3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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え? 戦国時代に大内裏が残っていた!?

え? 戦国時代に大内裏が残っていた?!と、なんか週刊誌ご用達の「見出し」みたいなタイトルになってしまいましたが、記事の設定時期は正確には室町時代、応仁の乱の頃でこの時代は戦国時代と被ってますんで半ば無理矢理今回のタイトル設定にしました。でも、応仁の乱(応仁元年・1467年~文明9年・1477年)の頃まで、実は大内裏の官衙が一部残っていた!、ごく一部の建物は天正13年(1585年)まで残っていた。また機能していた、...

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戦国時代、天皇を支えた禁裏小番の公家たち

今日は戦国時代の内裏を取り上げてみたいと思います。 表題にあります「禁裏小番」とは、大納言以下の公家(公卿・殿上人)が5もしくは6番の小番(グループ)に分かれて内裏の当番宿直を担当したもので明治維新まで行なわれました。 その禁裏小番について今回取り上げるものですが、まずは当時・戦国時代の朝廷を取り巻く時代背景を説明したいと思います。 広義の意味では「室町時代」とは、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に補任されて...

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* by taka
この記事については全く同感です。彼等の我慢と働きがあってこそ現在の皇室に繋がっていたという歴史は決して忘れてはならないですね。特に所謂摂関家清華家等の最上流の公卿達は自分達の生活が困れば有力大名の領国に下向して朝廷以上の収入を得ていたのに対して、皇室と禁裏小番の公卿・公家達は京都を動かず、あるいは山科家の様に下向したとしても朝廷への援助の為に頭を下げに行く、そういった血の滲む努力をしていたのですから驚かされます。

ところで 奥野高広氏 の著述は資料としては一級品ですが、その考え方には非常に大きな違和感があります。例えば現代、首相の仕事を貯金0で年収100万円で全てこなしているとします。そうなると首相の仕事は大きく滞り貧窮国となりますが、100万円の年収でもあるじゃないかと見るか? そんな年収しかないと見るか? で大きく見方が異なります。

歴史の資料を見ると後土御門天皇の玉体が放置されていた事は事実ですし、後柏原・後奈良両天皇の即位の儀式が思うように開けなかった事も事実です。その事実を差し置いて朝廷に七百五十貫文ばかりの収入があるからといって貧窮していなかったという論や、戦国時代の大名や武将達の免罪符には決してならないと思います。

例えば前田利家、彼は織田信長公の茶坊主を斬り捨てて出奔しましたが、永禄四年(1561年)の森部の戦いで活躍して帰参しました。その時の領地は三百貫文(もしくは四百五十貫文)と言われていますし、山内一豊に至っては岩倉織田氏の家老だったというだけで五百貫文の領地を貰っております。つまり朝廷の収入というのは、中堅所の武将の初任給とほぼ同等程度のものしかないと言えます。

織田信長公は権力基盤を獲得する為に朝廷を利用し、豊臣秀吉は朝廷権力に依存し、徳川家康は朝廷を畏怖していたと言えますが、三者三様に朝廷にはそれなりの力ある者として敬意と恐れを有していましたが、室町全般(戦国時代)は朝廷を軽んじるしか能がない武将達が蔓延った最悪の時代と言えるでしょう。

革嶋館の外観が出来ました。

今日はFC2の繋がりが悪く新しい記事も今日はお休みかなぁ・・・と思ってましたら繋がりました。たまに繋がりの悪いときがありますね。今回は長かったような気がします。さて革嶋館の外観ですが、間取りの資料はあっても外観を記す資料はなく正直想像で造りました。ですから、あくまで推測でこんなんも有りかな・・・と思って頂ければ幸いです。強いて言うと発掘調査で堀の幅が5m、深さが2m程あったことがわかってます。また江...

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中近世京都の土豪館ってどんな感じだったんだろう?

今回紹介する革嶋家は京都郊外の西ノ京に800年も続く古い家柄で、先祖は代々、西ノ京の土豪として勢力を競ってきました。平成15年には同家が所有する「革嶋家文書」が国の重要文化財にも指定されました。現在、京都府総合資料館で保存されています。同家のように一地方の国人・小豪族が鎌倉期から数えて800年も自家の様々な文書を絶やさず保管してきたのは稀有なことで、それが重文指定につながりました。その文書のなかに同家の敷...

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