3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 > 2018年09月

京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(一)

これが ↓これに ↓なりました。記事、嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編で描き添えました典侍等高級女官の住居(長局)である東西の「対屋」ですが、現京都御所には遺構は存在しません。明治維新後解体されました。ただ、一部の室、古材、及び襖絵が泉涌寺に移築されている、との事ですが、非公開なので確認することはできません。移築後の改造もあって、全体としての対屋がどのような建物だったのかは不明です。そこで無謀...

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NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

本瓦だったら、檜皮葺の次かもしれませんね。でも完成した名古屋城本丸御殿の屋根は杮葺きですね。戦災で焼ける前は本瓦でしたから創建時に戻ったということですけど、だと、やっぱり、杮葺きの方が格上?よく、わかりませんね。

東西の対屋には下家の北側に計四カ所の玄関があります。たとえば西対屋だと西端の玄関は「大御乳人(命婦の序列二位の女官)」が使用しました。東端の玄関は典侍が使用、という風にある程度身分に応じて使い分けされていました。

屋根の葺き方 * by 五反田猫
京一朗さん、いつも興味深い記事を有難うございます。

なるほど、木皮による葺きかたでも格の違いがあるのですね。
瓦が下というのも、故実が重視されてきた結果でしょうか。
防火の意味では、当然に瓦が良いのですが、せっかく瓦にしてもお隣が瓦でないと、結局 延焼するのでしょうね。

3Dを拝見して気になったのが、追加された建物の東西に飛び出た部分。 これは玄関なのでしょうか?
平面図を見ると東西両方についています。 こういう構造は面白いですね。

パパはSNS

久し振りに眼科に寄った。最近、ドライアイが少しキツくて頭痛もする。相変わらず、患者さんで混んでいる。その中に、一組の親子がいた。それが何なの?と言われれば、ごく当たりの待合風景。気になったのは父親と一緒だったこと。他の親子はみなお母さんが付いている。小学三年生ぐらいの女の子かな。盛んに父の肩に顔をスリスリしたり、腕を掴んでブランコを漕いだり、父の膝に頬杖したり、とにかく落ち着きがない。父親はただ雑...

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嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編

後編では大奥からサヨナラして御所の後宮へいよいよ入っていきます。せっかくですから、前編に載せた東西の対屋の間取りを御所に当てはめてみます。内裏と東西対屋の俯瞰パース。何から書こうかな、ってとこなんですが、男性諸氏が「ハーレムかぁ、美女に囲まれて羨ましいなぁ」などと思ったらご法度!とんでもない間違いですからね。とくに日本の後宮は真面目ですから何より次代の帝をお産みなさることが一番の目的です。ですから...

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NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。

源氏物語ですけどね、平安王朝の家具・調度品を作る予定なんですよ。なかなか進まないですけどね・・・、清涼殿に家具を設えたら「京都御所の御殿へ上がってみよう!」っみたいな動画作ってYouTubeにアップする計画なんですが年内にできるかなぁ・・・? まだ遠き道程ですよ。ところで今、はむこたんサンは今、どこを旅してみえるのかな?
では、おやすみなさい。

NoTitle * by はむこたん
頭の中で、源氏物語を思い出しながら
楽しませていただいてます。
命婦って名前かと思っていたら、女官の位なのですね。
初めて知りました・・・。

NoTitle * by 京一朗
雪乃様
コメントありがとうございます。

朝、そうそうpcを開いたら、ご丁寧に返信を頂き、今日も幸先よき一日になりそうです。過分なお褒めを頂き恥ずかしい限りです。ゲホとモゴの会話、創作頑張ってくださいね。折々、立ち読みしますね 。

訪問頂きました * by 雪乃
訪問頂きありがとうございます。
素晴らしいブログですね☆
京都を深く知ることが出来そうです。
お時間の許します歳にまたお立ち寄り頂ければ嬉しいです。

嫉妬を生まない御所の後宮システム 前編

そもそも、御所後宮の皇后御常御殿と寝殿造の古制を最も残す飛香舎の3Dを作ろうと思って古い指図や資料を集めさぁスタンバイって思ったのもつかの間、考えてみたら、内裏の女官の数って何人ぐらいいたのかなぁ?江戸城の大奥の制度と御所の後宮とどんな違いがあるのか、とか、いろんな?が湧いてきて、収拾がつかず、取り敢えず自分なりに理解したことを先に書こうと思って記事にしました。タイトル「嫉妬を生まない御所の後宮シス...

