3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 中編

前編に引き続き後編です、もとい中編になりました。
前編で『そもそも聚楽第には飛雲閣自体が存在しなかった。天守さえも存在しなかった?』、について、その書きかけというか
まだ、ほとんど入口にも入っていない状況ですが、一つづつ解明?してゆきます。というか書きながらどういう方向へいくのか?自分でもわからないです。そもそも浅学菲才の私が聚楽第に挑もう?と思うこと自体が間違っていますが、3Dで再現するとう流れのなかで「秀吉時代の飛雲閣を作るにしても聚楽第のどこに作ったらいい?」というわけになりまして、結局、深みにはまっていきます・・・笑。

さて、前編で幾つかの残された屏風には天守は描かれていても飛雲閣に該当するような楼閣がない・・・と書きましたが、実際、そうです。じゃ、どこ?となるわけですが、自分なりに探してゆくなかで、最初から西本願寺に建てられた?についても、どうも疑問符がつく。では、どこ?西の丸にも同縮尺の飛雲閣(現在のもの)を当てはめても飛び出してしまう。南二の丸は馬場とかあって、そんな遊興なスペースはない。北の丸だって普通の御殿だったら建つけど、そこに回遊式庭園及び舟遊びの池を含めたらやはりそのスペースはない。となると残るは本丸。ここしかない。

では本丸のなかで可能性のあるのは?
前編で、聚楽第研究の先駆者である櫻井成廣氏(故人)の作成された「聚楽第内曲輪推定復元地図」を掲載させて頂きましたが、
その復元図のなかで、本丸北東部にあたる所は後世、州浜池町という町名に残り、ズバリ、池泉を伴った立派な庭園があったと思わせます。大阪城の本丸を見ますと南側に表御殿があり奥御殿は直接廊下等で繋がらず独立した形で北側、しかも結構離れています。なぜ、こんなに離れてる?秀吉はねねとあんまり会いたくなかった? そんなこともないと思いますがどうしてでしよう?江戸城大奥とは大違いです。ひょっとして火事の類焼を防ぐため?籠城時の司令塔の分散? とか、まぁ、いろいろ想像します。

言いたいことは大阪城本丸の例でいくなら聚楽第も奥御殿は表とは離れ北東に位置したのでは?と思うわけです。しかも、当初は北政所・ねねが主の御殿だったとのではと。淀君が鶴丸を生んだら西の丸に追いやられ?てしまい、そこで西の丸があったと推定される場所は現在・高台院堅町と呼ばれ、どこからどうみても、ねね殿が暮らした御殿があった名残だと思われます。北の丸は秀次によって拡張された記録が残り、秀次はここに暮らしたのでは(関白就任以後は本丸、側室たちは西の丸?)と思われます。
後、残る本丸の南と西南部、ここには表御殿及び行幸御殿があり、さらに西側と南西部には茶屋等のある山里と当時も言われた広い場所があります。現在も地名に山里町、州浜町、下山里町と残り、ここにはかなり規模の大きい林泉庭園があったと思われます。このへんのところは上掲の櫻井成廣氏(故人)の「聚楽第内曲輪推定復元地図」をみられるとわかると思います。あらためてその復元図再掲しますね。


聚楽第復元想像図(櫻井成廣)
櫻井成廣氏の「聚楽第内曲輪推定復元地図」


飛雲閣があったとするならばこの山里地域しかないと思います。屏風絵でこの場所が描かれていれば所在がわかったかもしれませんが残念ながら三井家蔵の「聚楽第図屏風」にはこの山里地域がちょうど欠損(六扇目が欠損)していて、そこがどうなっていたか不明です。
となると、存在を確認する手段としては当時、聚楽第について書かれた文書、文献等から探ってゆくしかないと思います。

で、文献等に入る前に、一応、私なりに聚楽第のとくに本丸を把握するために同本丸を拡大した想像図を描いてみました。櫻井成廣氏の復元図をベースに大阪城や二条城(徳川期)、とくに二条城の二の丸御殿など南から北西に雁行する御殿群の特徴は聚楽第を一つの規範にしていると言われ、聚楽第が存在した同時代に描かれた唯一の屏風と言われる三井家の「聚楽第図屏風」でも同様に南から北西へ俯瞰する形で描かれています。この雁行する様も想像図に取り込んでみました。後、聚楽第及び飛雲閣の特性も含めています。


聚楽第本丸拡大図(3D京都)
聚楽第本丸主要部復元図(3D京都)


ここには、いろいろと御殿・書院名とか書き込んでいますが、その説明は後にして、文献の方についてまとめてみます。

文献上、比較考察するのが一番わかりやすいのが天守閣なのでまずそちらから入っていきますね。

で、『聚楽第に天守閣は存在しなかった!』の検証について、
なぜ、天守はなかった?、とくに最近そう断定される方も増えています。
その理由として幾つか上げると、

① 天守台とされる石垣の痕跡がない。発見されてない。
② 天守に関わる伝承、地名がない。聚楽天守が他に移築された記録がない。
③ 聚楽第図屏風には4~5層の天守が描かれているが、当時の文献にそれを書
   いたものがない。
④ 大阪城のように天守に登楼した記録がない。
⑤ 秀次の祐筆である駒井重勝の日記『駒井日記』に天守に相当する高層櫓の
   記述がない。
⑥ 当時のポルトガル使節に台所まで案内しているが城のシンボルである天守
      には案内されていない。


