3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

Entries

新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 前編

少し久し振り、以前から収集していた公家屋敷の指図を眺めていまして、そのなかで二分割されている中院家の指図を一枚にくっ付けてみたら、どこかで見た覚えがある・・・と、そこから同家の指図が気になって調べていくうち、「どうも、この中院家指図は作成された時期と根拠が唯一明らかな幕末の公家屋敷。しかも明治4年の公家町を京都府へ返上する上知令直前の公家屋敷の姿を伝えるとても貴重な指図ではないか」と思われてきて、私のなかでそれは「新発見」という確信へと変わっていったのです。(図はクリックすると何れも大きくなります。)

中院家下屋敷指図(明治4年)
中院家下屋敷指図(京都大学所蔵・中院文庫より引用)

同指図は、京都大学が所蔵する中院家文庫のなかの一つ。上京区烏丸通下長者町下ル、にあった中院家の下屋敷図。今の御苑内、新在家町にあった本邸の方ではありません(幕末には実質上、下屋敷が本邸となった)。その跡地は現在、護王神社の境内となっています。護王神社の祭神は和気清麻呂と姉の和気広虫で、和気清麻呂は称徳天皇の御代(769年)に起きた、「道鏡が皇位に就くべし」とした宇佐八幡宮の信託事件で、「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ」との再度の託宣を朝廷に持ち帰り配流にされながらも皇統を守った朝臣として知られています。また、同神社は和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、俗名「いのしし神社」としても知られています。


中院家屋敷位置の変遷図
現在の護王神社が中院家の下屋敷だったところ。


護王神社2
護王神社の境内

今回は、資料も少ない一般堂上公家を念頭に、この中院家指図を紐解いてみたいと思います。

最近はお公家さんの話題も少しづつ歴史好きな人たちの中で遡上に上がるようになりました。それと比例してどんな生活を送っていたのか?どんな家に住んでいたのか?、と、公家の屋敷にも興味を持つ方が増えてきました(実は隠れ公家ファンが結構いるかも)。まとまった形で唯一残る冷泉家の屋敷など重要文化財にもなっています。

私も以前から興味をもち、冷泉家以外には遺構がないならせめて屋敷図、指図だけでも見てみようと思い、それぞれ保存してある資料館、大学の図書館、地方の文庫など収集(複写)して廻りました。その甲斐あって二十数家の宮家、摂家、公家の指図が手元にあります。
その指図のなかでも、大学の先生方や研究者、建築史学会・出版界で多く取り上げられているのが、京都府総合資料館に保管されている「中井家文書」のなかの公家屋敷に関わる部分。
多くは、内裏・御所の指図ですが、それに次いで多いのが宮家や近衛家、九条家、鷹司家等の五摂家。宮家や摂家の場合、たとえば、皇別摂家といって五摂家へ皇族男子が養子に入って相続したケースや内親王の降嫁。また徳川家を始め有力大名との婚姻などによる屋敷の拡張や新造。それと御所の罹災時の仮皇居にされる、などの理由が重なって年代毎に比較的指図が残っています。一方、摂家以外の一般堂上公家についてはあまり指図は残っていません。そのなかで数少ない公家の指図がまとまって残っているのが上記「中井家文書」です。中井家は徳川幕府の大工御用の棟梁を務めた家柄です。

その残された指図にはどのようなお公家さんがいるかと言いますと(宮家、摂家は除く)、徳大寺家、醍醐家、清閑寺家、野々村家、竹内家など。これら公家さんの指図が建築史関連の一般書でも取り上げられ、分かりやすいように描き起こし製図されています。

これら公家指図に多く共通するのが、その作成された年代が江戸時代初期の寛永期から江戸中期、あの天明の大火を挟んだ1750年前後の時代のものが多い、ということです。冷泉家も天明の大火後建てられたものです。他に、時期が不明なものも数家あります。

明確に幕末・明治初年に作成された根拠のある指図について(宮家・摂家を除く)私の探した範囲内では見つかっていません。東京都立中央図書館の木子文庫(幕府御用大工)にも御所関連の指図はありますが、やはりというか近衛家や九条家の本邸や別屋敷はあっても普通の公家指図はありませんでした(一部、正親町家の増築部分図はありましたが)。
ちなみに近衛家の東京の邸宅図も残っていて公家邸としては珍しく和館に洋館が併接しています。


近衛邸間取り図
近衛家の東京邸の平面図。洋館が付属(東京都立中央図書館・木子文庫より引用)。

近衛家洋館立面図
洋館の立面図(一部)

宮内庁の書陵部にも数点あります。
ここは摂家の鷹司家の本邸や別邸が主ですが、白川家と東坊城家下屋敷の指図が残っています。しかし年代は不明です。白川家などとてもラフな手書きで描いたものであり判読自体不明です。しかし、いつのものか書いてないのでわかりません。

後、学習院大学の文庫にも西園寺家の指図が所蔵されています。年代は同家の指図一式のなかに慶応2年の公家町図(内裏細見之図と思われる)も交じっていて幕末期の指図の可能性があります。ただ公家町図のなかには西園寺家の隣地に東山院旧地とあるものもあり、東山天皇の中御門天皇への譲位後の御所地跡だった可能性もあり年代特定までには至らず。
ただ同家指図には平面図だけでなく屋根・妻飾りや御殿・玄関車寄せの立面図、また建具も描かれた図もあり、公家屋敷の立体構造を知る上ではとても貴重。3D制作にはもってこいの指図一式です。

専修大学が所蔵する菊亭家文書のなかにも指図が残っています。黒印として「菊亭 脩季 家扶 本田三郎」とあります。脩季は安政4年の生まれで明治維新時はまだ10歳の子供。この指図が幼少時代のものか? あるいは成人した明治以降のものなのか判然としません。でも幕末の可能性も十分あります。

