3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

 >  公家町再建プロジェクト

絶対!住んでみたくなる鷹司家常磐井別邸

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(八) - を書こうと思って鷹司家の事を調べていたら、とても素晴らしいお屋敷の指図と出会い、急遽「絶対!住んでみたくなる鷹司家常磐井別邸」と題して単発記事で書くことにしました。ですから、その(八)はオアズケ、次回に回すことにしました。ほんと、カントのような規則正しい思索を守れない自分です。その、単独で書こうと思った鷹司家常磐井別邸とは何ぞや? どこに在った...

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No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

明治に入って常磐井別邸がどうなったのか気になるところです。能舞台はきっとどこかへ移築されたと思うのですが、これだけの別業建築が跡形もなく消え去ったのは残念なことです。京都を周って思ったのは、京都といえども三代遡れば家も土地の持ち主も変わって忘れ去られてしまう、ということが意外のほか多かったことです。とくに商業地ですけど。

その意味ではお公家さんはよく1000年間、帝の傍を離れず御守したと思います。

常盤井別邸 * by 五反田猫
常盤井別邸が、幕末の政治における重要な舞台であり、迎賓館であったとのお話し、有難うございました。
建物の構造から見ると、まさに仰る通りですね。
能楽は江戸時代は一般教養ですから、おもてなしとしても式楽としても使えますね。

住宅における三階楼は江戸後期から出て来ますね。
それだけ建築構造が発展したのでしょう。
一方で、街並みから見れば、飛び抜けた存在。
摂家の別邸でも無いと、建てられませんね。
鴨川沿いならば、東山や比叡も見えたのでしょうね。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(七)

五日の記事で油小路家の屋敷跡を訂正した事もあって「御苑外にあった公家屋敷の跡を巡る旅」シリーズもますます完結編が遠のきそうです。いつも横道それてしまうんですよね。でも、そんなことも言ってられない、その(七)いきますね。今回は、その(七)」として、坊城、愛宕、油小路、町尻、高辻、七条の六公家について屋敷跡地を巡ります。また六家も書けるかなぁと心配ですが頑張って書きます。さて、訪問先の位置図をアップ。青く...

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明治28年、京都には公家屋敷がまだ幾つも残っていた。

正月三が日も過ぎてもうおとそ気分も何処へやら? さぁ、気分を変えてブログの記事始めです。旧年からの続きもの「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(七)」を書くため、油小路家の事を調べていましたら、どうも屋敷跡の場所が御苑東の荒神口であることは確かなのですが、荒神口といっても荒神口通りに沿って結構広いので、前回まで示した、荒神口の地名の元ともなった護浄院(清荒神)の南裏手の推定場所は間違ってい...

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No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

今年も宜しくお願いします。

自分の中では、旧年中に紫宸殿の高御座を作って御大典がどんなものかブログにも書いてみたいと思ってましたが年を越えてしまいました。

公家屋敷跡の巡礼旅シリーズも想定より続編が続き、かつ、その間にまた新たな屋敷跡、別宅跡とか見つけてしまう・・・という感じでなかなか解放してくれません 笑。でも、まぁ、楽しく書こうと思ってます。

浩宮様の大礼がつつがなく挙行されることを願ってます。殿下の髪にも白髪が見えますね。時の流れを感じます。

五反田猫様も今年も良き年でありますように。

謹賀新年 * by 五反田猫
京一郎さま

昨年は素晴らしいコンテンツを有難うございます。
本年もどうぞ宜しくお願いします。

明治維新は京都の公家にとっては大変革でしたよね。
朝廷側の中心にいた公家は明治維新では勝ち組のはずですが、時代の変化についてゆけない人や家も多かったようです。
特に二百年やってきた家職を棄てて、皇室の藩屏となり文明開化を率先せよと言われても、後者は大変な事だと思います。

東京に移った側も大変で、高位や蓄えの多い家はともかく、従来 武家の下級武士程度の収入だった平堂上が子爵だと言われても身に着いた貧乏はどうにもなりません。
東京への移動は、行列に紛れ込んで旅費を浮かしたり、東京での住まいが手配できず、新宿御苑の中に仮設住宅を作って頂き、ここに住まいした家もあったと聞きました。

今年は、御代替りの年、色々な事があると思いますが、良いお年である事をお祈り申し上げます。

No Subject * by 京一朗
Hakka様 コメントありがとうございます。

今年も宜しくお付き合いください。

京都の古図を見ていると意外な発見とかありますね。御所のある上京区の住宅地図もあるのでそれと照合しようかな 笑。

自分は主に公家屋敷のことを書いてますが、一つのものを追っていくと、予期せぬ展開とかあるものだな、と最近思います。

No Subject * by Hakka
こんばんは。

新撰京都古今全図の地図、興味深いですね。

京都には名もない古民家が多く残されているので、その中にかつての公家屋敷があるかもしれないと考えると、わくわくしますね。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(六)

「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る」の初回現地取材をしたのが先月11月の初旬。もう一か月以上経って旅の記憶も忘れがちになってますが撮った写真とか見ながら思い出し書きしてゆきます。今回の訪問先は、伏見宮家、梶井宮家、日光御里坊、正親町家、山階宮家の五邸です。全部書けるか心配ですがとにかくやってみます。例によって各屋敷の位置図を載せます。                           © Open...

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No Subject * by 京一朗
higeさん
コメントありがとうございます。

そうですね、番組小学校の一つですね。各番組小学校には公家屋敷の門や御殿はもちろん藩邸やお寺の建物も移築され利用されました。

欧州の都市が一番美しく見えるスポットは丘から見下ろした風景だと思います。やはり屋根が統一されてますからね。街路を歩くと石畳は疲れる。落書きも多い。

高階宮邸の五層楼も長い江戸時代の建築規制(二階以上禁止)縛られた反作用で、地震も関係なくまさに解放感あふれたされた当時の人たちの高揚感を感じる思いです。

higeさんには今年いろいろお世話になりました。良き年をお迎えくださいね。

※ higeさんは髭生やしてみえるんですか? 失礼な愚門すみません。

日影小学校は * by hige
いつも興味深く拝見させていただいてます。

記事中の日影小学校は、日彰小学校ではありませんか。

http://www.kyotodeasobo.com/art/search/museum/gakureki/choshu-no-energy-kyoto-bangumi-shogakukou#.XCl8ZM3gpMM

この日彰小学校は明治2年に建てられた番組小学校の一つです。
この五層楼はもう残ってないようですね。
太鼓望楼であれば

https://blgid1974.blog.fc2.com/blog-entry-1111.html

な形で残ってるものがあります。

明治天皇が遷都されてから、京都御苑の公家屋敷が荒れ放題になって、それをお知りになった天皇が京都御苑の整備をお命じなったのだとか。
また、昭和になって、ビル化が進み古い建物が次々壊されたことがあったらしい。
最近でこそ古い街並みを残すことに注意が傾けられてますが、壊された遺産は戻ってきません。

そんな古い景観を京一郎さんが再現されるのが楽しみです。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(五) 河野じゃなく阿野さんだった!