等があって、掻い摘んで言うならば、当時の文献に屏風絵に見るような3~5層の天守の記述が見当たらない。
ということに尽きます。
一方、吉田神道の9代当主・吉田兼見が記した『兼見卿記』の天正18年(1590)1月18日の記述のなかで、豊臣秀吉の側室の摩阿姫(前田利家の三女。後に加賀殿と呼ばれる)が聚楽天守に住んでいる記述があって、少なくとも二階以上の建物、楼閣風の天守があった可能性もある。
公家・山科言経の日記『言経卿記』では文禄元年(1592)11月29日に殿主へ行き、金など見物した、とあります。このときの殿主が重層の建物だったのか? また、天守と殿主の違いは?
これらからみると、なんらかの天守の存在があったと思いますが登楼、階段を上がった記述はないので、どれほどの階層と規模かはわかりません。
櫻井成廣氏は飛雲閣が天守だったとの説を言われています。はっきりとそういわれているのは同氏だけです。
普通にみるならば、飛雲閣の独自な複雑な構造が天守には向いてないのでは?。舟入と言って屋内に舟を入れる施設が天守に必要か? 強いていうならば楼閣を天守替わりにした・・・・。

では、飛雲閣は天守ではなかった。と完全に断定も出来ない面もあります。
たとえば、規模でいうと飛雲閣の高さは14m前後、一方、彦根城は16.3m。一階平面であれば、飛雲閣が28×18m、彦根が20×13mと飛雲閣の方が広い。この飛雲閣が10mを超える高石垣に聳えれば天守の風格はあったと思います。

ちなみに金沢城には辰巳櫓といって他の城にはない、唐破風と千鳥派風が横に並ぶという形をしていて、飛雲閣によく似ています。その絵図を載せますね。

金沢城辰巳櫓
金沢城辰巳櫓(よみがえる金沢城 2 石川県金沢城調査研究所編 より引用)

この辰巳櫓、最初に創建されたのは文禄元年(1592年)。聚楽第が完成したのが天正15年9月(1587年)。聚楽第が完成しておよそ5年後、ほぼ同時代にあたります。絵図で見る限り壁など黒漆塗?の下見板になっていて何となく豊臣期の城郭風を感じさせます。隅櫓と言っても天守閣が焼けた後は場所の標高が城内で一番高いということもあって、その後の金沢城のランドマークとして存在感を占めました。隅櫓といっても立地と意匠性(この場合飛雲閣モデル)によっては天守閣と同等、あるいはそれ以上の風格を出せる、ということがこの辰巳櫓から垣間見えます。

聚楽第が完成してまだ日も浅い5年後に建てられたということは、多分に聚楽第を意識し、そこには飛雲閣をモデルとして建てた可能性もまったく無いわけでもない。。
と、いうことは飛雲閣有り、且つ天守の風格、あるいはその替わりとなった楼閣風の櫓だったかも・・・ということです。

あぁ、混乱してきた・・・

一方、天守はあった!、ともうかがえる文献資料もあります。
以下は、日本建築学会論文報告書から内藤昌、大野耕嗣、中村利則の三氏で書かれている「聚楽第-武家地の建築」より、一部引用させて頂きます。

大坂夏の陣図屏風
大阪夏の陣図屏風

三井家蔵の「聚楽第図屏風」には天守は四重で描かれ、最上階には華頭窓と廻り縁高蘭を飾る望楼型天守となっています。黒田家旧蔵本の「大阪城天守と比べると最上階を除き外装が黒下見板張りになっている大阪城に比べ聚楽天守の方は白亜総塗籠の壁に変わっていてより耐火性と華麗さを強調しています。確認される限り最古の塗籠天守と思われる。
この新たな塗籠様式は、この後、文禄元年(1592)肥前・名護屋城に造営された天守の最上階から数えて三重目まで、妻と平の派風形状はもとより望楼型の様態すべてが聚楽天守と合致していています。
当時、名護屋城へ下向した公家・菊亭晴季の日記「菊亭家記録二」に「名護屋の御要害天守以下聚楽に劣ることなし」とあり、
同じく下向の常陸水戸城主の佐竹義宣家臣の手塚滝俊の書状によると「御城(名護屋城)の石垣なども京都にもまし申し候由、石をみな割てつきあげ候、てんしゆ(天守)なともじゆらく(聚楽)のにもまして申し候」とあって、聚楽第と名護屋城天守の様式的関連性を裏付ける参考となります。四重と五重の規模の差はあっても、この聚楽第天守は名護屋城天守の前身となった存在と言えます。


肥前名護屋城図屏風天守
肥前名護屋城図屏風

これらの文献をみますと「確かに天守はあった」と思えてきます。
当時の第三者的立場の人間が言っている訳ですからある程度信憑性はあると思います。
以上、「天守はなかった」
    「天守に代わる楼閣風三重隅櫓(飛雲閣)があった」
    「天守はあった」、の三っつの観点からそれぞれまとめてみました。