後、名古屋の蓬左文庫にも樋口二位殿屋敷図、そして勘解由小路殿下屋敷の指図が残されています。蓬左文庫は尾張徳川家の旧蔵書を多く所蔵しています。樋口家を遡っていきますと、初代当主の信孝(1599~1658年)の娘が尾張徳川家の二代当主・光友の室として嫁いでいます。勘解由小路家の指図も光友夫人の妹が勘解由小路家へ嫁いだ関係で残された可能性があります。ただ年代的には江戸初期で今回の対象にはなりません。

その他、岡山大学の池田文庫等にも公家指図がありますが内裏、摂家の指図でありこれも今回の対象外。

いろいろと公家指図をピックアップしましたが、一つ整理したいことがあります。
それは、幕末の長州と会津・薩摩藩が戦った禁門の変(元治元年7月、1864年8月)では俗に「どんどん焼け」と言われる大火が発生し多くの京都の町屋が焼失しましたが、御所及び公家町まではほとんど類焼しませんでした。ただ、公家町の外の一部、また公家町の最も南にある鷹司邸とその一部周辺の公家屋敷は焼けました(鷹司邸では長州の久坂玄瑞が自害しています)。
つまり、幕末から明治に変わる慶応4年(1868年)の時点で残った多くの公家屋敷は天明の大火(1788年3月7日)後から禁門の変以前に建てられた屋敷であり、逆に言うと、禁門の変で焼け出された公家が再建・新造した屋敷が明治維新の京都における最後の公家屋敷となった、との定義付けができると思うのです。

京都指掌図 文久改正(元治の大火・全体図)
禁門の変のどんどん焼けで焼失した地域(日文研所蔵 京都指掌図 文久改正より引用)。

京都指掌図 文久改正(元治の大火・中院家周辺)
囲ったところが中院家の下屋敷。蛤御門に近く御苑外だったことも火事に繋がった。公家町はほぼ焼失から免れた。

焼け出された公家には中院家も含まれます。同家は慶応2年(1866年)に幕府・朝廷から焼けた下屋敷の替地を拝領されています。そのときの替地の坪面積と形状、新造された指図の建坪面積と敷地形状、そして明治4年の上地令に従って届け出た屋敷面積と形状、建物の坪数がみなピッタリと一致するのです。

言わば上地令が今回の中院家指図が幕末最後に建てられた公家屋敷のなかで、唯一、現存する指図である。ということを証明することに他ならない、と私なりに結論を見出した訳です。

では、中院家指図がどのようなものであったのか?
次回、書いてみたいと思います。




コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!






関連記事

「恵まれなかったから今がある」

今年ももう1月の下旬、あっという間に過ぎて二月の声を聴いたら、もう平成30年の大晦日を迎えるような、そんな錯覚を覚える時の経過の加速感です。「自分は何をしているのか」と自問自答ばかりしています。

そんな先日の夜、妻から「いい番組だから来て観て」と言われ、リビングのテレビを見たら、テレビ東京の「カンブリア宮殿」を放送してました。久しぶりに観ます。村上龍も「限りなく不透明に近い」ような人生に揉まれた顔をしています。

そして、その横で見慣れぬゲストの顔、「どこのオッサン?」と見るうち、なんとあの百円ショップの草分け、ダイソーの矢野博丈社長でした。へぇ、こんな感じの人だったのかと、正直、風采のあがらないお顔に少々驚き。そして、そのあまりのネガティブ言行録にこれまた二度ビックリ!
イメージ2
「恵まれなかったから今がある」、「会社はとにかく継続すること、生きるためにやっている」と宣う。

私の周辺の環境下、ビジネスセミナーでは、「生き残るなどという消極的な企業経営ではダメ。いかに勝ち残るかですよ!」というのが〆の常套文句でした。
プレゼンで熱弁を振るいいかに時代の先端の波に乗るか、あるいはその先駆者、当事者となるか、そう、いつも洗脳されていた気がしました。

その対極にある矢野社長の発言。

矢野社長さんは若い時、事業に失敗。お兄さん(医者の家系)からは一億円も借りて再びチャレンジしてまた失敗、夜逃げし、職を転々とし、最後は、倒産した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、移動販売する、いわゆる「バッタ屋」で細々と食いつなぎ、挙句の果て放火で家もお金も失うという、どん底生活にまで陥ってしまいました。

それでも何とか再びバッタ商法を展開し、あるとき、安いと聞きつけて買いに来た主婦のおばさんたちから「これはいくら?あれは幾ら?」と矢継ぎ早に聞かれ、もう値札を付ける余裕も無くなった矢野社長は「もうええです、全部、百円均一でいいです」。

そこが「100円SHOPダイソー」の始まり。

それからは百円商法に経営資源を集中、一部の客からは「安物買いの銭失い」とか陰口を叩かれ、テレビでも「半ば、まがい物扱いされ、バカにされ正直悔しかった・・・」と涙さえ浮かべていました。

それがバブルの時代が去り、リーマンショクに社会が動揺し、安く身近に便利な小物を求めるようになり、ダイソーはその時流に乗り一気に社業が発展、そして年商4000千億の業界トップ企業に成長。

それでも社長は、「いつも潰れないかと心配ばかりしている。最近、やっと少し心配しなくなった」と、
およそ年商4000千億企業を育て上げたサクセスストーリーは矢野社長からは微塵も感じられませんでした。

もし、矢野社長が普通の商売で小成功していたら、今のダイソーはない。
どん底のおよそ恵まれない環境が100円ショップを産み今があると思います。

ですから矢野社長は「恵まれなかったから今がある」と絞り込むように述懐するのだろうと思います。
「逆もまた真なり」。

ネガティブの裏には実は常に感謝の気持ちを忘れなかった。世の中の役立ちたいという思い。あの揶揄されたおばさんたちにもう一度会って感謝したい、とまで言っていた。
これを聞くと。やっぱり日本の人情風土だなぁ、この土壌は失われたくないと思い、私は、違った意味で励まされました。
矢野社長さん、これからも頑張ってください。