「別に間違いを見つけるために150年前の幕末京都にタイムスリップした訳じゃなかった。でも結果的にそうなった」。こんな書き出しで今回のその(五)は書いてみようと思います。結果から先に言いますと、タイトル通り「河野じゃなく阿野さんだった!」ということです。その(四)で相国寺東隣の「塔之段薮下町」にあった公家・小倉家そして河野家を訪ねましたが、実は河野家という姓の公家は存在しないということを旅の記事を書きなが...

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No Subject * by hige
あれま そうでしたか。
前にも紹介しているのでしたか。
これは失礼しました。
年取ると物忘れが激しくて。

No Subject * by -
hige様コメントありがとうございます。
さっそくアクセスしてみました.

平安京オーバレイマップは先回教えて頂きました。「なかなか興味深い記事があります」というのはひょっとして別の記事のことですか?

こちらの勘違いだったらすみません。

オーバレイマップは平安京と現代が比較でき見ていても楽しいです。でも、作るのに大変だったでしょうね。

No Subject * by hige
 すでにご存じかもしれませんが
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/
というなかなか興味深い記事があります。

 先般、冷泉家内部の一般公開があったのですが、内部の撮影は全面禁止だと云うことで、観覧しませんでした。

 京都といえど文化財がそのまま残っているところはなかなかないようで、京一朗氏のアプローチはすごく興味深いです。

No Subject * by -
五反田猫さま
コメントありがとうございます。

河野さんの事ですけど、前半、御苑外で訪ねたお公家さんは、山本、石野、石井、小倉、入江さん、と、どちらかと言うと公家らしくない姓が多かったので、河野もアリかなとそのまま現地を訪ねました。これが大炊御門家とか聞けば一発で公家変換できますが、そういう名は御苑内に多いんですよね 笑。

でも、ネットで「山本家」と検索するとグーグルでもトップページの一番に載ります。それだけ歴史的重みがあるんでしょうね。

来年の大嘗祭では一部、ベニア板が使われるとか、一世一元のそれこそ日本の将来を占うような大事な祭祀なのに何か悲しくなってきますよ。合板では神気が滞ってしまう・・・。

「もっと他にケチる所いっぱい在るだろう!」といいたくなりますよ。日本がどんどん溶解していくようで堪りません。

すみません、思わず愚痴ってしまいました。

「磯高の冠」、ググってみました。有職故実に拘った家なんですね。勉強になります。

いつもながら丁寧の調査です * by 五反田猫
資料をしっかりあたるのは重要ですよね。
特に、崩し字を翻字する時には、専門家でも間違いますので。

こうして、関連資料を当たられて、実地も見られて、頭が下がります。

今回 資料に出た勧修寺流の「某家」は、ご子孫にご縁があって、色々と教授頂きました。息子さん方は今も立派に御用を御勤めされております。
江戸末の宮中の絵巻を見ると、勧修寺家は「磯高の冠」という他家と違う冠をかぶるのですぐに判ります。 こういう他家と違うのは、大名もそうですが、大変大事だったみたいですね。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(四)

帰ってまいりました。「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅」。今回は、その(四)として中院家、入江家、広幡家、小倉家、河野家の五家について巡ってみたいと思います。京都御苑の外にあった宮家・公家屋敷跡の一覧図。                    © OpenStreetMap contributors青で丸く囲った所が訪問先。というか、その(三)から暫く間が空き旅の記憶が段々と薄れ気味・・・・どこまで書けるか心配ですが行け...

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No Subject * by -
TAKATSUKASA様 

コメントありがとうございます。

いろいろ公家繋がりで深いものがありますね。
河野さんの事ですけど誰の屋敷かわかりました!
今、記事に書いてます。ここでは明かしませんよ、お楽しみに 笑。

小倉家 河野家 * by TAKATSUKASA
相変わらず楽しく拝見させ頂いております。小倉家の第23代当主、小倉長季の実父は橋本實久で、實久の妹、伊与子が家慶時代に大奥で絶大な権勢を振るった姉小路で、更に實久の娘、経子は和宮親子内親王の生母という、なかなかに面白い血筋の方ですね。河野家は、どこでしょうね。読み方、漢字を間違えて交野家(かたの)とか河端家と高野家と書き間違えたのでしょうか。特に交野家は、ご推察されています西高辻家とほぼ同じ石高なので。そういうのを色々と調べてみたり、推測してみたりも、本当に楽しいものですね。

No Subject * by -
hige様 

平安京オーバレイマップの紹介も合わせありがとうございます。

京都アスニーの復原模型や立命館大のバーチャル3D、書籍等では見知っているつもりでしたがネット上でバーチャル平安京マップが見れるとは知りませんでした。

やっぱり京都へ移住しないとダメですかね 笑。

冷泉家は以前行きまして写真もたくさん撮りましたが、外から室内を撮るのもダメになったのですか?

