先日、小さな湖畔を二人の老いた男女が肩を寄せ合い散策していた。時に女性が顔を相手の肩に傾けどう見ても恋人同士にしか見えなかった。その老婦人は実は知っている人だった。ある社長夫人で、社長にも愛人がいて夫婦ともども愛人と暮らしている。別居で双方いるならそれはそれで揉めるわけじゃないし、不倫どうのこうのは別にして本人たちの生き方に文句を言う筋合いはない。御婦人は幸せそうだった。本当に乙女のように男に寄り...
御所の陣座が出来ました。と、陣座、陣座とばかり言っていても銀座と言いかねないので、要は陣座とは詰所、待合室のことなので今風に「京都御所待合物語」としました。物語といっても特にないですけど、書いていくうちにひょっこり出てくるかもです。さて、まずは今回作った陣座、宮人座、床子座についてその建物位置を示します。陣座、宮人座、床子座の位置図。ここのスペースはまさしく紫宸殿南庭で行われる諸儀式の控室・待機室...
陣座の疑問はもう解けたでしょうか? 万が一の為に書いておきます。一応宣陽殿の議所は叙位・除目の会議の為の部屋みたいです。親王宣下・改元といった重要度のある陣座よりは一段下がるみたいです。やはり倉庫だからでしょうか?
建物って歴史学の中ではマイナーですけど、名称の語源とかにもなって何気に重要なんだなとこのブログを見るたびに感じます。例えば『陛下』というのは「宮殿の階段の下」が語源、『殿下』は「殿舎の階下」、『殿上人』も清涼殿の殿上間由来、つくづく歴史とは建造物とともに歩んでいるんだなとこのブログを見て実感しています。
そう考えると先立つ物が無い、という理由で日本の顔にして重要でもある大内裏再建を諦めたというのは残念な気持ちにさせられますね。とくに朝廷に仕える公卿にしても、例えば鎌倉時代では 西園寺家 は一国に匹敵する富を持っているとまで言われた家でしたが、自分の為だけに使って公の為に何一つしなかったのは残念ですね。
最近南北朝に凝っていてちょくちょく調べていたから分かりますが、鎌倉後期から室町は時代が安定しなかったので幕府が再建できなかったのはやむを得なかったでしょうね。
香道の事ですが、香道では「嗅ぐ」ではなく「聞く」ですね。「香りを聞く」という表現が適切です。香道の基本はこの『聞香』(ぶんこう)ですね。まああとは「六国五味」(りっこくごみ)とか、「銘香」と「名香」とか基本的な事を抑えておけばそれなりに話がしやすいです(汗)
あと流派の違いとしては、『志野流』は沈香だけ、『三条西流』は沈香以外も使用するって所も抑えておいても良いかもしれません。
今、御所の陣座という建物を3Dで作ってます。そんなにかからないかな、とタカをくくっていたら、屋根に少々手こずってます。屋根の形状がアンバランスなんですね。和風建築の命は「屋根」の表現力なので、木子文庫の指図、一部・立面図を参考に作ってますが、他の建物との寸法合わせや立面図も一方向だけなので、御所で写した写真や写真集などの本とか見て作ってます。ここをこうすればヨカッタなぁ、とか、もっとスピードアップし...
名古屋の香道、調べました。
蜂谷家(志野流)ですよね。土岐源氏の流れを汲む方ですかね。香道というと三条西さんぐらいしか思い浮かばず、takaさんの博識には毎度頭があがりません。
香道の流派ですが聞いてみます。
自分は鼻の感覚が鈍いので実際嗅いでみたらどんな香なのか想像もできません。ましては嗅ぎ分けるとか。そもそも、「嗅ぐ」という字でいいのかもわかりません。
線香の香に似てるのかな?
いろいろと教えて頂いてありがとうございます。
私自身大変気に入らないですが、それでも認めなければならない部分があります。
それは、日本は中国文化の影響があったからこそ日本の文化の基礎があるという事です。
しかし中国文化について、日本は独自のセンスで取捨選択をしてきたという事実は非常に大きいです。
代表的なのが専門分野でお解りと思いますが、五反田さん も仰られているように 誌の規制ですね。漢誌の絶句・律詩の様な決まりはあれど比較的自由な誌というものは排除され、独自の発展を築きあげています。まあ怨霊信仰の面から、慰霊の為に必死に和歌の文化を築きあげたとも言えますが。
このように日本は江戸時代以前までは、そういう自由と規制、そして外国文化の適切な取捨選択が出来ていたという点が尊敬に値すると思います。
それと座、ですが、戦国江戸時代の女性は胡坐というよりは片膝を立てる座り方が正式みたいですね。確かに胡坐もあったんでしょうが、北政所浅野ねねを始めあの当時の肖像がのほとんどがそれみたいですね。
江戸時代までの日本を学ぶと、現在もてはやされている日本文化というのはほとんどが江戸文化であるとつくづく実感しますね。「髭は闘争心を高めるので禁止」「平和な世界にすぐ立ち上がることが出来るような胡坐はいらない。正座にしろ」、北朝鮮式統治機構の江戸時代はある意味自由さを欠いた時代と言えるかも知れませんね。
話は変りますが、五反田さん の香道はどの流派なんでしょう?
