3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 > 御所

金閣北山第宸殿or室町時代内裏紫宸殿を造りました。

先回、金閣北山第の3D宸殿屋根を作りましたが今回、建物全体の外観が出来ました。まずは、その全体画像から(各写真をクリックすると拡大します)、正面からの3Dです。モデルにした仁和寺金堂の屋根を本来の桧皮葺にしました。また、同金堂の蔀戸と同じ漆黒に金細工を施した華麗な姿にしました。これが創建当時の蔀戸か寺院本堂になってから後の変更か、それはわかりません。その本来の仁和寺金堂の写真です。まぁ、似てますよね...

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内裏の正殿・紫宸殿の変遷

今回、金閣北山第の3D製作するにあたって金閣の次に同第の正殿、天皇を迎えるための宸殿(紫宸殿)作りに取り掛かっている訳ですが、では当時、義満の室町時代、どんな規模、形をしていたのか?いまいちよく分からなかったので、平安時代から室町、幕末、現在の御所・紫宸殿まで資料を集め自分なりの北山第宸殿を考えてみました。現在、残っている遺構で見ますと、(幕末・安政二年、一八五五年造営の紫宸殿)そして、慶長度造営...

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NoTitle * by -
迅速かつ丁寧な返信大変ありがとうございます。いつも更新楽しみにしております。
寒くなってきましたので、お体にお気をつけください。

引用元が間違っていました。 * by 管理人です
コメントありがとうございます。
引用元ですがこちらが間違っていました。
正しくは、
淡交社刊の「古寺巡礼 京都 11 仁和寺」でした。
1977年刊行で山本健吉氏著です。
間違って引用し申し訳ありませんでした。
また、貴重な時間を割いてしまったことも
申し訳ありませんでした。
今後はこんなことがないよう気をつけます。

仁和寺金堂の図面について * by -
いつも勉強になりながら拝読しています。
ところで質問なのですが、仁和寺金堂の図面は、日本名建築写真選集(新潮社)の何巻からの引用なのでしょうか。手にとってみたのですが、見当たりませんでした。お忙しいところすみません。ご教授いただけると幸いです。

戦国時代、天皇を支えた禁裏小番の公家たち

今日は戦国時代の内裏を取り上げてみたいと思います。 表題にあります「禁裏小番」とは、大納言以下の公家(公卿・殿上人)が5もしくは6番の小番(グループ)に分かれて内裏の当番宿直を担当したもので明治維新まで行なわれました。 その禁裏小番について今回取り上げるものですが、まずは当時・戦国時代の朝廷を取り巻く時代背景を説明したいと思います。 広義の意味では「室町時代」とは、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に補任されて...

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* by taka
この記事については全く同感です。彼等の我慢と働きがあってこそ現在の皇室に繋がっていたという歴史は決して忘れてはならないですね。特に所謂摂関家清華家等の最上流の公卿達は自分達の生活が困れば有力大名の領国に下向して朝廷以上の収入を得ていたのに対して、皇室と禁裏小番の公卿・公家達は京都を動かず、あるいは山科家の様に下向したとしても朝廷への援助の為に頭を下げに行く、そういった血の滲む努力をしていたのですから驚かされます。

ところで 奥野高広氏 の著述は資料としては一級品ですが、その考え方には非常に大きな違和感があります。例えば現代、首相の仕事を貯金0で年収100万円で全てこなしているとします。そうなると首相の仕事は大きく滞り貧窮国となりますが、100万円の年収でもあるじゃないかと見るか? そんな年収しかないと見るか? で大きく見方が異なります。

歴史の資料を見ると後土御門天皇の玉体が放置されていた事は事実ですし、後柏原・後奈良両天皇の即位の儀式が思うように開けなかった事も事実です。その事実を差し置いて朝廷に七百五十貫文ばかりの収入があるからといって貧窮していなかったという論や、戦国時代の大名や武将達の免罪符には決してならないと思います。

例えば前田利家、彼は織田信長公の茶坊主を斬り捨てて出奔しましたが、永禄四年(1561年)の森部の戦いで活躍して帰参しました。その時の領地は三百貫文(もしくは四百五十貫文)と言われていますし、山内一豊に至っては岩倉織田氏の家老だったというだけで五百貫文の領地を貰っております。つまり朝廷の収入というのは、中堅所の武将の初任給とほぼ同等程度のものしかないと言えます。