どんどん室内撮影禁止とか増えてますね。もう3Dで作って室内見るしかないですね。でも、それだと100年かかる。せめて御所と公家町の三十邸ぐらいは作ってあの世へ行きたいと考えております。

いつも為になること教えて頂きありがとうございます。

京の旧家 * by hige
 京の公家屋敷はいくつか残ってるみたいですが、京都御苑の中はひとつを除いて全滅ですね。
 江戸への遷都で公家も江戸へ移住。で御苑が荒廃。
 で、天皇が京都御苑の整備を指示。
 今の京都御苑がある。みたいな歴史があるようです。

 冷泉家の一般公開がありまして、行ったのですが内部は全面撮影禁止と言うことでしたので、入らずよそへ行きました。

 最近のカメラマンたちのマナーの悪さは私も実感しています。外人も含む一般人のスマホやタブレットでの撮影。
 なかなかむつかしい問題と思ってます。

 京のレトルトな建物や、昔はどうなのが興味深いです。

 で、ご存じかもしれませんが
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(三)

最初から幻の旅とはわかっていたけど、流石にビルの下、駐輪場の下に公家さんの屋敷があったのか・・・と思うとちょっと辛いものがあります。目的はあっても目的のない旅。そんな京の旅は今回初めて。今までは、あそこの社寺に行こうとか、資料館に行って調べものしようかとか、それなりの目的がありました。でも、不思議なもので公家屋敷の跡を巡るなかで偶然出会う名もない史跡、寺社を見つけると新鮮な喜びが湧き上がります。副...

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写真のお借りありがとうございます。 * by 京一朗
hige様 ご丁寧にコメント頂き、また、府民ホール「アルティ」の庭の写真について利用させて頂きありがとうございます。

少しお公家さんの記事に偏り過ぎていると思いますけど、それが拙ブログの個性だと思っています。

>殆どのブログには©表示がされてます。これは世界標準での著作権表示だと理解しております。

そうなのですか。知りませんでした。著作権については気にしています。ブログ上も写真家の撮った写真や建築作品ですけど。

たとえば、非公開の建築については道路側からだったらOK。芸術作品(古美術、建築も含む)については美術展の図録のように普通の採光で正面から寫した画像等については、芸術表現の面は少ない、ということで、引用元を強調文字で表記しながら利用させてもらってます。、もちろん商用には使いません。

もし、指摘されたら削除。それでも使いたい時は、引用元さんに趣旨を説明しお願いあるのみです。よく素材サイトは利用してます。

私の場合の3DCG画像の掲載ですが、他のブログでの掲載も歓迎します。ただ、やはり「3D京都」と表記してほしいですね。画像自体は3D作品のほんの二次元の細切れなのでパクリなど心配してません。

>まとめサイトを極力訪問しないよう努めています。 URLにNAVERとあったら絶対に見ません。

そうなんですね。自分も気を付けます。いろいろ教えていただき勉強になります。

今後ともよろしくお付き合いください。


京都府公館(旧知事 公舎)庭園見学 * by hige
 ご訪問いただきありがとうございます。
 また拙ブログをご紹介いただきありがとうございます。
 なかなか視点の違ったアプローチと新鮮に感じて拝見させていただいてます。
 ご存知かもしれませんが、京都府公館(旧知事公舎)の庭園(府民ホール「アルティ」内)は期間限定の公開で、庭園の見学はいつもできるわけではありません。
 http://www.pref.kyoto.jp/bungei/machikado30.html
の広報のように、今年度は下記の日程のみ見学可能だったようです。
  10月20日(土)、21日(日)
  10月27日(土)、28日(日)
  11月10日(土)、11日(日)
   10:00~15:00
 御承前であればお聞き流しください。

 貴ブログに
 ※ ブログに掲載する3DCG、加工済画像等の無断転載は固くお断りします。
と書かれておられますが、殆どのブログには©表示がされてます。
 これは世界標準での著作権表示だと理解しております。
 色々画像をパクられた話とかをネットで見受けたり、大手おまとめサイト(ネーバーのような)も最近では訴訟で敗訴してたりします。
 なので、ググった時にはおまとめサイトを極力訪問しないよう努めています。
 URLにNAVERとあったら絶対に見ません。
 ブログでは大きなサイズの画像をアップするとパクられるとかで、小さな画像をアップするのが常識らしいです。
 また対策に画像に透過文字を入れたりするのがいいらしいとの話が多いですね。
 私はそんな細工はしていません。
 パクられるようになったら、いよいよ私の画像も一人前になったのかと思うかもしれないと。
 デジカメで撮った写真を、いつも茶の間で見ている地デジ用のでっかいテレビ画面で見てみると、その表現力に圧倒されます。
 でっかい画像はすごい、と思ってます。

 これからもよろしくお願いいたします。
 
 

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 いつも為になるコメントありがとうございます。
醍醐中将は立派な方だったんですね。華族の軍人と言えば前田侯爵家の前田利為陸軍大将も思い浮かびますね。東条首相と反りが合わず前線に出され戦死したと聞きますが、東条さんのことも悪くは言いたくないですね。負ければ敗軍の将は兵を語らずですから。

学習院大学には西園寺家の指図が一式揃ってます。立面図も一部あります。なので、これも3Dで再現したいです。御所の動画もまだだし、何から作ろうか迷ってばかりいます。今回の御苑の外にあった公家屋敷を巡る旅の記事も、これから公家町を作っていく前に取り上げておかなければ、と、衝動的に旅だった次第です。一邸あたりの文量もダラダラ書くのでつい長くなってしまいます。もうシリーズもので何回続くやらです。

醍醐中将 * by 五反田猫
現地を見ての詳しいお話し有難うございます。
醍醐家は建物の図面があって、精華の家の規模が良く判りますね。 長屋門があって、表長屋は二間間口に奥行き三間=六坪と見れば宜しいのでしょうか。 
母屋や奥の様子も判ります。
表門は中立売通りに北側で面し、東が烏丸通、西が室町通に挟まれているのですね。

海軍の醍醐重忠中将は、人柄を見込まれて昭和二〇年六月に潜水艦の第六艦隊司令長官に着任されました。
それまで米国駆逐艦に沈められ作戦可能な艦はたった九隻。意気消沈だった潜水艦部隊の士気が多いに上がったそうです。人づてですが当時のお話しを伺った事があり、大変立派な方だと印象に残りました。

No Subject * by 京一朗
大原様、コメントありがとうございます。

東本願寺行って参りました。飾り金具がキンピカに輝いてきれいでした! 堂内の写真も撮りたかったですけど残念。ここでは、気づきませんでした・・・(撮影禁止)が通りませんでした。ガードマンさんがしっかり警備してました 笑。
下手なタイムスリップですけどお褒め頂きありがとうございます。

