3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 > 2012年11月

鳥羽離宮南殿&証金剛院の3Dが完成しました

訪問者の方、こんにちは。 まずは、御礼から。 ブログランキングの日本史部門で第二目標の五位以内、瞬間的には四位を獲得しました! 皆様のご協力ありがとうございました。 上位三位の方々のブログはとても素晴らしく、まだ新米の自分にはとても太刀打ちできませんが、皆様のネットを通じた応援をささえに今度はトップを目指して頑張ります。 今後もどうかご支援宜しくお願い致します。 と書いたら、何と、本日、9位に下がってし...

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平唐門を造りました * by 梅のコージ
takaさま、

こんな時間にすみません。午前零時を超えてしまいました。ブログにもアップしました鳥羽離宮用の平唐門や三間四面堂、六角堂、三十三間堂のお色直し?などに時間がかかり、コメント返信遅れて申し訳ありません。

改めて、院の近臣について深い説明を頂きありがとうございます。自分もいろいろ勉強になります。

前、雑学で、江戸時代までの天皇陛下は、玉体という天皇位の間は、病気でも滅多やたらにお体を触れなかった・・・とか聞いたことがあります。

こんな一面も上皇に譲位されたかも・・・です。

それでは、おやすみなさい。


瞬間四位 * by taka
達成おめでとうございま~す^0^/ そして鳥羽離宮南殿の3D画像アップ、ありがとうございます。やはりこういう分野がいまだに興味を持たれている方がいらっしゃる事に我が事の様に嬉しくなりますね。

皇居東御苑から望んだ離宮、宮島とのコラボ、本当に素晴しい出来栄えで感激しました。やはり平家縁の宮島とのコラボは特別な感情が湧きあがります。

さて、前回の畳の件ですが、あれは『延喜式』と『海人藻芥』の中の畳事から出典しております。

>院の近臣とは、官位を飛び越こえた存在なんですね。まるで徳川将軍のお側用人みたいですね。

そこは非常に重要な部分であります。そもそも何故上皇・法皇にならなければいけなかったか? 何故院政なのか? と申しますと、それは天皇位におられる限り宮中での決まり事は守らなければいけません(徳川政権で言う秀忠ですね)。ところが退位された場合は宮中での決まり事を越えた存在で縛られる事はありません(大御所、家康です)。従ってそれなりの力さえあれば自由に席次も決められ、自由な意思で政治が出来るようになり大権を持てるようになり院宣が詔勅の上に行くといった事態になります。

そして治君の君を守衛し、摂関政治を打倒した中心勢力として活躍したのが所謂院の近臣です。側用人というのは幕府の公式アドバイザーですが、院の近臣は院の個人的なアドバイザーと行ったところと申したほうが良いでしょう。院の近臣の代表者として藤原道長の孫能長(最終贈太政大臣)や、夜の関白と異名を取った葉室中納言顕隆等がおります。

以上の事から考えると、やはり鳥羽離宮における院の側の紫座というのは院の近臣と見ざるを得ないのです。院の個人的アドバイザー→公式の納言以上の官職という道筋をたどるのが当時の流れだったのでしょうね。

さて、これから寒くなり風邪もひきやすい季節になりましたがお体に気をつけながら、無理の無い範囲で続けてください。

鳥羽離宮の南殿間取図を載せます。

鳥羽離宮の3D製作もいよいよ佳境に入ってまいりました。 今まで、何度も離宮のことを書いてきたので、かなり重複してると思うんですけど、「こいつ、また同じこと書いてる」と思わないでくださいね(笑)。ブログによっては記事中の下線をクリックすると、その場でブログ内の過去記事へ案内してくれる、という便利な所もありますが、管理人もおいおいブログの勉強して「おぉ!」と言われるようなレベルになりたいと思っています。 ...

