3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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『地表の楽園』 仙洞御所参観の旅

また先日、京都御所と仙洞御所へ行って参りました。
タイトル、「『地表の楽園』 仙洞御所参観の旅、と名付けましたが「地上の楽園」の誤りではありません。本当に仙洞御所を巡ったとき、感動して思わず「地表の楽園」!と心のなかで呟いたのです。

それほど美しかった!
今までいろいろ(海外含め)観た庭園のどれよりも素晴らしいと感じました。

ただ、私の撮影技術が追い付かなかった・・・
後ほど、写真をアップしますが期待しないでくださいね。
実際の庭は写真よりも遥かに美しく、それはもう、この目でしかと観るしかありません。

先日、京都へ行ったのは資料集め。
今回は内裏・公家町作りに欠かせない御所の庭の背景写真を撮るのが目的。
以前から御所の写真はありますが3DCGの背景写真に使うとボケてしまう・・・
ファイルサイズが足りないのです。
そこで昨年新しい一眼レフを購入。最大6000ピクセルまで写せるので背景に使っても楽勝。ということで参観した次第です。

横道ですが、
つい最近、京都へ朝8時に着く新幹線を発見!。なにを今更ですが、今まで車で泊りがけだったので、
狭い京都の街は危なく駐車場探しも大変。帰りは必ず渋滞・・・ということで、自由に走り回れる半面、不都合も
多かった訳です。
それが朝8時に到着、観光ポイントや施設等は9時開館、午後は4時半受付終了が多いですから、
余裕で遊覧。5時過ぎの新幹線に乗って、夜7時過ぎには帰宅できるという、この黄金の日帰りコース、めちゃ気に入りました。
何となく私を見る家族の眼も優しい、京都のいろんな手土産も愉しみに待ってる風情・・・も。
とにかく、私の京都旅のパターンは昼ご飯も食べず、床下に潜ったり、床に仰向けになって天井を撮ったりなど、
怪しい行動が多いので家族は絶対付いてきません。完全なる自己中旅です。

のんびりと抹茶をいただき日長、枯山水を眺める・・・。そんな夢はブログが終了したとき、実現するのかなぁ・・・と、一人感傷に耽るのでした。

さて本筋の仙洞御所に戻ります。
今は京都御所始め修学院、桂、そして仙洞御所と通年参観できるようになりました。
予約して行くというのが大の苦手の私にとってこの上なく喜ばしいです。

この日は朝9時半には仙洞御所の当日受付に到着、整理券を頂けるのは11時なので、並んで待ちました。
午後1時半の参観コースが一番早いのでそれにし、それまでのんびり京都御所の方を見学、今回は昼メシもしっかり食べよう
と思っていましたが、写真を撮るうち時間が過ぎてしまい結果的に仙洞へ間に合うため走っていくハメに。

京都御所が通年公開になった、ということで幾つか感じることがありました。
まず、以前の年二回だけの一般公開のときに感じた御所の清浄感が薄く感じられたこと。
建物が心なしか疲れやつれた感じ。殿上にガラスが張られ野外博物館の雰囲気に・・・。

でも、これも、多くの方が参観することは日本の伝統文化を理解する良い機会だし、
通年公開はやはり良いことだと思います。
後は御所の神聖さとどう調和を保っていくのか?
それが課題ですね。

さぁ、仙洞御所へ入門です。

最初に目に飛び込んでくるのが大宮御所のりっぱな御殿と車寄せ。

大宮御所
明治天皇の皇后、昭憲皇太后のため建てられたものです。

ここから本格的に庭園の中へ入っていきます。

ちなみに参観ルートを紹介。

仙洞御所参観順路
このように回遊式庭園を巡ります。所要時間は約60分。

流石に内裏(京都御所)の庭より広く池も広大です。

では、この仙洞の庭・泉水がここに営まれたのはいつ?

それは1627年(寛永4年)に後水尾上皇が譲位されたため院御所として造営されたもので、現在観る庭も、このとき原型・規模がほぼ定まりました。作庭はあの小堀遠州ですが、当初、二段の石垣から庭全体が見渡せたり、多くの岩が配されたいわゆる武家好みの豪壮な庭でしたが、後水尾上皇はこの作庭を気に入られず、王朝風の風雅な庭園に改造。それが今日に伝わっています。

創建時には山田茶屋、釣り殿、瀧殿、 鑑水亭、芝御茶屋、悠然台等の多くの茶屋・亭がありました。

そして庭に付き物の御殿。
それがまた広大で、私たちが観る泉水庭園を眺めるだけでも十分広く感じるのに、
実は仙洞御所全体から見れば庭の規模はごく一部に過ぎないのです。

参考までに寛永度の仙洞御所指図を載せます。

寛永度仙洞御所指図の庭エリア
中井家文書の研究(中央公論美術出版刊)から引用。

御所の敷地は現在より東西に広く面積自体はそう変わっていません。
右上にピンクで囲った部分が庭園部分。意外と小さく見えます。
それに反し、御殿群の広大なこと!
青く塗られた御殿が御水尾上皇の御所。薄い茶色に塗られのが幕府から輿入れした東福門院の御所。
後水尾院の御殿が3562坪の建坪、東福門院の御所が3884坪と、両方合わせれば7446坪もある広壮さです。

