3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 > 京都御所

幕末裏面史 一枚の禁裏絵図を巡って 後編

前編では長尾名鳥が描いた「安政新造内裏全図」について他の絵図・指図も絡めて「禁裏絵図とはどんなものか?」、そのへんを書きましたが、後編では名鳥その人について足跡を追ってみたいと思います。前編でアップしました長尾名鳥の略歴を書いた唯一の情報がネットに上がっている旨を書きました。そして、ネット以外にも一つだけ滋賀県の大津市歴史博物館に名鳥の痕跡を残す資料が残っているとも書きました。どんな資料か? 同歴...

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No Subject * by 京一朗
AzTak様
コメントありがとうございます。

平田篤胤は学問としての国学、神道だけでなく当時としては珍しく心霊を体系的に実証研究した人で、そのへんが教祖的なカリスマのイメージがあるのだと思います。

No Subject * by AzTak
後半に出てくる平田篤胤に興味があって、この記事を拝読しました。
実は西新宿の超高層ビルに職場があったとき、ごちゃごちゃした新宿から通うのが嫌で代々木から通っていました。決して共産党信奉者じゃありません。その道筋に高野辰之の旧居跡があったり、平田神社があったりしました。
当然のことながら、篤胤のことはスーパーマンのごとく書かれてあります。どんな人物なのか気になっていました。
今で言う原理主義者のような側面があったのかなあ、などと思いました。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

そうか、「なか濱」の長浜ですね。
江戸時代の近江は大名、公家、寺社、幕府などの所領が入り乱れて分かりにくい面がありますね。勤王家、国学者、志士も集まっていますし。商売上手ですし。大津宿が東海道で一番大きな宿場町とは今回まで知りませんでした。いつも思うのですが、愛知県から滋賀県へ入ると風土の違いを感じます。町や村と自然、田園がしっくり溶け合っているのです。

長尾名鳥大人の短冊が売りにでていたので速攻で買いました。最後の一枚?かも。

内裏図の文字と比較しようと思っているのですが、内裏図の方は楷書、短冊は崩し文字なので単純には比較できないなぁ、と首を捻ってます。

昔の短冊は長いんですかね。
お宝箱?に入らない 笑。

寒くなってまいりました。
風邪など召されませんようご自愛くださいませ。

幕末の宮廷 * by 五反田猫
これはこれは、興味深いお話しを有難うございます。
これだけ材料があれば、幕末時代小説がかけるくらいワクワクしますね。

平田篤胤の写真があって不思議に思ったのですが、そうした背景があったのですね。 国学者、神道と言っても色々な流れがありますが、平田篤胤の考え方は実は西欧の影響が大きいと私は思っています。 それは、西欧の科学的な考えも取り入れて天地の理を明確にしようという行動に出ていると感じています。この話は切りがないので簡単な感想にて、

実は、今回のお話しで一番気になって引っかかったのは、名鳥が居たという三井寺喜見院住職という記述です。
現在の三井寺に喜見院は無く、もう少し調べる必要がありますが、淡海対岸の百済寺に喜見院はあります。
名鳥の歌には、同じ湖東の「長浜」が出ています。
一方で、絵図の面には明白に「逢坂山下」とあるので、湖西か湖南の住人なのは間違いないですね。 もう少し掘り下げてみます。

それにしても、こうやって文献や、その周辺を調べると当時の人々が活き活きと見えてきますね。
そうしたものを見せて頂き、有難うございました。

幕末裏面史 一枚の禁裏絵図を巡って 前編

最近、一枚の安政度内裏(1855年)の絵図を入手しました。これから書くことは、その、「安政新造内裏全図」を描いた一人の名もない国学者の足跡を辿る物語です。5%の真実もないかもしれません。しかし、僅かな史料から浮かび上がってくる人物像は、幕末維新のまさに渦中に生き、そして謎の死を遂げた志士の姿です。歴史に名を刻むこともなく死んで行った多くの志士たち。真実を抱えて逝った者たちも多くいたと思います。今回はそん...

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No Subject * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

もう年末も近いということもあって後編ですけど、夜中、一気に書きました。寝たのは午前3時過ぎ。

この書くという衝動何なんですかねぇ。

土曜というか今から用事で出かけるし眠たいです。

平田篤胤まで出て来るとは自分も予想していませんでした。

安政度内裏 * by 五反田猫
様々な絵図面と文献の比較のお話し、大変参考になりました。

図面の内容にも様々あり、木材、床処理、調度など、目的により盛り込まれる情報は様々なのですね。

長尾名鳥のお話し、楽しみにしております。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(一)

たとえ、そこがコンビニだろうがマンションだろうが学校の校庭に変わっていようとも、足を運んで「あぁーここなんだぁ」と幕末・維新の頃確かに存在した公家屋敷に想いを馳せ、そこの空気を吸い遠く感慨に耽ようと、今回、旅立った「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅」。多少なりとも痕跡があるかも、と微かな期待はしていたが既に知られる冷泉家住宅等除いて現実は甘くない。何も無かった。本当に・・・泣。(少しはあっ...

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第二弾 不肖、「3D京都」が非公開エリアの飛香舎をご案内します。

引き続き、第二弾として御所の非公開エリアの飛香舎(ひぎょうしゃ)をご案内します。後宮を中心とした俯瞰図。ここも、建築仕様は文献、一部平面図、妻側からの立面図、限られた写真等を使って3Dに仕上げました。省いた建物、わからない部分は想定復元と不正確な面も多々ありますが全体としての飛香舎の雰囲気は醸し出しておるのではと思っています。再掲ですが、飛香舎の位置を確認します。赤く囲ったところが後宮で北、奥にある...

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NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

>年末まで京博で飛香舎(藤壺)の調度 の展示がされております。

そうなんですか、情報ありがとうございます。
先週、京都へ行ってきたばかりです。公家屋敷で調べたいことがありまして。丁度、時代祭りがあったんです。知らなかった・・・情報に疎い自分です。

 >つきづきしい、
おぉ、雅な言葉ですね。これも意味知らなかった。教えて頂いてありがとうございます。

NoTitle * by 梅村京一朗
はむこたん様 コメントありがとうございます。

そうですよ、>若紫を、源氏の君が見初めるシーンに繋がる前あたりでしょうか。ハイ。

でも、流石に盗み見する光源氏が登場したら、頑張って作った飛香舎の3Dが台無しですよ! 笑。

藤壺 * by 五反田猫
藤壺の雰囲気が良いですね、年末まで京博で飛香舎(藤壺)の調度 の展示がされております。 つきづきしい記事を有難うございました。

NoTitle * by はむこたん
『犬君が雀の子を逃がしたの』と言う若紫を、源氏の君が見初めるシーンに繋がる前あたりでしょうか。

細かく再現された3Dと一緒に、源氏物語のお話にもトリップできて、楽しませていただいています!