そしてさらにもまして頭が混乱してきました。「いったい、どっち?」。
ちなみに、三井家蔵の「聚楽第図屏風」について、「寛永洛中絵図」によって裏付けられる部分があって、その信憑性は高い、とのこと。そして同三井家蔵本の聚楽第の景観年代について、すくなくとも建築的には天正15年(1587年)9月(秀吉移徒)から同19年正月にかけての期間と思われます。

個人的な感想ですが、
あの建築道楽で派手好みの秀吉が京都の本城として聚楽第に天守を建てないことなど考えられないです。
信長の時代、文禄12年ごろ(1569年)に足利義昭の邸宅として建てられた城郭造りの二条城にはすでに三重の天守があがっていいました。また聚楽第の前身であった秀吉の京都の本拠地、二条第・妙顕寺城」にも天守がありました。
とにかく秀吉のいるところ皆天守が付いてまわっているんですよね。
それが聚楽第の場合、こうも、その究明が混迷するとは・・・・やはり僅か8年しか京都に存在しなかったから、ということに落ち着いてしまうんですかね。なんかつまらない 笑。

長々と天守のこと書きました。肝心の飛雲閣についてまだ書いてない・・・・すみません、今回は「飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう?「中編」としてまとめ、次回こそ後編で締めたいと思いますのでどうかよろしくです。





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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 前編

前回も申しましたが、あくまで「飛雲閣は聚楽第に存在した」、ということを前提に「事実」はわからないままですが、今回は自分なりに論点整理して飛雲閣の数奇な物語?に取り組んでみたいと思います。
何度も書きますが、飛雲閣が聚楽第からの移築か?いまだ事実は定まっていません。ただ西本願寺の寺伝を根拠とするものであり、これまでの修築によれば移築の痕跡はなかった・・・従って移築ではなく、最初から同本願寺の回遊式庭園である滴翠園とセットで元和3年(1617)の同寺火災前後に建てられた、とも言われています(本願寺関係者は特に)。建築史学会でもどちらかというと移築否定(聚楽第)の見解が多いです。ですが断言はできないレベルです。
世情、よく言われる「この建物は聚楽第からの移築、伏見城から移築」との伝承は、俗にいう「自分のところに箔をつけたい、自慢したい、格を上げたい」といった希望的伝承も多く、桃山から江戸時代初期にかけて立派な建物のことを指す形容詞として「聚楽・伏見から移築」、という使われ方をされた側面もあったと思います。諸説ありますが3Dから作った感想も交え整理してゆきますね。

まず、実際に飛雲閣のサイズがどれ程のものかといいますと、図で表しますね。

金閣&飛雲閣(真上)
同縮尺で並べた金閣と飛雲閣です。
みれば判りますが、建物は飛雲閣が大きい(江戸期に増築された茶室を除いても)。廊下で繋がっている風呂の「黄鶴台」も飛雲閣の一部に含まれます。黄鶴台及び渡り廊を含めた正面の長さはゆうに40mを越えます。
一方、池は圧倒的に金閣の鏡湖の方が大きい。
これで見ると、どうみても飛雲閣の方が池とのバランスが取れていません。池が小さすぎる! しかも同閣は舟入と言って直接屋内に小舟が入れる仕組みになっていて池での舟遊びを前提にした庭園楼閣です。当然、舟遊びですからそれなりの池の大きさが必要です。金閣との比較でみれば、金閣の池より大きくても不思議はありません。

この比較から想像できるのは、飛雲閣は上記・西本願寺の滴翠園とセットで最初から建てられたものではない、と思えてくるのです。どう思われます?

以上のことから『最初から西本願寺に建てられた』には疑問符が残ります。

他にも、本願寺の江戸時代図絵には飛雲閣のことを「御亭」と書かれていますが、厳密に言うと、亭とは元々、一階建ての東屋のことを指し、屋根が二重でも一階だけならあくまで亭です。一方、「閣」の方ですが、これは二階建て以上の楼閣のことを指し、二階に床が張られ実際に人が登楼できるものを言います。だから金閣、銀閣も同じく「閣」と呼んでいますよね。ですから絵図の御亭は本来なら御閣、または御楼閣と表記してもよいのですが亭のままです。
これは、ひょっとして元々滴翠園には確かに「御亭」は存在したが焼失し何らかの経緯で飛雲閣が移築された。そんな仮説も成り立つ訳です。また、亭であるならば、このサイズの池にも合います。元々、親鸞以降の本願寺系の寺では庭に東屋の「亭」を設ける
慣習はありました。

後、重要なのは現在の同閣の正面が北向きだということです。それと南面が全面・壁で引き戸、障子等がまったくないのです。これは普通の書院等にはほとんどないことで、これも大きな特徴です。
これらのことから、元々は、南向きに建てられたけど移築の際北向きに変更された、これが移築説の根拠の一つとなっています。確かに、回遊式庭園の中心となる本閣であるならば南向きが妥当だとは思います。しかし、当時、大きな屋敷においては書院が北向きになることはごく普通にありました。現代の南向き信仰ほどには南にこだわってはいなかったのです。ただ、仮に元は南向きに建てられたとしても相対する北側が全面・壁なのはこれまた不思議です。書院造は開放的ですからね。ひょっとして移築された現在の場所が境内の隅に位置し、境内外からあまり見られないよう鎧板壁に覆われてしまったかもです。