*****************************★★★*******************************************


★ 寂しさは パイプを抜ける 風の声 壁にもたれて 独り聞き入る

e8cc05f5635c4599474e6bee1183d21e_s.jpg


金属の板を爪で掻くと不快感が極まりない。汽船の霧笛は情緒があっていい。ガラタ橋から聴くコーランもいい。ただ、むき出しのパイプを抜ける風の声は寂しい・・・でも、なぜか聞き入ってしまう。パイプに入って凝縮し、増幅されて出る風は私の三千里先を吹いているんだ。


★ 百年の 大樹のそばに 家の建つ 何軒目かな 木だけが知っている 

百年は寓話だ。ホントはもっと何百年も生きているかもしれない。過ぎ去った過去、営み、街、それらの昔日を知っているのは、やはり生きている命でしか知らない。木に語りかける、何年生きているの?。でも無言のまま。「ほら、こんなに太く聳え立っているだろう!見てみれよ」。それが答えなんだろうな。


★ 戯れに 母のフードを  引っ張る児  ビッフェの周りは 食べることでいっぱい


最近、開店したばかりのお店はビッフェスタイルのレストラン。けっこう美味しい。家族や友人、カップルで賑わっている。少し設計ミスかな。もう少しビッフェ周りが広ければ、ゆったりと選んでお気に入りの食べ物をお皿にのせれるのに。
その児は食べるよりお母さんに遊んでもらう方がいいみたいだ。だからお母さんの暖かい首のフードを引っ張って、「僕の方を見て」と行動に移しているんだよね。
でも、お母さんは食べ物選びに夢中。ここは冬の夜の楽園だ。満腹になったら、きっともっと遊んでくれるよ。


★ パキラの木 どの観葉よりも 丈夫だと 肯いていたら 葉が落ちて来た



20180106_120005.jpg

その、トグロを巻いた太い幹の観葉樹。聞けば「パキラの木」だそうだ。いかにも強そうな丈夫な木だ。なんでも天井が崩れても生きているんだそうだ。そう、その店のオーナーと話していたら、偶然、一枚の葉が落ちて来た・・・。何を意味しているのかわからない。ただ、人間で言えば抜け毛のようなものか?たまには水やってる? オーナーに言う。「いつも元気だとは思うなよホトトギス」。

★ 哀惜は 餌を欲しがる 猫の声 気まぐれだから 言いにくいんだよね

どこの飼い猫もそうかもしれないけど、うちの猫も気まぐれだ。餌を欲しいときだけ、妙に可愛い声でねだる。一応、メス。初老。気紛れだからこそ、お腹が空いたときは普段の何倍も「甘えた声でねだってやるか」と、猫の生存本能がそうさせるのかもしれない。猫と言えども時に人間様と妥協しなければ生きていけない飼い猫の立場。それを思うと飼い主に従順で忠実な犬種とは違う哀惜の情にほだされる・・・うっ?単なる猫派?


★ 小学校は 六年の夢 中学は 三年の義務 六年に戻りたき 

小学生だったころ、時間というもの、時の経つのがとても遅く間遠しく感じた。
いつになったら中学生になって学生服が着られるんだろう? と思っていた。それが、いざ、中学生になったら時間の速いこと。あっと言う間に3年が過ぎ、受験に高校入学、大学、そして社会人へと足早に時が駆けた。あの小学校の頃の6年間の遠さは何だったんだろう? と思えてくる。確かに子供心に感じた大きな川は大人になってみれば、それは一つの小さい川に過ぎなかった・・それが子供の世界であり時の経過も遅かった。
でも、もし、小学校が3年間だったら、もっと早熟で、早く、良いことばかりじゃない大人の世界を知ったかもしれない。
そう思うと、中学も、高校も、大学も6年刻みだったら、人生は今よりも長く感じ、のんびり楽しいものになっていたかもしれないと、ふと思う。妄想かもしれないけど。「六年間の夢」。私はもう一度見てみたい。


★ 閉められた 窓のブラインドが 揺れている 終末期病棟を 行き交うストレッチャー

0fcb678c75ceb9bac71bb5819b8b3323_s.jpg

パイプを抜ける風の声に金属音の寂しさを感じた後、病院に見舞いに行った。長い廊下を抜け、終末期病棟に入った。窓は閉まっているのに微かにブラインドが揺れていた。廊下の隅にストレッチャーが置いてあった。だからその振動の余韻かもしれない。病室に入り本人を見舞った。お世話になった方だ。本人はもう自分が末期であることを知っている。だから、逆に見舞客の方に気遣ってくれる。たまに喉から苦しそうな「咳き」が聞こえる。そして窓を見やるとブラインドが微かに揺れている。揺れる理由は、その方の声ではなく、息の振動だった。声は出ずとも絞るような息の迫力があった。「早く元気になって退院してくださいね」。そう声をかけたけど、本人は笑っていた。もう挨拶言葉と思われたのだろう。後日、亡くなられた。


★ スリッパを 素足で履く 冷たさは 君の春と 僕の冬にも似て 

別に妻に冷たくされた訳ではない。ただ、スリッパを素足で履く冷たさを、少し距離のある相聞歌にあてはめてみた。
こんな年で恋もなにもない。最近は芸能人の不倫騒動がかまびすしい。下手に恋などしたら笑われる。そもそも相手がいない。
だからと言って、恋の歌は短歌の重要なファクターの一つ。万葉の昔から変わらない。だから短歌を詠む人は女性が多い。「芭蕉だって恋の俳句なんぞ聞いたことない! 必ずしも恋は短歌に必要ない」と強情を張るけど、たまには恋の歌を詠んでみたい。夢を食う獏のように、想像の恋人を作り、その女性に愛の歌を捧げる。そんなストーリーを描いている。だから、もし、私が愛を詠んだらそれは想像の女性、マドンナと思ってください。