NoTitle * by 梅村京一朗
大原様 コメントありがとうございます。
そうでしたか、めでたいことですね。
来年の御大礼にも記念公開されるかもですね。

恩赦もあるようですし、新しい帝の下、日本が平安であるよう願っています。

NoTitle * by 大原かずのり
9年前の、御即位20年記念京都御所特別公開で入れたんですね。なので平成最後の特別公開!というのを待ってるんですがw
それとも新しく即位された記念に公開!とか。

もし公開されたら、梅村さんの素晴らしい投稿に大期待です^^

NoTitle * by 梅村京一朗
大原様 コメントありがとうございます。

御所の後宮が一般公開されるときがあるんですね。知らなかった。次回はいつあるんでしょう? 一応、私もアンテナ張ってますが、大原さんの方が早耳そうだから、そのときは教えてくださいね 笑。

NoTitle * by 大原かずのり
後宮エリアは数年前の公開で訪問しましたが・・・・それほど記憶に残ってないです^^;
この投稿を見てから訪問たかったですね!
黒漆塗に赤漆塗飾金具をつけた蔀戸が好きですw

不肖、「3D京都」が非公開エリアの皇后御常御殿をご案内します。

後宮の三殿、皇后御常御殿・飛香舎・若宮姫宮御殿が完成したので記事を添え掲載します(一部内部も)。当初は第一期制作には含まれていなかったのですが東西対屋を想像復元したせいもあって後宮まで一気に行ってしまった感じ。皇后御常御殿は飛香舎と密接に繋がり、且つ、若宮御殿の南廂が廊下代わりという面もあって三殿作りました。で、ないと、源氏物語や枕草子に描かれた平安京の王朝美が描かれませんからね。藤壺の庭も雰囲気出...

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NoTitle * by 梅村京一朗
おぉ、ここにも勘違い男がいた!

なんてことはありません。失礼しました 笑。

改めましてコメントありがとうございます。
今でも京都には公家風の苗字の方がいるんですね。
霞会館の京都支所の会員の多くは公家の末裔で、30家以上数えるといいますから、居てもおかしくないと思います。

でも、”山本”さんという苗字の公家さんもいます。それだと「どこの山本さん?」になってしまいますから、もっと公家らしいカッコいい苗字に改名されたら? などと思ってしまいますが、勝ってなこと言うな! ですよね。

たまに拙ブログを覗いて浅き夢でも見てください。


NoTitle * by -
うーむ、じっと画像を見ていると、私の前世か先祖も公家だったような気がしてきました。
しかし、京都の高校時代、明らかに公家風の苗字の子が何人かいましたが、なぜかみんな背が高くて「シュッとした」顔つきでした。今から考えると、奴らは・・・じゃない、彼や彼女たちは、どんな血統だったんだろうと不思議に思います。
やっぱり平凡な見かけの私は、公家とは無関係だったのか・・・・
せめて3Dの中で「漣の宮」となって妄想させていただきます。

京都御所3D現場顛末記 対屋編 その三(3DCG)

何か急に蒸し暑くなりましたね。眠っていたエアコンをつけました。さて、顛末記も、その(三)として3Dに仕上げた東西の対ノ屋を掲載します。中の、明治天皇が住まわれた御局だけでも内部の三間作ろうかと思いましたが、列女伝の絵の内容もよくわからず今回はパス。また何れ作ろうとかと思ってます。折角の3Dだから外観だけの動画でもいいから作り込むのがその醍醐味?かと思うのですが今まで5個ほどしか作っていません。どうして...

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NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様、
ふと思ったので書きます。

3Dで作ってみて思った一つに、紫宸殿前の南庭の狭さ!です。東西南北に100m満たさないです。これでは儀式の荘重さは演出できません。平安京の朝堂院など500mありましたからね。

寛政の復古内裏で朝廷も頑張ったけど、如何せん江戸期の限界かぁ・・・です。

NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様コメントありがとうございます。3Dの対屋が実物とどれ程似ていたか? はわかりませんが、長~さだけは実感ですね。

皇后宮御常御殿も完成しましたが、その過程で飛香舎の資料も集めています。調べていくうちに「こここそ平安朝の雅なのだ」と思うほど、その全体構成にシビレテいます。

一つの独立した後宮のための儀式空間。そんな感じですね。

そうそう高御座の資料も集めています。なんか上手に作れたらいいなぁ、と思ってます。ご皇室に不敬になるのでは・・・と、ちょっと心配してますが、紫宸殿にはなくてならない玉座ですからね。

対屋 * by 五反田猫
対屋の3D有難うございます。
左右対称な点は御所らしいと思いますが、こういう長局の建物を見ると江戸期の建物なのだと思います。
平安・鎌倉ですと、建築技術はあっても、暖房の面でこれだけ大きな建物は、とにかく寒くて住めないと思います。
それが畳が出来て、暖房器具も増え、服飾も暖かくなって、大きな建物でも住めるようになったのだと想像しています。

こういう想像も、3Dの映像があってこそです。
文字ではなくて映像の力は凄いですね。

京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(二)

台風で半日停電しました。幸い水道は影響ありませんでした。読者の皆さんは大丈夫でしたか?お互いに気を付けましょうね。さて、対屋編 その(二)では引き続き文献に基づく対屋の復元を試みる訳ですが、その前に内裏図でいくつか「何故だろう?」と思ったことがあったのでちょっと触れてみます。参考内裏図は宝永度のものです。ではアップします。宝永度内裏図(中井正知氏蔵)。図中の赤く囲った所に「井戸」と印し幾つもあります...

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寛政内裏だったのでした * by 五反田猫
京一朗さん ご教示有難うございました。
掲載写真の表紙に天明とあったので、勘違いしましたが、
この時に作られたのは寛政内裏だったのですね。

となると従来(宝永内裏)と異なる、江戸初の復古様式に内裏なのですね。
だから、今までのやり方と異なり、幕府と内裏で共同作業での設計になったのですね。 そのやりとりが具体的に判るお話しは大変参考になります。

松平定信は、尊号事件でも判るように、合理主義の政治家で、始めは復古様式は、金がかかるからと却下。
当然 内裏方は、反発し、復古様式を主張
定信は上京して説得するが結局 内裏の意向を取り入れる事になったと聞いています。

NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様 いつもお世話になります。

>建物そのものの話でなくて、組織の方が気になっております。

京都御所造営録の序説によれば、

寛政度内裏は幕府・老中の松平定信を総奉行として内裏造営が始まりました。
実務は幕府方の御附役(禁裏付き武家、口向方)を中心に、朝廷からは議奏以下の御造営御用掛が、幕府方からは京都中井役所(幕府京都大工頭)が任命され、それぞれ摺り合わせた内容を吟味し、上記、御附役が決定を下してゆく、という流れです。

ちなみに造営録の元本である造内裏御指図御用記ですが、朝廷の地下官人であり明法博士大判事であった「勢多 章純」が書き留めた造営記録で、幕府の
御附役の補佐役として参加しました。