大原さんも組み物巡り頑張ってください。

No Subject * by 大原かずのり
お東さんに参拝なさったのですね^^
祖母の喉仏をお東さんに納骨してあります。

タイムスリップ画像は素晴らしいです(笑)
こんな感じで現代的な街と公家屋敷が目に見える形で共存していたら、さぞかし面白いでしょうね^^

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(二)

「アレ? 地面に足が届かない・・・俺、こんなに足短かっかったけ?」 自転車に乗ってさぁ公家屋敷巡りするぞ! と張り切った矢先、ホテルの前で立ち往生した。サドルを下げようとしたけど固くて下がらない。ホテルの人に下げてもらったけど、「何でまたこんなにサドルの位置高いん?」と聞いたら「あぁ、前日、外人さん使いましたから」との返事。そうかぁ・・・これがインバウンド効果って奴かぁ、と変なところで感心する自分...

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管理人のみ閲覧できます * by -

No Subject * by 京一朗
Hakka様コメントありがとうございます。

ブログ拝見しました。例の、とか言ったら失礼ですが、ちょくちょく伺うブログ主さんとはありがたいです。友好親善ですね 笑。その(三)アップしたので宜しかったら覗いてやってください。

No Subject * by Hakka
こんばんは。

古い城址などであれば古老に聞けば情報が得られたりする場合がありますが、公家屋敷跡ではそうもいかないようで、さぞご苦労されたようですね。

それでも、古地図と照らし合わせての痕跡探しはとても面白そうですね。

第三回も期待しております。

No Subject * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

そうですね、前も五反田猫さんから教えていただきましたね。30石でも蔵米の方が安定していていいですね。仮に30石の知行地だと実収入15石ほど。領民は三世帯ほどですかね 笑。

「華族建家坪数控」を読んでいると公家の家令のいろんな署名見比べますけど、五摂家の家令はさすがに達筆ですね。さっぱり読めない崩し文字もあれば、楷書で書いていてすごく解り易いのもあります。字も下手な自分よりさらに下手?という人もいる。名前もいかにも、という人もおれば”山田孝男”君みたいな今時の名も。幕末の資料を見ていると、別に維新じゃなくても、当時の人々も確実に近代の感覚へ意識が変わっていると思いますね。

石井家の御屋敷ですけど明治30年頃の写真です。雨樋とかもあって結構改造されていると思います。建てられた当時はもう少し瀟洒だったのでは?と思います。

No Subject * by 五反田猫
いつも興味深いお話しを有難うございます。
前のお話しも含めてのコメントです。

>三十石公卿
これは蔵米支給なので、作柄にかかわらず三十石全部貰えますので、知行で言えば六十石並ですね。とは言え、当然に少ないので、親兄弟、親戚で、能力があれば朝廷に出仕し役料を貰うのが普通です。 能力があれば同じ家でも何人も出仕できる点が、武家と違う点ですね。 武家でも幕末は人材登用で能力次第で、採用するようになりましたが、朝廷は 下級公家や地下は、結構 実力主義なのです。

>石井家
珍しい写真を有難うございます。 下級公家の屋敷の資料は少ないので参考になります。 御師や神官の家と言っても通じるくらいの雰囲気ですね。 破風は簡素ですし、屋根瓦は普通のものです。 切妻の棟割長屋風で、チープ感があって、三十石公卿ってこんなものだと納得してしまいました。

京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅 その(一)

たとえ、そこがコンビニだろうがマンションだろうが学校の校庭に変わっていようとも、足を運んで「あぁーここなんだぁ」と幕末・維新の頃確かに存在した公家屋敷に想いを馳せ、そこの空気を吸い遠く感慨に耽ようと、今回、旅立った「京都御苑の外にあった公家屋敷の跡を巡る旅」。多少なりとも痕跡があるかも、と微かな期待はしていたが既に知られる冷泉家住宅等除いて現実は甘くない。何も無かった。本当に・・・泣。(少しはあっ...

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京都御所3D現場顛末記 対屋編 その(一)

これが ↓これに ↓なりました。記事、嫉妬を生まない御所の後宮システム 後編で描き添えました典侍等高級女官の住居(長局)である東西の「対屋」ですが、現京都御所には遺構は存在しません。明治維新後解体されました。ただ、一部の室、古材、及び襖絵が泉涌寺に移築されている、との事ですが、非公開なので確認することはできません。移築後の改造もあって、全体としての対屋がどのような建物だったのかは不明です。そこで無謀...

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NoTitle * by 梅村京一朗
五反田猫様
コメントありがとうございます。

本瓦だったら、檜皮葺の次かもしれませんね。でも完成した名古屋城本丸御殿の屋根は杮葺きですね。戦災で焼ける前は本瓦でしたから創建時に戻ったということですけど、だと、やっぱり、杮葺きの方が格上?よく、わかりませんね。

東西の対屋には下家の北側に計四カ所の玄関があります。たとえば西対屋だと西端の玄関は「大御乳人(命婦の序列二位の女官)」が使用しました。東端の玄関は典侍が使用、という風にある程度身分に応じて使い分けされていました。

屋根の葺き方 * by 五反田猫
京一朗さん、いつも興味深い記事を有難うございます。

なるほど、木皮による葺きかたでも格の違いがあるのですね。
瓦が下というのも、故実が重視されてきた結果でしょうか。
防火の意味では、当然に瓦が良いのですが、せっかく瓦にしてもお隣が瓦でないと、結局 延焼するのでしょうね。

3Dを拝見して気になったのが、追加された建物の東西に飛び出た部分。 これは玄関なのでしょうか?
平面図を見ると東西両方についています。 こういう構造は面白いですね。

京都御所最大の建物・御常御殿を作ってみました。

お盆を挟んで暑い日差しも少し和らいだ感じですが、読者のみなさんはいかがお過ごしですか。そういえば、北海道の大雪山系黒岳では早くも初冠雪。何でも、8月の初雪の観測は2003年以来のことで、1974年からの統計では最も早いとのこと!。この天界と下界の違いは何なんでしょう?皆さんも暑さ寒さ?対策に気を付けてください。さて、前回の記事で御学問所の完成に伴い3DCGも二回に分けて掲載しようと思っていましたが、御所最大の...