★ 録画という 止まった時間を ため込んで 年輪のない 森が増えてゆく


最近、テレビのBS番組を録画予約する方法を覚え、朝、新聞を見た後、良さそうな番組を録画している。実はテレビ中毒になってはいけないと録画からは遠ざかっていたのだけど、最近のBSの映像は美しい。思わず見惚れてしまう。だから録画するようになった。でも、あれも、これも録画してくと、何から観るか迷ってしまう。迷っているうち、録画した番組がどんどんたまって、もう、追いつかない・・・。観る人間は一人だけど、映像はパラレルに多重してゆく。私のなかの「ネオ・フィルム」は年輪のない空白な森に眠っている。

★ オルゴール ヒップホップも 単音に 薪が伴奏する 暖かき冬のあり 

また、オルゴールの歌を詠んでみた。単音の旋律は物悲しく、心を鎮めるときにはちょうどいい。それに薪ストーブの炎は、斎藤茂吉の「くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬の夕ぐれ」と歌ったように心地よい。たまに薪がパチパチと爆ぜる。それがいい。適度なビートだ。さぁ、今夜も相伴しよう。

 

コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!





関連記事

謹賀新年


明けましておめでとうございます。

平成30年の新しき年を迎えました。

旧年中は拙いブログにもかかわらずご訪問いただきありがとうございました。
今年も引き続き邁進してゆく所存ですのでどうか宜しくお願い申し上げます。

元旦の朝は素晴らしく晴れています。
日の丸も大きくはためいています。

強き風は穢れを払い、清め、心も爽快です。

どうか皆様も元気な一年であらせますように。


nenga.jpg



コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!






関連記事
▽コメントリスト

古代出雲大社神殿を復元してみた その弐

寒いですね!
北海道では玉突き事故で100台もの車が立ち往生したとか。
たまに観光に訪れる分には素晴らしい北の大地ですが、現地の方にはたいへんな苦労ですね。
怪我された方は少しでも早く快方されるよう陰ながらお祈り申し上げます。

昨年、自宅に植えたイロハモミジの紅葉を心待ちにしていましたが、いざ晩秋を迎え色づいて真っ赤に染まったのですが、どこか「京都のモミジ」とは違う。そう、鮮やかさがなく少しくすんだ感じ・・・ここは愛知県。京都の高尾・神護寺のような訳にはいかないのですね。でも山川草木、紅葉も散った木々たちの樹皮を見比べるのもそれなりに面白いなぁ、と並木を見ながら走ってます。
紅葉といえば、ドローンのおかげか今年のBSは紅葉巡りの番組が多かった気がします。以前の情景とは違ってドローンのまるで地肌を滑るような美しい映像にくぎ付け。不思議なのは上空からの撮影なのに「手振れ」がまったくない!。最近の「手ぶれ補正」はとても進化しているのですね。久しぶりに買った私のデジタル一眼レフも、極端な話、片手で撮っても綺麗に撮れている。以前なら「おまけ」程度に考えていましたが技術の進歩には脱帽です。

でも、「ドローン」という言い方、いい響きではないですね。英語で無人飛行機という意味だそうですけど、まるで忍者が「ドロン」って飛ぶみたいです。それでも今後はもっと頻繁に使われるだろうから、耳慣れしなければ。
ドローンの活躍するほんの数年前は、モーターパラグライダーって言うんですかね?人が操縦して普通のヘリが近づけないような場所でも至近距離から撮影できる、ということからTVでもよく映像を見ました。なかでもギアナ高地の迫力ある映像は忘れられないですね。高度な操縦と撮影テクニックを持ったあの「おじさん」は今も元気に撮影してるだろうか?ドローンに仕事奪われてないかと、つい心配してしまいます。時代とともに職業の形態も変わる。今、とくにサービスや流通関係で人手不足が深刻化していますが、その一方で、民間企業の頂点ともいえる大手銀行が大幅なリストラをするという予想外の人の流れ。これも生々流転。最後は自分の地力が試されるのですね。

さて、右カラムの一番下のfc2カウンター、そこでも書いてますが、カウント数がゼロになってしまい・・・大泣き。
SSL(暗号化)に対応するためカウンターを一旦削除。再設定したらリセットされ「0」になったのですが・・・。時代のIT・AIについていけない自分がいます。
今年、皆さまのおかげでアクセス数が10万を越え11万に近づいていたのでとても残念です。これも右下段で書いてますが、最近はSSL等の影響でfc2のカウント数と実際の解析によるアクセス数の乖離が大きくなっています。日によりfc2の2~3倍が正味カウント数となっていますから。もうfc2カウンターの表示やめようかと思いましたが、それも寂しい・・・。毎日、カウントダウンするのが楽しみの一つですからね。(10万越えの魚拓を取っておけばよかった)

そうそう、それとテーマ別カテゴリーの冒頭に「3D作品」のグループ欄を追加しました。考えてみれば、え!今頃、感、半端ないですが、カウンター消滅というショックもあり「そう、そうだよ、3D京都だろう。なのに3Dのカテゴリーがないのおかしいだろう」と、今更ながら目が覚めたということです。

前置きが長くなりました。
本題の「古代出雲大社神殿を復元してみた その弐」として、CGイラストをランダムに載せます。
「その弐」が終わったら久しぶりに動画も作ってみようと思ってます。作成ソフトも新しいのに替えますが、実はまだ、そのアプリをインストールしていません・・・学びながらの動画作りです。
実は、動画は建物の室内をウォークスルーする場合に作ろうと考えていた経緯があって、実際は、室内の作り込み3Dも少なく金閣や相国寺七重塔ぐらいしか動画にしてません。でも、昨今のドローンの活躍。「なぜ、自分もドローンのように外観を空から、フライスルーする動画をもっと作らなかったのか? なぜ、静止画で留まっていたのか? と、これまた、今更感、半端ない反省をしております。

人間、ショックを受けるといろいろ我を振り返るものなのかな?

