3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 >  幕末・明治維新 1853年⇒

京都御所のことを書きながら色々思ったこと 後半

後半では何から書こうかと逡巡してますが、御所の平面図・間取りにいつてもう少し触れてみたいと思います。また横道に逸れるといけないので出来るだけ簡潔に書きますね 笑。御所の帝が住まわれる常御殿の西側、少し奥まった所に「鍵番囲炉裏間」という板敷きの大きな部屋があります。赤く囲ってます。 図を見て頂くと中央あたり、常御殿そして御三間の下にあります。わかりますか?ココ、鍵番の詰所あるいは囲炉裏間としては...

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No Subject * by 京一朗
sazanamijiroさん
コメントありがとうございます。

小生は「3D京都」の看板背負っているので京都の人の悪口書けません 笑。

今まで、京都でイヤな思いをしたことありますが、とても親切な方に出会ったこともあるし。

京都はずっと日本の中心でしたから政争で破れて殺されたり、戦で殺しあったり、三条河原で首がさらし者になったりと、色々ありましたから古都の光と陰があると思います。

明治維新で帝が東京に行かれてしまったのも影響してるかもです。

>京都人の屈折した意識について考えてみたいと思っています。

考えがまとまったら聞かされてください、参考にしますから 笑。

No Subject * by sazanamijiro
こんばんは、sazanamijiroです。

やはり御所はすごいところですね。説明を読んでいるとつくづく思いました。
うちの母方の家系は、今出川通りの上七軒交差点から北へ少し上ったところの小地主だったようです。
普通の町衆なのでしょうが、(大きな声では言えませんが)代々あまり帝を特別視というか神聖視していた感じがしません。あくまでも「天皇はん」であって、おそらく戦前戦中も含めて、京都以外の土地での「天皇陛下万歳」的な意識が薄かったような気がしてならないのです。
そのうち、京都人の屈折した意識について考えてみたいと思っています。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

>御給仕だけでなくて、平公家から摂家方に声を掛ける事も出来ません。

そこまで徹底していたのですか・・・
なんか女官の命婦が帝に直接話してはいけない・・・の似たところがありますね。

幕府の巧妙な朝廷工作には恐れ入りました。

でも、人間の自尊心を徹底的に傷つけることは後々になって刃となって跳ね返ってきますね。

これは現代での社会、会社でも同じことが言えますね。経営者は不当な扱いを社員にしてはならない、と改めて思いますよ。

パワハラをする前に社員の適性を考え業務配置するのが結果的に企業の業績にも繋がると思います。非正規雇用が広がってから社員は”人財”であるという企業風土がどこかへ行ってしまった感があります。

門流 * by 五反田猫
いつも興味深いお話し有難うございます。

囲炉裏の間が能舞台だったとは、全く知りませんでした。
灰に火箸で機密事項を書いていたのかと想像していましたが、大外れでした。 勉強になります、有難うございます。

>平の公家が五摂家の配膳・給仕役をしていた
御給仕だけでなくて、平公家から摂家方に声を掛ける事も出来ません。 摂家による門流支配は、公家のトップに公家を管理させるという、巧妙な管理体制で、これが朝廷の一体化や独立性を防いでいたのですね。その摂家も、江戸から高家がくると、建前上の身分が下なのに、摂家方がそれなりの扱いをしなければならない。こういう間接的な身分差を、現実の中で見せつける事で、幕府の権威は保たれておりました。 それがお書きになったような、列参事件のように朝臣という意識が出てくると、全てが崩れてきます。
結局、公家の中の「朝臣」という考え方が、日本の民、日本人という意識につながって、それが幕末の討幕運動につながったのでしょうね。 そういう意味では、貯められていた位置エネルギーが、運動エネルギーに変わったようなものですね。

京都御所のことを書きながら色々思ったこと 前半

ブログを始めて6年と少し経ちました。今まで使った写真やCG、図は5700枚。結構ありますが、それでもfc2の無料ブログ上でのデータ使用量は全体の10%ほどです。自分は大判サイズの図を載せることが多いのですがそれでも10%。計算上だと100%使いきるには後50年はかかります。そのころはもう生きていません。そういう意味で言うとfc2は太っ腹だなと思います。沢山、写真を載せたい人にはお勧めですよ 笑。さて、今回はタイト...

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えっ!幕末の京都御所には1000人も勤めていた!!

先の記事で「京都御所ってどんな部屋があったの? さっそく見てみよう!」の補遺を書く旨お伝えしましたが、いざタイトルを見てみると「えっ!幕末の京都御所には1000人も勤めていた!!」、に変わりました。補遺は何処?とお叱りを受けるかもしれませんが、実は補遺の記事用に資料を漁っていましたら「幕末の御所にはこんなにも大勢の人が働いていたのかぁ!」と改めて驚き、「だったら一度、幕末の御所の職制と職務、人数とか調...