改めて、この指図をみると、仙洞御所はあくまで御殿が主で庭は両院をお慰めするため従属する庭、ということが良くわかります。

このころの仙洞御所が一番の盛時で、何といっても徳川秀忠の姫が入内した訳ですから
幕府も威信をかけて造営しました。そしてここに池坊等呼び立花会を催すなど寛永文化が花開いたのです。

さぁ、写真をアップしますよ。どんな感じかな?
(ちなみに急ぎ足で撮った写真ですので順路通りではありません。1ミリ苔に触れただけでも守衛の方に叱られました・・・)。


又新亭
入ってすぐある又新亭。近衛家からの献上です。もともとこの場所には、修学院離宮から移築した茶室止々斎(ししさい)がありましたが焼失しました。


仙洞御所庭園-1
まず北池沿いかな。池の岸が緩やかなカーブを描いています。


仙洞御所-笹の築山
緩やか築山は笹を細かく剪定した表面で覆われとても円やかな優しさを感じました。


後で出てきますが、黒い楕円の丸石で敷きつめられた州浜とそこに舞い落ちる桜の花びらとの対象美、
木々の間隔が比較的広い仙洞の庭は、そこに生える苔も明るく暗さがない。とても柔和な感じがする。
一方、芝生の類は見かけない。それも自然な庭を演出しているような気がする。
とにかく全体的に優美で優雅。角がない。王朝文化が匂うばかりに美しい。


一つ比較したい写真があります

京都御所と仙洞御所の庭

左が京都御所(内裏)の庭。右が仙洞。
どうです?違いがわかりますか?
まず目に入ってくるのは池の岸に敷き詰めた石の形状。内裏の方がゴツゴツしています。
そして内裏の方は松や欅、榎などの高木が多い。仙洞はあまりない。
で、内裏の高木が庭の前面に張り出しているのに対し仙洞の方は前面に桜や桃など優しい落葉広葉樹を配しその背後に松などを配置する、その植生の遠近が仙洞の特徴で、それが同仙洞の庭のやはり王朝的な雅、嫋やかさを出していると思います。

仙洞は岩も少なく土をあまり見かけません。庭は様々な草生に覆われています。私にとって、それは「地表の楽園」に思えたのです。

何か結論のような事を書きましたが、
写真を続けます。


仙洞御所庭園-4
北池の全体?


仙洞御所庭園-6
同じ北池かな?


土佐橋
北池の土佐橋。


仙洞御所庭園-8
舟着です。どうも南池に来たらしい。


仙洞御所庭園-11
一本傾いた松が面白い構図です。


葭島
葭島と州浜


仙洞御所庭園-州浜
丸い楕円の石で敷き詰められた南池の州浜。
石一個につき米一升の約束で集めさせたという伝承があり、「一升石(いっしょうせき)」の別名もあります。
ちょうど、桜の花びらが散り敷いています。
なぜ、小石を敷き詰めたのでしょう?
護岸のため? 草対策?、土を見せないため?
伊勢内宮の本殿垣内に敷かれた白石ようにたくさんの魂の願いが込められている?


仙洞御所庭園-州浜2



仙洞御所庭園-藤棚と州浜
八つ橋と藤棚


寒水石灯篭
八つ橋の手前の中島にある寒水石灯篭。そばには釣り殿がありました。


北池と南池の境の紅葉橋
北池と南池の境の紅葉橋


仙洞御所庭園-中島
北池と南池を結ぶ紅葉橋そばの紅葉山 苔が美しい。


苔と森
紅葉山の苔道をゆく。差す陽の縞模様が美しい。


仙洞御所庭園-酔花亭
仙洞御所・醒花亭への苑路。


醒花亭の違い棚
仙洞御所・醒花亭の斬新な違い棚





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京都御所の紫宸殿を作ってみました。

先日、「平成版 内裏・公家町御絵図」を残された指図、過去の公家町絵図と現在の京都御苑を比較検討して、史実に基づいたかつての公家町を再現してみようと、今、始動してます。新たな公家屋敷の指図も東京・京都へ行って探しまくった結果、幾つか、新規の指図を収集しました。

ちなみに慶応4年即ち明治元年に刊行された江戸時代最後の公家町を描いた「文久改正 内裏御絵図」ですが、十六丁版と十六丙版があって、多分、丁版が最終刷りだと思います。その丁版が京都市歴史資料館にあるので先日行って参りました。同資料館では定期的に「叢書 京都の史料」という刊行物を出版していて、その第14号が江戸時代の禁裏・公家町をほとんど網羅した「内裏図集成」。そのなかに丁版もあります。