南東から斜め
南東から斜めに見た神殿。

今回、その壱でもチラッと書きましたが、縄文・弥生様式、そして古墳時代の様式も含めたミックス神殿です。ですので、かなり妄想が入っているかと思います。欄干を飾っている玉飾り「如意宝珠」も仏教由来のもので、時代的なズレもあるかと思いますが、出雲地方は翡翠の産地でもあり、何らかの形で神殿を飾っていたと思ったので過剰ではありますが添えました。朱色についても、縄文時代の頃は漆というと「赤色」が主体だったので、出雲大社においても赤を基調に色塗りしました。これも過剰過ぎたと反省していますが、とにかく古代出雲の八雲たつ雄渾さを表現したいと思い、今回のピラミッド形にしました。

出雲神殿側面俯瞰
側面からの神殿。

同じく西側から見た神殿。階段の長さを強調しました。
出雲神殿西側から


上り階段を登る
上り階段のアップ。


出雲の豪族と巫女

長い階段を上った先の踊り場。入れ墨した巫女さんもいます。巫女は光琳出版社刊「原色 日本服飾史」井筒雅風著から引用させて頂きました。
銅鐸群
踊り場に並ぶ銅鐸です。

銅鐸は楽器もしくは祭祀に使われたと思われ1世紀~3世紀の弥生から古墳時代初期にかけ鋳造され全国で500口ほど発掘されています。そのうち、出雲の加茂岩倉遺跡では一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見されていて、当時の出雲地方の豊かな国力を感じさせます。11月に全国の神様が出雲に集まって出雲だけは「神在月」となるのも、やはりアマテラスに国譲りするまで国内のかなりの地域を出雲の勢力圏に置いていた富裕さを大量の銅鐸は証左していると思います。

また、同じく出雲の荒神谷遺跡からは358本もの大量の銅剣が発掘されています。これも一か所で発見された数としては全国一で、銅剣から見ても出雲の勢力の大きさがわかります。出雲は神話の世界だけでなく実在した地方王権だったのでしょう。

では、なぜそんな強い勢力を持つ出雲が大和政権に国を譲ったのか?
一つには出雲が多量の銅剣を抱えたころ、大和の方は銅剣を飛び越えて鉄剣にシフトしていた。鉄と銅の戦いならば鉄剣の方が圧倒的に強く結果、出雲は負けたのではと思ってます。古墳時代の中期、大和政権の主導で、鉄の材料として優れた砂鉄を産出する出雲がたたら製鉄の一大産地になっていたこと自体が国譲りを象徴していると感じられます。

銅鐸群2
同じく銅鐸。

銅鐸は中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説ですが、たまたま日本の銅鐸によく似た磁器の鐸が中国の春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の頃のものとして同中国で発掘され、春秋戦国時代の方が時代が遡るから中国伝来のものでは?とするのが定説の根拠で、実際はまだ起源ははっきりしていません。ちなみに銅鐸のサイズは1世紀ごろの60センチ高から3世紀前には1mを越え、最大では134センチのものが発掘されています。

古代出雲大社神殿階段2
祭祀に使われた、と想定しての踊り場からの垂直階段。


古代出雲神殿階段
おなじく垂直階段。

垂直階段
垂直階段を真下に見下ろす。


神殿アップ
神殿本体のアップ。


出雲神殿(東側アップ)
同じく東側側面から見た神殿。


古代出雲大社神殿南東からアップ
そして斜めからのアップ。


大国主様
おお!大国主様がおられる? でも、階段を上る人物とよく似ている?? なんか頭がお花畑状態です 笑。


神殿欄干
神殿高欄のアップ。それがどうした・・・ですが。


階段踊り場
垂直階段の下、踊り場に戻る。男女二人が? どういう関係?


上り階段を見下ろす
あぁ!下を見てはいけない!高所恐怖症なんだから。え!だれが? タイムスリップした私です。なんてね。


古代出雲大社神殿正面(スモッグ)2
また靄が出てきたか?


夜の神殿
そして静かな夜を迎える。神々はそれぞれの故郷に戻っただろうか?神在月の七日目の夜としよう。

以上、私の限りなく想像力を駆使して作ってみた古代出雲大社神殿の3Dでした。
ご視聴ありがとうございました。



コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!






関連記事
▽コメントリスト

古代出雲大社神殿を復元してみた その壱

前回、出雲の旅の縁もあって中古(平安時代)に高さ16丈(48m)にも達する高層の神殿が存在したことを裏付ける巨大な柱穴と柱の痕跡が発見され、俄に現実性を帯びたことから大林組が初めてその神殿を復元、ブログにも復元したイラスト図を紹介しました。(クリックすると拡大します)

出雲大社の本殿の復元想像図
大林組の高さ16丈(48m)のCG復元図


DSC_0074.jpg
宇豆柱として大社境内に復元されている宇豆柱。


宇豆柱(古代出雲歴史博物館)
発掘された宇豆柱(古代出雲歴史博物館)


実際に大林組の復元図にもこの柱が計9本取り入れられています。

この三本を束ねた宇豆柱の根拠となったものが、出雲国造の千家に代々伝えられてきた「金輪造営図」。この図には、一番細い側柱でも直径3mあり、要である9本の支柱に至ってはどのぐらい太かったか想像もつかない。梁も幅1.12m、高さ1.35m。全長は18.8また図には「引橋の長さが一町」とあり、これもまた長大な上り階段の図になっている。