織田信長公は権力基盤を獲得する為に朝廷を利用し、豊臣秀吉は朝廷権力に依存し、徳川家康は朝廷を畏怖していたと言えますが、三者三様に朝廷にはそれなりの力ある者として敬意と恐れを有していましたが、室町全般(戦国時代)は朝廷を軽んじるしか能がない武将達が蔓延った最悪の時代と言えるでしょう。

京都御所の春の一般公開が4日(水)~8日(日)から始まってます。

京都御所の春の一般公開が4日(水)~8日(日)から始まってます。 今年は、7日に午前中10~11時 雅楽     8日に午前中10~11時 蹴鞠 がアトラクションで行なわれるようです。 通例ですと、二条城の本丸御殿(旧桂宮御殿)も同じ期間中特別公開されるのですが、2007年度から五ヵ年の計画で耐震補強の工事に入っていて見学できません。今年はその6年目にあたるので、そろそろ解禁と思うのですが、二条城の公式HPでは、まだ正式な...

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「小 壁」の誇り・・・もしくは矜持

天皇家と徳川将軍家ってどう違うの?と言っても全然違うので今回は住宅史のある一面から、その違いをちょっと浮き彫りにしてみたいと思います。表記のタイトル「小壁」ですが「こかべ」と言います。まずはこの「小壁」とは何ぞや?から入っていきたいと思います。建築用語辞典によれば、鴨居から天井までの間の壁のことを「小壁」というそうです。じゃ、その小壁が天皇家と将軍家に何の関係があるの?となってくるわけですが、まず...

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Re: 内法長押上小壁の装飾 * by 梅のコージ

後藤さま、
ご返事遅れて申し訳ありません。体調の方もほぼ前に戻り元気になりました。
11月1日付でブログ記事をアップ致しましたので、宜しかったら覗いてみてください。
ありがとうございました。

>  装飾小壁の初見は、伏見城では無く、元和3年~造営計画が始まった徳川和子(まさこ)の入内に備えた御殿だと思われます。
>  川上先生が最初に伏見城説を日本建築学会の大会で発表されたのですが、この時後藤も装飾小壁・絵天井の初見は、伏見城では無く、元和の徳川和子入内御殿群中の小堀遠州が奉行を務めた御殿である由の発表を行いました。
>  川上先生と後藤の間で議論になり、伏見城の御殿の装飾小壁は内法長押の上の小壁で有ることは証明できず、史料上では元和の御殿であることで両者の見解が一致しました。
>  これについては、日本建築学会の大会の梗概集に載っておりますが、残念ながら日本建築学会のデ-タベースには入っておりません。もしご希望なら論文をpdf化してお送りしますので、PCのアドレスをお知らせ下さい。ただこれでは議論の様子は分かりません。当時の発表に立ち会った、当事者で無い在命の研究者にお尋ね下さい。例えば京都女子大学の斎藤英俊教授などは現役ですので答えてくれると思います。

内法長押上小壁の装飾 * by 後藤久太郎
 装飾小壁の初見は、伏見城では無く、元和3年~造営計画が始まった徳川和子(まさこ)の入内に備えた御殿だと思われます。
 川上先生が最初に伏見城説を日本建築学会の大会で発表されたのですが、この時後藤も装飾小壁・絵天井の初見は、伏見城では無く、元和の徳川和子入内御殿群中の小堀遠州が奉行を務めた御殿である由の発表を行いました。
 川上先生と後藤の間で議論になり、伏見城の御殿の装飾小壁は内法長押の上の小壁で有ることは証明できず、史料上では元和の御殿であることで両者の見解が一致しました。
 これについては、日本建築学会の大会の梗概集に載っておりますが、残念ながら日本建築学会のデ-タベースには入っておりません。もしご希望なら論文をpdf化してお送りしますので、PCのアドレスをお知らせ下さい。ただこれでは議論の様子は分かりません。当時の発表に立ち会った、当事者で無い在命の研究者にお尋ね下さい。例えば京都女子大学の斎藤英俊教授などは現役ですので答えてくれると思います。

幕末の京都御苑内・公家町地図をアップしました。

幕末の京都御所を取り巻くように存在した公家町の地図をアップしました。ピンクの枠線内が現在の京都御苑の敷地内です。これでみると幕末は公家数も約130家と増えて御苑外にはみ出ていたのがわかります。また東の鴨川沿いや京洛外にも別屋敷とかあって数軒の家を持つ公家も珍しくはなかったそうです。元となる地図は京都市刊行の「京都の歴史・第七巻維新の激動」に付録の地図からです。ちなみに地図上の公家さん宅に引いてある赤...

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