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「鉢合わせはご法度」 - 御所の動線システム

暑中お見舞い申し上げます。毎日暑い日が続きますね。私の住む愛知県でもとうとう名古屋が40度に達しました。観測以来初めての40度越えです。皆様とも熱中症対策をしっかりして、この一夏を越えなければならないと思っています。普段、帝の住まわれる常御殿と大名と対面する小御所との間にある御学問所を作りました。御学問所は帝の学問の場だけでなく公家との対面にも使われました。小御所より一回り小さいです。ところがです。南...

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Mysterious Japan ― 京都御所渡り廊を巡って

京都御所にはたくさんの廊下があります。殿舎間を繋ぐ廊下は「渡り廊」と言って廊下の”下”の字を使わない場合もあります。これは寝殿造では、廊下を渡り殿とか透廊と呼んだ名残があって、また、”殿上人”という言葉があるように、主に貴族階級(公家等)など、彼らが廊下を歩く訳にはいきません。”下”に下がるからです。とくに朝廷ではこの用語に拘った形跡があります。ですから近世の指図を見ても廊下の呼称が「廊下」や「渡り廊」...

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お公家さん憧れの「殿上の間」と小話

清涼殿の南に孫廂のように突き出た南廂、いわゆる「殿上の間」が完成しました。同殿は一見何の変哲もない地味な板敷きの間ですが、ここに昇ることができるかできないかで殿上人、つまり公家になれるかなれないかの証しの場なのです。昇ることができれば晴れて堂上公家の仲間入り。その意味で公家にとっては昇段試験の場。ここは、清涼殿の南の一角。即ち、昇るといっても、御所内のどこの御殿へ昇ってもOKではなく、あくまで清涼殿...

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NoTitle * by -
五反田猫様
コメントありがとうございます。

そうですか、幕末の宮廷お持ちですか、ネタじゃなくなりましたね 笑。他にも「京都四民の生活」とか公家さんの事書いた本ありますが、やはり幕末の宮廷の右に出るものはないですね・・・。こうなると、もう公家の子孫の方に直接、取材するしかないかも・・・です 笑。

幕末の宮廷 * by 五反田猫
興味深い資料を有難うございます。
現在の御所は、昭和の建物疎開で、随分と損なわれたものなのですね。 資料から良く判りました。

『幕末の宮廷』は、江戸の宮廷の実態を活き活きと描いてくれて、私も愛読書の一つです。
公家収入は、トップの摂家でも、大きく違います。
近衛家の知行は、表高は2862石ですが、実収は2081石、税率が高いのではなく、領地が伊丹など、米どころで実収が大きいのですね。
一方で一條さんは表高2044石ですが、実収794石で、下橋さんのお話しの通り「800石も入りません」なのです。 領地によって、大いに収入が異なるし、当道座の収入がある久我家、蹴鞠の難波家など、地下でも平田家は事務方のトップで膨大な現金収入があったそうです。これらの家では維新後の方が苦労されたそうです。

京都御所待合物語

御所の陣座が出来ました。と、陣座、陣座とばかり言っていても銀座と言いかねないので、要は陣座とは詰所、待合室のことなので今風に「京都御所待合物語」としました。物語といっても特にないですけど、書いていくうちにひょっこり出てくるかもです。さて、まずは今回作った陣座、宮人座、床子座についてその建物位置を示します。陣座、宮人座、床子座の位置図。ここのスペースはまさしく紫宸殿南庭で行われる諸儀式の控室・待機室...

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NoTitle * by 京一朗
こんばんは takaさん
コメントありがとうございます。
いつもながら教えて頂きありがとうございます。
陛下と殿下の由来がわかりました。殿下はともかく陛下の語源はは知らなかった。

内裏ですけど、現在は紫宸殿の前を朱塗りの複廊と門がぐるっと囲っていますが、平安時代の正規の内裏を見ると、現在、外から見える築地塀の部分がそのまま複廊になっていたんですね。つまり、今の御所は築地塀を潜って朱塗りの回廊に入る訳ですが、平安時代は複廊が外塀だった。なんか上手くいえませんが、今見る築地塀の代わりに朱塗りの回廊で囲まれていた。それが本来の内裏。だとすると、とてつもなく大きく華麗な宮殿だったと思います。平安時代初期の律令体制はホント壮大な意気込みと実験を感じますね。

五反田猫さんの流派ですが、
聞きましたら、「御家流 桂雪会」だそうです。
なんでも、民間で伝えた流派で宮尾登美子の「伽羅の香」という小説にも出て来るそうです。

お香も「嗅ぐ」などという下品な言葉は今後使いませんので、ここだけの話しにしておいて下さい 笑。

では、おやすみなさい。



NoTitle * by taka
本当に 梅村様 の3Dは見事なできばえですね。しかも今回は尊敬する 光格天皇様 の即位図や即位式幟図が見る事が出来て最高です。

陣座の疑問はもう解けたでしょうか? 万が一の為に書いておきます。一応宣陽殿の議所は叙位・除目の会議の為の部屋みたいです。親王宣下・改元といった重要度のある陣座よりは一段下がるみたいです。やはり倉庫だからでしょうか?

建物って歴史学の中ではマイナーですけど、名称の語源とかにもなって何気に重要なんだなとこのブログを見るたびに感じます。例えば『陛下』というのは「宮殿の階段の下」が語源、『殿下』は「殿舎の階下」、『殿上人』も清涼殿の殿上間由来、つくづく歴史とは建造物とともに歩んでいるんだなとこのブログを見て実感しています。

そう考えると先立つ物が無い、という理由で日本の顔にして重要でもある大内裏再建を諦めたというのは残念な気持ちにさせられますね。とくに朝廷に仕える公卿にしても、例えば鎌倉時代では 西園寺家 は一国に匹敵する富を持っているとまで言われた家でしたが、自分の為だけに使って公の為に何一つしなかったのは残念ですね。

最近南北朝に凝っていてちょくちょく調べていたから分かりますが、鎌倉後期から室町は時代が安定しなかったので幕府が再建できなかったのはやむを得なかったでしょうね。

香道の事ですが、香道では「嗅ぐ」ではなく「聞く」ですね。「香りを聞く」という表現が適切です。香道の基本はこの『聞香』(ぶんこう)ですね。まああとは「六国五味」(りっこくごみ)とか、「銘香」と「名香」とか基本的な事を抑えておけばそれなりに話がしやすいです(汗)

あと流派の違いとしては、『志野流』は沈香だけ、『三条西流』は沈香以外も使用するって所も抑えておいても良いかもしれません。

紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!? 