せっかくですから、飛雲閣と金閣の3D比較も載せて置きますね。

金閣&飛雲閣(正面)
正面から。


金閣&飛雲閣(側面)
側面から

『飛雲閣は聚楽第から移築された?』

この根拠は、本願寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)に豊臣秀吉の遺構だと記され、これが聚楽第からの移築遺構との説が長く現代まで流布されてきたものです。移築を示す根拠はそれ以外には何もありません。実証的な証拠もありません。そもそも、徳川幕府とは親しかった東本願寺に比べお西さんの方は秀吉との縁浅からずで幕府とは仲はよくありません。それなのに、幕府を刺激するような「聚楽第から移築」を寺の公の文書に記すのも得にはなりませんよね。また、箔をつけるとか、自慢するとか、そんな意図も天下の本願寺には意味ないことですからね。その点で言うとポロリ、本音の真実かもです。
建築史から見ると、飛雲閣は秀吉の天正時代頃よりも様式が新しく、その点で移築説を否定する意見も多くあります。しかし、二階・歌仙の間は古式を残し秀吉のころを彷彿とさせます。二階及び三階の摘星楼は移築の可能性あり、一階は多用されますから江戸期の改変あり、という解釈も有りです。

飛雲閣二階歌仙の間の格天井
二層歌仙の間の格天井 荒木経惟「飛雲閣ものがたり」本願寺出版社刊より引用。

飛雲閣三層摘星楼
三層摘星楼の内部 荒木経惟「飛雲閣ものがたり」本願寺出版社刊より引用。


『そもそも聚楽第には飛雲閣自体が存在しなかった。天守さえも存在しなかった?』


三井版聚楽第屏風
三井版聚楽第屏風からみた聚楽第の概要
(一、二扇の接合部と南二の丸や本丸西側、西の丸が描かれたと思われる六扇目が欠損している)


聚楽第を描いた「聚楽第行幸図屏風(堺)」、「聚楽第図屏風(三井)、「御所参内・聚楽第行幸図屏風」等にはいずれも天守は描かれていますが飛雲閣らしき建物は見あたりません。櫓等は二重、三重、三井の方には二重御殿(行幸御殿)も描かれているのにかかわらずです。西の丸が詳細に描かれている「瑞泉寺縁起」の西の丸には二層の楼閣が描かれています。これが飛雲閣かも?と思わせますが三層ではなく屋根も飛雲閣のような複雑さはないのでやはり違うかな、と思います。ここ西の丸の想定されている所は高台院堅町という町名が残り、ここには秀吉の妻・ねねが住んでいたと思われます。元々は本丸の北東に広い正政所の御殿があったようですが、淀君が鶴松を生んで以後ここは淀君の御殿に変わり、ねねは西の丸に移り、そして西の丸にいた秀次は北の丸に?という風に城内でもいろいろ御殿の主の移動があったらしいです。

瑞泉寺縁起
瑞泉寺縁起に描かれた聚楽第の西の丸、二層楼閣も見える(豊臣秀吉と京都、日本史研究会編・文理閣刊から転載)。

ここで聚楽第の規模、概要について改めて押さえておきたいと思います。正確ではありませんが、聚楽第の規模は本丸、西の丸、南二の丸、北の丸と堀を含めた主郭の南北が約700m、東西が500m。このうち本丸は堀内側で南北320m、東西220m、後、西の丸が堀内で南北80m、東西55mほど。目立つのは本丸を取り囲む堀が幅40mもあることです。

いろいろ資料に基づいて想像復元図を描いてみました。

聚楽第想像図(3D京都)
聚楽第想像図(3D京都)


ここには参考までにエリア外に同縮尺の金閣と飛雲閣及び池も載せてみました。たとえば、金閣だと池が西の丸を大きくはみ出ています。横に長い飛雲閣でもはみ出そうです。と、すると西の丸に飛雲閣が存在した可能性は低い、とか類推できます。

せっかくですから大阪城と二条城も同縮尺で比べてみますね。

まず、大阪城から、ここは本丸のみ。
大阪城本丸想像図
大阪城本丸想像図

見て驚くのは本丸の複雑な形状と巨大な掘とその広い幅です。これだと難攻不落と言われたことが真実味を帯びてきます。複雑な形状も上町台地と言われる大地上に築かれたゆえだとわかります。

一方の二条城も載せます。

二条城(寛永期)
寛永寺の二条城。

これで見ると二の丸を取り巻く堀の小ささというか幅の狭さです。これではすぐ落城してしまうでしょう。それでいて本丸を囲む堀は無用に広いですね。なんなんでしょう? もう誰も逆らえない盤石の幕府ということですかね。

では横に並べてみましょう。
聚楽第-二条城-大阪城図
左から聚楽第、二条城、大阪城の順。

これで見ると、各郭や堀の大小は当然ありますが目を引くのは、二条城の御殿と聚楽・大阪城の御殿との大小の差。徳川の二条城の御殿の方が一回り大きいです。


聚楽第の大広間の指図が伝えられていて、
聚楽第大広間間取り図(大熊喜邦著(豊公聚楽第の大広間)より転載
聚楽第大広間間取り図、大熊喜邦著(豊公聚楽第の大広間)より転載。

