先の記事で「京都御所ってどんな部屋があったの? さっそく見てみよう!」の補遺を書く旨お伝えしましたが、いざタイトルを見てみると「えっ!幕末の京都御所には1000人も勤めていた!!」、に変わりました。補遺は何処?とお叱りを受けるかもしれませんが、実は補遺の記事用に資料を漁っていましたら「幕末の御所にはこんなにも大勢の人が働いていたのかぁ!」と改めて驚き、「だったら一度、幕末の御所の職制と職務、人数とか調...
今、「平成版 内裏・公家町御絵図」の中心となる紫宸殿の作成に取り掛かっているところです。3Dは多少の集中力が必要なので少し充電しています。私は「公家町再建プロジェクト」と題してカテゴリー欄のなかにチョコチョコ記事を載せていますが、具体的にはどう表現していくのか、ハッキリしたことはあまり考えていませんでした。それが最近、近世・幕末の内裏・公家町絵図を見比べているうち、「私の求めていた公家町はこうなん...
九条道房邸の紹介も今回で最終です。ちょっと引っ張り過ぎたかな?まぁ、それはともかく、最終ということで、掲載する3DCGのなかにはかなり奇妙奇天烈なものもありますので、「遊び心」と思って見てくださいね。さっそくですが、何と!九条邸が京都御苑を離れはるか南方に京都の市街を見下ろす感じで屹立しています。何じゃもんだい・・・って感じですが可笑しいですかね?前も書いたと思いますが、寛永期の九条邸は敷地は約35...
九条邸のその弐各部編-②ということで、今回は屋敷内の建物を見てまわります。ところで、全然関係ない話なのですが、当ブログは「FC2ブログ」の無料登録会員で登録しブログを書いていますが、もう四年目(途中、休眠状態もあったから実質3年かな)にもなるのにブログの使用容量が無料会員の制限容量のまだ2.8%ほどにしか使ってないのです。写真など当ブログの場合、かなり、大判の写真ファイルをアップしているのに、このコストパ...
つくつくぼうぅ~し ♪蝉たちの最終ランナー、ツクツクボウシの鳴き声がさかんに耳に入ってきます。それはそれで良いのですが、実はお盆の温泉から帰ってきて今頃になってお疲れが表面化、悪寒が収まらず、耳鼻科に行ったら喉が炎症してるとのこと。薬を飲んで今は小康状態、だいぶ気分もよくなってきました。それでも、頭も重い感じですから、書斎のささやかなソファーで昼寝。書斎の窓からは小さな森も視えます。すると、半寝、...
お盆も終わり何となく夏の暑さも和らいでいく気分ですね。そう、実際には暑くても盆が過ぎれば気分は夏の終盤を告げます。あの、藤沢周平の小説に出てくる「蝉しぐれ」の怒涛のような鳴き声も鎮まっていきますね。と、そう思ったら台風襲来!「暑さを吹き飛ばす!」とは、良きにつけ悪しきにけ、、、、秋の波浪を伴っていたのですね・・・さて6月来の九条邸の3D制作ですけど、やっと完成しました(室内は将来編に)。自分として過...
タイトルの件遅くなってしまいましたが、以前、読者の方から公家・長谷家について幕末等当時の京都御苑内にあった同家屋敷の坪数や家屋敷の様子・来歴など、もし、わかったら教えて頂きたい・・・とのご依頼がありました。ひょっとして長谷家のご縁の方なぁ・・・とも思いましたが、果たしてどうでしょう?ちなみに同家は「はせ」とは呼ばず「ながたに」家と言い表します。 まず、依頼のあった同家の幕末明治維新の家屋敷の史料は...