今回は紫宸殿の東に位置する東軒廊と宣陽殿、西に位置する土渡廊を3Dで作ってみました。その過程で例によって素人発想の「何でだろう?」と思う点が幾つか出てきて、その一つの疑問が記事タイトルの「紫宸殿と清涼殿は繋がっていなかった!?」になった訳です。その辺は、後々書いていきます。さて、眠気覚ましにCGを何枚かアップ。クリックすると何れも拡大します。朝霧にむせぶ京都御所。私の好きな陰翳礼讃?です。おぉ!紫宸...

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NoTitle * by 京一朗
taka様 コメントありがとうございます。地震の被害なくてよかったですね。
自殺ですけど、やっぱり大義に殉じた人は亡くなったしばらくは自らの傷みに苦しむかも知れませんが、大義には必ず現世で恩恵を受けた人や感謝している人たちの祈りが通じ天国に行くと思います。原爆を二度も、実験のごとく落としたトルーマンは地獄でしょうね。

現京都御所の土御門里内裏ですが、藤岡通夫先生の名著「京都御所」を飛ばし読みしましたが、やっぱり財政難が理由だと思います。というよりも、あまりにも多くの焼亡を繰り返した内裏・里御所の回数の多さにびっくりしました。また、それを数々の文献・古文書を調べて克明に記された藤岡氏の並々ならぬ努力、能力に脱帽しました。

やっぱりとくに南北朝に入って足利幕府の財政難もあって、もう元の大内裏の位置に建てる力はなかったと思います。

内野と言われた大内裏に内裏を再建するとしたら、正式の内裏を造る訳ですから、室町幕府は考えただけで身震いしたと思いますよ。当時も大内裏への郷愁はあったけど、先立つものがなかった、そういうことだと、私は思います。

目の付けどころが違いますね * by taka
確かに紫宸殿と清涼殿、なぜ繋がっていないのか? 謎ですね。流石に自分でも解らないです(汗)

相変わらず見事な制作で食い入るように見ています。

ところで、現在の京都御所があの位置にある理由についてはどう思われます? 鎌倉時代安貞の火災で本内裏が何故再建されなかったか?

自分的には、鎌倉の大仏同様資金難だと思っているんですが(汗)

NoTitle * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。

そうですね。大阪北部地震で被害に遭われた方にお見舞い、そして亡くなられた方にお悔やみ申し上げます。亡くなられた中には九歳の女の子もいましたね。痛ましいです。

紫宸殿繋がりの件ですがよろしくお願いします。楽しみにしてます。

先回、コメントにあった和歌披講ですが、
さっそくYouTubeで検索して聴いてみました。厳かで雅びですね。正月の歌会始ぐらいしか聴いたことないので目から鱗です。短歌は書くものだけではなく詠み吟じ韻を踏むことなんですね。合唱もある。時に雅楽の伴奏もある! いいですね。五反田猫さん、かなり高度な日本文化を担ってみえますね。日本も安心です 笑。

また機会があったら、和歌披講を聴いてみたいと思います。そのときは宜しくお願いします。では御機嫌よう。

地震お見舞い * by 五反田猫
北摂を中心に大きな地震、お見舞いを申し上げます。

紫宸殿 * by 五反田猫
廊下や付属の建物が出来ると、雰囲気がとても良いですね。 最終的には、御大礼など、南庭での儀礼が見られると素敵です。

清涼殿から紫宸殿へのお出まし、なるほど言われてみると不明でした。 紫宸殿にお出ましになる自体が稀(御大礼と大嘗祭くらい?)と思うので、不便でも仕方がないと思いますが、どのようにするかは記録にありそうな気がします。
明治初期の絵図で、南庭へのお出ましには、庭に敷物が敷かれていたのを見ていますので、廊下以外にこのようなやり方もあるとは思います。
判るかは不明ですが、調べてみます。

清涼殿を作ってみた 外観編

京都御所の清涼殿を作ってみました。とりあえず外観。多少、内部も作り込んでいます。ここ清涼殿と紫宸殿は江戸末期の安政二年(1855年)に再建された御所の殿舎のなかで最も平安朝の寝殿造の古性を伝える建物です。従って両御殿については外観のみならず、内部、そして部屋毎に設えた大和絵の襖障子や家具調度品などインテリアについても3Dで作る予定です。清涼殿の位置図です。紫宸殿の西北にあります。今回は渡り廊下までは作っ...

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御所 紫宸殿の回廊と諸門を作りました

承明門に次ぎ御所紫宸殿を取り巻く回廊と諸門を3Dで作ってみました。この現在見る、京都御所の紫宸殿を取り巻く回廊と諸門は御所の焼失により安政度(1855年)に再建・造営されたものですが、そのお手本となった内裏は寛政度(1790年)に造営された御所で、安政度はほぼそのまま配置・形式を踏襲したものです。寛政度内裏の特徴は、紫宸殿の南庭に回廊と諸門を平安の古制に倣って復古造営したことです。それまでの桃山・江戸時代に...

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管理人のみ閲覧できます * by -

御所の承明門を作ってみました

京都御所の承明門を作るのに一週間以上かかってしまいました。用事もあったりしたものですから。少しサボりもありましたが・・・。ブログ記事の間隔が空くと、何と言うか読者の方も減ってランキングも下がるのではと、小心者の私は心配になってきます。で、短歌部門は、はてなブログの「梅村京一朗 短歌集」で書くことにしたので、それもあって空いてます。はてなブログのですけど、いまいち、手ごたえがない感じ。まだ、始めたば...