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* by 梅のコージ
taka様、

いつもながら詳しいフォローありがとうございます。もう「そだったのか!」と驚きの連続です。一体、その豊富な知識は何処から泉のごとく湧き出てくるんだろう?と感嘆してます。
今回も、繧繝縁はうんげんべり、もしくはうげんべりと読むんですね。
紫座の推測もさすがです。院の近臣とは思いもよりませんでした。 院の近臣とは、官位を飛び越こえた存在なんですね。まるで徳川将軍のお側用人みたいですね。

また、いろいろ教えてください。

そうそう、黄緑は地下、縁なしは無位だそうです。なるほど、初めて知りました。

これも貴重な資料 * by taka
です。梅のコージさん の意欲溢れるチャレンジ精神と、資料の提供にはいつもながら頭の下がる思いです。

繧繝縁はうんげんべり、もしくはうげんべりと読みます。ご存知だと思いますが、天皇・上皇・三后・准后は繧繝縁を、大紋高麗縁は親王・摂関・大臣(准后宣下を受けない者)、小紋高麗縁は公卿、という具合に決められていました。

そこで大問題なのはここに書かれている字です。梅のコージさん も書かれていますが、私もこの高麗というのは畳の縁の事だと教えられました。これが非常に問題なのです。何故か? と言いますと、宮中においても院政においても所謂席次というのは君主から見て左が官位が高く右が官位が低いというのが原則ですが、それと同様に重要なのは君主に近いか? 遠いか? も重要な位置づけになります。

で、紫座というのを畳の縁の彩りだとすると、宮中儀礼の畳には紫縁というのがあります。これは小紋高麗縁より一つ下、殿上人が座る畳み(従五位下~正四位上)なのです。席次でいえばある意味分不相応な位置ですが、恐らくは院の近臣と呼ばれる殿上人で、官位を飛び越した席次で着座された可能性が非常に高いと思われます。

ちなみに黄緑は地下、縁なしは無位だそうです。

串団子と水煙

相変わらず鳥羽離宮が続きます。 今回は鳥羽離宮に存在した三重塔を3Dで作ってみました。 もちろん、当時の建物はないので、現存三重塔で年代的に一番近い興福寺三重塔を参考にしました。 三重塔及びその関連記述については、今回、堀内明博氏の「日本古代都市史研究」の鳥羽離宮編に絞って参考にさせて頂き、文章も引用させて頂きました。 現在、白川法皇、鳥羽法皇、そして近衛天皇の御陵が安楽寿院及び周辺に存在しています。...

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綺麗な三重塔です * by taka
串団子、受けました。受けすぎました^0^ 確かに水煙というのはある意味大事な部分、全体像を見てこれではやはり見栄えが悪すぎますね~ しかし、本当に見事な出来栄えです。素晴しいです。

院号に関しては確かに記述の通りなのですが、院という号自体やはり仏教の影響がかなり強く現れております。実際寺院と言われるように、寺の中でも特に格式の高い物は院という言葉が使用されていましたし、即位の礼では即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀礼が中心だったようです。

ちなみに明治になるまで第六十三代冷泉天皇から第百十八代後桃園天皇までは、安徳・後醍醐両天皇を除いて全て○○院という諡号でした。それを○○天皇と本来のあるべき姿に戻したのは、偉大とも言える第百十九代光格天皇陛下です。

それと、梅のコージさんは中部地方で京都出身じゃなかったんですね。中部地方と言えば、私の母方の実家が名古屋ですから良く行くんですよ。ちなみにハーフとは言っても味噌煮込みは大好きですし、手羽先は綺麗に食べられますよ。

もしフランク・ロイド・ライトが日本に生まれていたら?

世界の近代建築の三大巨匠といえば、フランク・ロイト・ライト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエの三人とも言われていますが、そのなかでも特にフランク・ロイト・ライトは好きな建築家です。というか彼は天性のデザイナーで建築はその表現手段の一つかもしれません。 若いころの写真です。彼は91歳まで生きました。生涯1000軒もの建築を設計したといいます。 今回の記事「もしフランク・ロイド・ライトが日本に生...

