24日、皇居の本丸北に位置する宮内庁の公文書館へ行ってきました。同館は宮内庁書陵部に属し明治以後の宮内省・宮内府・宮内庁が作成又は取得し,同館に移管された特定歴史公文書等を所蔵している所です。同じ書陵部には明治以前の代々皇室に伝わってきたものを中核とする古典籍・古文書類を所蔵している図書寮があります。どちらも同じ書陵部の建物の中にあります。以前、数度、図書寮の方へは行ったことがありますが公文書館の方...
2019-05-26 (Sun)
2019-01-05 (Sat)
正月三が日も過ぎてもうおとそ気分も何処へやら? さぁ、気分を変えてブログの記事始めです。旧年からの続きもの「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(七)」を書くため、油小路家の事を調べていましたら、どうも屋敷跡の場所が御苑東の荒神口であることは確かなのですが、荒神口といっても荒神口通りに沿って結構広いので、前回まで示した、荒神口の地名の元ともなった護浄院(清荒神)の南裏手の推定場所は間違ってい...
謹賀新年 * by 五反田猫
京一郎さま
昨年は素晴らしいコンテンツを有難うございます。
本年もどうぞ宜しくお願いします。
明治維新は京都の公家にとっては大変革でしたよね。
朝廷側の中心にいた公家は明治維新では勝ち組のはずですが、時代の変化についてゆけない人や家も多かったようです。
特に二百年やってきた家職を棄てて、皇室の藩屏となり文明開化を率先せよと言われても、後者は大変な事だと思います。
東京に移った側も大変で、高位や蓄えの多い家はともかく、従来 武家の下級武士程度の収入だった平堂上が子爵だと言われても身に着いた貧乏はどうにもなりません。
東京への移動は、行列に紛れ込んで旅費を浮かしたり、東京での住まいが手配できず、新宿御苑の中に仮設住宅を作って頂き、ここに住まいした家もあったと聞きました。
今年は、御代替りの年、色々な事があると思いますが、良いお年である事をお祈り申し上げます。
昨年は素晴らしいコンテンツを有難うございます。
本年もどうぞ宜しくお願いします。
明治維新は京都の公家にとっては大変革でしたよね。
朝廷側の中心にいた公家は明治維新では勝ち組のはずですが、時代の変化についてゆけない人や家も多かったようです。
特に二百年やってきた家職を棄てて、皇室の藩屏となり文明開化を率先せよと言われても、後者は大変な事だと思います。
東京に移った側も大変で、高位や蓄えの多い家はともかく、従来 武家の下級武士程度の収入だった平堂上が子爵だと言われても身に着いた貧乏はどうにもなりません。
東京への移動は、行列に紛れ込んで旅費を浮かしたり、東京での住まいが手配できず、新宿御苑の中に仮設住宅を作って頂き、ここに住まいした家もあったと聞きました。
今年は、御代替りの年、色々な事があると思いますが、良いお年である事をお祈り申し上げます。
No Subject * by 京一朗
Hakka様 コメントありがとうございます。
今年も宜しくお付き合いください。
京都の古図を見ていると意外な発見とかありますね。御所のある上京区の住宅地図もあるのでそれと照合しようかな 笑。
自分は主に公家屋敷のことを書いてますが、一つのものを追っていくと、予期せぬ展開とかあるものだな、と最近思います。
今年も宜しくお付き合いください。
京都の古図を見ていると意外な発見とかありますね。御所のある上京区の住宅地図もあるのでそれと照合しようかな 笑。
自分は主に公家屋敷のことを書いてますが、一つのものを追っていくと、予期せぬ展開とかあるものだな、と最近思います。
No Subject * by Hakka
こんばんは。
新撰京都古今全図の地図、興味深いですね。
京都には名もない古民家が多く残されているので、その中にかつての公家屋敷があるかもしれないと考えると、わくわくしますね。
新撰京都古今全図の地図、興味深いですね。
京都には名もない古民家が多く残されているので、その中にかつての公家屋敷があるかもしれないと考えると、わくわくしますね。
2012-11-03 (Sat)
タイトルの件遅くなってしまいましたが、以前、読者の方から公家・長谷家について幕末等当時の京都御苑内にあった同家屋敷の坪数や家屋敷の様子・来歴など、もし、わかったら教えて頂きたい・・・とのご依頼がありました。ひょっとして長谷家のご縁の方なぁ・・・とも思いましたが、果たしてどうでしょう?ちなみに同家は「はせ」とは呼ばず「ながたに」家と言い表します。 まず、依頼のあった同家の幕末明治維新の家屋敷の史料は...