造内裏御指図御用記 * by 五反田猫
ついに文献と確認されながら3D作成とは、専門領域に入ってまいりました。 立派な研究者だと思います。

>前回の質問回答
有難うございました。東西に対の玄関で身分に応じて使い分け。
御所らしい建物ですね、東が典侍、西が命婦なら、やはり東が上位という考えでしょうか。

>お伺いの流れ
掲載された資料の流れですと、幕府の造営担当(所司代の配下?)が、武家伝奏に伺いを立てる流れで、造営の作業そのものは幕府側が管理と実行なのでしょうか?
武家伝奏から、朝廷の修理職に申し渡す流れもあるので、建築作業は、幕府と修理職の二重管理だったのか、その辺りが気になります。 お判りの範囲でご教示頂けると嬉しいです。

建物そのものの話でなくて、組織の方が気になっております(笑)

NoTitle * by 梅村京一朗
大原様
コメントありがとうございます。お褒めも頂いて。
そちらは停電もなく何よりでしたね。次は25号が控えてますよ。用心しなければ。

大原さんも斗栱に拘りありますね 笑。
それにしても東本願寺の阿弥陀堂の四手先組?凄いですよね。

NoTitle * by 大原かずのり
半日停電とは大変でしたね^^;
こちらは無事でした。21号では瓦が数枚飛びましたが・・・・。改めて日本は災害大国だなと思いましたね。

丸見えトイレ、開放的ですね(笑)。でも意味は分からないですね^^;
黄塗や生円子塗というのも分からないです。しかしよく調べられていて、すごいです。

京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(一)

これが ↓これに ↓なりました。記事、嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編で描き添えました典侍等高級女官の住居(長局)である東西の「対屋」ですが、現京都御所には遺構は存在しません。明治維新後解体されました。ただ、一部の室、古材、及び襖絵が泉涌寺に移築されている、との事ですが、非公開なので確認することはできません。移築後の改造もあって、全体としての対屋がどのような建物だったのかは不明です。そこで無謀...

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NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

本瓦だったら、檜皮葺の次かもしれませんね。でも完成した名古屋城本丸御殿の屋根は杮葺きですね。戦災で焼ける前は本瓦でしたから創建時に戻ったということですけど、だと、やっぱり、杮葺きの方が格上?よく、わかりませんね。

東西の対屋には下家の北側に計四カ所の玄関があります。たとえば西対屋だと西端の玄関は「大御乳人(命婦の序列二位の女官)」が使用しました。東端の玄関は典侍が使用、という風にある程度身分に応じて使い分けされていました。

屋根の葺き方 * by 五反田猫
京一朗さん、いつも興味深い記事を有難うございます。

なるほど、木皮による葺きかたでも格の違いがあるのですね。
瓦が下というのも、故実が重視されてきた結果でしょうか。
防火の意味では、当然に瓦が良いのですが、せっかく瓦にしてもお隣が瓦でないと、結局 延焼するのでしょうね。

3Dを拝見して気になったのが、追加された建物の東西に飛び出た部分。 これは玄関なのでしょうか?
平面図を見ると東西両方についています。 こういう構造は面白いですね。

嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編

後編では大奥からサヨナラして御所の後宮へいよいよ入っていきます。せっかくですから、前編に載せた東西の対屋の間取りを御所に当てはめてみます。内裏と東西対屋の俯瞰パース。何から書こうかな、ってとこなんですが、男性諸氏が「ハーレムかぁ、美女に囲まれて羨ましいなぁ」などと思ったらご法度!とんでもない間違いですからね。とくに日本の後宮は真面目ですから何より次代の帝をお産みなさることが一番の目的です。ですから...

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NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。

源氏物語ですけどね、平安王朝の家具・調度品を作る予定なんですよ。なかなか進まないですけどね・・・、清涼殿に家具を設えたら「京都御所の御殿へ上がってみよう!」っみたいな動画作ってYouTubeにアップする計画なんですが年内にできるかなぁ・・・? まだ遠き道程ですよ。ところで今、はむこたんサンは今、どこを旅してみえるのかな?
では、おやすみなさい。

NoTitle * by はむこたん
頭の中で、源氏物語を思い出しながら
楽しませていただいてます。
命婦って名前かと思っていたら、女官の位なのですね。
初めて知りました・・・。

NoTitle * by 京一朗
雪乃様
コメントありがとうございます。

朝、そうそうpcを開いたら、ご丁寧に返信を頂き、今日も幸先よき一日になりそうです。過分なお褒めを頂き恥ずかしい限りです。ゲホとモゴの会話、創作頑張ってくださいね。折々、立ち読みしますね 。

訪問頂きました * by 雪乃
訪問頂きありがとうございます。
素晴らしいブログですね☆
京都を深く知ることが出来そうです。
お時間の許します歳にまたお立ち寄り頂ければ嬉しいです。

嫉妬を生まない御所の後宮システム 前編

そもそも、御所後宮の皇后御常御殿と寝殿造の古制を最も残す飛香舎の3Dを作ろうと思って古い指図や資料を集めさぁスタンバイって思ったのもつかの間、考えてみたら、内裏の女官の数って何人ぐらいいたのかなぁ?江戸城の大奥の制度と御所の後宮とどんな違いがあるのか、とか、いろんな?が湧いてきて、収拾がつかず、取り敢えず自分なりに理解したことを先に書こうと思って記事にしました。タイトル「嫉妬を生まない御所の後宮シス...

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女官の知行地 * by 五反田猫
京一朗さん ご教示有難うございます。
上級女官、実際に知行地なのですね。
となると200石でも、五公五民でも手取りは100石ですね。それでも立派です。

江戸の宮廷は、下級公家は家禄だけでは食えないので、兄弟で複数出仕も多いです。 そうなると役職給があります。
これが結構、蔵米支給が多いので、女官も同じだと勘違いしておりました。 有難うございます。

>東豎子
時代まつりでも再現されていたと思います。
男装の女性が騎乗するんで、現代女性にも人気です。

枕草子では、清少納言に「えせもののところ得る折」(151段)と、思い切りけなされております。
その他にも、「元三の薬子」正月三日に屠蘇の毒見をする女官
「御前の試みの夜の御髪上」五節の舞姫の髪結役
「節会の御まかなひの采女」など、結構 宮中の女官や役について、酷い言われ様ですね。
多分、身分が低いのに、そういう時だけは役目柄 偉い人にも指示が出来るのが、清少納言には面白くなかったのでしょうね。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様

東豎子(あずまわらわ・東嬬)調べました!
男装の女官なんて、朝廷も粋なことしてますね 笑。
見てみたいですよ。

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

典侍、掌侍の知行の件ですが実際に領地を持っていました。高橋 博著「近世の朝廷と女官制度」によれば、たとえば、明和六年、大典侍柳原忠子の場合、山城国乙訓郡海印寺58石、同今里村62石、同紀伊群稲荷村に77石、同深草村に16石の計213石の領地がありました。ただ、管理は禁裏役人がしていたと思いますが。