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管理人のみ閲覧できます * by -

Re: 初めてお邪魔します 追伸 * by 梅のコージ
まろん様、

手元を確認してみたら建築画報社刊の「ジョサイア・コンドル」持ってました。以前、購入したの忘れてました。改めて読んで、というかページをめくってみます。

モダニズム建築ですが、
淡交社刊の「阪神間モダニズム」という本もおもしろいですよ。このなかに、あめりか屋設計の住宅とかあるかもです。

> 初めてお邪魔します。
> 公家屋敷という検索ワードから辿り着きました。公家屋敷を3D再現した画像に、目が釘付けになってしまいました。公家おたく、建築おたくでもある者として大感激です。
>
> ところで、上記記事でご紹介の帝国ホテルの本、私も持っているのですが、余りにも装飾的、趣味的なディティールであり、一般的にはよく言われるモダニズムの作例としてカテゴライズすることが本当に適切なのか甚だ疑問に感じます。私は西洋建築ではモダニズム以前の装飾豊富な様式建築が好みなのですが、機能・実用性よりデザイン重視、装飾性という傾向は、モダニズムの主流とは正反対であり、異端という感じがします。
>
> 日本好きな外国人建築家としては、日本に永住し、東京・護国寺に墓があるジョサイア・コンドルもそうですね。コンドルはまだ様式建築の世代ですが。コンドルは日本におけるアカデミックな建築の系譜の親玉、創始者にあたるような人物ですから、そのような大物が、日本好きで、絵師の河鍋暁斎に入門したり、日本人を妻としている事実は大変興味深いです。
>
> そういえば香川県多度津の武田という富豪が大正末期に建てた大邸宅(たぶん現存せず)が、じつに奇妙な建築で、明らかに大名屋敷のような和風大邸宅らしい平面を持ちながら、各部分のデザインは和風だけでなく、ライト風だったり、新古典主義風だったりして、もし完存していたら観光価値も高かったであろうと思われます。設計は、あめりか屋とのこと。もしライトが日本に生まれていたら・・・例えばこんな建築を設計したのでは、と思います。

初めてお邪魔します * by まろん
初めてお邪魔します。
公家屋敷という検索ワードから辿り着きました。公家屋敷を3D再現した画像に、目が釘付けになってしまいました。公家おたく、建築おたくでもある者として大感激です。

ところで、上記記事でご紹介の帝国ホテルの本、私も持っているのですが、余りにも装飾的、趣味的なディティールであり、一般的にはよく言われるモダニズムの作例としてカテゴライズすることが本当に適切なのか甚だ疑問に感じます。私は西洋建築ではモダニズム以前の装飾豊富な様式建築が好みなのですが、機能・実用性よりデザイン重視、装飾性という傾向は、モダニズムの主流とは正反対であり、異端という感じがします。

日本好きな外国人建築家としては、日本に永住し、東京・護国寺に墓があるジョサイア・コンドルもそうですね。コンドルはまだ様式建築の世代ですが。コンドルは日本におけるアカデミックな建築の系譜の親玉、創始者にあたるような人物ですから、そのような大物が、日本好きで、絵師の河鍋暁斎に入門したり、日本人を妻としている事実は大変興味深いです。

そういえば香川県多度津の武田という富豪が大正末期に建てた大邸宅(たぶん現存せず)が、じつに奇妙な建築で、明らかに大名屋敷のような和風大邸宅らしい平面を持ちながら、各部分のデザインは和風だけでなく、ライト風だったり、新古典主義風だったりして、もし完存していたら観光価値も高かったであろうと思われます。設計は、あめりか屋とのこと。もしライトが日本に生まれていたら・・・例えばこんな建築を設計したのでは、と思います。

いつもながら有難うございます。 * by 梅のコージ
take様

三十才前のお年とは知りませでした。お若いです。浦山氏です(笑)。将来、末恐ろしい学者になられるかも。
自分は中年と申しておきましょう。残念ながら住居は京都ではありません。中部地方です。しがない会社の役員をしております。
でも距離的には名神の新高速を使えば最速1時間半でいけます。

多宝塔についてコメント頂きありがとうございます。鳥羽離宮の塔群については、院家建築の研究や寝殿造りの研究、平安京提要、その他の文献を飛ばし読みしながら3Dを作っていたので頭が混乱してしまいました。確か三重塔を建立した後、多宝塔に変更した場合もあり、同じ三塔でも時期により、三重塔が二基林立したこともあったかと?