この指図に基づくと(京間)、大広間の母屋及び入側を含めて桁行十五間半(約29.6m)、梁行十間(19m)の約170坪。二条城の大広間が桁行十三間半(約25.7m)、梁行十五間(28.6m)の約222坪。聚楽第の方が約-25%ほど小さい。他の殿舎も同様の差異がみられる思います。従って上掲した各城郭の復元想像図においても聚楽・大阪城の御殿の方が細かく小さい感じになっています。

後、聚楽第の想像図を描くにあたっては、同聚楽第研究の先駆者ともいえる櫻井成廣氏の作成された「聚楽第内曲輪推定復元地図」を参考にさせて頂きました。

聚楽第復元想像図(櫻井成廣)


※ 長くなりそうなので今回は前編とします。次回、続きを書きますのでよろしく。 





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山陰あっての山陽、山陽あっての山陰、両方あっての日本の旅。 

知人が眠い眠いと言うので、「春眠暁を覚えず」と言ったら、「春じゃない、明日は6月だぞ」と返ってきた。そういえばそうだ、6月はマリッジブルーというし、春が過ぎたのに夏は直ぐは来ない。だから心も体調も不安定になるのかな?そんなとき、ふと思うのは梅雨という季節を直に認めることだ。雨が降れば降るほど、あの鮮やかなアジサイの花を想起せよ・・・と。

さて、飛雲閣の聚楽第バージョン・外観編を作って、ふと思ったのは、「なぜ、今まで3Dで作るのなら建物を旋回するだけでもいいのになぜ動画にしなかった」・・・・?、何となく動画編は建物の中をウォークスルーするとき、というふうに決めつけていたのが間違っていた。これからは外観の旋回動画でもいいじゃないかと、今は反省。

次回は内観編を作る予定ですが、その前に、あくまで飛雲閣が聚楽第に存在したと仮定した場合に、飛雲閣は一体聚楽第のどこに存在したのか? という素朴な疑問が湧き出てたまらず、先にそのことを自分なりに解明してから内観作りに取り掛かろう、と決めました。

ところがです。少ない資料のなかで存在する秀吉の御伽衆であった、大村由己の「聚楽行幸記」と豊臣秀次の家臣・駒井重勝の『駒井日記』との記述の違い、「聚楽第行幸図屏風」 ( 堺市博物館所蔵)、や「聚楽第図屏風」 三井記念美術館所蔵、「御所参内・聚楽第行幸図屏風」(上越市立総合博物館寄託)などの屏風絵の違い、その他日記との比較と違いなど、調べれば調べるほどわからず、まさに迷宮入りというかドツボにはまってしまっています。学者でないのだからあまりこだわらなくてもいいのでは?とは思うのですが、やはり気になり、わからないままでも論点整理だけはしておこう、と今、獅子奮闘?中です・・・・。

で、その間、なにもブログ更新しないとまた順位が下がるので、例によって短歌を幾つか披露。興味ない方にはご容赦を。ちなみに今、個人的に気になるのは女性宮家の問題、秋篠宮のご長女・眞子内親王様のご婚約のことなどですが、元々、時事問題は大好きなのでついそちらを書きたい衝動に駆られますが(多分、こちらの方が言い方はなんですが食いつきはいい)、他の方が多く書かれていますので断念・・・します。

では、短歌に入ります。

★ カーブミラー 割れて見えない 背景の 湖岸道に 近づいてくる音

たまに割れたカーブミラーを見かけます。行政の予算が追いつかないのかホッタラカシのもあります。このミラーもその一つ、
静かな湖岸道の緩やか下りとその先のカーブ、死角ともいえるそのカーブに、その割れたミラーがありました。見事に割れていて、ミラーが代わりに見てくれるはずの前後の背景が寸断されて見えません。すると何処からともなく乗用車の近づく音がします。私はどこに避けたらいいのだろう・・・?改めてミラーを見たらそこに音が映っていたのです・・・

★ 雨上がり アスファルトを這う 水蒸気 柔らかき土を 求めて彷徨い 

雨上がりの温度差のなかで水蒸気が白く靄のように路面に湧き出ていた。ただ靄と違うのは
路面を這うようにひろがってゆく様。アスファルトはあまりにも固すぎるのだ。だから行き場を失ったかのようにどんどん
水平にひろがってゆく。静寂な雰囲気のなかで「這う音」が伝わってくる・・・やがてアスファルトが土に変わった先、土のなかに消え、気が付くと晴れていた。アスファルトは空を映さないのだ。


★ 風なき日 羽ばたく音の 頭を掠め 燕が空を 切り取ってゆく

ツバメ


燕は羽ばたかない、少なくとも私の頭上には羽ばたく音は聞こえない。そこが燕の燕たる由縁だ。春になると戻ってくる。玄関先に幸運を運んでくる。床にフンが落ちても不思議とイヤにならない。なぜ、幸運を運んできてくれるのだろう・・・?
見上げると、燕が鮮やかに宙を切っている。思わず、膝をたたいた。そう、そうなのだ、燕たちは私たちの手の届かない空を
切り取って玄関先に届けてくれているのだ。
 