非常に興味あります。
梅村さん は愛知県でしたよね? 名古屋には武家香道の家元が居住していますよ。歴史の連続性では一番長く続いているはずです。
コメントありがとうございます。
私は不器用で「お題を決めるから短歌を作れ」と言われてもできません・・・。何か心に感じるものがあって初めて心情を歌に託す、といった風ですね。平安の歌合せとか、百人一首のカルタと一緒で「何々~」と言うと、すぐさま俊成卿から習った古今和歌集から下の句を扇子で口を隠しながら応えるとか、そんな返歌できませんから、やっぱり平安時代に生まれていたら落第生ですね 笑。
雅楽は伊勢神宮の御神楽が素晴らしいですね。
人長舞というのだそうですけど、検非違使の装束の舞人が舞うのはいいですね。倭舞も。
香道はお線香で代用してます??
足裏胡坐できるよう鍛えねば。
では、今夜はごきげんよう
胡座は、雅楽やお香でも基本姿勢です。
私の習っている御家流ですと、本香を焚き始めると足を崩せるので、胡座で楽にさせて頂きます。
しかし、若い人には出来ない人が多く、足の角度が45度以上(両方で直角)、男よりも柔軟性が高い女性でも出来ない人が増えてきました。 畳の生活が無く、椅子が主体だと股関節を使いませんので、当然の事なのかもしれません。
大阪北部の地震では五人の死者と300人を超える方が怪我をされ、またインフラや建物被害も発生し、心よりお見舞い、お悼み申し上げます。こちら愛知県でも微かに揺れを感じました。阪神淡路大震災のときも同様揺れました。今回のよりも揺れた記憶があります。自分の住んでいる地域では小さな揺れでも、離れた震源地では大変なことになっている。阪神・淡路大震災以来そう強く感じるようになりました。幸いといったら申し訳ないです...
自/さつとはなんだろう? と考えた時、自/さつというのは自分をこ/ろす事と、自分が死ぬと分かって周りの為に行動する事、この二つの意味が含まれていると思います。
前者は文字通りの現代の自/さつ、後者は梅村さんが取り上げられた例ですね。例えば戦国期の浄土真宗の一向一揆、これは庶民一人一人は死ぬと分かっていて行動した事ですが、彼等の教えでは極楽浄土に行っています。明治の志士達、彼等は幕府にたてつけばどうなるか? は分かっていたはず。それでも彼等は立ち上がり、亡くなられた方も大勢いました。そして先の両大戦、しかし彼等はしっかりと靖国に祀られております。賊軍となった西郷公以外はですが。
イスラムの聖.戦も後者に分類されます。こういうと「聖/戦は文化ではない」という人も居るでしょうが、過去にも彼等なりの大義の為に命をかけた「アサシン教団」も居ました。シリアの二ザール派が起源と言われていますが。聖書のキリストも、見方によればあれは自分は確実に処刑される事が分かっているので自殺と見てもおかしくはありません。
こう見ると、神の差異等は関係なく、大義の為に命を掛ける物には必ず救いの道があると思いますよ。
大阪はかなりゆれて結構大変でした。ですがその後大変なのは、物が軒並み無くなっているという事です。私自身は市内南部が現在の住まいですが、知人が震源近くに居て実際に行きましたがマスコミ関係で普段より人が多い感じがしました。
個人的にはいささか憤慨している事があります。まず当該地区選出の野党の某議員こんな大変な中いくらスケジュール通りだからといって、地震脇役、そっちのけで「モリカケ問題」しか取り上げないってどういう神経なんでしょうか? 安倍首相 さえ倒せば、国民がどれだけ困ろうと何人死のうとどうでも良いという意思表示なのか? と思います。
それとマスコミ関係の方は、亡くなられた女児の友達に無神経で傷つけるインタビューをした上に、数少ない水のペットボトルを、まさにブルジョア貴族の力を見せ付けるかのように購入していますが、そんな暇があったら助けなくて良いから水ぐらいキチント持ってきてください、と思いますね。
梅村さん の知人の縁戚が亡くなられた、しかも自殺というのは本当に大変ですね。つつしんでご冥福をお祈りいたします。
今回は紫宸殿の東に位置する東軒廊と宣陽殿、西に位置する土渡廊を3Dで作ってみました。その過程で例によって素人発想の「何でだろう?」と思う点が幾つか出てきて、その一つの疑問が記事タイトルの「紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?」になった訳です。その辺は、後々書いていきます。さて、眠気覚ましにCGを何枚かアップ。クリックすると何れも拡大します。朝霧にむせぶ京都御所。私の好きな陰翳礼讃?です。おぉ!紫宸...