管理人のみ閲覧できます * by -
* by taka
微風様 も大変公家や京文化にお詳しくていらっしゃりますね。恐らくご子孫の方か? 学者ではないか? と推察しておりますが。
確か従三位肥後局は、あの阿茶局で有名な神尾家に後に嫁いでいますね。ある意味神尾家には女傑に恵まれていたと仰っても過言ではないでしょう。
さて長谷家ですが、単なる噂話の可能性は当然あります。その可能性を捨てては決していけないとは思いますが、同時に日記や記録に具体例として名前が挙がっているという事実も忘れてはいけません。歴史を研究している者にとって、日記や記録が全て噂話、宛てにならないの一言だと今現在学んでいる歴史全てが虚言妄言の類になるでしょう。そしてそれが噂話の場合、何故長谷家の名前が挙がったのか? という事も考える必要があるかと思います。
絵を良くして雅=盗賊・荒事は無い、というのはある意味そうでしょうが、天台座主明雲は仏法を極め『千戴集』にも掲載される歌人ですが、戦場で信州の逆賊木曽義仲と戦って討死しております。持明院家も基久が豊臣方として大坂城に入り討死する等している事から、公家=雅一辺倒という概念はあたらないように思えます。
三男時充は『天保改正諸家知譜拙記』によれば25歳で切害との記述もありますが、その記述についても解明しなければなりません。その他、長谷家以外の『翁草』の「某卿解官の事」等に描かれた公家の背景を見ると、信憑性は決して無視できないのではないか? と思います。
確か従三位肥後局は、あの阿茶局で有名な神尾家に後に嫁いでいますね。ある意味神尾家には女傑に恵まれていたと仰っても過言ではないでしょう。
さて長谷家ですが、単なる噂話の可能性は当然あります。その可能性を捨てては決していけないとは思いますが、同時に日記や記録に具体例として名前が挙がっているという事実も忘れてはいけません。歴史を研究している者にとって、日記や記録が全て噂話、宛てにならないの一言だと今現在学んでいる歴史全てが虚言妄言の類になるでしょう。そしてそれが噂話の場合、何故長谷家の名前が挙がったのか? という事も考える必要があるかと思います。
絵を良くして雅=盗賊・荒事は無い、というのはある意味そうでしょうが、天台座主明雲は仏法を極め『千戴集』にも掲載される歌人ですが、戦場で信州の逆賊木曽義仲と戦って討死しております。持明院家も基久が豊臣方として大坂城に入り討死する等している事から、公家=雅一辺倒という概念はあたらないように思えます。
三男時充は『天保改正諸家知譜拙記』によれば25歳で切害との記述もありますが、その記述についても解明しなければなりません。その他、長谷家以外の『翁草』の「某卿解官の事」等に描かれた公家の背景を見ると、信憑性は決して無視できないのではないか? と思います。
嫡子忠福 * by 微風
三男時充については前記のとおりですが、忠康の長男忠福(ただふう)は、元服叙爵してまもなく5歳で禅林に出家得度しています。これについては、「?」という気がするのが普通かと思いますが、これは父親の忠康や本院(後水尾院)の意向であるよりは、二男時茂がお気に入りであった女院(東福門院)や明正院の思し召しのようです。
噂話? * by 微風
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容。
おそらくこの元記事は、妙法院門跡 尭恕法親王の日記(寛文9年11月12日条)かと思いますが、実際のところは伝聞で真偽はかなりあやしいかと。
個人的には何らかの非行はあっただろうと推測しますが、絵が得意と伝えられ、、『隔蓂記』(寛文7年12月12日条)に鳳林承章から渡宋天神像を依頼されるほどであった若公家が押し入り強盗をするほど悪党であったとは、まるでイメージが合わないのです。しかも後水尾院がお忍びで市中にお出かけになる際、ただ一人の随行者であったことがしばしばであった時充が、いきなり盗賊の棟梁になれるのかも疑問です。