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女官の知行地 * by 五反田猫
京一朗さん ご教示有難うございます。
上級女官、実際に知行地なのですね。
となると200石でも、五公五民でも手取りは100石ですね。それでも立派です。

江戸の宮廷は、下級公家は家禄だけでは食えないので、兄弟で複数出仕も多いです。 そうなると役職給があります。
これが結構、蔵米支給が多いので、女官も同じだと勘違いしておりました。 有難うございます。

>東豎子
時代まつりでも再現されていたと思います。
男装の女性が騎乗するんで、現代女性にも人気です。

枕草子では、清少納言に「えせもののところ得る折」(151段)と、思い切りけなされております。
その他にも、「元三の薬子」正月三日に屠蘇の毒見をする女官
「御前の試みの夜の御髪上」五節の舞姫の髪結役
「節会の御まかなひの采女」など、結構 宮中の女官や役について、酷い言われ様ですね。
多分、身分が低いのに、そういう時だけは役目柄 偉い人にも指示が出来るのが、清少納言には面白くなかったのでしょうね。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様

東豎子(あずまわらわ・東嬬)調べました!
男装の女官なんて、朝廷も粋なことしてますね 笑。
見てみたいですよ。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

典侍、掌侍の知行の件ですが実際に領地を持っていました。高橋 博著「近世の朝廷と女官制度」によれば、たとえば、明和六年、大典侍柳原忠子の場合、山城国乙訓郡海印寺58石、同今里村62石、同紀伊群稲荷村に77石、同深草村に16石の計213石の領地がありました。ただ、管理は禁裏役人がしていたと思いますが。

あの大原卿が稚児! 俄に・・・というところですが小さいときは可愛かったんですかね 笑。

東豎子?調べています。

では、よろしく確認ください。

NoTitle * by 五反田猫
京一朗さん
帝の動線は、このように推察できるのですね。
現在の御所の姿からは、このような経路は全く思いもつかないので、大変参考になりました。
女官の表もとても良く整理できていて、分かり易いです。

一点 ご教示頂きたいのですが、女官の知行とお書きになっていますが、これは俸禄ではなく、領地のある知行なのでしょうか? 江戸の宮廷では男子の役職は、知行地ではなく、俸禄の支給、実際は米切手のようなもので、幕府の蔵から引き出したと記憶しています。 誤解でしたら済みません。

御稚児さんまで出して頂きました。
例の髭のガンコ爺さん(重徳卿)も、昔は光格天皇の御稚児さんをしておりました。 子供の頃はあんな恰好だったのですね。
せっかく御稚児さんが出たのですから、幕末に復興された東豎子(あずまわらわ・東嬬)も入れて上げて下さい。
御幸の時しか出番がありませんが、これも特殊な役ですよね。

NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。

嫉妬ですけど、記事のタイトル変な題にしてしまいました・・・

私の考えですけど、徳川将軍の大奥と比べれば御所の後宮の方が嫉妬少ないと思いますよ。

まったくないのも寂しいし、有り過ぎても疲れるしホドホドがいいですよね。
私はもう嫉妬を忘れてしまいました 笑。

NoTitle * by はむこたん
こんにちは~。

大奥の女性たちの嫉妬、すごく気になります。
3番手・4番手以降であれば、カヤの外的に気長に構えられそうですけど
正妻や2番手だと負けたくなくて、ライバル心が出てきそうな気がしちゃいます。

見果てぬ夢 岩倉具視と一枚の肖像写真

今回、岩倉具視のことを書こうと思ったのは、京都御所の3Dを作る過程のなかで、京都御所が今日まで残ったのには、岩倉具視による熱心な保存事業があったからこそ。という事実を知ったからです。経緯は明治天皇が京都を行幸されたとき、御所の傷みを憂い、保存を命じましたが、それを中心となって進めたのが岩倉公でした。当時は西欧化に追い着き追い越せ、という気風のなかで日本の伝統的なものが軽視されました。御所でさえ、桑畑...

