新です。

★ 競い馬 祭りの後の 静けさは 白い砂地に ただ旋風の巻く


yabusame小
出典:砥鹿神社HPより

5月の連休、とある神社でお祭りがあり、毎年呼び物の流鏑馬神事がありました。装束に身を包んだ少年たちが五色の布引きを両手に持ち、馬場を疾走して行きました。疾風に揺らめき流れる五色の布引が鮮やかです。

そんな鮮やかな祭りなのに何でこんな旋風(つむじ)の歌になってしまった・・・。僕はこう答える、「華やぎの後だから、大勢の観衆が去ったあとだから、その余韻が心地よい。馬場の砂地には、まだその余熱が残っている」と。鳥居を潜ったらそこで余韻は立ち去り、喧噪な連休明けが待っている。

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「畳考」と言っても特に論文のようなものがあるわけではありません。
ただ、畳の立場が気になって駄文ですが書きたくなったのです。

「なぜ西洋の文化はかっこよく、日本の文化はダサいのか?」
そんな嘆きをたまに聞いたりする。そして、その中に畳もあったりする。考えてみれば西洋文化と言っても正確に言うと、ローマ帝国の古代地中海世界の公用語であったラテン語のその系譜を引く西洋諸国たち。隣国同士が切磋琢磨して文明・文化を磨いていく地域圏、それに対して日本文化は一国、多勢に無勢でちょっとアンフェアだ。絵画だったらフランス、音楽だったらドイツ、という風にそれぞれ得意分野で迫られたら日本もたいへん。

確かに身長、足の長さでは負ける。だから日本の文化はダサい? そんなことはない。日本の持つ独自な感性の文化は世界に誇っていいものだ。ただ、そうは思っても、私のような「日本大好き」人間でも「確かにダサい面あるよなぁ」と思うのも事実。その根拠は? 書き出したら収拾がつかなくなるから、今回は畳に絞って書く。

今でも田舎の家は南玄関に面して八畳二間の床の間付の座敷、さらに仏事・人寄せのため北西の八畳もあったりする。田の字型の家で家族がくつろぐ部屋は北東よりの一間だけ。一番、日当たりのよい南面の二間を客用に使う。しかも使うのはごくたま。お客様、親戚筋第一主義だ。それでは不合理ではないか? 無駄だろう? という最近の気風になって、座敷はフローリングのリビングに変わった。畳は申し訳程度に六畳一間があるかリビングにちょこんと畳スペースがあったりするだけ。どうせなら、畳なんかやめたら?と言いたくもなるけど、そこは日本人、捨てきれないのだ。来客が来たとき客間に使える。やっぱり畳のイグサの香は気持ちいい、とにかく何でも使える便利な多目的スペース、家に一か所はあると都合がいいということか。裏を返せば、畳の部屋は基本、畳だけなのであまり家具とか置かない。椅子も机もソファーもないから寝室にもなる。それは、ある意味で没個性的でもある。ちょうど風呂敷も同じ、決まった形はなく包む品に応じて変化する、使わないときは折りたためば軽くポケットに入ってしまう便利さ、融通加減。しかし、バックのような形の華やかさはないのでもっぱら洋装の現代ではあまり使わない。だが、一見、地味に、ダサく見える風呂敷も、その布地や結び目の凝り方次第で贈答品にもなる芸術性も持ち合わせる。いわば持つ人の感性、センスに頼るところがある。箸もそうだ、洋食ならフォークにナイフと用途分けによる多彩な食器が食卓を飾る。しかし、箸はそれ一つだけで何でも食べられる。便利この上ない。だが、洋食器のようなデコレーション的な飾る楽しみは少ない。しかし拘りのある粋人は形よりも螺鈿細工のような高度な細工美を箸に求めたりもする。風呂敷も箸も形という形はない。強いて言うならば素形だと思う。だから形よりも、よりシンプルで用途の多様性に応じて可変できる面を選択したのかもしれない。

畳もそのような存在だ。
実は畳には、相性のよい家具や置物、装飾品は少ない。和家具させ隅にちょこんと遠慮がちに置くだけ。畳の上には何も置かない。ただ人間だけがそこに座る。何もない真っ新な畳表が畳の真骨頂だ。だから、ここも洋室のような様々な机や椅子、飾り物でデコレーションする面白み、華やかさはない。従って、洋風の生活にすっかりハマった現代日本人にすれば畳の和室、座敷は飾りっ気のないダサいものに思ってしまう。和室には金属やプラスチック、皮系の物も似合わない。似合うのは木質、漆器、紙だ。いずれも植物系だ。絵はどこに飾る?床の間の掛け軸のみ?襖の絵は絵ではない? というか最近はどんどん無地な襖になっている。額縁に飾ってあるのが絵? 床の間は座敷には必須の室礼だ。でも座敷の様式美が完成されすぎていて山水画や書は掛け軸にしか飾れない。生け花も床の間。ただ、ひたすら畳だけが広がっているシンプルな空間。まるで禅問答の場のようだ。

今のような室内に全面、畳を敷き詰めるようになったのは室町時代。いわゆる書院造の発生だ。書院造はその後の現代に至るまで日本座敷の規範とされ様式が崩れることはなかった。実は日本人の正座の座り方もこの書院造とともに広がっていった。現代人にとって正座は苦痛だ。座敷だとどうしても正座する機会が増える。昔の人は痛くなかったのだろうか?いや昔だって痛かったと思う。ただ昔の畳は今よりも柔らかったようだ。畳の発達とともにもう一つ忘れてはいけないのが、人の所作、礼法だ。これも正座という一種、緊張状態のなかで生まれた作法。おそらく私たちが思っている以上に洗練された身のこなしだったようだ。不自由の美学。正座の痛みはこんな側面もある気がする。

一見、面白みに欠けるような畳の世界。
でも、それが一瞬、京都にテレポートしたとき、畳の世界から眺める和風庭園の静寂と心地よさ。この郷愁にも似た心の安らぎはどこからくるのだろう?畳がなかったら? やはり寂しいだろうなぁ・・・。日本人のフォーマルさとは何だろう?成人の日の女性の華やかな着物、七五三、結婚披露宴での和装のお色直し、最近増えている卒業式袴。結局は日本人のここ一番のフォーマルさとは和装なのかなと思い、その和装が一番似合うのもまた畳の世界なのだな、と改めて思う。

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