さっそくコピーさせて頂こうと思ったらガ~ン、なんと複写機、カラーコピーが出来ない。白黒のみとのこと。せっかく足を運んだのに、幕末の絵図は多色刷りで、まさにカラーコピーに打って付けなのに何という・・・この徒労感。資料館の方にお願いして外部のコンビニにでも行ってコピーしようかと思いましたがもう閉館も直ぐで諦めました。まぁ、白黒で我慢しました。京都市長さんにお願いがあります。京都市歴史資料館にカラーコピー機買ってあげてください。

ところで、丙と丁、どこが違う?
見比べいますけど、新たな平成版を再現するにあたっては基本、最後の絵図をベースにしたいと思っています。

で、始動のトップに、なんと言っても公家町の中心である内裏、さらに現在の京都御所の正殿・紫宸殿を3Dで作成しなければ始まらないだろう、ということでまず同紫宸殿から作り、
今、やっとこさ出来上がりました。

何といっても要の建物ですから、それなりに丁寧に作りました。
でも、私一人の力量ではオーバーワークですので、屋根と柱・梁を支える組み物系とか目に見えない部分はかなり簡略化、カットもしました。

それでも、結構、細かいですよ。
これもなにも、私の夢でありライフワークでもある公家町を再現しよう!との熱き?思いからです。

今まで、公家町を3D・2Dも含めた、今回のような試みは多分、公家オタク系の私ぐらいしかいないのではないかと思っています。
これは、まったく個人的な夢想ですが、将来、京都の悠久なる歴史を語るとき、再現資料の一つとして、出版やTVとかいろんな媒介を通して利用されるかも・・・そうしたら、私にとっても「自分の人生に意義があった」と、そう心密かな願望もあります。

具体的には、どんな形で、構成で、どのようなものになるのか?
自分も試行錯誤しながら作り上げていきたいと思います。
同じように興味をもってる方、楽しみに待っていてくださいよ 笑。

では、まずは、紫宸殿って御所の何処?
と言われる方もみえると思いますので(たまに生徒さんたちが課題授業で拙ブウログを利用するときもあるのですよ)、まずはその図から。クリックすると拡大します。

京都御所配置図進捗図2018-3
京都御所配置図(出典:日本名建築写真選集・新潮社、より引用)

赤く囲った所が京都御所の中心・紫宸殿で今回作った御殿。

紫宸殿の平面図
紫宸殿の平面図 出典:上記同様 日本名建築写真選集・新潮社、より引用。

橙色の囲み線の範囲内は3Dで作るエリアの予定。後は今に残っている指図を基に間取りを配置。その間取りも見て楽しく、且つ、解りやすいようなものにしたいと思っています。将来的には一つづつ3D化してゆきたいと思っています。

次にというか、
一つ日本建築の特徴である妻側(屋根の側面)の比較図をアップします。

紫宸殿と常御殿の妻側の比較
左の方が紫宸殿、右は近世の、たとえば二条城二の丸御殿の屋根に代表されるような豪華な飾り金具で装飾した意匠。
御所のなかでも天皇の住まい、常御殿は書院造りの豪華な妻飾り意匠をしていて、即ち右側にあたります。
御所といえば、中心は紫宸殿のはず。なのになんで地味?金細工で飾っていないの?
と思うばかりなのですが、

紫宸殿を作っていく過程で改めて思ったのは、その簡素さに、ある意味、それに徹底的に拘ったこと。
柱や梁、長押など木材系の建材はすべて白木で何の塗色もしていません。飾り金具も金細工ではなく、もう徹底的というほど
赤漆、蔀は黒漆で塗っています。
漆の特徴として防腐効果がりますが、もう一つ、意外と思われる効果があります。
それは「呼吸すること」。木は漆を通して自然界の風や気を吸収します。そして木は生きることが出来ます。
御所、とくに紫宸殿はその漆で溢れています。

最近、人気のある有機的栽培、まさにオーガニックスを千年前から伝えてきた御所なのです。

いや、千年どころではない。
日本の漆技法は世界最古と言われ、その漆の作成も複雑な練度が必要です。

漆と白木、
まさに「素」に拘っている紫宸殿は神殿そのものであり、
私たちが思っている以上に太古の時代から伝承されてきたもの。
また、それは建物だけでなく、そこに住む者、継承する者の存在、太古の時代、「素メラミコト」と言われた現在の天皇家に繋がる深い経綸が伝わってくるのです。

さて、それでは、続けざまCGをアップします。

京都御所紫宸殿の正面
紫宸殿南面。正面です。
規模は正面九間、側面三間の母屋の四方に廂を付けた形式で、
メートル換算にすると東西33m、南北23m、高さは20mを越える大規模な建築になっています。まさに正殿です。


紫宸殿南東から見上げる
南東から見上げた紫宸殿です。大きさが実感ですますでしょうか? 3Dでも・・・


西南からの眺め
逆に西南からの見上げた眺め。こちらの方が明るいかな。


紫宸殿の三段垂木
判りにくいかもしれませんが垂木が三段になってます。
これは天皇の御所、とくに紫宸殿だけに許された三段工法です。どんな大きな社寺でも二段止まりです。