ちなみに長谷家の初代忠康室は北畠一族である旗本星合具枚の娘満子です。これは東福門院のお声がかりで長谷家に嫁したものであり、満子の叔母は女院の信頼する梅子(仕東福門院。女官預。従三位。肥後局)でした。このため長谷忠康の息子たちは下級公家の出ではあったものの女院からかわいがられ、特に早世した図書頭時茂は美貌であったことから、その幼児期には新院(明正天皇)からの思し召しも極めてめでたかったと伝えられているほどです。
当時、後水尾院から不興を被っただけで、新家程度なら即座に廃絶されるのが通例です。そうしたこともなく明治維新まで無事に家が続いたのですから「盗賊の棟梁」は話としてはおもしろいものの、おそらく事実とはかなり異なる脚色が加えられていると思います。
おそらくこの元記事は、妙法院門跡 尭恕法親王の日記(寛文9年11月12日条)かと思いますが、実際のところは伝聞で真偽はかなりあやしいかと。
個人的には何らかの非行はあっただろうと推測しますが、絵が得意と伝えられ、、『隔蓂記』(寛文7年12月12日条)に鳳林承章から渡宋天神像を依頼されるほどであった若公家が押し入り強盗をするほど悪党であったとは、まるでイメージが合わないのです。しかも後水尾院がお忍びで市中にお出かけになる際、ただ一人の随行者であったことがしばしばであった時充が、いきなり盗賊の棟梁になれるのかも疑問です。
ちなみに長谷家の初代忠康室は北畠一族である旗本星合具枚の娘満子です。これは東福門院のお声がかりで長谷家に嫁したものであり、満子の叔母は女院の信頼する梅子(仕東福門院。女官預。従三位。肥後局)でした。このため長谷忠康の息子たちは下級公家の出ではあったものの女院からかわいがられ、特に早世した図書頭時茂は美貌であったことから、その幼児期には新院(明正天皇)からの思し召しも極めてめでたかったと伝えられているほどです。
当時、後水尾院から不興を被っただけで、新家程度なら即座に廃絶されるのが通例です。そうしたこともなく明治維新まで無事に家が続いたのですから「盗賊の棟梁」は話としてはおもしろいものの、おそらく事実とはかなり異なる脚色が加えられていると思います。
長谷家について * by 微風
西洞院家と石井家が半家で、その他の傍流平松、長谷、交野の諸家が名家であったのは、近衛家の当時の当主近衛基熙の指図です。そのようにしたのは、いろいろと屁理屈はあるのでしょうが、発端であり原因は一条冬経が序列を超えて関白に任じられた折、縁者(父親の一条教輔の母親は西洞院家出身)として任官の儀式の際に西洞院時成が随身をつとめることを請われ、断りきれずに引き受けたことから、「近衛家門流にもかかわらず不届き者めが!」という感じなのか、それ以降西洞院家は冷遇され続けたとか。
こちらこそ * by taka
よろしくお願いします。
長谷家は恐らく廃嫡する事で難を乗り切ったのではないでしょうか? 江戸時代とはいえ、三位と言えば公卿。むやみやたらに公卿を取り潰すというのは、朝廷も幕府も世間体を気にして出来なかったのでしょう。
嫡子は忠福だったそうですが年不明ながら出家されていますし、三男時充は切害されたそうですからどちらかでしょう。
家督は四男の忠能(従四位上 兵部権大輔)で落ちついたそうです。
長谷家は恐らく廃嫡する事で難を乗り切ったのではないでしょうか? 江戸時代とはいえ、三位と言えば公卿。むやみやたらに公卿を取り潰すというのは、朝廷も幕府も世間体を気にして出来なかったのでしょう。
嫡子は忠福だったそうですが年不明ながら出家されていますし、三男時充は切害されたそうですからどちらかでしょう。
家督は四男の忠能(従四位上 兵部権大輔)で落ちついたそうです。
* by 梅のコージ
takaさま、
貴重なお公家さんの情報をありがとうございます。
確かにお公家さんも体面を保つため、いろいろと苦労が多かったみたいですね。
儀式の時だけ、バイトで雇う俄か家来もたくさんいたでしょうね。
大名行列の臨時雇いと一緒ですね。
長谷家について、まさか、ご先祖様が盗賊の棟梁とは想像できませんでした!