あの大原卿が稚児! 俄に・・・というところですが小さいときは可愛かったんですかね 笑。

東豎子?調べています。

では、よろしく確認ください。

NoTitle * by 五反田猫
京一朗さん
帝の動線は、このように推察できるのですね。
現在の御所の姿からは、このような経路は全く思いもつかないので、大変参考になりました。
女官の表もとても良く整理できていて、分かり易いです。

一点 ご教示頂きたいのですが、女官の知行とお書きになっていますが、これは俸禄ではなく、領地のある知行なのでしょうか? 江戸の宮廷では男子の役職は、知行地ではなく、俸禄の支給、実際は米切手のようなもので、幕府の蔵から引き出したと記憶しています。 誤解でしたら済みません。

御稚児さんまで出して頂きました。
例の髭のガンコ爺さん(重徳卿)も、昔は光格天皇の御稚児さんをしておりました。 子供の頃はあんな恰好だったのですね。
せっかく御稚児さんが出たのですから、幕末に復興された東豎子(あずまわらわ・東嬬)も入れて上げて下さい。
御幸の時しか出番がありませんが、これも特殊な役ですよね。

NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。

嫉妬ですけど、記事のタイトル変な題にしてしまいました・・・

私の考えですけど、徳川将軍の大奥と比べれば御所の後宮の方が嫉妬少ないと思いますよ。

まったくないのも寂しいし、有り過ぎても疲れるしホドホドがいいですよね。
私はもう嫉妬を忘れてしまいました 笑。

NoTitle * by はむこたん
こんにちは~。

大奥の女性たちの嫉妬、すごく気になります。
3番手・4番手以降であれば、カヤの外的に気長に構えられそうですけど
正妻や2番手だと負けたくなくて、ライバル心が出てきそうな気がしちゃいます。

京都御所と江戸城を比べてみました。

あぁ・・・また台風ですね。私は愛知県在住ですが、もう台風はどっかへ去ったのかな?昨夜は今度の台風は風も強いと聞いていたので、自宅二階の窓も珍しくシャッターを閉めました。ところがです、何とシャッターの内側にアシナガバチの巣があった!!、もう、びっくり仰天、速攻で窓を閉めました。幸い、刺されませんでしたがシャッターは途中で止まったまま窓も開けることもできない。あぁ、息苦しいけど換気もできない。しかも寝...

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NoTitle * by 京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。
”柳営”という言葉久し振りに聞きました。

仰る通りに幕府は室内での行事が多いですね。個人的にも記事に書いた覚えがありますが、文明開化でどんどん日本も洋風化されていきましたが、この室内の畳で自己完結するスタイルは欧米風には不向きですよね。ですから資産家などは応接用の洋室と生活の場としての和館を別々にしてましたよね。それが何を意味することなのか?実は現代の日本になっても、なんか歪に思えてなりません。先日も、法事でお昼をご馳走になったとき、お店の広間は畳の上に立ちの低いテーブルと椅子がありました。確かに座ると楽でいい。だったら、最初から土足でいいじゃん、とも思います。日本文化はいまだに漂流していると思います。確かな日本の未来の文化を生み出さなければ、と、つい生意気な愚痴が出てしまいます。同じ木造文化系でも中国は土足の生活。とくに清朝になってからは。韓国も李朝の官僚は机と椅子で仕事。王様の奥向きはオンドルだから床生活。そんな風に職住分離してました。でも、書物は日本も中国、韓国も横置きの積み上げでした。欧米は縦置きでした。なんで日本など東洋は積み上げ方式だったのか?それだと本を探すとき見つけにくいし、出すにも不便、何で日本は書画を床の間の掛け軸に押し込んでしまったのか?なんで、畳一間で生活できる代わり家具の少ない文化になったのか?すべてとは言いませんが畳の存在がかなり大きいと思います。そういう私もイグサの畳風スリッパを履いてます 苦笑。 一面の畳では源氏物語は生まれなかった。また、畳が部屋の座るとこだけに敷かれた平安時代、畳はカーペットであり家具だったと思います。日本の家具文化が一番輝いたのは平安時代だと思います。センスの良さは抜群です。やっぱり武士の時代が長すぎたか・・・・。でも、日本が明治維新で富国強兵を諮り西洋列強と肩を並べられるまでなったのも武士道精神の賜物。即ち賄賂や汚職が他の国と比べ圧倒的に少なかった。だから短時間で産業勃興できたと。だったら、武士文化のおかげ、という側面もあったし、実はその辺を上手く調合できたのは岩倉具視だったのではないか・・・とも思います。なんか、長文なコメントで申し訳ありません。記事にすればよかった 苦笑・・・。

NoTitle * by 五反田猫
御所と江戸城の比較、有難う御座いました。
なるほど、図面で見ないと判らない世界ですね。

表の部分は、御所の場合には南庭で、様々な行事を屋外でするので広いですね。 一方の柳営では、殆どの行事が室内ですから、構造の違いも良く判ります。
江戸城の大奥は、とてつもなく広いですね。それも、基本的に男子禁制ですから、これを女性主体で運営していたのが凄いです。 その他に、江戸城では世子などが済む西の丸にも、似たような規模のものがありました。
御所には、仙洞御所、女院御所がありましたが、これらの規模は比ぶべくもありません。  
これからも楽しみにしております。

NoTitle * by 京一朗
トルコの首都はアンカラでした。訂正します。

NoTitle * by 京一朗
AzTak様
コメントありがとうございます。
いつもブログの写真拝見してます。みなとても迫力のある写真で見ていて楽しいです。

江戸城の本丸も広いですが、紫禁城はもっと広いですね。72万5千㎡、22万坪もあって江戸城、御所の6~7倍もありますね。清朝が滅んでもよく残ったと思います。紫禁城のない北京を想像したらかなり寒いものになります。モスクワにはクレムリン、イスタンブールにはトプカピ。国の首都を象徴する建築群があるのと無いでは全然歴史の重みが違うと思います。江戸城も焼けず残っていれば・・・と残念です。前もNHKでやってましたが、いつでも史実通りに本丸御殿を再建する史料が揃ってるそうです。日本を訪れる海外の観光客が浅草の雷門だけでは物足りないと思います。再建すればきっと東京観光の目玉になると思います。

NoTitle * by AzTak
江戸城はそんなに広かったですかね。本丸跡に立つと、ここに往時のようにごちゃごちゃと建物が立ち並んでいたら、さぞかし狭苦しい空間だったんだろうなあと思います。
二条城は久しく行っていないので、どんな感想を持ったのか忘れてしまいました。

京都御所最大の建物・御常御殿を作ってみました。

お盆を挟んで暑い日差しも少し和らいだ感じですが、読者のみなさんはいかがお過ごしですか。そういえば、北海道の大雪山系黒岳では早くも初冠雪。何でも、8月の初雪の観測は2003年以来のことで、1974年からの統計では最も早いとのこと!。この天界と下界の違いは何なんでしょう?皆さんも暑さ寒さ?対策に気を付けてください。さて、前回の記事で御学問所の完成に伴い3DCGも二回に分けて掲載しようと思っていましたが、御所最大の...