紫宸殿の屋根形状
紫宸殿の屋根形状も複雑です。
上下に流れる反りの途中で段差があります。また屋根の四隅は一段下がった縋破風的な隅み派風もあります。
この全体的な形は日本でただ一つですよね。まさに厳かな雰囲気を醸し出しています。


西妻側から
忘れていた・・・、 西側妻からの眺めです。妻側の派風が意外と地味なのに驚きますね。
金細工の飾りなど一つも付けていません。壁も漆喰さえでなく板壁です。こればかりは、安政度の再建時に予算が足りなかったかもです。現地で拝見しても見にくい位置ですからね。安政度の内裏は寛政度内裏をそのまま踏襲しています。古性復古に拘った内裏でしたから、時の寛政の改革の主導者、質素倹約に鬼とかした松平定信はかなり怒ったとか。徐々に朝廷の力が蓄えられてきたのですね。


平行投影で見るとこんな感じになる
平行投影にして見た紫宸殿。
いつもの遠近法で見るのと違いますよね。何と言うか、頑固なオヤジを想起させます 笑。



紫宸殿南の少し東から
紫宸殿を南、少し東から見てみる。少し平凡かも。



紫宸殿南面の東廂
紫宸殿南面の東廂を見てみる。



西廂から
次は西廂から。



西廂と南廂の間
西廂と南廂の間。赤漆の金具で縁取られた妻戸がいい感じです。



築地塀越しに紫宸殿
築地塀越しに紫宸殿を見てみました。



紫宸殿南面さらにアップ
紫宸殿南面のアップです。


紫宸殿南面のアップ
さらにアップです。アラが見えてきますかね・・・?



すのこ廊下と欄干
簀の子の縁側と欄干です。高欄もやはり赤漆がアクセントになっています。



まだ空っぽの紫宸殿内部
紫宸殿の中はまだ空っぽです。
天皇の座れる高御座もありません。賢聖障子もありません。これからおいおいと。



紫宸殿の北廂
紫宸殿の北廂です。



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公家史観

今、「平成版 内裏・公家町御絵図」の中心となる紫宸殿の作成に取り掛かっているところです。3Dは多少の集中力が必要なので少し充電しています。
私は「公家町再建プロジェクト」と題してカテゴリー欄のなかにチョコチョコ記事を載せていますが、具体的にはどう表現していくのか、ハッキリしたことはあまり考えていませんでした。
それが最近、近世・幕末の内裏・公家町絵図を見比べているうち、「私の求めていた公家町はこうなんだ」という一つの構想が浮かんできて、ホントに「コケオドシ」でない再建プロジェクトが私のなかで始動しています。

たまに拙ブログのアンケートのコメント欄を見ます。
「平安時代の清涼殿、藤壺を見てみたい」、「武家屋敷を見てみたい」等々のコメント。何とかご意見に沿おうと思うのですが遅筆ゆえ希望に添えていないのが、いつも気にしています。
コメントのなかでも「蔵米30石の公家屋敷を見てみたい」というご要望は痛いほどその気持ちはわかります。私もそうですから 笑。
「摂家の屋敷はもうわかった、今度は最底辺の公家の屋敷を見てみたい」と思うのは人情?というもの。人の覗き見的趣味は尽きないし、欲求はさらに生身の世界を求めます。

城好きな人は多いですが、最初は「日本の城100選」に満足していたのが、選に漏れた小城、さらに一万石の陣屋、陣屋のなかでも城郭造りの陣屋、さらに伊達藩の要害や薩摩の麓、土佐の土居といった隠れ小城郭や陣屋。それも飽きたら交代寄り合いの旗本陣屋、さらに普通の代官所、そしてとうとう長屋門のある庄屋までと人の知識欲は底を知りません。そう書く私も実はそうなのですが・・・苦笑。

あの、30石蔵米の件ですが、私の手元の指図にはありません。60石が一番小さいかな。
ちなみに「西郷どん」の家が41石。西郷家より少ない・・・とは、公家の体面は保てたのだろうか?・・・と余計ながら心配。

人とは不思議なもので、100%空想の世界よりも多少なりとも実在の人物、史実を混ぜた物語の方を好むみたいです。
多分、リアル感があって、主人公に感情移入し易いからだと思います。

だから、平安の昔より幕末の歴史の方がどうしてもリアルで興味が尽きない。史実と照らし合わせて「あれがどうのこうの」と蘊蓄を楽しむことも出来ますからね。
3Dの世界においてもそれは同様です。
たとえばホントの寝殿造の遺構は残っていません。だから時代を下った鎌倉時代の建物や絵巻を参考にしている。大内裏だって、もし後白河法皇が「年中行事絵巻」を残さなかったら形は復元できなかったと思います。

3Dと2Dで描く「平成版 内裏・公家町御絵図」の世界、
私は志士たちのように公家鑑を持って、そこの大路小路を歩いてみたい。仮想体験してみたいのです。


さて、公家史観とは?