出雲大社本殿金輪造営図


また「御内殿」と書かれている本殿内の様子も現在の本殿間取り図に似ている。

出雲大社本殿内部図
現在の本殿内部の間取り図。出雲大社のHPより引用。

以上のことから従来からの「金輪造営図」はその信憑性が疑われていましたが、柱の遺跡の発見により実在説がクローズアップされてきた訳です。

では、伝承によれば、さらに太古の昔には高さ32丈(96m)もあった、とされていますが、さすがにこれは架空の話としてかなり疑問視されています。

しかし、古代はピラミッドやローマ帝国のコロセウム、万里の長城、始皇帝陵や日本の仁徳天皇陵のように世界的に大建設の時代でもあった訳で、その点で言えば出雲大社もその例外でない、という言説も引き出される。

では、いつ、どんな形で建てられたのか?まったく雲をつかむような話ですが、一つ一つひも解いてゆきたいと思います。ただし、何度も言いますが、私は建築についてはまったくの素人で様々な矛盾点と、華麗の盛り込み過ぎ? もありますがご容赦を。

まず96mの神殿が何時頃建てられたのか?ですが、
はっきり言って神話と実際の歴史の線引きが難しいのが日本の特徴。どこから行こう?

日本には戦前まで使用されてきた皇紀という暦があります。今年だと2677年になります。
紀元は初代神武天皇が即位された紀元前660年(西暦換算)です。ここから日本が建国されました(諸説いろいろありますが)。
で、神武天皇の父はニニギノミコト。ニニギノミコトの父がアメノオシホミミノミコト。で、アメノオシホミミノミコトは天照大御神(アマテラス)の子供にあたります。年数的に当時長命だったとして三代200年遡ると天照大御神の時代は紀元前860年頃という推測になります。

で、これを出雲大社絡みで、その繋がりを辿っていくと、天照大御神の弟で勇猛なスサノオ神があまりの腕白振りに高天原から追放。たどり着いた地上の地が出雲。ここでヤマタノオロチを退治。出雲地方を拠点に地上世界を治めることになりました。そしてスサノオから六代目の子孫がオオクニヌシ(大国主)。
地上を治めるオオクニヌシに対して天照大御神は自分の子、さきほどのアメノオシホミミノミコトがオオクニヌシに代わって地上世界を治めるよう先遣隊の使者・タケミカヅチノカミを出雲に遣わし、そこでオオクニヌシの子・タケミナカタノカミと力比べをするがタケミナカタノカミが完敗。ここにてオオクニヌシは地上の国を天照大御神、天孫・アメノオシホミミノミコトに譲ることになりました。ただし条件として子々孫々まで巨大神殿を建てスサノオ一族、オオクニンシを祀ることを求め、これが認められ現代の出雲大社へと連綿として続いた。これが大社建立の経緯ですが。わからないのはオオクニヌシがスサノオの六代目子孫なのにスサノオの姉である天照大御神は自分の子を派遣。この六代差の違いは何?天照大御神は太陽神ですから不老不死。六代目のオオクニヌシの時代でも健在。で子のアメノオシホミミノミコトも不死?。で、結局、いつ? ということになりますが、
少なくとも神武天皇の二代前がアメノオシホミミノミコトですから、皇紀以前、即ち紀元前760年あたりを出雲大社の創建といたします。なんか自分でもよく理解できてない気がします・・・。

紀元前760年あたりは日本では弥生時代。この頃の建物は基本、柱や梁は太縄で固定されていたと思いますから、さすがに96mは無理だと思います。
本格的に高層に成っていったのは3世紀半ばから7世紀の古墳時代だと思います。
古墳時代といっても長いですが、そのなかでも5世紀後半にかけて在位した雄略天皇の時代は
日本国内でも鉄を製造する技術が生まれ、それまで百済や新羅等の朝鮮半島や大陸の宋などから輸入していた鉄があまり必要となくなり、朝鮮半島との関わりも減っていき、その分、日本国内の統治に主体が置かれたと思います。

その国内産の鉄の主産地が出雲の砂鉄。いわゆる「たたら」技術です。これにより出雲も豊かになり大社本殿の高層化も進んだと思います。また鉄の関係や日本海側で朝鮮半島とも近い出雲は建築技術についても交易を通じ、従来の縄で縛る工法から柱に梁を通す貫抜き工法が他地域に先駆け大社の高層化に拍車をかけた可能性もあると思います。
たとえば、高句麗では5世紀には木造塔が造られ、。百済では6世紀に木造九重塔(弥勒寺、高さ60m等)、新羅においても、善徳女王が636年に建立した皇竜寺九重木造塔は推定高さが80mもあったと言われています。
このように、高層の木造建築を建てる下地はあったと思います。

以上の事から、もし、出雲大社の32丈、96mの高殿が建てられたとしたら5世紀~7世紀の間。また、縄文・弥生期にかけて土器や建物に盛んに塗られた黒と朱色・漆の縞文様や入れ墨文化。古墳時代、この文化は大和政権の畿内では見られなくなり、、主に地方、とくに西日本にはまだ残っていた可能性があります。とすると、出雲大社の古神殿も、今見るような白木造りでなく、濃い赤と文様で飾っていたのではと思います。
今日みる大社の簡素な白木の建物は伊勢神宮のように大和政権の影響下に飲み込まれていった流れとも考えられます。
あっ、私は伊勢神宮が地味で云々と言っている訳ではないですよ。あの伊勢の崇高な清浄感は日本古来の伝統であり、「素があって赤が映える」、それが日本なのだ、と言いたいのです。

それでは、復元3Dのアップに移ります。
1黄昏とスモッグ(遠景)
霧に僅かばかりの輪郭が、ピラミッド型・・・・??