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NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

後宮の記事にコメント頂いたのに何か岩倉公の記事に付いてしまい失礼しました。ブログのスタイルシートの記事№の更新を忘れてました。

帝の御常御殿の御寝所ですけど、襖12面に虎の絵が描かれて怖いですよね。不届き者から帝をお守りする絵ですけど、女官も怖がるかもです。

NoTitle * by 五反田猫
京一朗さん 建築から見た比較というのは面白い観点ですね。 今まで宮廷の後宮についての論文もありますが、文学関連が多いので、新しい見方で楽しみです。

全編の図面をみて感じるのは、江戸の居住環境は貧しいですね。
急成長の都市では宿命なのですが、庶民は六畳一間に家族が住んでいるのですから、大奥でも似たようなものですね。
その点 御所では和歌を詠むには自然が必要で...壺は大事ですよね。

後半を楽しみにしております。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。
伊勢にお参りすると、神域の厳かさと御神楽の音曲・舞に感激しますが、明治の日本、国家神道の導入、過激過ぎたかな。現在、信仰の自由の見地から公の機関が神社に地鎮祭をお願いしたりすると、左派の人たちから「憲法違反、信仰の自由を守れ!」とか声が出ますが、これも過激過ぎると思います。日本はやはり神道と仏教をベースに続いてきたのですから、この宗教風土を行政サイドでも大切にするのは大事だと思います。日本においての信仰の自由とは、その神道・仏教を風土のベースにしながら、一方で他宗教も自由に認める寛容さ。そのバランスが必要だと思います。何でも反対ではダメだと思います。

廃仏毀釈 * by 五反田猫
今でも海外で国宝級の仏像がオークションに出て話題になりますが、これらの殆どは、その時に流出したものですね。
大規模なものは、八幡、熊野、愛宕、厳島、諏訪など、明治以前は寺が主体だったものや、神仏習合だったものを、神社にするんだと塔や堂宇を毀った時に中にあったものです。
影響を受けたのは仏教だけでなく、伊勢講などは、伊勢神宮を天皇家の神社にする為に廃止、御師達は神宮神職になるか廃業の二択を迫られました。

明治維新の文明開化は西洋知識だけでなく、外来ではなく日本固有の神道への宗教革命でもありました。 キリスト教に対抗できる日本の国教を作ろうと壮大な構想のもとに、神祇官が復興、これは教部省となり、最後は内務省社寺局へとスケールダウンしました。 結局、国家が宗教に手を出して成功した例は少ないですから、日本でも同じでした。
江戸時代まで天皇家も公家も仏教の信徒でしたし、伝統仏教には、それだけの伝統の積み重ねとノウハウがあったのですね。 結局 信仰の問題は、心の中のものですしね。

明治の宗教改革は、調べているので、つい熱くなってしましました。
 

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

明治維新で神仏分離令が出され、政府の意図を越えて廃仏毀釈が燎原之火のごとく全国に飛び火しましたが、あれは何だったんでょうか?

自分だったら、ご先祖様の位牌が眠る代々の菩提寺の仏様やお堂を壊すなど考えられません。ご先祖様が泣いているゾ、とは思わなかったのでしょうか?

それとも檀信徒の反感を買うほどお寺の檀家制度は腐敗していたのでしょうか?

それとも、神官たちが仏僧の上に位しようと煽動したのでしょうか?
それとも、維新に乗り遅れまいと、個々の人たちが暴走したのでしょうか?
日本らしくもっと宗教に寛容なはずが、維新は人の心まで変えてしまったのでしょうか?

先の大戦で、あれほど鬼畜米兵と言っていたのにイザ負ければ掌返しに戦前は軍国主義の悪い国だったと競って言い合うなど、何か情けないですね。
また、愚痴でした。すみません。
台風気を付けてください。

NoTitle * by 五反田猫
尊敬する岩倉公の事を取り上げて頂き、有難うございます。
この人の先進性は、王政復古といいつつ、旧来の公家社会の問題点を理解し、排除した事とおもいます。
すでにお書きになっているように、摂家による二重支配「門流」の廃止。 そして臣下による摂政と、関白の廃止。

これにより、天皇の元に臣下が働く体制、ここに四民平等が加われば、立派な近代的国家の基礎が出来ました。
今の大河ドラマでは、何とも怪しいオッサンで、金に汚いように描かれていますが、多分 明確なビジョンは持っていたと思います。 それだけに、維新後の京都の凋落や、公家文化の衰退には心を痛めていたようですね。

多くの人々が「文明開化」の名の元に、古いものを捨て、新しいものを求めてゆく中で、失ってはいけないものに目を向けていたのは、やはり素晴らしいと思います。