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公家町土地区画整理事業 決まる ③ 改めてこぼれ話

前回、公家町土地区画整理事業の割り当てが決まった段階で、何となく思った「こぼれ話」でも書こうかな、と思いましたが、予期せぬ「悩んでます」で書かずじまいでした。今日はちゃんと書きます(こぼれ話ですから肩肘張ることないけど)。ちなみに、拙ブログでたまに載せてます短歌ですけど「はてなブログ」に引っ越しし独立することにしました。短歌ブログのブログ名ですが、せっかくだから一つ捻ってやろうと思いましたが、結局「...

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NoTitle * by 京一朗
五反田猫様 コメントありがとうございます。
素晴らしい趣味をお持ちですね!
私も雅楽とか好きですけど、和歌披講・・・とは雅な。まさか、冷泉家の歌会ではないですよね? 笑。本格的な活動をされているんですね。

普段から公家文化に接している方からコメント頂き本当にうれしいです。

拙い3Dではありますが、励ましを力に頑張ります。ちょうど明日は名古屋で3Dセミナーがあるので勉強してきます。

それでは、これを機縁に今後ともよろしくお願い致します。
                  かしこ

始めまして * by 五反田猫
歴史と伝統芸能が好きで、こちらのページに誘われ、拝見しております。 御所と公家町の3D再現は素晴らしいですね。 私は、伝統芸能では、お香、雅楽や和歌披講をやっておりますので、公家文化はご縁があります。 昔から、京都御苑の公家町に、一部で良いから再現して欲しいと思っておりました。3Dデータでも、こうして拝見出来ると嬉しいです。 日本は観光立国を目指しているならば、公家屋敷のいくつか再現し、参内行列を見せれば世界に向けた文化の発信になり、バッキンガムの衛兵交代のような人気になるのにと思っております。
これからも楽しみに拝見いたします。

コメントありがとうございます * by 梅村京一朗
お久し振りです。元気されてましたか!承明門の3Dお褒め頂きありがとうございます。今、回廊部作ってます。昨日あたりから蒸し暑くなって梅シロップ飲み始めました。昨年の残りですけど美味しいですよ。
地下官人のこと詳しく説明頂き感謝です。そうですか、小佐野家は甲府でしたか。

それにしても、形だけとは言え、平安朝の律令組織が幕末まで残っていたのは驚きですね。財務省も大蔵省のままでも良かったのに。

朝廷は石高収入10万石以外にも幕府や諸大名からの献金、公家の家職や免状
等により裕福な公家もいましたね。一時期は公家さんにも奢侈禁止令が出されたそうですから、公家=貧乏、という訳でもないですよね。30石蔵米は確かにそうでしょうけど。子供だって20人もいた子だくさんの公家さんいましたからね(死産含む)。今に残る桂離宮も桂宮家所領3000石で十分維持管理できたのでしょうか? そのへん、調べていくと面白そうですね。

NoTitle * by taka
地下官人の説明、詳しくなされていますね。地下官人はさながら実務官僚みたいな感じですよね。公務員でいう現業みたいな形だと自分は思ってます。

ちなみに 壬生家 は算術、真継家 は河内鋳物師の頭領という縁から鋳物師系統の権威、ですね。真継家 については 加賀藩 との間で鋳物師集団の今でいう税制特権について大揉めに揉めた経緯もあったそうです。江戸時代の朝廷は免状とかそういうのが主要な収入源だったみたいですが、こと収入に関する事となると 加賀藩 とでも渡り合うたくましさがあるんだなと感心します。

しかしこういうのを見るにつけて、本当に当時の朝廷というのは歪ですね。藤原国主体制を延々とひきずってる体制には、正直眉をひそめてしまいます。北小路家 や 押小路家 ですら地下ですからね。

まあ、歴史上の人物で嫌いな人を一人挙げろ、と言われれば 藤原道長 をあげますね。

そうそう、主さんの疑問ですが、件の 小佐野 は血筋的にも全く関係ありません。配偶者は 旧堀田伯爵家 ですが、本人は代々甲府の貧乏農家です。

公家町土地区画整理事業 区画決まる ①

公家町の土地区画整理事業について、公家の皆様方にパブリックコメントを募集したところ、一部の公家の方から「家格による屋敷地の面積差が大き過ぎる、是正してほしい」との意見も寄せられましたが、その意見の多くが五摂家との家礼に属さない独立系の堂上家だった、ということもあって紛糾する事態までは至らず、4月13日をもって事業スタートする旨、昨夜の説明会にて最終合意を取り付けました。本件は公家町という特殊性もあり...

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公家町土地区画整理事業事始め 補遺(絵図編)

予め申しました「公家町土地区画整理事業事始め」の補遺(絵図編)を書きます。前も書きましたが幕末はそれこそ日替わり弁当のように明日は何が起こるかわからない激動の時代でした。ですから京絵図や内裏・公家町を描いた内裏図なども頻繁に改訂版が出ました。しかし、1868年の慶応4年から明治元年に代わると絵図の改訂ラッシュも終わります。絵図というよりも本格的な京都の地図が刊行されるようになるのは明治10年以降です。明治...

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公家町土地区画整理事業事始め

皆様、今晩は。また、頭に花が咲くような記事タイトルを付けてしまいましたぁ・・・。初めて読まれ方からすれば「何これ?」と思われるといけないので、一言、説明を申し上げますと、現在は市民の憩いの場となっている京都御苑には幕末まで公家町が存在していました。その公家町を3Dで再現してみよう! そのためにはまず、当時の公家町の土地区画整理から始めなければ、というのが趣旨です。区画整理事業は誰も反対する人はいない...

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何と公家屋敷の玄関先を撮った古写真があった!

久し振りに、京都府立京都学・歴彩館(京都府総合資料館から名称が変わりました)の所蔵する『京の記憶アーカイブ』を覗いてみたら新しく目にする御殿、公家屋敷関係の古写真があったので紹介がてら載せます。すでに見られた方はパスしてください。最近は国立国会図書館をはじめ各地の図書館・資料館で古文書の電子コレクション化が進みネットでも一部見られるようになりました。では、まず、今回取り上げる屋敷の古写真の位置を航空...