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「鉢合わせはご法度」 - 御所の動線システム

暑中お見舞い申し上げます。毎日暑い日が続きますね。私の住む愛知県でもとうとう名古屋が40度に達しました。観測以来初めての40度越えです。皆様とも熱中症対策をしっかりして、この一夏を越えなければならないと思っています。普段、帝の住まわれる常御殿と大名と対面する小御所との間にある御学問所を作りました。御学問所は帝の学問の場だけでなく公家との対面にも使われました。小御所より一回り小さいです。ところがです。南...

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王政復古のクーデターが成功したのは実は小御所の間取りのせいだった!?

小御所までの3D完成に漕ぎつけました。後は御学問所と御常御殿。それに渡り廊を加えれば御所の雰囲気もかなり出て来るのではと個人的に期待しています。さぁ、今回取り上げる小御所ですが、幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都・小御所で行われた王政復古の最初の会議で実質クーデターが行われた舞台として知られています。、同日、先に御学問所で正式に王政復古の大号令が発せられ京都守護職・京都所司代の廃止、幕府の...

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NoTitle * by -
五反田猫様
コメントありがとうございます。
拙い3Dながらお褒め頂きこれもありがとうございます。「内覧をもつ関白の廃止、公家社会を二重支配していた「門流」の廃止で堂上公家が天皇の直臣である事が組織上も明確になりました。」、このコメントですが眼に鱗でした。勉強になります。直臣かぁ、だから門流外の公家は外様といわれ御所での詰所も別々になっていたのですね。

摂家を優遇することによって公家をコントロールする。幕閣も考えたものですね。英国みたいです。

また、いろいろと教えてください。

小御所会議 * by 五反田猫
京一朗さま とても素敵な小御所の景色ですね。

御学問所との比較の話も興味深く読みました。
どちらも、池に面しているのですが、随分と建物の雰囲気が違いますね。 

「王政復古の大号令」は、公家社会にも大きな影響を与えました。 内覧をもつ関白の廃止、公家社会を二重支配していた「門流」の廃止で堂上公家が天皇の直臣である事が組織上も明確になりました。
裏返せば、公家社会でも幕府と結んだ摂家による支配があり、これが朝廷の独立性を制限おりました。
それが無くなる事で、朝廷でも王政復古になったのですね。

NoTitle * by 京一朗
Hakka様
コメントありがとうございます。
お褒め頂いてなんか痒くなってきました 笑。
でも、ホント励みになります。

御所の庭園ですが一部3D化する考えはあります。
反り橋の図面もありますし。

ただ、拘ると限りがないので、第一期、二期工事みたいに分けて徐々に作っていこうと思ってます。

3Dは手間もかかるので夜更かししてしまう時もあります。妻からはいつも叱られています。最近は食事の後にお茶を出したりしてご機嫌とってます。

にしても、何か突き動かされるものがあって作ってしまうのです。

NoTitle * by 京一朗
はむこたん様
コメントありがとうございます。
とても励みになります。
私も御所の大和絵は大好きです。
二条城の金碧障壁画とは違った優雅さ、上品さがありますね。

NoTitle * by はむこたん
襖障子が鮮やかで、すごく映えますね。
見ていて物語が感じられて、ぜんぜん飽きません!

こんばんは * by Hakka
3D、襖絵までお見事ですね。一般参観では建物内までは見学できないので、参考になります。
同様に、隅々まで見学できない庭園も3D化して頂けたら…と、勝手な願望を抱いてしまいます。

Mysterious Japan ― 京都御所渡り廊を巡って

京都御所にはたくさんの廊下があります。殿舎間を繋ぐ廊下は「渡り廊」と言って廊下の”下”の字を使わない場合もあります。これは寝殿造では、廊下を渡り殿とか透廊と呼んだ名残があって、また、”殿上人”という言葉があるように、主に貴族階級(公家等)など、彼らが廊下を歩く訳にはいきません。”下”に下がるからです。とくに朝廷ではこの用語に拘った形跡があります。ですから近世の指図を見ても廊下の呼称が「廊下」や「渡り廊」...

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お公家さん憧れの「殿上の間」と小話

清涼殿の南に孫廂のように突き出た南廂、いわゆる「殿上の間」が完成しました。同殿は一見何の変哲もない地味な板敷きの間ですが、ここに昇ることができるかできないかで殿上人、つまり公家になれるかなれないかの証しの場なのです。昇ることができれば晴れて堂上公家の仲間入り。その意味で公家にとっては昇段試験の場。ここは、清涼殿の南の一角。即ち、昇るといっても、御所内のどこの御殿へ昇ってもOKではなく、あくまで清涼殿...

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NoTitle * by -
五反田猫様
コメントありがとうございます。

そうですか、幕末の宮廷お持ちですか、ネタじゃなくなりましたね 笑。他にも「京都四民の生活」とか公家さんの事書いた本ありますが、やはり幕末の宮廷の右に出るものはないですね・・・。こうなると、もう公家の子孫の方に直接、取材するしかないかも・・・です 笑。

幕末の宮廷 * by 五反田猫
興味深い資料を有難うございます。
現在の御所は、昭和の建物疎開で、随分と損なわれたものなのですね。 資料から良く判りました。

『幕末の宮廷』は、江戸の宮廷の実態を活き活きと描いてくれて、私も愛読書の一つです。
公家収入は、トップの摂家でも、大きく違います。
近衛家の知行は、表高は2862石ですが、実収は2081石、税率が高いのではなく、領地が伊丹など、米どころで実収が大きいのですね。
一方で一條さんは表高2044石ですが、実収794石で、下橋さんのお話しの通り「800石も入りません」なのです。 領地によって、大いに収入が異なるし、当道座の収入がある久我家、蹴鞠の難波家など、地下でも平田家は事務方のトップで膨大な現金収入があったそうです。これらの家では維新後の方が苦労されたそうです。

京都御所待合物語

御所の陣座が出来ました。と、陣座、陣座とばかり言っていても銀座と言いかねないので、要は陣座とは詰所、待合室のことなので今風に「京都御所待合物語」としました。物語といっても特にないですけど、書いていくうちにひょっこり出てくるかもです。さて、まずは今回作った陣座、宮人座、床子座についてその建物位置を示します。陣座、宮人座、床子座の位置図。ここのスペースはまさしく紫宸殿南庭で行われる諸儀式の控室・待機室...