確か従三位肥後局は、あの阿茶局で有名な神尾家に後に嫁いでいますね。ある意味神尾家には女傑に恵まれていたと仰っても過言ではないでしょう。
さて長谷家ですが、単なる噂話の可能性は当然あります。その可能性を捨てては決していけないとは思いますが、同時に日記や記録に具体例として名前が挙がっているという事実も忘れてはいけません。歴史を研究している者にとって、日記や記録が全て噂話、宛てにならないの一言だと今現在学んでいる歴史全てが虚言妄言の類になるでしょう。そしてそれが噂話の場合、何故長谷家の名前が挙がったのか? という事も考える必要があるかと思います。
絵を良くして雅=盗賊・荒事は無い、というのはある意味そうでしょうが、天台座主明雲は仏法を極め『千戴集』にも掲載される歌人ですが、戦場で信州の逆賊木曽義仲と戦って討死しております。持明院家も基久が豊臣方として大坂城に入り討死する等している事から、公家=雅一辺倒という概念はあたらないように思えます。
三男時充は『天保改正諸家知譜拙記』によれば25歳で切害との記述もありますが、その記述についても解明しなければなりません。その他、長谷家以外の『翁草』の「某卿解官の事」等に描かれた公家の背景を見ると、信憑性は決して無視できないのではないか? と思います。
おそらくこの元記事は、妙法院門跡 尭恕法親王の日記(寛文9年11月12日条)かと思いますが、実際のところは伝聞で真偽はかなりあやしいかと。
個人的には何らかの非行はあっただろうと推測しますが、絵が得意と伝えられ、、『隔蓂記』(寛文7年12月12日条)に鳳林承章から渡宋天神像を依頼されるほどであった若公家が押し入り強盗をするほど悪党であったとは、まるでイメージが合わないのです。しかも後水尾院がお忍びで市中にお出かけになる際、ただ一人の随行者であったことがしばしばであった時充が、いきなり盗賊の棟梁になれるのかも疑問です。
ちなみに長谷家の初代忠康室は北畠一族である旗本星合具枚の娘満子です。これは東福門院のお声がかりで長谷家に嫁したものであり、満子の叔母は女院の信頼する梅子(仕東福門院。女官預。従三位。肥後局)でした。このため長谷忠康の息子たちは下級公家の出ではあったものの女院からかわいがられ、特に早世した図書頭時茂は美貌であったことから、その幼児期には新院(明正天皇)からの思し召しも極めてめでたかったと伝えられているほどです。
当時、後水尾院から不興を被っただけで、新家程度なら即座に廃絶されるのが通例です。そうしたこともなく明治維新まで無事に家が続いたのですから「盗賊の棟梁」は話としてはおもしろいものの、おそらく事実とはかなり異なる脚色が加えられていると思います。
長谷家は恐らく廃嫡する事で難を乗り切ったのではないでしょうか? 江戸時代とはいえ、三位と言えば公卿。むやみやたらに公卿を取り潰すというのは、朝廷も幕府も世間体を気にして出来なかったのでしょう。
嫡子は忠福だったそうですが年不明ながら出家されていますし、三男時充は切害されたそうですからどちらかでしょう。
家督は四男の忠能(従四位上 兵部権大輔)で落ちついたそうです。
貴重なお公家さんの情報をありがとうございます。
確かにお公家さんも体面を保つため、いろいろと苦労が多かったみたいですね。
儀式の時だけ、バイトで雇う俄か家来もたくさんいたでしょうね。
大名行列の臨時雇いと一緒ですね。
長谷家について、まさか、ご先祖様が盗賊の棟梁とは想像できませんでした!
というか、良くお家断絶にならなかったですね・・・?