例の如くというか、朝靄に包まれる古代出雲大社神殿。神殿に穴?が空いている。
そう、木組みですから。

2黄昏とスモッグ(中景)
段々近づく神殿。

山の稜線も見えてきました。
どんな感じなんだろう? 何かワクワクする。
と、自分で言ってみる 恥。

3黄昏とスモッグ(近景)

おっと、まだ霧は消えません。徐々に期待感が迫ってまいります。
無駄にCG枚数を増やしている・・・かも。


4古代出雲大社神殿正面(スモッグ)3

まだほんの少し靄がかかっています。


5古代出雲大社神殿正面2

やった!
いきなり頂上階段だ!

と、まあ、書いてる自分自身が喜んでいるのが・・・なんとも・・・。
最近、しばらく3Dとご無沙汰しておりましたから。

階段手前には埴輪の守り人がいます。人型の埴輪は最大クラスで1.4~1.6mほどの高さがあります。ということは、階段手摺の方が高いです。高さ96mとのバランスもありますから。
ここから基壇部が30度で25段、基壇から36度の斜め階段を87段前後?。登り切った途中の踊り場(拝殿兼用)の高さは約35m。ここまで直線距離にして150mあります。基壇部は8mの高さがあります。登りきった踊り場からは垂直階段が本殿の欄干までエレベーターのように上昇します。
ちなみに階段は一般家庭だと45度前後の傾斜角度で13~14段が多い。踏み段の高さは25cm前後。一方、外の社寺等の石段は角度30度前後で踏み段の高さは一般家庭と同じか少し高い。
6古代出雲大社神殿正面俯瞰
古代出雲大社神殿の全貌です。

古代出雲大社神殿の全貌です。ピラミッド形をしています。
基壇下から屋根の千木が交差しているところまで高さ96m。正面幅が148mの正四角形。角度はエジプトのクフ王のピラミッドと同じ約52度。かなり急角度です

階段の続きですが、仮に一般家庭と同じ45度前後で高さ70mまで階段を掛けたとしたら踏み段の高さは50cmはあると思います。普通の人が上るレベルではありません。2mを越える巨人でも厳しい。角度自体が転落死覚悟です。
ですから今回の神殿では木造部の斜め階段は36度にしました。それでも踏み段の高さは32cmあります。足の長い人でないと苦労します。斜め階段は地上35mで終わりますが、仮に本殿上部まで同じ36度の通しの斜め階段にしたら、直線距離にして200mは越えます。段数は何段あるだろう?さらに一般家庭と同じ25cm高の踏み段にしたら300m?
とにかく途方もない長さで、この階段を頂部まで上るのは勇気と根気がいります。というか、その前に横風に吹き飛ばされかも。階段自体が不安定ですから、平安時代の48m神殿のようにある日、何の前触れもなく忽然と倒れる可能性大です。

そんなこともあって、96m神殿では基壇部石段(8m)と少しの広場(踊り場)、高さ35mまでの木造斜め階段。踊り場を挟み本殿入口まで高さ37mの垂直階段を上るという三段構えの階段にしました。これで、やっと、自分でも上れるかな、といった感じです。この建築構造が当時可能だったかどうかわかりませんが階段だけ捉えたらこういう形状になりました。

神殿そのものはピラミッド型です。何よりも建物の安定感を重視し下半身安定型にしました。残る問題は柱の太さと長さ、柱に梁を通す貫き構造が可能だったかどうか? 縄文時代のように縄で縛る、あるいは日本建築でよく見られる「長押」といって横板で柱間を釘打ちして張る工法だと無理。それこそ清水寺の懸け造りレベルでないと。柱の太さは大社独自の三本の木を鉄輪で束ねるやり方で可能かも。長さは継ぎ手で柱同士を繋げていくか、レゴ方式で各段の構造が上を支える形にするか、絵的にも良くないといけないし現実的に考えると難しいですね。
大阪城天守閣と古代出雲大社本殿
参考までに大阪城天守閣と対比させてみました。写真は一部加工してます。

階段続きになりますが、
今回の3D作りを通して思ったことは、まず、当たり前のことですけどエジプトのピラミッドは人が上ることは想定していない。だから角度52度で一辺240mほどの正四角錐を作ればいい。しかし出雲大社本殿の場合は神殿であり人が、神官が上り祀る必要がある。従って長大な階段が必要になる。


そこで目に浮かんだのは、あの仁徳天皇陵(大仙陵古墳)。クフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵と並ぶ「世界三大墳墓」として知られています。面積だけで言ったら世界最大です。

堺市の公式サイトによれば、

古墳最大長:840メートル
古墳最大幅:654メートル
墳丘長:486メートル
墳丘基底部の面積:103,410平方メートル
後円部 - 3段築成。
直径:249メートル
高さ:35.8メートル
前方部 - 3段築成。
幅:307メートル
長さ:237メートル
高さ:33.9メートル

となっています。
現状は深い森に覆われ、形状は高さ300mの上空からでないと全貌が見えないといいます。

7仁徳天皇陵CG
築造時の仁徳天皇陵イメージ図。双葉社刊の古代日本「CGでよみがえる古代の日本の姿」より引用。

世界最大規模の古墳と言われながらエジプトのピラミッドに比べ有名ではありません。大きな切り石を148mの高さまで積んだピラミッドは見た目派手でいかにも「古代遺跡」といった感じです。実際、紀元前2500年は下るそうですから、やはり世界遺産の代表格でしょう。
一方の仁徳天皇陵の方は高さは36m。石積みではなく盛り土(正確には石で表面を葺いている)。現在は森に覆われ、一見、小高い丘のようにしか見えない・・・・。

というイメージから、やはりピラミッドには敵わない。と思っている方も多いかと思いますが(勝ち負けとかおかしいですけどね)、実際に両方を比べた場合、大きく違うのは用途の違いです。

前述しましたように、ピラミッドは人が上ることは想定していない。仁徳天皇陵は天皇の墳墓であり、かつ、人が登って葬送の祀りや国家の威信を示す儀式の場でもあった。これが大きな違い。

