訪問者の方、こんにちは。 まずは、御礼から。 ブログランキングの日本史部門で第二目標の五位以内、瞬間的には四位を獲得しました! 皆様のご協力ありがとうございました。 上位三位の方々のブログはとても素晴らしく、まだ新米の自分にはとても太刀打ちできませんが、皆様のネットを通じた応援をささえに今度はトップを目指して頑張ります。 今後もどうかご支援宜しくお願い致します。 と書いたら、何と、本日、9位に下がってし...
皇居東御苑から望んだ離宮、宮島とのコラボ、本当に素晴しい出来栄えで感激しました。やはり平家縁の宮島とのコラボは特別な感情が湧きあがります。
さて、前回の畳の件ですが、あれは『延喜式』と『海人藻芥』の中の畳事から出典しております。
>院の近臣とは、官位を飛び越こえた存在なんですね。まるで徳川将軍のお側用人みたいですね。
そこは非常に重要な部分であります。そもそも何故上皇・法皇にならなければいけなかったか? 何故院政なのか? と申しますと、それは天皇位におられる限り宮中での決まり事は守らなければいけません(徳川政権で言う秀忠ですね)。ところが退位された場合は宮中での決まり事を越えた存在で縛られる事はありません(大御所、家康です)。従ってそれなりの力さえあれば自由に席次も決められ、自由な意思で政治が出来るようになり大権を持てるようになり院宣が詔勅の上に行くといった事態になります。
そして治君の君を守衛し、摂関政治を打倒した中心勢力として活躍したのが所謂院の近臣です。側用人というのは幕府の公式アドバイザーですが、院の近臣は院の個人的なアドバイザーと行ったところと申したほうが良いでしょう。院の近臣の代表者として藤原道長の孫能長(最終贈太政大臣)や、夜の関白と異名を取った葉室中納言顕隆等がおります。
以上の事から考えると、やはり鳥羽離宮における院の側の紫座というのは院の近臣と見ざるを得ないのです。院の個人的アドバイザー→公式の納言以上の官職という道筋をたどるのが当時の流れだったのでしょうね。
さて、これから寒くなり風邪もひきやすい季節になりましたがお体に気をつけながら、無理の無い範囲で続けてください。
こんな時間にすみません。午前零時を超えてしまいました。ブログにもアップしました鳥羽離宮用の平唐門や三間四面堂、六角堂、三十三間堂のお色直し?などに時間がかかり、コメント返信遅れて申し訳ありません。
改めて、院の近臣について深い説明を頂きありがとうございます。自分もいろいろ勉強になります。
前、雑学で、江戸時代までの天皇陛下は、玉体という天皇位の間は、病気でも滅多やたらにお体を触れなかった・・・とか聞いたことがあります。
こんな一面も上皇に譲位されたかも・・・です。
それでは、おやすみなさい。