実体のない言葉ですが、
たまたまBSで幕末物を視ていたらそんな言葉が浮かんできました。

時は慶応4年、鳥羽伏見の戦い。
薩長・官軍を前にして幕府(元)は完璧なまでに叩き潰され慶喜は這う這うの体で江戸に逃げ帰った、というのが通説ですが、
実は実態は違った。どちらが勝ってもおかしくはない互角の戦いをしていた、という設定でのBSプレミアムの番組です。

情報が入り乱れる戦火のなか、幕府が時に官軍方を破りその一報が固唾をのんで見守っていた朝廷の公家たちに届く。そうすると、公家たちはオロオロ慌て岩倉卿に「話が違うおませんか!」と喰ってかかる。挙句の果て、徳川方に使者を送ろうどうのこうのと混乱の極み。それを後に維新の元勲たちが「公家は情けなかった。何の力もなく逃げまどってばかりいた。しかも、いつ、勝った方に掌返しするかわからない気位だけは高い喰えない者たちだった」と回想録に記す。
けど、何もオロオロしていたのは公家たちだけでなく幕臣でもオロオロしていたから新選組が出来たんだろう?とも言いたくなる。

固定観念として、公家は戦国時代以来力をなくし、信長や秀吉、家康の前でひたすら首根っこを押さえられ、媚びへつらい、強い者の方にいつでも鞍替えする、というちょっと情けない、陰湿な存在として描かれてきた側面があると思います。
確かにそういった面はあったと思いますが、でも、そんな事ばかりではない、と一方では思うのです。

「オロオロするのが公家の使命」?だと考えたらどう思われますか?

普通、王朝が倒れると仕えていた朝臣たちは雲の子を散らすように逃げていってしまうものです。
あの中国の明朝最後の皇帝・崇禎帝が紫禁城がまさに陥落しようとする時、皇帝につき従っていたのは僅か一人の宦官だけでした。帝国といえども最後はあっけないものです。

では日本ではどうでしょう?
どんなに戦乱の極み、貧窮の極みにおいても天皇の元を見限り逃げていった公家はほとんどいません。中には領地で戦国大名化していった公家大名や有力大名に身を寄せていた公家もいましたが、あくまで一時の避難です。禁裏を守護する公家は御所を離れませんでした。天皇あっての公家ですからね。

なぜ?と問われれば、天皇一系で続き武士たちも先祖を辿れば源氏か平家にたどり着く。つまり、みんなご先祖様は天皇に繋がり、身近にお世話するのが公家だったという日本独自の歴史があって、それも公家が内裏を離れなかった要因であると思いますが、歴史というものはそんなに単純なものだけではないと思います。

日本においても、権力を掌握した者がいつ天皇位を簒奪してもおかしくない機会・場面はありました。
ではなぜ、そうならなかったのか?
有体に言えば「来る者拒まず」です。
源氏が勝てば統治権を委譲し平家が勝てば平家の方、源氏のなかでも義経が有力になれば義経を押し、頼朝が義経を倒せば頼朝に詔勅を下す。それを頼朝は後白河法皇を「天下一の大天狗」と言わしめた変わり身の早さです。

見方によれば、それは節操もない、と言えるかもしれませんが、
もし、統治権の委譲を拒んだら、あの足利義満や織田信長だったら天皇を追い出して自分が取って代わった可能性は十分あったと思います。

公家は天皇を守るため「来る者拒まず」で委譲の発給を出した。それによって天下を統一した者も統治を委ねられたことを天下に宣言することが出来た。

変わらない天皇の権威と、安心して変わることが出来た武家政権の交代。
その絶妙なバランスが日本を安定させ幕末の国家的危機も乗り越えた。

また、それだけでなく王朝交代に付き物の多くの人の犠牲や国土の荒廃を防いだ。
中国を例にだせば、王朝が替われば、反乱分子を根絶やしするため殺害の嵐。
国土も荒廃し、王朝が替わるたび、時に人口は三分の一にまで激減しました。

幸い日本ではそういった悲劇はありませんでした。
しかし、もし日本で王朝交代があったなら多くの犠牲を伴ったことでしょう。

公家がオロオロしたのは保身もあったと思いますが、一方で天皇をお守りするにはどうしたらよいか?
その究極の選択が権力を握った者を「等しく拒まず」です。

「公家はオロオロするのが使命」。それが私にとっての公家史観です。



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あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもない落とし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


谷川俊太郎処女詩集「二十億光年の孤独」の中の一篇「かなしみ」から。

この詩は理系の乾いた透明感を漂わせる私の好きな詩の一つです。
「青空」を「青い空」に分けると、その隙間から射ってくる喪失感・・・

新たな「宇宙風のかなしみ」の感覚を謳いあげた谷川俊太郎は
詩を愛好する者ならば誰もが認める現代詩を代表する詩人です。

谷川俊太郎


その憧れの谷川俊太郎の処女詩集「二十億光年の孤独」初版本をとうとう買いました。

20億光年の孤独の表紙1


古本屋さんから届いたその日その時、厳重にプチプチラッピングされていて、
解くのに一苦労。
詩集本はカバー付きのさらにパラフィン包みなので破れないよう
慎重に開梱。ふぅ、開梱にこんなに気をつかったのは初めてです。