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NoTitle * by 京一朗
こんばんは takaさん
コメントありがとうございます。
いつもながら教えて頂きありがとうございます。
陛下と殿下の由来がわかりました。殿下はともかく陛下の語源はは知らなかった。

内裏ですけど、現在は紫宸殿の前を朱塗りの複廊と門がぐるっと囲っていますが、平安時代の正規の内裏を見ると、現在、外から見える築地塀の部分がそのまま複廊になっていたんですね。つまり、今の御所は築地塀を潜って朱塗りの回廊に入る訳ですが、平安時代は複廊が外塀だった。なんか上手くいえませんが、今見る築地塀の代わりに朱塗りの回廊で囲まれていた。それが本来の内裏。だとすると、とてつもなく大きく華麗な宮殿だったと思います。平安時代初期の律令体制はホント壮大な意気込みと実験を感じますね。

五反田猫さんの流派ですが、
聞きましたら、「御家流 桂雪会」だそうです。
なんでも、民間で伝えた流派で宮尾登美子の「伽羅の香」という小説にも出て来るそうです。

お香も「嗅ぐ」などという下品な言葉は今後使いませんので、ここだけの話しにしておいて下さい 笑。

では、おやすみなさい。



NoTitle * by taka
本当に 梅村様 の3Dは見事なできばえですね。しかも今回は尊敬する 光格天皇様 の即位図や即位式幟図が見る事が出来て最高です。

陣座の疑問はもう解けたでしょうか? 万が一の為に書いておきます。一応宣陽殿の議所は叙位・除目の会議の為の部屋みたいです。親王宣下・改元といった重要度のある陣座よりは一段下がるみたいです。やはり倉庫だからでしょうか?

建物って歴史学の中ではマイナーですけど、名称の語源とかにもなって何気に重要なんだなとこのブログを見るたびに感じます。例えば『陛下』というのは「宮殿の階段の下」が語源、『殿下』は「殿舎の階下」、『殿上人』も清涼殿の殿上間由来、つくづく歴史とは建造物とともに歩んでいるんだなとこのブログを見て実感しています。

そう考えると先立つ物が無い、という理由で日本の顔にして重要でもある大内裏再建を諦めたというのは残念な気持ちにさせられますね。とくに朝廷に仕える公卿にしても、例えば鎌倉時代では 西園寺家 は一国に匹敵する富を持っているとまで言われた家でしたが、自分の為だけに使って公の為に何一つしなかったのは残念ですね。

最近南北朝に凝っていてちょくちょく調べていたから分かりますが、鎌倉後期から室町は時代が安定しなかったので幕府が再建できなかったのはやむを得なかったでしょうね。

香道の事ですが、香道では「嗅ぐ」ではなく「聞く」ですね。「香りを聞く」という表現が適切です。香道の基本はこの『聞香』(ぶんこう)ですね。まああとは「六国五味」(りっこくごみ)とか、「銘香」と「名香」とか基本的な事を抑えておけばそれなりに話がしやすいです(汗)

あと流派の違いとしては、『志野流』は沈香だけ、『三条西流』は沈香以外も使用するって所も抑えておいても良いかもしれません。

紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!? 

今回は紫宸殿の東に位置する東軒廊と宣陽殿、西に位置する土渡廊を3Dで作ってみました。その過程で例によって素人発想の「何でだろう?」と思う点が幾つか出てきて、その一つの疑問が記事タイトルの「紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?」になった訳です。その辺は、後々書いていきます。さて、眠気覚ましにCGを何枚かアップ。クリックすると何れも拡大します。朝霧にむせぶ京都御所。私の好きな陰翳礼讃?です。おぉ!紫宸...

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NoTitle * by 京一朗
taka様 コメントありがとうございます。地震の被害なくてよかったですね。
自殺ですけど、やっぱり大義に殉じた人は亡くなったしばらくは自らの傷みに苦しむかも知れませんが、大義には必ず現世で恩恵を受けた人や感謝している人たちの祈りが通じ天国に行くと思います。原爆を二度も、実験のごとく落としたトルーマンは地獄でしょうね。

現京都御所の土御門里内裏ですが、藤岡通夫先生の名著「京都御所」を飛ばし読みしましたが、やっぱり財政難が理由だと思います。というよりも、あまりにも多くの焼亡を繰り返した内裏・里御所の回数の多さにびっくりしました。また、それを数々の文献・古文書を調べて克明に記された藤岡氏の並々ならぬ努力、能力に脱帽しました。

やっぱりとくに南北朝に入って足利幕府の財政難もあって、もう元の大内裏の位置に建てる力はなかったと思います。

内野と言われた大内裏に内裏を再建するとしたら、正式の内裏を造る訳ですから、室町幕府は考えただけで身震いしたと思いますよ。当時も大内裏への郷愁はあったけど、先立つものがなかった、そういうことだと、私は思います。

目の付けどころが違いますね * by taka
確かに紫宸殿と清涼殿、なぜ繋がっていないのか? 謎ですね。流石に自分でも解らないです(汗)

相変わらず見事な制作で食い入るように見ています。

ところで、現在の京都御所があの位置にある理由についてはどう思われます? 鎌倉時代安貞の火災で本内裏が何故再建されなかったか?

自分的には、鎌倉の大仏同様資金難だと思っているんですが(汗)

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

そうですね。大阪北部地震で被害に遭われた方にお見舞い、そして亡くなられた方にお悔やみ申し上げます。亡くなられた中には九歳の女の子もいましたね。痛ましいです。

紫宸殿繋がりの件ですがよろしくお願いします。楽しみにしてます。

先回、コメントにあった和歌披講ですが、
さっそくYouTubeで検索して聴いてみました。厳かで雅びですね。正月の歌会始ぐらいしか聴いたことないので目から鱗です。短歌は書くものだけではなく詠み吟じ韻を踏むことなんですね。合唱もある。時に雅楽の伴奏もある! いいですね。五反田猫さん、かなり高度な日本文化を担ってみえますね。日本も安心です 笑。

また機会があったら、和歌披講を聴いてみたいと思います。そのときは宜しくお願いします。では御機嫌よう。

地震お見舞い * by 五反田猫
北摂を中心に大きな地震、お見舞いを申し上げます。

紫宸殿 * by 五反田猫
廊下や付属の建物が出来ると、雰囲気がとても良いですね。 最終的には、御大礼など、南庭での儀礼が見られると素敵です。

清涼殿から紫宸殿へのお出まし、なるほど言われてみると不明でした。 紫宸殿にお出ましになる自体が稀(御大礼と大嘗祭くらい?)と思うので、不便でも仕方がないと思いますが、どのようにするかは記録にありそうな気がします。
明治初期の絵図で、南庭へのお出ましには、庭に敷物が敷かれていたのを見ていますので、廊下以外にこのようなやり方もあるとは思います。
判るかは不明ですが、調べてみます。

清涼殿を作ってみた 外観編

京都御所の清涼殿を作ってみました。とりあえず外観。多少、内部も作り込んでいます。ここ清涼殿と紫宸殿は江戸末期の安政二年(1855年)に再建された御所の殿舎のなかで最も平安朝の寝殿造の古性を伝える建物です。従って両御殿については外観のみならず、内部、そして部屋毎に設えた大和絵の襖障子や家具調度品などインテリアについても3Dで作る予定です。清涼殿の位置図です。紫宸殿の西北にあります。今回は渡り廊下までは作っ...