自殺ですけど、やっぱり大義に殉じた人は亡くなったしばらくは自らの傷みに苦しむかも知れませんが、大義には必ず現世で恩恵を受けた人や感謝している人たちの祈りが通じ天国に行くと思います。原爆を二度も、実験のごとく落としたトルーマンは地獄でしょうね。
現京都御所の土御門里内裏ですが、藤岡通夫先生の名著「京都御所」を飛ばし読みしましたが、やっぱり財政難が理由だと思います。というよりも、あまりにも多くの焼亡を繰り返した内裏・里御所の回数の多さにびっくりしました。また、それを数々の文献・古文書を調べて克明に記された藤岡氏の並々ならぬ努力、能力に脱帽しました。
やっぱりとくに南北朝に入って足利幕府の財政難もあって、もう元の大内裏の位置に建てる力はなかったと思います。
内野と言われた大内裏に内裏を再建するとしたら、正式の内裏を造る訳ですから、室町幕府は考えただけで身震いしたと思いますよ。当時も大内裏への郷愁はあったけど、先立つものがなかった、そういうことだと、私は思います。
相変わらず見事な制作で食い入るように見ています。
ところで、現在の京都御所があの位置にある理由についてはどう思われます? 鎌倉時代安貞の火災で本内裏が何故再建されなかったか?
自分的には、鎌倉の大仏同様資金難だと思っているんですが(汗)
そうですね。大阪北部地震で被害に遭われた方にお見舞い、そして亡くなられた方にお悔やみ申し上げます。亡くなられた中には九歳の女の子もいましたね。痛ましいです。
紫宸殿繋がりの件ですがよろしくお願いします。楽しみにしてます。
先回、コメントにあった和歌披講ですが、
さっそくYouTubeで検索して聴いてみました。厳かで雅びですね。正月の歌会始ぐらいしか聴いたことないので目から鱗です。短歌は書くものだけではなく詠み吟じ韻を踏むことなんですね。合唱もある。時に雅楽の伴奏もある! いいですね。五反田猫さん、かなり高度な日本文化を担ってみえますね。日本も安心です 笑。
また機会があったら、和歌披講を聴いてみたいと思います。そのときは宜しくお願いします。では御機嫌よう。
清涼殿から紫宸殿へのお出まし、なるほど言われてみると不明でした。 紫宸殿にお出ましになる自体が稀(御大礼と大嘗祭くらい?)と思うので、不便でも仕方がないと思いますが、どのようにするかは記録にありそうな気がします。
明治初期の絵図で、南庭へのお出ましには、庭に敷物が敷かれていたのを見ていますので、廊下以外にこのようなやり方もあるとは思います。
判るかは不明ですが、調べてみます。
コメントありがとうございます。
いつもながら教えて頂きありがとうございます。
陛下と殿下の由来がわかりました。殿下はともかく陛下の語源はは知らなかった。
内裏ですけど、現在は紫宸殿の前を朱塗りの複廊と門がぐるっと囲っていますが、平安時代の正規の内裏を見ると、現在、外から見える築地塀の部分がそのまま複廊になっていたんですね。つまり、今の御所は築地塀を潜って朱塗りの回廊に入る訳ですが、平安時代は複廊が外塀だった。なんか上手くいえませんが、今見る築地塀の代わりに朱塗りの回廊で囲まれていた。それが本来の内裏。だとすると、とてつもなく大きく華麗な宮殿だったと思います。平安時代初期の律令体制はホント壮大な意気込みと実験を感じますね。
五反田猫さんの流派ですが、
聞きましたら、「御家流 桂雪会」だそうです。
なんでも、民間で伝えた流派で宮尾登美子の「伽羅の香」という小説にも出て来るそうです。
お香も「嗅ぐ」などという下品な言葉は今後使いませんので、ここだけの話しにしておいて下さい 笑。
では、おやすみなさい。