先回は院政期を代表する法勝寺八角九重塔を復元しましたが、今回同じく法勝寺の金堂を復元してみました。これもブログ初期に作っていますが、今回、新たにリニュアールしました。今日の記事では八角九重塔も含めた3DCGをアップしようかと思いましたが、時間の制約もあって次回に譲ります。さて、金堂ですが、過去に記事も書いているので重複しますが、その点はご容赦を。法勝寺及び六勝寺ですが、1077年(承暦元年)白河法皇の法...
先日、本屋さんに寄ったところ、一冊の本の背表紙が目に留まりました。その小冊子には「一条天皇」とあり、その瞬間、なぜか吸い込まれるように本を手に取りました。すると何か、とても、たおやかな気持ちと香りを感じ、しばし瞑目しました。 遠く平安の御世が、今、自分の目の前に語りかけている感じでした。 考えてみれば、平安時代は不思議な時代です。常に怨霊たちに怯えながら、一方、和歌を交し合い交情を重ねていました、現...
まず、前回の訂正です。 鳥羽法皇が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立された勝金剛院と・・・書きましたが同院の正しい寺院名は勝光明院でした。間違えてすみません。 さて、以前、鳥羽離宮は五つのブロックから構成されていると書きましたが、今回の勝光明院は鳥羽法皇の二番目に建立された御堂で御所である北殿の東にありました。保延二年(1136年)のことです。ちなみに同離宮の内、最初に建てられた証金剛院(白河法皇の発願)を除い...
>効果はいかに?
効果はそこそこと思いますが、ブログやこういった物は宣伝力とともに忍耐力持続力が物を言いますし大切な事だと思います。
さて
>当時、同勝光明院が平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)を模して建てられたのも、それだけ当時から華やかで平
>安時代の仏教建築を代表する一つとして評判を呼んだんでしょうね。
これはその通りでしょうが、同時に鳥羽天皇の対抗意識もあったのは確かでしょうね。平等院の壮麗さというのはまさに藤原氏の象徴、鳥羽離宮こそが一番素晴しい建物群であるべきだという意識はあったと思いますね。
ちなみに『太平記』巻三には六波羅探題の兵により後醍醐天皇を平等院に遷した記述や、巻十四では宇治の戦いで大楠公が放った火で平等院が悉く焼けた事が記述されております。恐らくこれが平等院の終焉の記述かと思います。現在は鳳凰堂及び鎌倉時代に建立された観音堂が古い建物と言えます。
それと梅のコージさんがアップしている写真はデジカメですよね? デジカメならフィルム代は掛からないので一ヶ所のアングルで複数枚撮影した方が良いでしょう。私の場合もデジカメにクセがあるので、水平と右傾き・左傾きで平均5~6枚撮影しています。
前回一期工事で法住寺殿南殿の建物の方を取り合えず3Dで製作してみました。室内は未定ですけど、いずれかの機会、寝殿造りの室内を造作してみたいと思ってます。 で、今回、建物周りの外溝工事をメインに大池や中島、二階釣り殿、門や塀などを造りこみました。外溝についてはわからない事も多く、多分に想像力で造ってみましたので、あるいは史実とずれているところもあろうかと思いますけど、そこは単純に目の保養と思って見て...
江戸時代、あまりにも派手過ぎて幕府に財産を没収された難波の豪商・淀屋辰五郎という人物がいました。なんでも天井をビードロ、今でいうガラスで一面に覆い、そこには鯉がゆうゆうと泳いでいたという話です。どこまで本当かわかりませんが、江戸の豪商の気概みたいなものは伝わりますね。でも鯉が泳いでいたということは水が張ってあったんですよね?で・・・そこから水繋がりで清盛の泉殿にたどり着く訳です(笑)。今も昔も人は新...
人間は単純ではありませんので様々な理由があるのが当然でそれも一つの理由とも言えますが、私自身は『源氏物語』を読むにつけ単純に紫式部は道長派として藤原道長に同調していたとは思いがたいものを感じています。もっとも今の作詞家や小説家が自分の体験を必ずしも描いていないのと同様、当時の和歌や物語から読み取るのは中々危険な事ではありますが。
例えば光源氏の出自、彼は桐壷帝の第二皇子として第一皇子に何かあれば帝位につくべき人であり、読書始めの段では「世に知らず聡う賢くおはすれば」と才能豊かでありながら、高麗人の観相、源姓賜るの段では「そなたにて乱れ憂ふ事やあらむ」と帝位に就けるなと言われ、さらに観相後は父桐壷帝から「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ」と外戚が居ない事を匂わせています。最初の桐壺だけを読むだけで如何に当時皇位に即いた人間の意志が尊重されていなかったか? 当時皇位を即くのが才能とは全く関係の無い政治的な背景だったか? それが良く解かる一文です。
また『源氏物語』では当時の女性がどの様な男性を理想としていたかが良く解かります。例えば絶世の美男である貴公子と言えば在原業平、源融、全て皇室の血筋であり摂関家出身で世に聞こえる貴公子はいません。皇室の血筋で今で言う超イケメンが理想の第一、次に息子の教育方法です。乙女に描かれている夕霧の元服について、世の人は「太政大臣の息子だから四位だ」と思っていたのに対して光源氏は「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」として六位として大学に入れるというなんとも謙虚にして、女性関係とは対照的な生真面目さが光る一文があります。この事からすると、子育てに対する生真面目さや周囲に対する謙虚さが理想の一つであったと思われるのです。
貴族子弟には「蔭位制」があり一位の指定は従五位下以上の官位が授けられるのが常で、大学出身と言えば周囲から「苦労人」と哀れまれるのが常です。藤原道長が誤字脱字だらけと書かれておりますが、『古事談』巻六で大江維時が花の名を漢字で書いた所当時の貴族達がこぞって字の読み方の教えを講う、そこまで学力が低下していたのが実情でした。
藤原道長はこういう和歌を詠んでおります
この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも無しと思えば
陽成天皇を廃位し、花山天皇を陰謀によって退位出家させ、摂関権力が最高潮に達した道長によって詠まれたいかにも自分の王朝と言わんばかりの増長した雅さも謙虚さもない和歌。私には『源氏物語』から、一つには浮名ばかり聞こえる男性に対する、もう一つは権力者、特に藤原氏に対する最大限の皮肉が見えてきます。
愛知県は元々寒いですけれど、今年は特に冷えますね~ 大阪も山側は真っ白ですよ。去年の12月は寒く無かったのですが・・・・・ 今年はホワイトクリスマスも夢では無いかも知れませんね。風邪等ひかれないようにしてくださいね^^
梅のコージさんは吉良の近くですか? それは非常に驚きました。『太平記』には様々な隠された要素があるのと同様、元禄赤穂藩士の事件についてもかなりの陰謀の匂いがあると個人的には思っていますがここは平安関係なので省きます。