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「御所の台所を見てみたい」とのコメントにお応えします-翻刻・安政御造営図志の紹介

 読者の方からコメントを頂き、「御所の台所を見てみたい」というリクエストを頂きました。残念ながら現在の京都御所には御台所は存在しません。先の大戦の建物疎開で撤去されたからです。存在しないなら、せめて戦前の写真や当時の絵図なり外観・指図、またそれに基づいて作成した3Dの台所を見てみたい、というのが読者の方のお気持ちだと思います。しかし私の手元にも平面図しかなく当時の御台所がどのような外観・内観を...

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No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

引越しで忙しいなか、しかもネット環境が不便ななか、わざわざコメ頂き恐縮です。

名古屋城の本丸御殿は素晴らしかったですよ。言われる通りに日本の伝統技能を継承していく上でもこのような復興事業は欠かせないですよね。前、建築史家の平井聖先生が「江戸城本丸御殿はいつでも創建当時のままに建てれますよ。それだけ資料が整ってます」と言われてましたが、だと、すると今度は江戸城の番ですね。天守閣だと揉めるかもしれませんが、本丸御殿でしたら官民力を合わせできると思います。完成したら「ここが松の廊下かぁ」、「ここが大奥かぁ」と見学するのも楽しくなります。NHKさんも喜びますよ。大河のロケにいつでも使えますから。

あの、安政御造営図志の中の絵ですが、原典の方の絵は京都本が白黒、書陵部本がカラーになっていて、絵については書陵部本を採用したそうです。翻刻された方も書かれていますが、絵の方はイマイチで素人ぽい感じなんだそうです。間違った描写もあるそうです。当時の正規の担当者が描いたのではない気がします。

ただ、小生にとっては間取りも細かい仕様・寸法もわかるのでお宝です。

早くネット繋がるといいですね。

名古屋城と大太鼓 * by 五反田猫
引っ越しで通信環境が無かったので暫くアクセスできませんでした。(まだネット開通していません 怒)

名古屋城の建築復興は、行政が行う事業としてすばらしいですね。
河村市長の英断だと思います。
短期的には、観光客を呼べるのは言うまでも無く、仕事が無くて苦労している伝統工芸の人々に、安定して長期的に仕事を生み出す事が出来ます。 これにより、経済が回るだけでなく、幅広い伝統の継承や保護が出来ます。 ハコモノ行政としても、数十年で使えなくなる建物ではなくて、数百年先にも伝えられる建築を目指すのは素晴らしい事ですね。

御所の台所のお話しも有難うございます。 調度類のお話しも素敵です。
本旨に関係ないツッコミで恐縮ですが、雅楽の太鼓の絵が気になります。
右側は、二つ巴に鳳凰に月がお約束ですが、飾り物がどうにも太陽に見えてしまいます。
現代のものは銀色なのですが、当時はこれでも月だったのでしょうか。
左と比較すると、多分 旭日を表す棒が多いとかあるのでしょうね。

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幕末裏面史 一枚の禁裏絵図を巡って 後編

前編では長尾名鳥が描いた「安政新造内裏全図」について他の絵図・指図も絡めて「禁裏絵図とはどんなものか?」、そのへんを書きましたが、後編では名鳥その人について足跡を追ってみたいと思います。前編でアップしました長尾名鳥の略歴を書いた唯一の情報がネットに上がっている旨を書きました。そして、ネット以外にも一つだけ滋賀県の大津市歴史博物館に名鳥の痕跡を残す資料が残っているとも書きました。どんな資料か? 同歴...

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No Subject * by 京一朗
AzTak様
コメントありがとうございます。

平田篤胤は学問としての国学、神道だけでなく当時としては珍しく心霊を体系的に実証研究した人で、そのへんが教祖的なカリスマのイメージがあるのだと思います。

No Subject * by AzTak
後半に出てくる平田篤胤に興味があって、この記事を拝読しました。
実は西新宿の超高層ビルに職場があったとき、ごちゃごちゃした新宿から通うのが嫌で代々木から通っていました。決して共産党信奉者じゃありません。その道筋に高野辰之の旧居跡があったり、平田神社があったりしました。
当然のことながら、篤胤のことはスーパーマンのごとく書かれてあります。どんな人物なのか気になっていました。
今で言う原理主義者のような側面があったのかなあ、などと思いました。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

そうか、「なか濱」の長浜ですね。
江戸時代の近江は大名、公家、寺社、幕府などの所領が入り乱れて分かりにくい面がありますね。勤王家、国学者、志士も集まっていますし。商売上手ですし。大津宿が東海道で一番大きな宿場町とは今回まで知りませんでした。いつも思うのですが、愛知県から滋賀県へ入ると風土の違いを感じます。町や村と自然、田園がしっくり溶け合っているのです。