これからも宜しくです。
梅のコージ
の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
From: taka * 2012/11/05 15:54 * URL * [Edit] * top↑
長谷家について
長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。
ブログの文中に「なにか家業はあったのでしょうか?」と記述されていましたが、この記事を見るとやはり正味三十石の手取りしか無かったと思われます。
さて、当時の公家の生活の貧窮度合いについてですが、五摂家といえども決して暮らし向きは楽ではなかった。否、五摂家だからこそ暮らし向きはきつかったのでは無いでしょうか? というのも摂家というのは公卿の中でも最高の家格を有する家、現代でも政財界のトップクラスの人達が100均で買った食べ物等が食べられないのと同様、他の公家よりも格式高い生活を心掛けなければならない分余計に大変だったと思います。
例えば九条家は宝暦年間には伝来の什器を質入する程困窮し、幕府に買い戻すため知行地二千余石を差し出す代わりに二万両を借りたいと申し出て断られているそうです。摂関家の中で本当に全く生活の心配がない家があるとすれば近衛家くらいなもので、他の四家は決して裕福ではなかったと思われます。
摂関家以外だと良く言われるのが家元制度が経済基盤(例えば琵琶や蹴鞠の飛鳥井家、歌の冷泉家等)であるとされていますが、許認可権をもつ公家は特に裕福とされています。例えば清華家の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。
それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。
逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
読者の方から公家の入江家についても、その様子などわかったら知りたい旨のリクエストがあったのでブログ経由でお応えしたいと思います。 結果から先に申しますと、「華族建家坪数控」には入江家は載っていませんでした。ですからせっかくのリクエストですが十分なお答えができず申し訳ありませんでした。 「華族建家坪数控」についてですが京都府総合資料館から一式複写で資料を送付してもらいましたが、そのなかには紙面の関係で...
「お宅にも程がある!?」 もとうとう第四回目を数えてしまいました。シリーズ化する類のものではないのですが、つい、他家の台所を見たくなってしまうような・・・そんなお宅趣味が高じてしまいました。今回が最後ですので、今しばらくお付き合い願いますね。 では、まず庭田家から。一昨年、NHKの大河で篤姫を放映してましたよね。そのとき皇女・和宮に京から付き従ったきた御付の女房が確か庭田家の出身だったと記憶してい...
お宅にも程がある・・・その三で終わる予定でしたが残る未掲載の公家を数えたら13家ほどあったのでその(四)までいきます。それまでよろしくお付き合いくださいませ(笑)。 さて、その(三)の冒頭を飾るのは、山科家です。同家は明治維新で多くの公家が東京へ移っていたあとも、冷泉家とともに京都に残った数少ない公家です。(諸般の事情によりその後京都に戻った公家は三十数家あるそうです)。 同家は、羽林家の家格を有する公家...
前回に引き続き「お宅にも程がある」編です。 今回はまず、久我家から。同家は村上源氏(中院流)の総本家にあたります。公家としては清華家、摂家に次ぐ家格ですね。江戸期700石の家禄を有し、明治以後、華族としては侯爵を授けられたました。いわば堂上源氏の名門ですね。戦国期の前など足利家と源氏の氏の長者を争ったほどです。戦前からの女優の久我美子は同家の出身のお姫様です。 久我家が明治維新までに輩出した公卿の数は3...
京都府総合資料館には多くの古文書や幕末・明治の行政文書が保存されていますが、今回は一つお公家さんに関わる明治初年の京都府(当時)の行政文書をご紹介します。 その文書は明治4年11月の日付がある「華族建家坪数控」という文書です。いわば当時、維新なったばかりの京都のお公家さんたちの家屋敷や土地といった所有する不動産の届出文書です。翌5年には版籍奉還が実行されましたから、それに絡んだ提出だと思います。 なぁんだ...
みなさん、お寺や神社で稚児行列とか見られたことあると思います。七五三の行列が一番多いかな。その稚児さんですけど、もう少し上の中学や高校生の年齢の童形姿を目の前でみたらきっと驚くと思います。それが江戸時代、京洛の御所をその井出達で颯爽と使い番として駆け抜けた若者たちがいたんです。しかもイケメンです。今でいうジャニーズ系の眉目秀麗な少年たち。彼らは何者でしょう? まずは童形姿から。 どうですか、髪を稚児...