ライトの件ですが、実は自宅も、ちょっとライト風に造りました。書斎にもライト風スタンドが鎮座してます。名刺もそうです。でも、薄くて使いにくいです。ライトのはデザイン優先であんまり実用的ではありません。でも、ライトデザインのボールペンとか贈答にいいかもです。

貧乏旅行については、学生のころ、深夜バイトなどで稼いで、一年休学、ヨーロッパからトルコ、中東、パキスタン、インド、ネパールと旅をしました。そのころは山賊はいましたが、毛派とか過激なテロリストはいませんでした。

インドはいろんな意味で面白いですよ。
でも現在は結構、変貌してるでしょうね。

ところで、鳥羽離宮シリーズが終わったら、羅生門と前、書きましたが、何かその旅行記書いてみたくなりました。そのときはよろしくです。

それでは、彼女と楽しいクリスマス・イブをお楽しみませ。


渋い話題ですね * by taka
私は個人的にはアルベルト・シュペーア氏が好きですが、ライト氏も3本の指に入る大好きな建築家です。落水荘等は梅のコージさんが仰るようにまさに日本的な感じがする建築で、周りの風景等を全て計算しつくした芸術品と言っても良いですね。

ただライト本人と米国の名誉の為に言っておくと、確かに欧米人にとって日本人やアジア人は黄色い猿・非キリスト者という感覚は持ってはいたでしょうが、日本好きと言わなかったのはプライドであって、好きと言える頃にはすでに敵国としての偏見に満ちていたのかもしれません。

実際ヘレン・ケラーは日本好きを公言してアメリカ国内でも受け入れられていましたし、太平洋戦争中ですら硫黄島の栗林中将は名将として尊敬されておりましたから。

ところで、梅のコージさんは京都にお住まいですよね? ではついでに、ロイドの建物を一度見学されてはいかがでしょうか? 阪急電車だとホームを変える事なく一本でいけますよ。ヨドコウ迎賓館は阪急芦屋川駅を下車して山側に向かって歩くと割りと近いですし、タクシーでもワンメーターだったはずです。

多宝塔を作ってみました。

鳥羽離宮には、当時、三つの塔が建っていました。多宝塔が二つ、三重塔が一つ。現在の安楽寿院があるあたりに建っていました。鳥羽殿で言う東殿、泉殿の区画で同離宮の東側にありました。 白川上皇はこの東殿付近に三塔を建てました。天仁二年(1109年)建立の三重塔から天永三年(1112年)にかけての二基の多宝塔です。上皇は大治4年(1129年)崩御され、この三重塔を御墓所とされました。で、管理人もよくわからないのですが、保延五年...

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いやあ * by taka
この多宝塔も素晴らしい物ですね~ 同時代の建築物なら、恐らく細かい所まで二基とも全く一緒だと思いますよ。

ところで中御門中納言が寄進した三重塔について一言。三重塔は結局焼けましたが、三重塔が焼失したので寄進したわけではありません。当時天皇陵は白河天皇の例にならって三重塔を造営する事になっておりました。

で、梅のコージさんの仰っていた三重塔も先帝の例にならい安楽寿院に本御塔と新御塔を保延五年(1139)に建立されました。

そして本御塔が鳥羽天皇陵=安楽寿院陵となり、新御塔は記述どおり美福門院陵となるはずが遺言によって高野山に葬られたため、近衛天皇陵=安楽寿院南陵となったのです。したがって新御塔は多宝塔ではなかったと記憶しておりますが。

ちなみに白河天皇陵の三重塔は天永二年(1111)に建立され、建長元年(1249)に焼失しております。

梅のコージさんはネパールにも行った事あるんですね~ 私もインド・ブータン・ネパールには行ってみたいと思っていますが、今のネパールは中国の犬毛主義派が跋扈していますので行けそうにもありません。

一応30代になるまではインド・ブータンに行こうか?とは思っているのですが。