本の状態は1952年の初版から65年経っているのに、
シミも少なく良好に保たれています。
カバーも傷は少なく帯もパラフィンも揃っている。

自分で言うのもなんですが、
結構な掘り出し物ではないかと思ってます。

そして緊張するなか第一ページを開く。
で、そこで、不意に「二ページ目をめくったら毀損するのでは?」という不安にかられ、
結局、読んだのは一頁止まり、また梱包して封印してしまいました・・・
何のために買ったのか?
読むためではなかったのか・・・・と自問自答しながらも、
本に触れて、戦後現代詩の黎明期を肌で感じた気分がして
それなりに満足しました。
詩は「文庫本」で読もう。そう使いわけることにしました。

妻にもし封印したままだったら、旅立つ日は棺桶に入れてくれ、と
言うと、「燃やすなんて勿体無い」と言われてしまいました。

私のもう一冊欲しがってる本があります。
歌人の斎藤茂吉の処女歌集「赤光」の初版本。
でも、こちらはもっと高嶺の花・・・
いつかお金がたまったら買おうかなと思ってますけど、
そのときにはさらに値段も吊り上がってはるか先、手の届かない世界に行ってるかも。

今まで本はあくまで実用主義で買ってきましたが、
ここ最近の自分の振る舞いは少し俗っぽいです。
「谷川俊太郎さんが存命中に買おう」などと、不届きな思いが一瞬よぎった訳です。

それはともかく、
私はこの二人の方が近代日本、現代日本に現れたことを感謝しています。
どこか別の世界から吹いてくる風を感じる茂吉の世界。
宇宙から吹いてくる風を感じ取った俊太郎の世界。

いまだ、この二人を越える歌人、詩人は出ていないと私はそう思っています。

付けたしですが、
最近作った短歌を幾つか、


★ 幸せは 車を斜めに 駐めること 理髪店の月曜 クルクルも止まって

とある日、街を車で走っていたら理髪店の店先に車が白線を越え斜めに駐車していた。
「行儀の悪い客だなぁ」と思いながらしばらく走るうち、ハタと気づいた。そうだ、今日は月曜、床屋さんの休日だったぁ!
じゃ、あの行儀の悪い車は店主の車だったんだ。休日を満喫してるなぁ、そう思うと、こちらまで嬉しくなって堪らなかった。

★ 泣きぼくろ 涙袋に 溜めてきた 鏡を見入る 君の肩は小さく

その小さな肩は誰の肩でもない。以心伝心と言わせてください。長きを伴にし苦労をかけ、心配ばかりかけた。
今はもうお詫びのタイミングを逸している。ただ、君が隙を見せる時、私は感謝の気持ちを投げかけている。

★ 甘噛みは 人には出来ない 猫の気持ち 牙を持つから 分かるんだよね

猫は牙があるから人間の飼い主がよくする悪戯にも配慮して甘く噛む。もし牙がなかったら甘噛みはなく、逆に加減がわからず血が出て痛かったかもしれない。牙をむくことがどういうことか猫はしっかり知っている。人間の方が配慮しない牙を持っている。だから戦争もする。人間同士、甘噛みすればいいんだよ、というのは単純過ぎるかな。

★ ナップサックが 三角錐に 揺れている 君の両手は 街リズムに乗って

街中、ナップサックが、ファッションリュックが溢れている。そのなかでも、たまたま目立つナップサックを見かけた。
優雅にコマ送りに揺れている。その巧みなリュック使いは、空いた両手で拍子をとって街をリズムカルに闊歩している。
それは見ていて楽しいことだ。無意識の演劇を見ているようだ。あなたは知っているかい、通り客に有象無象の喜びを与えていることを。私もその一人だ。ブラボー!だよ。

★ 各駅の 指定席無しの こだま号 時間を選ぶより 座る自由

新幹線の荷物棚

たまたま時間の都合で乗ったこだまが全席自由席だった。普段、ホームで並んで待つのはイヤだから指定席券を買う。だから出発一分まえでも優雅に乗れる。それが自由だと思っていた。しかし、お金で買う自由には安心感はあっても開放感はあまりない。各駅のローカル線になったこだま号に乗ったとき、どこに座ろうか迷う事態になって、私は久しぶりの開放感に浸った。