長尾名鳥大人の短冊が売りにでていたので速攻で買いました。最後の一枚?かも。

内裏図の文字と比較しようと思っているのですが、内裏図の方は楷書、短冊は崩し文字なので単純には比較できないなぁ、と首を捻ってます。

昔の短冊は長いんですかね。
お宝箱?に入らない 笑。

寒くなってまいりました。
風邪など召されませんようご自愛くださいませ。

幕末の宮廷 * by 五反田猫
これはこれは、興味深いお話しを有難うございます。
これだけ材料があれば、幕末時代小説がかけるくらいワクワクしますね。

平田篤胤の写真があって不思議に思ったのですが、そうした背景があったのですね。 国学者、神道と言っても色々な流れがありますが、平田篤胤の考え方は実は西欧の影響が大きいと私は思っています。 それは、西欧の科学的な考えも取り入れて天地の理を明確にしようという行動に出ていると感じています。この話は切りがないので簡単な感想にて、

実は、今回のお話しで一番気になって引っかかったのは、名鳥が居たという三井寺喜見院住職という記述です。
現在の三井寺に喜見院は無く、もう少し調べる必要がありますが、淡海対岸の百済寺に喜見院はあります。
名鳥の歌には、同じ湖東の「長浜」が出ています。
一方で、絵図の面には明白に「逢坂山下」とあるので、湖西か湖南の住人なのは間違いないですね。 もう少し掘り下げてみます。

それにしても、こうやって文献や、その周辺を調べると当時の人々が活き活きと見えてきますね。
そうしたものを見せて頂き、有難うございました。

幕末裏面史 一枚の禁裏絵図を巡って 前編

最近、一枚の安政度内裏(1855年)の絵図を入手しました。これから書くことは、その、「安政新造内裏全図」を描いた一人の名もない国学者の足跡を辿る物語です。5%の真実もないかもしれません。しかし、僅かな史料から浮かび上がってくる人物像は、幕末維新のまさに渦中に生き、そして謎の死を遂げた志士の姿です。歴史に名を刻むこともなく死んで行った多くの志士たち。真実を抱えて逝った者たちも多くいたと思います。今回はそん...

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No Subject * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

もう年末も近いということもあって後編ですけど、夜中、一気に書きました。寝たのは午前3時過ぎ。

この書くという衝動何なんですかねぇ。

土曜というか今から用事で出かけるし眠たいです。

平田篤胤まで出て来るとは自分も予想していませんでした。

安政度内裏 * by 五反田猫
様々な絵図面と文献の比較のお話し、大変参考になりました。

図面の内容にも様々あり、木材、床処理、調度など、目的により盛り込まれる情報は様々なのですね。

長尾名鳥のお話し、楽しみにしております。

見果てぬ夢 岩倉具視と一枚の肖像写真

今回、岩倉具視のことを書こうと思ったのは、京都御所の3Dを作る過程のなかで、京都御所が今日まで残ったのには、岩倉具視による熱心な保存事業があったからこそ。という事実を知ったからです。経緯は明治天皇が京都を行幸されたとき、御所の傷みを憂い、保存を命じましたが、それを中心となって進めたのが岩倉公でした。当時は西欧化に追い着き追い越せ、という気風のなかで日本の伝統的なものが軽視されました。御所でさえ、桑畑...

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NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

後宮の記事にコメント頂いたのに何か岩倉公の記事に付いてしまい失礼しました。ブログのスタイルシートの記事№の更新を忘れてました。

帝の御常御殿の御寝所ですけど、襖12面に虎の絵が描かれて怖いですよね。不届き者から帝をお守りする絵ですけど、女官も怖がるかもです。

NoTitle * by 五反田猫
京一朗さん 建築から見た比較というのは面白い観点ですね。 今まで宮廷の後宮についての論文もありますが、文学関連が多いので、新しい見方で楽しみです。

全編の図面をみて感じるのは、江戸の居住環境は貧しいですね。
急成長の都市では宿命なのですが、庶民は六畳一間に家族が住んでいるのですから、大奥でも似たようなものですね。
その点 御所では和歌を詠むには自然が必要で...壺は大事ですよね。

後半を楽しみにしております。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。
伊勢にお参りすると、神域の厳かさと御神楽の音曲・舞に感激しますが、明治の日本、国家神道の導入、過激過ぎたかな。現在、信仰の自由の見地から公の機関が神社に地鎮祭をお願いしたりすると、左派の人たちから「憲法違反、信仰の自由を守れ!」とか声が出ますが、これも過激過ぎると思います。日本はやはり神道と仏教をベースに続いてきたのですから、この宗教風土を行政サイドでも大切にするのは大事だと思います。日本においての信仰の自由とは、その神道・仏教を風土のベースにしながら、一方で他宗教も自由に認める寛容さ。そのバランスが必要だと思います。何でも反対ではダメだと思います。