★ 桐箪笥 引き出しを閉めれば 他の開きて そっと閉める 母の遠き思い出
  

桐タンス

桐の箪笥、最近の家ではタンスがクローゼットに変わり見かけることも少なくなった。昔は嫁入り道具の大切な家具だった。
モグラたたきのように、こちら閉めればあちら開く、その気密性が高級品の証しだった。タンスのなかには綺麗な着物が畳められている。母の大切な思いがしまってある。


★ ボタンを押し 横断歩道を 渡る児の ただ押すだけで 笑うあの頃 
 

ボタン


箸が落ちただけでも笑う女生徒たち、言い古された表現だ。でも事実だ。そして哀感もこもっている。見透けた未来が待っているから。でも、児童たちの下校時間は違う。「ボタンを押さないと青にならない」信号。ドライバーたちは思わず「ちぇっ」っと損したような顔をしている。でも子供たちは「ボタン」を押せば大人たちが停まってくれるから大喜び。誰が先に押すか競争だ。
親や先生に叱られるのが子供の仕事。でも、ここだけは違う。「大人よ停まれ」である。






関連記事

秀吉の聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 「外観編」

一応、飛雲閣の外観3Dができたので3DCG図をアップしてみます。今回はCG図をメインにアルバム風に載せます。飛雲閣についての「聚楽第からの移築説」や「聚楽第の何処に存在したのか?」、「そもそも存在したのか?」などの考察については次回私見も含め書いてみたいと思っています。

まずは現在の飛雲閣の姿から、
現在の飛雲閣
現在の飛雲閣

聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正15年(1587年)9月に完成されました。した。天正16年4月14日には後陽成天皇の行幸を迎え(行幸は秀次のときを含めて二回あり)、また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われました。しかし、秀吉に子が生まれると後継であった秀次が謀反の廉で文禄(1595)7月に高野山で切腹。翌月には徹底的に破壊される憂き目にあいました。聚楽第がこの世に存在したのはわずか8年、とても儚いものだったことについては皆さんもよくご存じのことだと思います。

さて、今回作りました3Dの飛雲閣の外観。現在のものとは違い、「聚楽第に在った頃はどんな飛雲閣だったのだろう?」というモチーフをテーマに想像復元を試みてみました。ですから外観もけっこう違う面もあります。当然、自分の想像がかなり含まれていますが、参考にした資料、絵図屏風もあります。

豊臣秀吉の築造した聚楽第については、実際にこの世に存在した期間が少ないので資料そのものが少なく、いまだに「西本願寺飛雲閣は聚楽第からの移築? 伏見城経由? 本願寺が建てた」等々いろんな説が出ていて確定してません。自分的にも、その少ない資料を読んだり見たりすればするほど「飛雲閣が移築か?そうでないか、余計わからなくなってしまうというのが正直なところです。

でも、そうは言っても100%想像では夢がないので今回は、現存する幾つの屏風から「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」を参考に「聚楽第に在った頃」はどんな感じ? で描いてみた次第です。なお同屏風は青幻舎刊・狩野博幸著の「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」の内容に基づき写真・文章の一部を引用させていただきました。


秀吉聚楽第行幸屏風
秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風の一部

その「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」についてですが、平成20年に、上越市内の一般住宅から聚楽第の様子を描いたと思われる屏風が発見され、上越市立総合博物館が翌平成21年2月、同志社大学教授・狩野博幸氏に調査を依頼、結果、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた際の行列の様子を描いた作品であると確認されました。この新発見の屏風は、後陽成天皇が御所から西の聚楽第へ鳳輦(ほうれん)に乗り移動する様子、また随行する公家・大名、そしてその様を見ている町衆などの姿が活き活きと描かれているのが特徴で、聚楽第を描いた絵画は数例ありますが、このような当時の行幸の様子が描かれたものは、この秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風しか見つかっていません。

屏風の制作年代ですが、
描かれている町家や鳳輦の特徴から、聚楽第が存在した年代とは食い違いがあり、屏風は江戸時代前期、17世紀中ごろから後半にかけて制作された作品だと言われています。作者は当時の「町絵師」によるものではと推測されます。

ちなみに現在残る屏風のなかで聚楽第が存在した時期に描かれたものとしては唯一とされる「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)と比べますと、まず天守閣の形状が違います。三井屏風が望楼を載せた初期型に対し今回の秀吉行幸図屏風は望楼を残しながらも形は層塔型で壁は柱の出た真壁の漆喰塗、何となく秀吉よりも後の徳川二代目将軍・秀忠あたりを思わせる外観です。三井の方は二層の殿閣をはじめ様々な殿舎が描かれています。一方、行幸版の方は殿舎が少ないですね。両図共通に言えるのは飛雲閣らしき建物が見当たらないことです。人によっては飛雲閣自体が天守閣だった、との見解もありますが両屏風を見る限り天守には似ていませんね。大広間・対面所のような主要な殿舎群がちょうど二条城二の丸御殿のように南から北へ雁行するように描かれているのに比べ両図とも大きな池や築山があったとされる本丸西側の山里は雲に隠れ見えません。飛雲閣はここにあったのかもしれません。