というか、良くお家断絶にならなかったですね・・・?
これからも宜しくです。
梅のコージ
の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
From: taka * 2012/11/05 15:54 * URL * [Edit] * top↑
長谷家について
長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
貴重なお公家さんの情報をありがとうございます。
確かにお公家さんも体面を保つため、いろいろと苦労が多かったみたいですね。
儀式の時だけ、バイトで雇う俄か家来もたくさんいたでしょうね。
大名行列の臨時雇いと一緒ですね。
長谷家について、まさか、ご先祖様が盗賊の棟梁とは想像できませんでした!
というか、良くお家断絶にならなかったですね・・・?
これからも宜しくです。
梅のコージ
の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
From: taka * 2012/11/05 15:54 * URL * [Edit] * top↑
長谷家について
長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
長谷家について * by taka
長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
ブログの文中に「なにか家業はあったのでしょうか?」と記述されていましたが、この記事を見るとやはり正味三十石の手取りしか無かったと思われます。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
ブログの文中に「なにか家業はあったのでしょうか?」と記述されていましたが、この記事を見るとやはり正味三十石の手取りしか無かったと思われます。
江戸時代公家の財政について * by taka
どうも。いつも楽しみに拝見させていただいております。長谷家については不思儀ですよね~ 西洞院家の分家は平松家・長谷家・交野家等がありますが、何故か分家がみな名家なんですよね。その理由についてこちらも調べてみようと思っています。何か解かったらこちらに書き込みしますので。
さて、当時の公家の生活の貧窮度合いについてですが、五摂家といえども決して暮らし向きは楽ではなかった。否、五摂家だからこそ暮らし向きはきつかったのでは無いでしょうか? というのも摂家というのは公卿の中でも最高の家格を有する家、現代でも政財界のトップクラスの人達が100均で買った食べ物等が食べられないのと同様、他の公家よりも格式高い生活を心掛けなければならない分余計に大変だったと思います。
例えば九条家は宝暦年間には伝来の什器を質入する程困窮し、幕府に買い戻すため知行地二千余石を差し出す代わりに二万両を借りたいと申し出て断られているそうです。摂関家の中で本当に全く生活の心配がない家があるとすれば近衛家くらいなもので、他の四家は決して裕福ではなかったと思われます。
摂関家以外だと良く言われるのが家元制度が経済基盤(例えば琵琶や蹴鞠の飛鳥井家、歌の冷泉家等)であるとされていますが、許認可権をもつ公家は特に裕福とされています。例えば清華家の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
さて、当時の公家の生活の貧窮度合いについてですが、五摂家といえども決して暮らし向きは楽ではなかった。否、五摂家だからこそ暮らし向きはきつかったのでは無いでしょうか? というのも摂家というのは公卿の中でも最高の家格を有する家、現代でも政財界のトップクラスの人達が100均で買った食べ物等が食べられないのと同様、他の公家よりも格式高い生活を心掛けなければならない分余計に大変だったと思います。
例えば九条家は宝暦年間には伝来の什器を質入する程困窮し、幕府に買い戻すため知行地二千余石を差し出す代わりに二万両を借りたいと申し出て断られているそうです。摂関家の中で本当に全く生活の心配がない家があるとすれば近衛家くらいなもので、他の四家は決して裕福ではなかったと思われます。
摂関家以外だと良く言われるのが家元制度が経済基盤(例えば琵琶や蹴鞠の飛鳥井家、歌の冷泉家等)であるとされていますが、許認可権をもつ公家は特に裕福とされています。例えば清華家の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
今年も宜しくお願いします。
自分の中では、旧年中に紫宸殿の高御座を作って御大典がどんなものかブログにも書いてみたいと思ってましたが年を越えてしまいました。
公家屋敷跡の巡礼旅シリーズも想定より続編が続き、かつ、その間にまた新たな屋敷跡、別宅跡とか見つけてしまう・・・という感じでなかなか解放してくれません 笑。でも、まぁ、楽しく書こうと思ってます。
浩宮様の大礼がつつがなく挙行されることを願ってます。殿下の髪にも白髪が見えますね。時の流れを感じます。
五反田猫様も今年も良き年でありますように。