廃仏毀釈 * by 五反田猫
今でも海外で国宝級の仏像がオークションに出て話題になりますが、これらの殆どは、その時に流出したものですね。
大規模なものは、八幡、熊野、愛宕、厳島、諏訪など、明治以前は寺が主体だったものや、神仏習合だったものを、神社にするんだと塔や堂宇を毀った時に中にあったものです。
影響を受けたのは仏教だけでなく、伊勢講などは、伊勢神宮を天皇家の神社にする為に廃止、御師達は神宮神職になるか廃業の二択を迫られました。

明治維新の文明開化は西洋知識だけでなく、外来ではなく日本固有の神道への宗教革命でもありました。 キリスト教に対抗できる日本の国教を作ろうと壮大な構想のもとに、神祇官が復興、これは教部省となり、最後は内務省社寺局へとスケールダウンしました。 結局、国家が宗教に手を出して成功した例は少ないですから、日本でも同じでした。
江戸時代まで天皇家も公家も仏教の信徒でしたし、伝統仏教には、それだけの伝統の積み重ねとノウハウがあったのですね。 結局 信仰の問題は、心の中のものですしね。

明治の宗教改革は、調べているので、つい熱くなってしましました。
 

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

明治維新で神仏分離令が出され、政府の意図を越えて廃仏毀釈が燎原之火のごとく全国に飛び火しましたが、あれは何だったんでょうか?

自分だったら、ご先祖様の位牌が眠る代々の菩提寺の仏様やお堂を壊すなど考えられません。ご先祖様が泣いているゾ、とは思わなかったのでしょうか?

それとも檀信徒の反感を買うほどお寺の檀家制度は腐敗していたのでしょうか?

それとも、神官たちが仏僧の上に位しようと煽動したのでしょうか?
それとも、維新に乗り遅れまいと、個々の人たちが暴走したのでしょうか?
日本らしくもっと宗教に寛容なはずが、維新は人の心まで変えてしまったのでしょうか?

先の大戦で、あれほど鬼畜米兵と言っていたのにイザ負ければ掌返しに戦前は軍国主義の悪い国だったと競って言い合うなど、何か情けないですね。
また、愚痴でした。すみません。
台風気を付けてください。

NoTitle * by 五反田猫
尊敬する岩倉公の事を取り上げて頂き、有難うございます。
この人の先進性は、王政復古といいつつ、旧来の公家社会の問題点を理解し、排除した事とおもいます。
すでにお書きになっているように、摂家による二重支配「門流」の廃止。 そして臣下による摂政と、関白の廃止。

これにより、天皇の元に臣下が働く体制、ここに四民平等が加われば、立派な近代的国家の基礎が出来ました。
今の大河ドラマでは、何とも怪しいオッサンで、金に汚いように描かれていますが、多分 明確なビジョンは持っていたと思います。 それだけに、維新後の京都の凋落や、公家文化の衰退には心を痛めていたようですね。

多くの人々が「文明開化」の名の元に、古いものを捨て、新しいものを求めてゆく中で、失ってはいけないものに目を向けていたのは、やはり素晴らしいと思います。



王政復古のクーデターが成功したのは実は小御所の間取りのせいだった!?

小御所までの3D完成に漕ぎつけました。後は御学問所と御常御殿。それに渡り廊を加えれば御所の雰囲気もかなり出て来るのではと個人的に期待しています。さぁ、今回取り上げる小御所ですが、幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都・小御所で行われた王政復古の最初の会議で実質クーデターが行われた舞台として知られています。、同日、先に御学問所で正式に王政復古の大号令が発せられ京都守護職・京都所司代の廃止、幕府の...

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NoTitle * by -
五反田猫様
コメントありがとうございます。
拙い3Dながらお褒め頂きこれもありがとうございます。「内覧をもつ関白の廃止、公家社会を二重支配していた「門流」の廃止で堂上公家が天皇の直臣である事が組織上も明確になりました。」、このコメントですが眼に鱗でした。勉強になります。直臣かぁ、だから門流外の公家は外様といわれ御所での詰所も別々になっていたのですね。

摂家を優遇することによって公家をコントロールする。幕閣も考えたものですね。英国みたいです。

また、いろいろと教えてください。

小御所会議 * by 五反田猫
京一朗さま とても素敵な小御所の景色ですね。

御学問所との比較の話も興味深く読みました。
どちらも、池に面しているのですが、随分と建物の雰囲気が違いますね。 

「王政復古の大号令」は、公家社会にも大きな影響を与えました。 内覧をもつ関白の廃止、公家社会を二重支配していた「門流」の廃止で堂上公家が天皇の直臣である事が組織上も明確になりました。
裏返せば、公家社会でも幕府と結んだ摂家による支配があり、これが朝廷の独立性を制限おりました。
それが無くなる事で、朝廷でも王政復古になったのですね。