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京都御所の六門と築地塀を作りました ② 3DCG編

さあて、本命、御所の六門と築地塀の3DCGを一気に掲載しますよ。CG画はすべてクリックすると拡大します。再確認ですけど、現在残る御所は、安政(1855年)築造で、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域を占めます。御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い広大な敷地面積です。その御所を囲む築地塀には計六の門があります。今回はこの門を作りました。一応、格式に基づいてそれなりに作りました...

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京都御所の六門と築地塀を作りました ①その前に

今回、京都御所の六門と築地塀を作りましたが、その前に、3Dで作る際に幾つか気づいたことや発見?というか実は後の祭り的ヘマや失敗の自己弁護用予防線として書きました。ですから、ここに書きました事を前提に、その②で、一気に3DCGを掲載しますのでどうか「また、やらかしたか」と思わず温かい眼でみていただけるとありがたいです 笑。さて、後の祭りの最大の案件からいきます。まず写真を見てください。御所の南に位置する正...

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御所 紫宸殿の回廊と諸門を作りました

承明門に次ぎ御所紫宸殿を取り巻く回廊と諸門を3Dで作ってみました。この現在見る、京都御所の紫宸殿を取り巻く回廊と諸門は御所の焼失により安政度(1855年)に再建・造営されたものですが、そのお手本となった内裏は寛政度(1790年)に造営された御所で、安政度はほぼそのまま配置・形式を踏襲したものです。寛政度内裏の特徴は、紫宸殿の南庭に回廊と諸門を平安の古制に倣って復古造営したことです。それまでの桃山・江戸時代に...

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御所の承明門を作ってみました

京都御所の承明門を作るのに一週間以上かかってしまいました。用事もあったりしたものですから。少しサボりもありましたが・・・。ブログ記事の間隔が空くと、何と言うか読者の方も減ってランキングも下がるのではと、小心者の私は心配になってきます。で、短歌部門は、はてなブログの「梅村京一朗 短歌集」で書くことにしたので、それもあって空いてます。はてなブログのですけど、いまいち、手ごたえがない感じ。まだ、始めたば...

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手に入りました!

今、京都御所の紫宸殿南庭の正門・承明門の3Dを作っています。承明門。御所を見学された事がある方だったら紫宸殿前の朱塗りの回廊もみられたと思います。その正面南の門が承明門です。朱塗りが鮮やかですね。御所の朱塗りはまた格別です。3Dのテクスチャに最適です。白い漆喰も継ぎ目なく続いているし、ホント、御所の建物・庭は職人さんたちの魂がこもっていて素晴らしいです。承明門ですけど、木子文庫のなかの図面を参考にし...

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Re: 京都御所渡廊及び附属建物復原工事報告書についての質問 * by 京一朗
> 私も京都御所に興味があるのですが、「京都御所渡廊及び附属建物復原工事報告書」
> には大台所や御末女嬬部屋の本来の姿が完全にわかる情報が掲載されていますか?
コメントありがとうございます。
お訊ねの件ですけど、残念ながら同報告書には大台所や御末女嬬部屋の外観がわかる箇所はありません。間取り図面自体載ってません。強いて言うなら長橋局の建物には平面図、立面図、外観写真等載ってまして台所の内部写真もあります。
お役に立てず申し訳ありません。

管理人のみ閲覧できます * by -

『地表の楽園』 仙洞御所参観の旅

また先日、京都御所と仙洞御所へ行って参りました。タイトル、「『地表の楽園』 仙洞御所参観の旅、と名付けましたが「地上の楽園」の誤りではありません。本当に仙洞御所を巡ったとき、感動して思わず「地表の楽園」!と心のなかで呟いたのです。それほど美しかった!今までいろいろ(海外含め)観た庭園のどれよりも素晴らしいと感じました。ただ、私の撮影技術が追い付かなかった・・・後ほど、写真をアップしますが期待しないで...

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NoTitle * by 梅村京一朗
まゆごろう様
わざわざ返信いただきありがとうございます。
さっそく行かれたのですね。素早い! 笑。

に、しても、国立国会図書館にもミスあるんですね。
それでは頑張ってください。
宜しかったら、また、拙ブログへお越しください。

中井家文書 * by まゆごろう
早速、昨日図書館に行き、中井家文書の研究を
見て参りました。
それと照合したところ、国立国会図書館の仙洞御所絵図が
寛政度の絵図であることがわかりました。
国立国会図書館の解題にはミスがあったようです。

情報をいただきありがとうございました。

Re: 追伸 * by 梅村京一朗
> 寛政度の仙洞御所の敷地図を探しているのですが、
> どの書物にのっているか、ご存知ありませんか?

まゆごろう様、

寛政度の仙洞御所ですが、「中井家文書の研究」の第七巻に載っています。

NoTitle * by 京一朗
まゆごろう様
コメントありがとうございます。

仙洞御所の指図ですが、中井家文書の研究の口絵にカラーの仙洞御所とか指図が掲載されていますが、小さすぎて判読はできません。ですので、幾つか分割して掲載されています。ですので複数枚に渡るので、同文書が置いてある(県図書館等)図書館で直接、探されるのがいいと思います。

せっかく拙ブログを読んで頂きながら、十分なお返事できず申し訳ありません。

管理人のみ閲覧できます * by -

仙洞御所 見取り図 * by まゆごろう
こんにちは

まゆごうろうと申します。

素晴らしい記事をありがとうございます。
仙洞御所の昔の見取り図を探していてこの記事にたどり着きました。

記事中に、「中井家文書の研究」から当時の見取り図が引用されています。端のほうが切れているのと、解像度の関係で細かい字が読み取れません。

もし、このご本をお持ちでしたら、図を拡大して下さいませんか?

同じ頃と思われる「仙洞御所絵図」とどんな関係なのか興味をもっています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286217

京都御所の紫宸殿を作ってみました。

先日、「平成版 内裏・公家町御絵図」を残された指図、過去の公家町絵図と現在の京都御苑を比較検討して、史実に基づいたかつての公家町を再現してみようと、今、始動してます。新たな公家屋敷の指図も東京・京都へ行って探しまくった結果、幾つか、新規の指図を収集しました。ちなみに慶応4年即ち明治元年に刊行された江戸時代最後の公家町を描いた「文久改正 内裏御絵図」ですが、十六丁版と十六丙版があって、多分、丁版が最...

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「京都御所」というシームレスな存在

今日は京都御所について書いてみたいと思います。最近の報道によると、京都御所の一般公開を通年化する。また桂離宮や修学院離宮についても検討中とのこと。すでに京都迎賓館は決まったようですね。何というか喜ばしいですね。いままで京都へ行っても、その中心である御所を参観できるのが、年に二回のみでしたからね。ただ観光客が増えるからその分防犯とか大事になってきますね。さて、今回の記事「京都御所というシームレスな存...