★ モチベーション などとは言わない 昭和生まれ ただ一度だけ 先帝にまみえたり


昭和天皇

昭和天皇が崩御されてからもう30年になる。
確か大喪の礼のときは終日小雨が降っていた記憶がある。まるで清めているような静々とした雨だった。
一度だけ昭和帝を拝見したことがある。まだ私も高校生の頃で沿道沿いに多くの人が日の丸の小旗を振るなか、帝の乗られた御料車が目の前を通り過ぎた。少し雨模様で音もなく静かに過ぎる様は不思議な感覚だった。帝は車のなかで微動だにせず真っ直ぐ前を見られていた。その代わり、皇后様が沿道の人たちに微笑みかけ手を振られていた。昭和天皇は生まれながらの帝王だからとくに国民に媚びるような帝ではなかった。また国民もそれが自然なものと思っていた。だから独自な権威と雰囲気があった。
昭和の時代、とくに戦後の安保闘争の時代、今の団塊の世代と言われる人たちが学生運動の中心だった。今よりも過激な左翼運動だったと思う。また学校でも日教組の力が強かった。進歩的文化人と言われる人たちがマスコミをリードし戦前の日本を軍国主義として否定していた。とにかく左翼思想の強い時代だった。ただ今と違うのは昭和の頃の左翼思想・運動は分かりやすかった。現在のようにカモフラージュしていなかった。

そんな昭和の時代、祝日になると多くの家々で日の丸が掲げられていた。ごく自然に。天皇を現人神とし跪いて拝む人もいた。

左翼思想と戦前からの天皇崇拝が同居した不思議な時代だった。

今の若者からみれば昭和天皇は歴史上の人と思っているけれども、私からすれば今もなお心のなかで大きな位置をしめている。私は昭和生まれだから。だから文芸春秋の「大いなる昭和」を今も大切に持っている。





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聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 内部編

以前書きました「秀吉の聚楽第にあった頃の飛雲閣 外観編」ですが、この度、やっと「内部編」を完成させました。
聚楽第に在った頃、と銘打っているように、あくまで私の想像の範囲内での「模擬飛雲閣」です。
本来なら北面二階の壁に描かれている三十六歌仙の絵も描いてありません。その代わり、「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」に描かれているように、秀吉の御伽衆であった大村由己が著わした「『聚楽行幸記」の記述にある、行幸御殿の屋根には金龍、天守最上階の壁面、そして御殿の側面には鶴が描かれていた、との記事をもとに「3D京都版聚楽第に在った頃の飛雲閣」として外観を描き、そして、今回はその内部の3Dを作ってみたわけです。以下はクリックすると拡大します。

秀吉聚楽第行幸屏風天守拡大
秀吉聚楽第行幸屏風に描かれた天守。鶴の絵が描かれている。

飛雲閣についての情報は少なく、未だに聚楽第からの移築?、本願寺の火災復興時の建築、はたまた伏見城、ねねの住まいだった京都新城からの移築? 等、諸説があります。

あの金閣よりも情報が少ないです。
それは現代においても同様で、
飛雲閣自体が通常、非公開。内部の間取りも写真、意匠も詳しい資料は一般には見かけません。それゆえか、なおさら中を見てみたい!という思いに駆られます。だから作ってみましたけどね。

なので、今回は昭和41年にまとめられた「国宝本願寺飛雲閣修理工事報告書」をベースに作ってみました。
この修理工事報告書でさえも、報告書の割には詳しく記述してありません。ですから主要殿舎以外の部屋の用途や名称等わかりません。

ですので、私のかなり想像の入った飛雲閣ですが、それなりに間取りや意匠も尊重しています。ただ、何度も言いますが、内部写真も少なく、実際に中を見学したこともないので、遊び心をもった楼閣として理解してください。

もちろん100%想像ではありませんよ。
上述した屏風の天守の鶴絵図のように、様々な角度から描いた飛雲閣を通して、その多く謎を抱える楼閣ゆえに、わたしの創作料理で味付けしてみたのです。
前置きが長々となりました。
それでは各3DCGをアップしてゆきますね。

最初に、まずは実際の間取り図を紹介。この間取り図の情報自体も少ないですよ。

飛雲閣一階平面図
飛雲閣の一階平面図です。北が正面に面してます。招賢殿が中心の間です。



飛雲閣全景
北面から見た飛雲閣全体です。

茶室を含めると(茶室は江戸期後世の増築)左右30mはあるかという結構な長さです。例によって二階の壁・妻戸等にも鶴が描かれています。

斜めからの全景図です。
斜めからの飛雲閣全景


さらにもう一枚、
斜めから見た飛雲閣全景


鶴の図のアップです。
二階鶴の絵
二階鶴の絵。

それでは、屋形船で内部に入ります。
北正面の舟入口から乗ったまま入ります。
舟入りの間へ入る
北正面の舟入口。

そして舟入の間の中です。
舟入りの間
大体、こんな感じになっておると思います。

一階、北面池に面した畳廊下を見ます。奥には招賢殿の上々段の間があります。
舟入間から南正面の畳廊下を見渡す
北面畳廊下を見渡す。

天井は実際には竿縁天井ですが、ちょっと盛って格天井にしました。でも白木ですよ。

次に今度は南面に面する畳廊下を映します。途中、杉戸で仕切っています。実際はどうも襖らしい。。。?。奥には二階へ上がる西面の奥の間があります。
北側畳廊下を見渡す
南に面した畳廊下。