NoTitle * by 京一朗
Hakka様
コメントありがとうございます。
お褒め頂いてなんか痒くなってきました 笑。
でも、ホント励みになります。

御所の庭園ですが一部3D化する考えはあります。
反り橋の図面もありますし。

ただ、拘ると限りがないので、第一期、二期工事みたいに分けて徐々に作っていこうと思ってます。

3Dは手間もかかるので夜更かししてしまう時もあります。妻からはいつも叱られています。最近は食事の後にお茶を出したりしてご機嫌とってます。

にしても、何か突き動かされるものがあって作ってしまうのです。

NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。
とても励みになります。
私も御所の大和絵は大好きです。
二条城の金碧障壁画とは違った優雅さ、上品さがありますね。

NoTitle * by はむこたん
襖障子が鮮やかで、すごく映えますね。
見ていて物語が感じられて、ぜんぜん飽きません!

こんばんは * by Hakka
3D、襖絵までお見事ですね。一般参観では建物内までは見学できないので、参考になります。
同様に、隅々まで見学できない庭園も3D化して頂けたら…と、勝手な願望を抱いてしまいます。

京都御所の紫宸殿を作ってみました。

先日、「平成版 内裏・公家町御絵図」を残された指図、過去の公家町絵図と現在の京都御苑を比較検討して、史実に基づいたかつての公家町を再現してみようと、今、始動してます。新たな公家屋敷の指図も東京・京都へ行って探しまくった結果、幾つか、新規の指図を収集しました。ちなみに慶応4年即ち明治元年に刊行された江戸時代最後の公家町を描いた「文久改正 内裏御絵図」ですが、十六丁版と十六丙版があって、多分、丁版が最...

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『文久改正内裏御絵図』を落札しました!

昨夜11時、ヤフオクで『文久改正内裏御絵図』を落札しました! 落札額は5500円。最初は2000円から始まって最後は5500円。無事落札できました。入札はほぼ6人ほどの間でデッドヒートし、最終は1万円越えかな、と思いましたが越えずになにより。絵図って結構人気あるんですかね。落札した絵図は、ちょうど「新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった!」で、証拠材料の一つに使った絵図ですからグットタイミング! 「京都...

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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(二)

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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(一)

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薩長同盟の締結地・近衛家別邸「御花畑」の場所がわかった!

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近代、日本はなぜ江戸を捨てたのか?

何も深い意味はなく、急に秋めいた季節柄、幕末・文明開化の頃を、ふと思案してみました。何から書いていいのか筋立てもないですが思いつくまま書きます。私は建築が好きで、とくに素材を生かし、伝統的な装飾と様式を施した明治以前の古建築が好きです。明治になって日本の従来の建築(社寺や民家は除く)は欧化政策のもと、急速に西欧風に変わっていきました。明治初期の東京の旧大名邸の古写真など見ると、漆喰と鎧板壁・窓格子な...

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NoTitle * by -
takaさんコメントありがとうございます。
takaさんは歴史というか人文全体に造詣が深いですね。考察もです。なんか大学教授の講義を受けているみたいです 笑。いろいろ勉強になります。語彙も豊富ですし。火曜は市役所で事業化の採否を占う面接及び諮問があります。いま、資料の見直しなどしていて少々バタバタしています。十分な返信をできず申し訳ないです。では、また。

果たして対抗できたかどうか・・・・ * by taka
朝廷が政権を取っていれば、まあそれを目指していたのが織豊時代なの
ですがそれが果たして良かったかどうかは難しいところですね。

豊臣時代を見ていても解かるように、大イスパニア帝国並の大日本帝国
建国、大航海時代に参画するという意識が明らかに欠如していた当時の
国民性を見ていると、国家の為国防の為という国づくりはその体制では
明らかにやり難かったのではないか? と思います。

徳川幕府の頭の中身は自らの権力の事だけを考え、永遠に存続させる
ために進取の気風を弾圧してある種の洗脳教育を進める等虐殺が無い
だけで北朝鮮並の下種であると言えますが、結果的には国民の識字率
を上げ、手形やバランスシートの基本を確立し、主な天領地で上下水道
の整備や衛生水準を中国以上に高め、世界的に見ても異例とも言える
旅行文化を生み出す等不足していた日本の基礎をシッカリと固めたのも
確かです。

それが朝廷に出来たかと言われると、識字率一つ取ってみても例えば
林大学頭 を頂点とする昌平黌・民間寺子屋制度に変わって 大江
北小路大学頭 や 菅原高辻大学頭 となった場合、そこまで出来たか
どうかと言われると微妙ではないかと個人的には思っています(汗)

それに当時の朝廷は幕府と対立するほど攘夷主義者(主に利権)でしたし、
朝廷も皇室とは緊張関係にありましたから果たしてよくなってたかどうか(苦笑)
普通の歴史を知ってる人が陥りやすい勘違いで良く朝廷=天皇ってのは
間違いですからね。太平記の作者ですら『公家一統の事』とか、天皇=朝廷
そして公家と思ってますがそんな単純なものではない状態でどこまで外国に
対抗出来たかと思います。