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内裏の正殿・紫宸殿の変遷

今回、金閣北山第の3D製作するにあたって金閣の次に同第の正殿、天皇を迎えるための宸殿(紫宸殿)作りに取り掛かっている訳ですが、では当時、義満の室町時代、どんな規模、形をしていたのか?いまいちよく分からなかったので、平安時代から室町、幕末、現在の御所・紫宸殿まで資料を集め自分なりの北山第宸殿を考えてみました。現在、残っている遺構で見ますと、(幕末・安政二年、一八五五年造営の紫宸殿)そして、慶長度造営...

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NoTitle * by -
迅速かつ丁寧な返信大変ありがとうございます。いつも更新楽しみにしております。
寒くなってきましたので、お体にお気をつけください。

引用元が間違っていました。 * by 管理人です
コメントありがとうございます。
引用元ですがこちらが間違っていました。
正しくは、
淡交社刊の「古寺巡礼 京都 11 仁和寺」でした。
1977年刊行で山本健吉氏著です。
間違って引用し申し訳ありませんでした。
また、貴重な時間を割いてしまったことも
申し訳ありませんでした。
今後はこんなことがないよう気をつけます。

仁和寺金堂の図面について * by -
いつも勉強になりながら拝読しています。
ところで質問なのですが、仁和寺金堂の図面は、日本名建築写真選集(新潮社)の何巻からの引用なのでしょうか。手にとってみたのですが、見当たりませんでした。お忙しいところすみません。ご教授いただけると幸いです。

戦国時代、天皇を支えた禁裏小番の公家たち

今日は戦国時代の内裏を取り上げてみたいと思います。 表題にあります「禁裏小番」とは、大納言以下の公家(公卿・殿上人)が5もしくは6番の小番(グループ)に分かれて内裏の当番宿直を担当したもので明治維新まで行なわれました。 その禁裏小番について今回取り上げるものですが、まずは当時・戦国時代の朝廷を取り巻く時代背景を説明したいと思います。 広義の意味では「室町時代」とは、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に補任されて...

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* by taka
この記事については全く同感です。彼等の我慢と働きがあってこそ現在の皇室に繋がっていたという歴史は決して忘れてはならないですね。特に所謂摂関家清華家等の最上流の公卿達は自分達の生活が困れば有力大名の領国に下向して朝廷以上の収入を得ていたのに対して、皇室と禁裏小番の公卿・公家達は京都を動かず、あるいは山科家の様に下向したとしても朝廷への援助の為に頭を下げに行く、そういった血の滲む努力をしていたのですから驚かされます。

ところで 奥野高広氏 の著述は資料としては一級品ですが、その考え方には非常に大きな違和感があります。例えば現代、首相の仕事を貯金0で年収100万円で全てこなしているとします。そうなると首相の仕事は大きく滞り貧窮国となりますが、100万円の年収でもあるじゃないかと見るか? そんな年収しかないと見るか? で大きく見方が異なります。

歴史の資料を見ると後土御門天皇の玉体が放置されていた事は事実ですし、後柏原・後奈良両天皇の即位の儀式が思うように開けなかった事も事実です。その事実を差し置いて朝廷に七百五十貫文ばかりの収入があるからといって貧窮していなかったという論や、戦国時代の大名や武将達の免罪符には決してならないと思います。

例えば前田利家、彼は織田信長公の茶坊主を斬り捨てて出奔しましたが、永禄四年(1561年)の森部の戦いで活躍して帰参しました。その時の領地は三百貫文(もしくは四百五十貫文)と言われていますし、山内一豊に至っては岩倉織田氏の家老だったというだけで五百貫文の領地を貰っております。つまり朝廷の収入というのは、中堅所の武将の初任給とほぼ同等程度のものしかないと言えます。

織田信長公は権力基盤を獲得する為に朝廷を利用し、豊臣秀吉は朝廷権力に依存し、徳川家康は朝廷を畏怖していたと言えますが、三者三様に朝廷にはそれなりの力ある者として敬意と恐れを有していましたが、室町全般(戦国時代)は朝廷を軽んじるしか能がない武将達が蔓延った最悪の時代と言えるでしょう。

京都御所の移り変わり

京都御所へ行くと何ともいえない清浄感に満たされます。そこで今回は御所の変遷について写真を交え書きたいと思います。御所は春と秋の年二回一般公開されますが、奥にある皇后宮御殿、さらにその奥の飛香舎が公開されることはありません。しかし、その飛香舎こそ平安の古制を一番残しているといわれる場所です。飛香舎(ひぎょうしゃ)は、平安内裏の後宮の七殿五舎のうちの一つで、清涼殿の北西に隣り合った位置にあったことから...

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No Subject * by -
澪標様
コメントありがとうございます。
拙いブログですが何かのお役に立てば幸いです。

時間潰しでもチョコ、チョコ寄ってくださいね。
また、私でわかる範囲内でしたらコメントのお返しできると思いますのでよろしくです。

No Subject * by 澪標
京一朗様
いつもお世話になっております。
お忙しい中、コメントの翌日に宮内庁へ問い合わせいただいたのに、ご返信が遅れてしまい申し訳ございません。
部材に関しまして残っていれば復元が容易になるだけに、現存していないのはすごく残念という気持ちです。
二条城に移築された桂宮邸も廊下や一部の建物が建物疎開され復元されていない部分がありますが、同じく現存していないのでしょうね。
御所の建物疎開も焼夷弾の延焼を防ぐために、廊下を解体するならまだしも、半分近くも取り壊されていることに関しましても首を傾げたくなりますが、このことに関しても当時の業務記録を当たるしかないですね。

拙い文章であるにも関わらず、迅速な調査をして下さいましてありがとうございました。
また京一郎様にお世話になるかもしれませんが、その時は宜しくお願い致します。

お返事です。 * by 京一朗
澪標様 コメントありがとうございます。
戦争中の京都御所の建物疎開のことについてですが、私もわからないので宮内庁京都事務所に直接電話して聞きました。それによると、昭和20年6月~7月の間で解体されたそうで、その解体された建物の部材、建材は残ってないそうです。その辺の詳細は宮内庁書陵部に保存されている当時の業務文書を調べればわかるかもしれないとのこと。記述の中には部材もどこか転用された記録があるかもしれませんね。でも調べるのも大変だと思います。同事務所の見解としては「当時の部材は残されていない」ということです。また、今後、疎開で解体された建物については復元、再建する予定は今のところないそうです。

ご期待に添えないお返事で申し訳ありません。

No Subject * by 澪標
戦争中の建物疎開で失われた台所や長局などの部材はどこに行ったのでしょうか?
保管されていれば復元しても良いはずなのに、されないということは廃棄してしまったと考えてしまいますが、当時も文化財という認識はあったはずですし謎です。
ご存知でしたらお教え下さいませんでしょうか?

NoTitle * by 京一朗
長屋門様
コメントありがとうございます。
そうですね。日本はもっと景観は皆のもの。というパブリック精神を発揮する必要がありますね。

* by 長屋門
戦時中に潰された建造物は今からでも復元してほしいですね。新興住宅高層ビルばかり建てないで。