八景の間に入る杉戸です。絵柄は牡丹。実際は違います。花好き?な3D京都の図柄です。
八景の間へ入る杉戸
八景の間に入る杉戸、絵柄は創作です。

さあ、八景と招賢殿の中に入ります!
八景間越しに招賢殿を見る
八景の間と招賢殿の全景です。

仕切りの襖が無いので広々してます。招賢殿の上段も見えます。
八景の間は二十四帖、招賢殿の下段は二十帖、上段は七帖半、二帖半の床の間があります。
合わせて51帖半。結構広いですね!客人を招く、対面する、饗応するには十分な広さですね。
また、天井は本来は竿縁天井ですが、今回は華やかモチーフなので金箔に黒漆と飾り金具の格子で飾りました。このタイプの平面的な彩色格天井は桃山時代に多く、また壁の長押の上の小壁も寛永頃は豪華な金箔を張り、そこに松の枝が小壁を越え天井まで届かんかな、という豪華になりましたが、まだ、秀吉の頃は白い漆喰の小壁でした。このへんが、やはりというか、飛雲閣が桃山の頃まで遡るのではないか? という古性を残しています。

招賢殿上段を見る
招賢殿の上段のズームです。

一応、段には螺鈿系の装飾を加えました。上品な招賢殿にしてみました。

次に上段から上々段の間を見る。上々段には誰が座られるのでしょうか?
招賢殿の上々段の間を見る
上段から上々段の間を見る。上々段の間の広さは三帖。

その上々段のアップ。
上々段のアップ
窓はそれぞれ意匠の異なる花頭窓を用意しました。ここは実際通りです。

ちょっと、ややこしいですけど、上々段から上段を見下ろします。御簾も見えます。
上々段から上段を見る


今度は上段から下段、八景の間を見下ろします。
全体的に柱や長押等黒漆でかため品格のある室内空間にしました。
上段から下段を見おろす
上段から下段、八景の間を見下ろす。


招賢殿を横から見る
せっかくですから、招賢殿を横から見た図。

八景の間の床の間
八景の間にも一つ床の間があります。

さあ、二階の歌仙の間へ上がる階段のある西隣の部屋に入ります。
八景の隣の間の二階への階段
二階の歌仙の間へ上がる階段。

二階、歌仙の間の平面図です。
飛雲閣二階平面図
二階、歌仙の間の平面図。

歌仙の間は下段、上段の二間からなります。下段は十八帖、上段は八畳あります。全室の壁面は明るい金箔で覆われています。床の間はありませんが上段正面には三十六歌仙のトップ・柿本人麻呂の人物画が描かれています。人麻呂から時計回りに三十六歌仙の人物画がそれぞれ描かれています。金箔の壁面はともかく三十六歌仙の描き方・配列はまったくの創作。そうそう天井も青殻・ベルベット風味というあの京都島原の瀟洒で豪華な揚屋建築の角屋(料亭・ 饗宴)のテイストを少し加味しました。何といっても奇抜華麗な飛雲閣ですから、こんな意匠もいいかなと思いました。

二階歌仙の間の上段を見る
二階、歌仙の間の上段を見る。

そのズーム。
二階歌仙の間の上段アップ
人麻呂像がわかりますでしょうか?


飛雲閣・歌仙の間上段から


今度は上段から下段の間を見ます。たくさんの歌人さんたちが居並びます。
でも、36人全員までは揃いませんでした。壁面が足りなかった・・・。
藤原元真、中務、平兼盛の御三方、申し訳ありませんでした。あれ?四人分足りなかったかな?何か混乱してきました 笑。
飛雲閣・歌仙の間から三階摘星楼への階段
三階の摘星楼へ上がる階段。

さあ、いよいよ三階の「摘星楼」へ上がります。
まずは平面図から、

飛雲閣三階平面図
そして、摘星楼内部へ!
三階摘星楼の内部
ここは壁面もこげ茶系の古風な感じ。茶室の趣ですね。でも水屋がないから茶釜の水には苦労するかも・・・と、かなりな空想が湧きます。ひょっとして、3D京都の頭も沸いてる・・・・。


摘星楼の床の間

床の間もあります。壁は金箔が張られています。実際、そうですよ。
あっ!、階段を仕切る襖があったんだ・・・忘れてた・・もう、造作疲れた・・。

星を摘む。何と言うロマンチックな響きじゃないですか!
あの信長から「禿げネズミ」と言われた関白秀吉にこのような風流があったとは、
人は見かけによらずですね。

摘星楼の天井
最後のCGは摘星楼の星空に描かれた天井。もちろん創作です。でも花頭窓から見る外の夜と合わせいい雰囲気出ていませんか?

秀吉公がホントに星を摘めるよう天井は星空文様にしました。ここはもう、私の完全なる創作空間です。
天井が星空だったらいいじゃないですか?

以上、駆け足で「聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 内部編」をラインナップしました。
見飽きた・・・という方には失礼しました。

では、また、です。


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