幕府の性質 * by taka
以前も読んでいたのですが、遅まきながらコメントを。

幕府に武官・文官の区別が無かった、というのはある意味当然かもしれません。
というのも征夷大将軍というのは武官であり、幕府というのは緊急避難的な
軍事政権の側面があるからです。

幕府という語源自体が中国の春秋戦国時代であり、当時の将軍は配下の将兵が
賞を立てる度に一々国王陛下・皇帝陛下へお伺いを立てていると時間がかかる
為にその最高責任者に賞罰を一任された事から来ています。後の大将軍・
驃騎将軍・車騎将軍や、有名な三国時代の刺史の処罰権限を持った使持節とか
も幕府を開いていました。つまり実態はどうであれ、名目は準戦時体制である
以上武官が全てを司ってしまうというのは当然の事かもしれません。

江戸幕府の場合を見ると東京都知事兼警視総監に位置するものに南町奉行が
居ましたが、奉行という職種自体が元々は宮中での臨時の役職から来ており、
つまり「今は準戦時体制ですから軍事政権は必要です。だから幕府が臨時に
民政を司る奉行・財政を司る勘定奉行を作りました」という事なんでしょうね。

これがコージさんの仰るとおり朝廷主導の国家だと警察権は検非違使・行政は
左右京大夫、国家の財務は大蔵卿と明確に別れていたのでしょうが、臨時で
朝廷の官位を将軍が勝手にやるわけにも行かなかったでしょうからそこはやはり
仕方の無い部分があるでしょうね。

明治維新、京都の諸藩邸はどこに消えてしまったんだろう?

今、「八重の桜」でさかんに会津だ、薩摩だ、長州・土佐だと京都各藩の藩邸が画面や、あるいはセリフの中で出ていますが、当時、御用屋敷(単純な取次ぎ所)も含めて200藩ほど、正式な藩邸クラスでなら100ほどの藩邸が京にひしめいていたといいますが、それら多くの藩邸は明治になってから忽然と消えてしまいました。 今日、明確に藩邸遺構と思われる建物は京都にはゼロ!。一つある平安神宮のそばの旧京都守護職の屋敷門も正確には...

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再考 「坂本龍馬暗殺の黒幕は誰か?」 後編

前編の最後部分で「龍馬と親しかった佐々木高行が宴会の席で龍馬が酔いに任せて言った一言が、後の暗殺に繋がったのではないか?と思われる節があるのです。」と書きましたが、 その佐々木高行と龍馬が親しくなったきっかけの一つがイカルス号水夫殺人事件です。 同事件は、慶応3年(1867)7月6日深夜、長崎の花街、遊女屋引田屋の裏路地で、英国軍艦イカルス号の水夫、ロバート・フォードと、ジョン・ホッチングスが殺害された事...

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taka様、
コメントありがとうございます。お礼のコメント遅くなり申し訳ありません。紹介いただいたブログ読まさせていただきました。光格天皇様の事績が詳述されていてとても参考になりました。また、改めてtakaさんの博識には頭が下がります。

NoTitle * by taka
それにしてもコージさんの考察はかなり鋭い所をついてくる、とつくづく思います。当時坂本龍馬は才谷梅太郎という偽名を名乗って活動しており、近江屋に在住している事を知っている人物は非常に限られていると思います。

もっと突っ込んで言えば寺田屋事件で三人が暗殺されたと言われておりますが個人的には二人、一人は不運な事故死だと思っております。というのも中岡慎太郎は不幸にも亡くなりはしましたが、焼き飯を食べるほど一時期回復していたそうです。死因も恐らく出血多量という事であり、非常に怪しむべき人物と言えるでしょうね。記事の最後の方にも書かれていましたが、人間の価値観というのはそうは変わらないと思っています。龍馬主導の商業・政治活動でしたが、所詮は無礼討ちも自由に出来る上士とは違い郷士風情という事でしょう。

吉田神道が黒幕というのも的を得ていると思います。天明の飢饉時、偉大な光格天皇の時代の事は
blogs.yahoo.co.jp/rosetemjp/333841.html
このブログが詳しいですが、この動きに吉田神道という公儀御庭番に匹敵する組織が関わっている可能性も考えると、坂本龍馬暗殺にも大きな役割を果たしうるだけの力があった事は否定できませんね。

また日露戦争前に田中宮内大臣伯爵達が坂本龍馬を持ち上げ始めた、というのも日本伝統の御霊信仰、直接的な敗者を神として祀る、という文化的な面があったのかもしれません(つまりは元勲が勝者であり、坂本龍馬が敗者)

コメントありがとうございます * by 梅のコージ
さぶろた-様

コメントありがとうございます。

平田篤胤については膨大な著述を前にして表面的に捉えるだけでしたが、より詳細な内容を教授頂きありがとうございます。

また、土佐の隠れキリシタンの件も情報ありがとうございます。

山の民とはサンカのことかなぁ?と思いますが、昔は戸籍がなかったと言われますが、現代でもそんな人いるんですかね・・・?

