3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 > 2019年07月

京都御所第一期3Dプロジェクトが完了、紫宸殿から飛香舎まで渡り廊下で繋がりました!

本題に入る前に一言。何気にトータル記事数を見ましたら400記事になってました。途中、サボったりしましたが何とか400を超えることができました。読者の方のコメントや励まし、応援を頂いたからこそ続けてくることが出来たと感謝しております。ブログの人気ページランキングを見ますと、いつも上位に位置している記事を見かけます。きっと、その記事を評価する方々が順位が下がらないよう、いつもクリックして頂いているからだと思...

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No Subject * by 京一朗
大原様 コメントありがとうございます。

激励の一文とても励みになります。自分で言うのも何ですが、こうして渡り廊下で結ばれると改めて御所の美しさを感じます。江戸時代だけでも8度の火災にあってますが、その都度、類焼の恐れがあっても渡り廊下で繋いできました。帝が土を踏まれずに御所を渡られる為とも思いますが、結果的にそれが御所の美しさに反映されていると思います。
これからもコツコツと3D作りに励みます。



No Subject * by 京一朗
五反田猫様
南禅寺勅使門のこと教えて頂きありがとうございます。
さっそく写真を拝見しましたが、品格があって立派な四脚門ですね。さすが御所から拝領した門です。明正天皇からどのような経緯で拝領されたものかわかりませんがこうして寛永期の御所の建物が残っているのは喜ばしいですね。

No Subject * by 大原かずのり
400突破、そして渡り廊下の繋がり、おめでとうございます❗
3Dでコツコツ、実に頭が下がりますね。

ブログを続けるのは実に大変だなあと、私のような稚拙ブログですら思いますが、これほどの3Dを駆使した貴ブログなら、一体どれだけ大変かと思います。しかしそのお陰様で、私は楽しませて頂いております。

今後の活躍、そして500目指して頑張って下さいね(^^)

日御門 * by 五反田猫
京一朗さん
詳しいお話しを有難うございます。

建春門になったのは、安政度御所からなのですね。
門院号があるから、つい昔からあったように勘違いしてしまいますが、それ以前は日御門だったのですね。ご教示有難うございました。
それならば、南禅寺勅使門として残っております。 門には「禁中日御門拝領 寛永第十八歳舎 辛己 九月如意珠日建立 住持比丘元良誌焉」
とあります。

こちらは唐破風はありませんので、後についたのですね。
http://www.nanzen.net/keidai_chyokushimon.html


追記 * by 京一朗
五反田猫様

日御門は幕末の安政度の御所から建春門と呼ばれるようになったとも。それと公家が通用門にした日御門脇の穴門は「日御門代」でした”代”が抜けてました。失礼しました。機会があれば、各御門の使用勝手について教えてください。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

ご指摘の建春門ですが、確認しましたら、近世では皇后が出入りされた門と書かれています。節会など重要な時だけ大臣、公家の参内が許されたとか。は北の遡平門は女御など高貴ま女性が出入りしたとか。宣秋門は公家の通用門で摂政、関白、宮、大臣が出入りし、一方で建春門は有職故実の大家・裏松固禅の考証ではまだ日御門と呼ばれ、その日御門の脇に設けられた穴門(日御門)が公家たちの通用門だったと書かれています。なんだか分からなくなってきました。儀式用とか日常用とか分れていたのでしょう?
将軍が建春門から入ったとは以前読んだ本の聞きかじりです上皇もここと書いてありましたがどうなんでしょう?唐門は武家にとつては一番格式ある門なのでココを通ったと思ってました。ここだと内侍所を通るのでホントにここかなぁ、とも思いました。

五反田猫さんご指摘のように施薬院は清め衣冠に装束を替える所ですからわざわざ建春門から入る必要もないですね。いろんな本をみて混乱、間違ってました。すみません、記事、訂正します。

武家ルート? * by 五反田猫
いつも興味深い記事を有難うございます。
何と400記事とは素晴らしいアーカイブです。

本旨と関係ない部分ツッコミで恐縮ですが、疑問がありご教示頂けると嬉しいです。

江戸の御所の参内は、公家衆は西側の宣秋門より入り、御車寄より建物に入ったと思います。
所司代や高家なども、西側に武家玄関がある事から、同様とおもいます。(諸役や出入り業者は清所門)

記事には将軍は建春門より入るとありますが、この場所は東側ですよね、
ここから入ると、建物にはどこから入るのでしょうか? 
徳川家茂が230年ぶりに参内した時には、中立売門脇の施薬院に入り、単の衣冠に装束を替え、宣秋門より入り、武家玄関?より建物へ入り、麝香間で控え、小御所にてご対面のようです。
それ以前で参内したのは、家康、秀忠、家光のみ。 この時のお話しで、当時の御所の構造は全く異なり、建春門入った辺りに将軍用の玄関や建物があったのでしょうか?


No Subject * by 京一朗
Hakka 様コメントありがとうございます。
ご丁寧に祝辞も頂きとても励まされます。

非公開にした記事や下書きのまま残しているものも含めれば430記事ほどあります。

拙い記事ですが3Dで御所や他の建物を再現する過程で得た知識や自分なりの発見もあります。これらのことも参考にしてより納得できる京都の3Dを作っていきたいと思います。500記事まて達したらひょっとして読み継がれていくレベルになるかも、と思ったりしてます。ただ、fc2が消えてしまったらおじゃんですけど・・・。歴史ブログの大御所”しばやん”さんのようにWordPressの立ち上げも一つの手と思いますが、今はそれ以前のレベルなので、とにかく500記事達成に向けマイペースでやっていきます。

ところで、今朝は、地元の神社の祭礼の関係で山の上でのお籠り当番から帰ってきました。徹夜で太鼓を叩いたり酒のんだりお餅を配ったりし夜露に濡れたりとぐったりです。また8年後にあります。でも、長老から白狐に出会った昔話や伝説、知らなかったことなど聞かされそれなりに楽しくもありました。こういう昔話も段々と消えていのくでしょうね。

No Subject * by Hakka
こんばんは。

戦前の住宅などで廊下の内部が畳敷と板敷で分かれているのはたまに見ますが、屋根の葺き方が左右で違うというのは、城や寺社を含め見た記憶がありません。さすが御所ですね。

3D第一期終了と400記事達成おめでとうございます。京一朗さんの記事は毎回内容がとても濃くて、勉強になります。このボリュームで400記事は真似できません。500記事達成まで、頑張って下さい。