三井版聚楽第屏風
「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)

この「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」については、実際の行幸時に描かれたものを複写され残された屏風ではないか?との推測もなされていますが、自分的には、徳川家康が幕府を開いて以降、豊太閤秀吉とその遺児・秀頼の権威が落ち消えていくなか、かつては華々しく聚楽第で行幸も行われた栄華の絶頂を屏風に残しておこう、という大阪方、秀頼方もしくはその縁を持つ人の意思があって描かれたのではないかと思います。ですから権力の象徴である天皇行幸を主題に描かれたものだと。

実際、「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」には、秀吉の御伽衆であった大村由己が著わした「『聚楽行幸記」の記述にある通り、行幸御殿の屋根には金龍、天守最上階の壁面、そして御殿の側面には鶴が描かれています。他の聚楽第屏風には描かれていない唯一のものです。当時、行幸時の御殿は行幸が終わると直ぐ破却され他に移築などされました。二条城の後水尾天皇の場合でも同様で仙洞御所等に移築されました。ですから、この龍と鶴の意匠も後陽成天皇の滞在された五日間だけの存在でした。その短い五日間がピンポイントで描かれているのですから、まさに聚楽第の栄華を描いた屏風だと言えます。

秀吉聚楽第行幸屏風天守拡大
聚楽第天守閣に描かれた鶴の壁画

今回の飛雲閣には、その鶴の壁画と黄金、黒漆、丹塗りを取り入れ表現してみました。
それでは、いろんな角度から見た聚楽第時代の飛雲閣?をアップします。まずは、正面北向き玄関から、

聚楽第の飛雲閣正面ズーム2


次に鶴の絵が描かれている二階歌仙の間など。実際の飛雲閣にはここに三十六歌仙の絵が描かれています。

聚楽第の飛雲閣正面の鶴絵
飛雲閣二階の鶴絵(聚楽第天守の鶴図を参考にしました)

後は続けさまにどんどん行きます。


聚楽第の飛雲閣舟入
飛雲閣舟入 舟でここから出入りしました。



聚楽第の飛雲閣二階斜めから
飛雲閣を二階斜めから


聚楽第の飛雲閣北東2から
南西から見る。赤っぽい壁は茶室。


聚楽第の飛雲閣北西から
南東から見る。


聚楽第の飛雲閣南から
飛雲閣は北向き玄関なので南が後ろにあたる。けっこ地味。というか後ろから見た写真ないので100%想像。


聚楽第の飛雲閣東側から
東から見る。


聚楽第の飛雲閣西から
西から見る。


聚楽第の飛雲閣真上から
真上から(汗)、飛雲閣って結構間取り多いんですよ。


聚楽第の飛雲閣と靄5-16
薄靄に包まれる飛雲閣。雰囲気出てますかね・・・

夜の聚楽第の飛雲閣5-16-1
闇夜の飛雲閣。二階鶴の絵が白く光っています。三階の摘星楼の唐窓も菱形文様が浮き立ちます。



夜の聚楽第の飛雲閣5-16-5
そして夜の飛雲閣の全景。


以上、拙作ながら「秀吉の聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 外観編」でした。

※3D制作には「国宝本願寺飛雲閣修理工事報告書」を参考にさせて頂きました。




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畳考

まずは3D制作現場から、
今、制作中の楼閣3Dですけど屋根が一揃いできました。一口に屋根と言っても入母屋や切妻、方形、唐破風、千鳥派風、むくり屋根とフタを開けたら15パターンもの屋根ができました。単体の楼閣だからと甘く考えていたのは間違いでした。この楼閣、かなり複雑な外観をしていて完成したら「一ひねり考えた記事名」にしようと思っています、なんか、「あぁ、あの楼閣かぁ」と多分わかってみえるかなぁ、と思ってますけどね 笑。何度も書いてますが日本建築は屋根が大事、ここが上手くできれば3Dもそれなりに納まる。ということで屋根が終わってふぅーと一息です。

「たまに短歌」の久しぶりの更新です。

★ 競い馬 祭りの後の 静けさは 白い砂地に ただ旋風の巻く


yabusame小
出典:砥鹿神社HPより

5月の連休、とある神社でお祭りがあり、毎年呼び物の流鏑馬神事がありました。装束に身を包んだ少年たちが五色の布引きを両手に持ち、馬場を疾走して行きました。疾風に揺らめき流れる五色の布引が鮮やかです。

そんな鮮やかな祭りなのに何でこんな旋風(つむじ)の歌になってしまった・・・。僕はこう答える、「華やぎの後だから、大勢の観衆が去ったあとだから、その余韻が心地よい。馬場の砂地には、まだその余熱が残っている」と。鳥居を潜ったらそこで余韻は立ち去り、喧噪な連休明けが待っている。

***********************************************************

「畳考」と言っても特に論文のようなものがあるわけではありません。
ただ、畳の立場が気になって駄文ですが書きたくなったのです。

「なぜ西洋の文化はかっこよく、日本の文化はダサいのか?」
そんな嘆きをたまに聞いたりする。そして、その中に畳もあったりする。考えてみれば西洋文化と言っても正確に言うと、ローマ帝国の古代地中海世界の公用語であったラテン語のその系譜を引く西洋諸国たち。隣国同士が切磋琢磨して文明・文化を磨いていく地域圏、それに対して日本文化は一国、多勢に無勢でちょっとアンフェアだ。絵画だったらフランス、音楽だったらドイツ、という風にそれぞれ得意分野で迫られたら日本もたいへん。