後、てき屋と寺社の関係とか興味尽きないですね。

                     梅のコージ

土佐とキリスト教 * by さぶろた
長宗我部元親の時の戸次川(大野川)の戦いで、キリスト教大名の応援をして、長宗我部は負けてます。
仁淀川河口から少し上にいった右岸に「八十」ヤソと言う字地名がありそこには小さなヤソ神社があります。土佐にも一時期隠れキリシタンがいたのかもしれません。

バックアップのネットワークを広げた元は、霊能真柱が好まれてたこと。山で暮らす民には口コミですでに幽明一如の信仰は、救いのように広く広がってたと思います。

伊予大洲藩が天皇の東京行幸の先頭になったのは、彦根藩伊井家のような小藩に権威指南役を与えるやり方だと思いますが、平田篤胤の養子の鐵胤や矢野玄道が出た藩だったから選ばれた理由ももあるかもしれないな、と思ってます。

再考 「坂本龍馬暗殺の黒幕は誰か?」 前編

実は高杉晋作はなぜ、「NHKの大河ドラマで主役として取り上げられないのか?」 その理由を書いてみたいと思っていたのですが、 高杉のことを調べるうち、高杉と同様に、まるで役割を終えて彗星のごとく去っていった坂本龍馬の暗殺の謎がどうにも気になって調べてみました。 (坂本龍馬) そしたら、共に暗殺された中岡新太郎の黒幕説まで飛び出しているなど、諸説・混乱していることを知りました。 (中岡慎太郎)それら各黒幕...

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二条城本丸御殿の車寄せ(玄関)を作ってみました。

今、塀フェチに凝っています。あれこれ、20塀ほど作ったかな? というのも、昔のお屋敷にとって塀はいろんな意味で欠かせない建築パーツでしたからね。身分の上下から、公家、武士、町屋、庄屋と、それらの階級に従って様々な塀が作られました。 日本建築にとって屋敷を取り巻く塀はステータスとともに低い家並に一定のアウトラインを引く水平志向の美しさがあります。同じ塀といってもコンクリートブロックだとガックリですけど。...

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幸せな「 i f 」-禁門の変と京唐紙

歴史に「if」は禁物といいますが、「もし、残っていなければ・・・どうなっていただろう?」と、こんなifは幸せなifですよね。宇治の平等院鳳凰堂や姫路城、二条城二の丸御殿、京都御所など、そんな建物の一つです。不思議と、歴史には各時代、各分野を代表する唯一の存在・・・そんな残り方が意外と多いですが、偶然と思ってきたことが、実は、その裏に残すための先人の血の滲むような努力があったと思います。 きょうも、...

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私自身は * by taka
お目に掛かった事はありませんが、やはり日本を代表する工芸品であるという認識はありますね。

現在文化財にもなっている『斎宮女御集』や『九条殿御集』等公卿の日記にも使用されていますから、まさに我が国が誇る伝統文化と言える事が出来ますね。

ちなみに唐長屋長右衛門さんは京都の人ではなく、元は摂津の人だそうですね。

入江家について

読者の方から公家の入江家についても、その様子などわかったら知りたい旨のリクエストがあったのでブログ経由でお応えしたいと思います。 結果から先に申しますと、「華族建家坪数控」には入江家は載っていませんでした。ですからせっかくのリクエストですが十分なお答えができず申し訳ありませんでした。 「華族建家坪数控」についてですが京都府総合資料館から一式複写で資料を送付してもらいましたが、そのなかには紙面の関係で...

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幕末、京都は高層建築ラッシュだった!?

江戸期・慶安二年(1649)の幕府による三階建て禁止令により、原則、それ以降三階建ては、武家屋敷、町屋共に建てられなくなりました。京では本二階さえも通りに面しては建てなくなりました(これは町組による自主規制、ただし、通りから入った裏手には本二階を建てていた)。ちなみに屋根の低い厨子二階といわれる京独自の低い統一した町並みは、一つには町衆の大火の後の建設予算の節約の為そうなった側面があると言われています。で...