では、人が登るためには何が必要か?
それは階段です。

人が普通に登れる階段は角度30~36度であり踏み段高さは25~30cmほど。
このサイズで、たとえばピラミッドに階段を懸けたらとんでもない長さになり現実にはありえないし、事実、階段など必要なかった。人が登りませんから。
一方、仁徳天皇陵は頂部において儀式を行ったから階段が必要だった。高さ36mの円部頂きまで。すると、その高さまで階段を設ける必要がある。
大林組が復元した48mの出雲大社本殿には直線距離で一町、100mを超える階段があります。しかも48mといっても実際は本殿入口までの高さですから実寸30mの高さまでの階段。仁徳陵は頂部が平たくそこで儀式を執り行うわけだから36mまで階段が必要になる。出雲大社本殿より長い階段ということになる。しかも48mの出雲大社本殿の場合、途中、踊り場等ない。それこそ一部、神官等だけが上る構造だと思います。

仁徳陵は三段から構成され、それは陵の美観、保全だけでなく、長い階段の途中休憩、踊り場であり、また身分の上下に基づいて三段の踊り場に人が集まったかもしれない。

そうすると、階段+踊り場でより長大な階段が必要になる。200mを越えるのではと思う。
仁徳陵の墳丘長が486mと長いのも実は階段を設ける為という実用性、必要性があったからその長さになった。
また、海岸線が今より近かった古墳時代。百済や新羅等の使節や国内の有力豪族に天皇の権威、国家の威信を示すため陵には高さも必要だった。今でいう16階建てのビルに相当する36mの高さは、それなりに威信を示したと思いますし、「人が登れて儀式が行える」、「一定の高さで威信を示す」、その両方が両立できる高さが36mに納まった、と考えるのですが、いかがでしょうか?


自分なりに3Dで出雲大社本殿を復元する過程、ふと、思い至ったことです。

それから、陵を飾り勢威を示す舞台装置としての円筒埴輪も今回、その有意性に気づきました。

10円筒埴輪と列柱
円筒埴輪
12円筒埴輪
円筒埴輪と列柱

自分で神殿を作りながらあくまでパソコンのイメージ上ですが、円筒埴輪の並ぶ前と並んだ後とでは全然雰囲気が違う、ということです。もちろん並んだ後の方が断然、神殿全体のイメージが引き締まり壮観さを演出します。

円筒埴輪は大きいものでは2mもある物が発掘されています。
ただの土を焼いて作った円の筒? と、軽く考えていましたが、それは間違いでした。

仁徳天皇陵が完成した盛時、陵は2mはある円筒埴輪1万5000基が列状に並び(宮内庁書陵部紀要による)、白い葺石は536万5千個(重量1万4千トン)も葺かれました。当時、燦然と白く輝き外国の使節を始め多くの人々は、その壮大さに驚いたことでしょう。

古代出雲大社神殿を再現しながら実は仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を今一度認識し直す機会でもありました。

では、CGを続けます。

9古代出雲大社神殿正面3



13短甲の武人


階段手前で守衛している武人の鎧は古墳時代、短甲といって、一定の鉄板を鋲や組紐、皮で綴り合わせた鎧で日本独自のものだそうです。光琳社出版刊 原色日本服飾史 井筒雅風著 より引用。 

11階段と葺石
長大な階段を横から見る。
タケミナカタノカミ

階段を上るのは、ひょっとして大国主の息子・タケミナカタノカミか??

15古代出雲大社神殿列柱
古代出雲大社神殿の列柱群

16古代出雲大社神殿中空列柱
そして、その空中列柱群。
17古代出雲大社神殿を望む
その壱の〆、古代出雲大社神殿の上部を中撮。

最後は駆け足で記事をまとめました。

次回記事では、その弐として、古代出雲大社神殿の細部をご紹介したいと思っています。



コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!






関連記事

左サイドMenu

たまに短歌

2017年5月8日更新

※ 短歌集はカテゴリー欄にあります。

タグ一覧


全記事(数)表示

全タイトルを表示

※表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

今日の運勢

今日の言葉

京都お役立ち情報

アンケート

ご意見・メールお寄せください

名前:
メール:
件名:
本文:

マーケット情報

プロフィール

梅村京一朗

Author:梅村京一朗
(けいいちろう)、
寝つきの悪い夜は、いにしえの京を想いながら寝ます。すると鼓の音のように京の日々歳々が甦ってきます。・・・浅き夢みし男のブログ語りです。

ブログ内検索

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

ブロぐるめLite


写真提供 ホットペッパー.jp
Powered byリクルートWEBサービス
developed by 遊ぶブログ

右サイドメニュー

最新記事

カテゴリー

  ※ 表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

人気ページランキング

開始日:2016/11/6

ブログパーツ

キーワード別記事リスト

最新コメント

カレンダー

01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索・買物に利用して下さい

人気ブログランキング

FC2カウンター

ブログ開設より2017年12月25日までのトータルアクセス数は11万近くを数えました。お礼申し上げます。リセットされた状況は下段に説明しています。

泣く‼ カウンターがリセット!

SSL(暗号化)に対応するためカウンターを一旦削除。再設定したらリセットされ「0」に・・・大泣き‼

2017/12/25日までのトータルアクセス数(一人一日一回のみカウント)は11万近くありました。最近はSSL等の影響でfc2のカウント数と実際の解析によるアクセス数の乖離が大きくなっています。日によりfc2の2~3倍が正味カウント数となっています。2018年を迎えたら、さらに2.5~6倍もの開きになっています。キーワード検索も表示ゼロで、どんな記事、内容に関心があるのか?こちらでも把握できていません。良い記事を書くための参考にしたいのですが・・・残念です。とりあえず現況をお伝えしました。