確かに身長、足の長さでは負ける。だから日本の文化はダサい? そんなことはない。日本の持つ独自な感性の文化は世界に誇っていいものだ。ただ、そうは思っても、私のような「日本大好き」人間でも「確かにダサい面あるよなぁ」と思うのも事実。その根拠は? 書き出したら収拾がつかなくなるから、今回は畳に絞って書く。

今でも田舎の家は南玄関に面して八畳二間の床の間付の座敷、さらに仏事・人寄せのため北西の八畳もあったりする。田の字型の家で家族がくつろぐ部屋は北東よりの一間だけ。一番、日当たりのよい南面の二間を客用に使う。しかも使うのはごくたま。お客様、親戚筋第一主義だ。それでは不合理ではないか? 無駄だろう? という最近の気風になって、座敷はフローリングのリビングに変わった。畳は申し訳程度に六畳一間があるかリビングにちょこんと畳スペースがあったりするだけ。どうせなら、畳なんかやめたら?と言いたくもなるけど、そこは日本人、捨てきれないのだ。来客が来たとき客間に使える。やっぱり畳のイグサの香は気持ちいい、とにかく何でも使える便利な多目的スペース、家に一か所はあると都合がいいということか。裏を返せば、畳の部屋は基本、畳だけなのであまり家具とか置かない。椅子も机もソファーもないから寝室にもなる。それは、ある意味で没個性的でもある。ちょうど風呂敷も同じ、決まった形はなく包む品に応じて変化する、使わないときは折りたためば軽くポケットに入ってしまう便利さ、融通加減。しかし、バックのような形の華やかさはないのでもっぱら洋装の現代ではあまり使わない。だが、一見、地味に、ダサく見える風呂敷も、その布地や結び目の凝り方次第で贈答品にもなる芸術性も持ち合わせる。いわば持つ人の感性、センスに頼るところがある。箸もそうだ、洋食ならフォークにナイフと用途分けによる多彩な食器が食卓を飾る。しかし、箸はそれ一つだけで何でも食べられる。便利この上ない。だが、洋食器のようなデコレーション的な飾る楽しみは少ない。しかし拘りのある粋人は形よりも螺鈿細工のような高度な細工美を箸に求めたりもする。風呂敷も箸も形という形はない。強いて言うならば素形だと思う。だから形よりも、よりシンプルで用途の多様性に応じて可変できる面を選択したのかもしれない。

畳もそのような存在だ。
実は畳には、相性のよい家具や置物、装飾品は少ない。和家具させ隅にちょこんと遠慮がちに置くだけ。畳の上には何も置かない。ただ人間だけがそこに座る。何もない真っ新な畳表が畳の真骨頂だ。だから、ここも洋室のような様々な机や椅子、飾り物でデコレーションする面白み、華やかさはない。従って、洋風の生活にすっかりハマった現代日本人にすれば畳の和室、座敷は飾りっ気のないダサいものに思ってしまう。和室には金属やプラスチック、皮系の物も似合わない。似合うのは木質、漆器、紙だ。いずれも植物系だ。絵はどこに飾る?床の間の掛け軸のみ?襖の絵は絵ではない? というか最近はどんどん無地な襖になっている。額縁に飾ってあるのが絵? 床の間は座敷には必須の室礼だ。でも座敷の様式美が完成されすぎていて山水画や書は掛け軸にしか飾れない。生け花も床の間。ただ、ひたすら畳だけが広がっているシンプルな空間。まるで禅問答の場のようだ。

今のような室内に全面、畳を敷き詰めるようになったのは室町時代。いわゆる書院造の発生だ。書院造はその後の現代に至るまで日本座敷の規範とされ様式が崩れることはなかった。実は日本人の正座の座り方もこの書院造とともに広がっていった。現代人にとって正座は苦痛だ。座敷だとどうしても正座する機会が増える。昔の人は痛くなかったのだろうか?いや昔だって痛かったと思う。ただ昔の畳は今よりも柔らかったようだ。畳の発達とともにもう一つ忘れてはいけないのが、人の所作、礼法だ。これも正座という一種、緊張状態のなかで生まれた作法。おそらく私たちが思っている以上に洗練された身のこなしだったようだ。不自由の美学。正座の痛みはこんな側面もある気がする。

一見、面白みに欠けるような畳の世界。
でも、それが一瞬、京都にテレポートしたとき、畳の世界から眺める和風庭園の静寂と心地よさ。この郷愁にも似た心の安らぎはどこからくるのだろう?畳がなかったら? やはり寂しいだろうなぁ・・・。日本人のフォーマルさとは何だろう?成人の日の女性の華やかな着物、七五三、結婚披露宴での和装のお色直し、最近増えている卒業式袴。結局は日本人のここ一番のフォーマルさとは和装なのかなと思い、その和装が一番似合うのもまた畳の世界なのだな、と改めて思う。






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たまに短歌

2017年5月8日更新

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