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お礼 * by 深澤光佐子
さっそくのお返事ありがとうございました。写真集は持っていますが、資料所在調査報告はしらなかったので、大変参考になりました。ありがとうございました。

Re: 3D京都を拝見して * by 梅のコージ
Fさま、
拙ブログを訪問していただきありがとうございます。

メール宛へ返信しようとしたらアドレスの後半部分が文字化けしていましたので、当ブログ経由で返信いたします。


お問い合わせの件ですが、手元にある山階宮関係の資料はブログに掲載した旧山階宮邸の移築写真と、後、吉川引文館から出版されている、学習院大学史料館 編『写真集 近代皇族の記憶 山階宮三代』だけです。もし、同写真集をお持ちでないようでしたら(持っていたらごめんなさい)、購入か、県図書館クラスへ行けば蔵書があると思います。

後、手元に、同じく学習院大学史料館から刊行されている「旧華族家資料所在調査報告」がありますが、そこに載っている山階宮家から臣籍降下され、華族となられた山階家、筑波家、
鹿島家、葛城家の各家の調査報告を参考にされたら、ひょっとして、山階宮晃親王までたどり着く資料が見つかるかもしれません。

同旧華族家資料所在調査報告、は、私も学習院大学史料館へ行ってコピーしてきました。ただコピーしたのは公家関係だけでしたので、臣籍降下された宮家出身の華族の資料はありません。一度、学習院大学史料館へ行かれてみるのも良いかと思います(これも、すでにコピー済みでしたらごめんなさい)。

以上です。お役に立てず申し訳ありません。どうか研究テーマの方、頑張ってください。

また、当ブログに良かったら寄ってください。

                                                                     「3D京都」管理人(梅のコージ)


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京都御所の移り変わり

京都御所へ行くと何ともいえない清浄感に満たされます。そこで今回は御所の変遷について写真を交え書きたいと思います。御所は春と秋の年二回一般公開されますが、奥にある皇后宮御殿、さらにその奥の飛香舎が公開されることはありません。しかし、その飛香舎こそ平安の古制を一番残しているといわれる場所です。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、平安内裏の後宮の七殿五舎のうちの一つで、清涼殿の北西に隣り合った位置にあったことから...

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澪標様
コメントありがとうございます。
拙いブログですが何かのお役に立てば幸いです。

時間潰しでもチョコ、チョコ寄ってくださいね。
また、私でわかる範囲内でしたらコメントのお返しできると思いますのでよろしくです。

No Subject * by 澪標
京一朗様
いつもお世話になっております。
お忙しい中、コメントの翌日に宮内庁へ問い合わせいただいたのに、ご返信が遅れてしまい申し訳ございません。
部材に関しまして残っていれば復元が容易になるだけに、現存していないのはすごく残念という気持ちです。
二条城に移築された桂宮邸も廊下や一部の建物が建物疎開され復元されていない部分がありますが、同じく現存していないのでしょうね。
御所の建物疎開も焼夷弾の延焼を防ぐために、廊下を解体するならまだしも、半分近くも取り壊されていることに関しましても首を傾げたくなりますが、このことに関しても当時の業務記録を当たるしかないですね。

拙い文章であるにも関わらず、迅速な調査をして下さいましてありがとうございました。
また京一郎様にお世話になるかもしれませんが、その時は宜しくお願い致します。

お返事です。 * by 京一朗
澪標様 コメントありがとうございます。
戦争中の京都御所の建物疎開のことについてですが、私もわからないので宮内庁京都事務所に直接電話して聞きました。それによると、昭和20年6月~7月の間で解体されたそうで、その解体された建物の部材、建材は残ってないそうです。その辺の詳細は宮内庁書陵部に保存されている当時の業務文書を調べればわかるかもしれないとのこと。記述の中には部材もどこか転用された記録があるかもしれませんね。でも調べるのも大変だと思います。同事務所の見解としては「当時の部材は残されていない」ということです。また、今後、疎開で解体された建物については復元、再建する予定は今のところないそうです。

ご期待に添えないお返事で申し訳ありません。

No Subject * by 澪標
戦争中の建物疎開で失われた台所や長局などの部材はどこに行ったのでしょうか?
保管されていれば復元しても良いはずなのに、されないということは廃棄してしまったと考えてしまいますが、当時も文化財という認識はあったはずですし謎です。
ご存知でしたらお教え下さいませんでしょうか?

NoTitle * by 京一朗
長屋門様
コメントありがとうございます。
そうですね。日本はもっと景観は皆のもの。というパブリック精神を発揮する必要がありますね。

* by 長屋門
戦時中に潰された建造物は今からでも復元してほしいですね。新興住宅高層ビルばかり建てないで。

哀しからずや冷泉為恭

哀しからずや冷泉為恭、為恭の事を思うと、悲しくて、哀しくて、愛しくて、かなしくて、いろんな思いが交錯します。自分も公家好きだけあって、ちょっと人事には思えません・・・そこで今日は先回ご紹介できなかった作品の数々をアップしますね。参考資料はいずれも岡崎市美術博物館刊の「冷泉為恭展 幕末やまと絵夢花火」です。この展示会には同館の学芸員・杉山明美さんが奔走されたそうで改めてありがとうございます。裏方ここ...

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