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NoTitle * by -
レインボー様
コメントありがとうございます。
出雲大社神殿の復元の記事でもコメント頂き、その節も励みになりました。ありがとうございます。
最近、記事を書く関係で内裏・公家町の絵図をもっと見たいと思い昨日、「新修 京都叢書 本巻23冊」を購入しました。まだ届いてませんけど。本には絵図集もあり慶応4年から明治にかけての流れがまた少しわかるかな、と楽しみにしています。また、公家屋敷指図の収集もしています。幾つか探しだしました。東京・立川の国文学研究資料館にも何点かありそうなので行く予定です。それでは、ごきげんよう、です。

公家の家、火災など * by レインボー
>不思議と同川の左岸(下流に沿って)にはほとんどありませんでした。右岸より左岸の方が位は上?なのに。やっぱり京童にとっては鴨川を渡ったら洛外ということで、みんな無理してでも洛中が良かったのかな。

〇記事と写真、興味深く拝見しました
 公家の家、昔の屋敷を思い出させる写真でした。
 また、火災などいろいろと面白い考察でした。
 草々

新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 後編

後編となりました。後編では中院家の指図に集中します。さて、問題の中院家の指図ですが、先回も書きましたように京都大学の「中院文庫」のなかに所蔵されています。中身は「当家拝領屋敷」として、明和度下屋敷一袋にまとめられています(図はクリックするとどれも拡大します)。年次的には明和度(1764年)から慶応2年(1866年)にかけて行われた中院家・拝領屋敷の替地の記録と、替地を証明する禁裏付き武家等の裏書きした証明文を添...

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訂正 * by -
大さんでなく、近衞忠大さんでした。失礼しました。

NoTitle * by -
takaさん、コメントありがとうございます。
摂家の場合、玄関脇の詰所は客の案内とチェックが主ですが、それ以上に進物の受け取り業務が多かったとか。蔵なんか直ぐ一杯になったと思いますよ。近衛家さんは明治になっても常に来客が絶えず家人の方ももう、疲労困憊したとか・・・。華族の方も大変ですね。
今の近衛家の当主は近衛大さんでしたよね。この前、BSで見かけました。見るからにただならむ雰囲気で流石に名家中の名家ですね。
常に陛下のためお支えする気構えを持っている、というようなことを言ってみえました。
今度は文麿公のように時流の波に押しつぶされないようお願いしますよ、と、一庶民の私は思いますね。

NoTitle * by taka
お久し振りです。非常に見応えがありました。大臣家の指図というのは非常に珍しいですね。いやあ、ホント主さんには頭が下がる思いです。

七千坪というのは結構広大ですが、やはり江戸時代にはよくある副収入がそれなりに大きかったのではと思います。職業柄高家と繋がりも深い武家伝奏の役割を担い、朝廷運営に三代に渡って携われたのが原因だと思います。

主さんが以前書かれていた吉田神道の力の源泉もやはり神位ですから、やはりそれは重要な収入源だったでしょうね。

しかし大相撲問題、評議会の話題の時に 村上源氏 の邸宅の指図書が見つかるとは何か運命的な物を感じます。

前回仰られていた皇統問題については、改めて深く考えさせられますね。確かにそういう考え方もありと思いながら、皇家の苦難の歴史に思いをはせました。奈良時代後期から平安時代は藤原氏にあらずんば皇家にあらずだったのが、良くも悪くも律令制が崩壊して逆に「皇家にあらずんば藤原氏にあらず」になった。これも 後三条天皇様 のおかげですね。

ちなみに臣下から皇位に就かれた方は二柱でした。

ただ、だからと言って誰でも宮家というのも危険ではあります。例えば今の 近衛家 の当主は父系が 肥後細川氏 で政治家のあの方の実弟ですから(苦笑

新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 中編

中院家指図の核心に入っていく前に(大げさかな)、中院家についてどのような公家さんなのか少し触れてみたいと思います。中院家(なかのいん け、と読みます)は、大臣家の家格を持つ公家。摂家、清華家の次に位する立ち位置で同じ大臣家には嵯峨家(正親町三条)、三条西家、そして中院家の三家あります。摂家が5家、清家家が7家。その後に続くわけですから公家のなかでは中の上クラスですね(中院家の方、失礼な物言いですみません...

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新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 前編

少し久し振り、以前から収集していた公家屋敷の指図を眺めていまして、そのなかで二分割されている中院家の指図を一枚にくっ付けてみたら、どこかで見た覚えがある・・・と、そこから同家の指図が気になって調べていくうち、「どうも、この中院家指図は作成された時期と根拠が唯一明らかな幕末の公家屋敷。しかも明治4年の公家町を京都府へ返上する上知令直前の公家屋敷の姿を伝えるとても貴重な指図ではないか」と思われてきて、...

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洛中洛外図屏風に描かれた公家屋敷を訪ねてみよう!

今回、江戸初期の九条邸を3D制作するにあたって、屋敷内の蔵をどう作るか、当時の洛中洛外図屏風などを見た結果、なまこ壁の蔵は見当たらず、それでも下見板張りでは地味過ぎると、初期の壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に塗るという単純な四角のなまこ壁にしましたが、ところが新たな洛外図を見たら何と!「菱形」のなまこ壁がありました!!これです。丸で囲った部分。花頭窓風の窓の左右に菱形の漆喰模...

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近世の公家屋敷を代表する九条道房邸が完成。 その弐各部編-③

九条道房邸の紹介も今回で最終です。ちょっと引っ張り過ぎたかな?まぁ、それはともかく、最終ということで、掲載する3DCGのなかにはかなり奇妙奇天烈なものもありますので、「遊び心」と思って見てくださいね。さっそくですが、何と!九条邸が京都御苑を離れはるか南方に京都の市街を見下ろす感じで屹立しています。何じゃもんだい・・・って感じですが可笑しいですかね?前も書いたと思いますが、寛永期の九条邸は敷地は約35...

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近世の公家屋敷を代表する九条道房邸が完成。 その弐各部編-②

九条邸のその弐各部編-②ということで、今回は屋敷内の建物を見てまわります。ところで、全然関係ない話なのですが、当ブログは「FC2ブログ」の無料登録会員で登録しブログを書いていますが、もう四年目(途中、休眠状態もあったから実質3年かな)にもなるのにブログの使用容量が無料会員の制限容量のまだ2.8%ほどにしか使ってないのです。写真など当ブログの場合、かなり、大判の写真ファイルをアップしているのに、このコストパ...

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