3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

Entries

看板が看板倒れになってしまった・・・

先日来、院政期の法勝寺金堂・八角九重塔を作り直したので
せっかくだから「3D京都」の看板もリニュアールする予定でしたが・・・

今日、出来上がった看板、
そう、タイトルの背景に使っている金堂・八角九重塔の京都市街をバックにした写真ですが、
作り直した方が絶対映えると思っていたのがとんだ誤算でした・・・・

文章で書いてもピンとこないと思いますので、
新旧の背景写真を載せ較べしますね。


まず初期の旧作品の方から
panorama50.jpg
(旧タイトルバック写真)


そして新しいのがこれ、
法勝寺背景2016-11-16
(新作品)

どうですか?
目で見て、
やっぱり旧の方がいいでしょう?
堂塔の朱の色が見ても鮮やか、という感じで、
バックの京都市街と綺麗に溶け込んでいます。

一方の今回の新版の方は朱が地味で目立たない・・・
せっかく作ったのに・・・ショック・・・

今回、見比べて思ったことですが、
必ずしもよく出来た3DCGが背景写真でも良いものになるとは言えないということ。
(自分の作品についてですが)

新作の方は、初期の旧作に比べれば作品単体では、それなりに技術も上達して
精緻な作品になったと自分では思ったのですが、
その精緻さが、CGを縮小しPNG形式にして背景写真に張り付けた場合、
かえってそれがアザとなってピンボケしたものになってしまいました。

色彩も単品ではよりリアル感のある朱色にしましたが、
それも背景写真ではメリハリのない地味なものになってしまった・・・

反省・・・・

時と場合によって、
たとえその作品が稚拙で色合いも原色系の絵具のようなものであっても、
その方が相方の作品とピタリと合うときがある。
要は相性ということなのですが。

それにしても、せっかく看板を新しいのに掛け替えようとアレコレいじっていたら、
もう、こんな時間になってしまった。

当分というか、これからも「3D京都」は旧看板でいくことにしました。

とんだ看板倒れで失礼しました。




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短歌ブログランキングにも参加することにしました。

みなさんご機嫌よう、「公家評論家」?の3D京都です 笑。
日頃より「3D京都」をご愛顧いただきありがとうございます。
読者の方々のたくさんのアクセスに励まされ何とかブログを続けてくることができました。

きょう、ブログを見られた方は、「あれ?テンプレートがちょっと変わった?」と思われた方もいると思います。
本日より人気ブログランキング「俳句・短歌」部門にも参加することにしました。


記事の最後に新たに「俳句・短歌」のランキングバナーも附けましたので
どうか「日本史部門」共々クリック応援もお願いします。
今後、ランキングの割振り率が下がり順位もさがる可能性がありますので。

「俳句・短歌」部門のブログを見ている方々にも自分のブログを少しでもPRして、
切磋琢磨し、見て頂きたいと思っています。

左サイドバーの冒頭には「京都とけい」のブログパーツが載っていましたが、
本日からは「たまに短歌」と題して、折に触れてできた短歌を少しづつ時々掲載してゆきます。
ある程度たまったら右サイドバーのカテゴリー欄「梅村京一朗短歌集」にまとめてゆきたいと思っております。

かれこれ、ブログを始めて、途中、休止等も含め4年間が経ちました。
京都に的を絞って3D作品を発表し、合わせてその解説文、自分なりの歴史観、論考も含め、
ある程度、読み物としても耐えれれるブログを目指してきました。
この「京都、3D、歴史」の三つのキーワードを一体にしたブログの形は今までなかったと思います(私の確認した範囲内)。
自分なりに新しきアプローチモデルとして続けてまいりました。

正直、日本の建築や歴史書籍を読み解いて3Dに仕上げていくのは労がかかります。
普通は、二人で役割分担的が多いですからね。

ですからこれからもいくら時間があっても終わることはないと思っています。

千年の都である京都は、私にとっても魅力に満ちた都です。
その都を訪れたとき如何に「失われた建築や文化財」の多いことか・・・

「見れないならなおさら見たい」というのが人情ってものですが、
私の場合、「だったら3Dで表現して仮想体験をしてみよう」というのが
ブログを始めた一つのきっかけです。

会社役員をしていたころ、いつか作ってみようと思いながら10年近く、京都関連の書籍を
集めてきました。

今は退職して比較的時間が取れるようになりました。
無謀とも思える「3D京都」のチャレンジですが、
なんとか頑張って続けていきたいと思っております。

3Dの集中力が落ちたときは、時に史話、時に短歌を載せていく考えです。
短歌に興味を持たない方には申し訳ありませんが、
一つの私の自己実現ですのでどうか「イヤ」といわず読んでいただければ幸いです。

個人的に、私は公家に興味があってブログでもいろいろと取り上げております。
今、放映されている「真田丸」のような戦国物、あるいは幕末物の時代劇が人気ありますが、
なぜか自分は公家の時代劇を見てみたいとずっと思っています。

でも、公家が主人公の時代劇は見たことがありません・・・・
なぜでしょう?

もっと、多角的な視点から歴史を取り上げてほしいです。

あの、こんなこと言ったら笑われますが、
知人が言うには、どちらかというと「公家顔」だそうです?
短歌も作るから、「ひょっとして前世はお公家さん?」などと
空想をたくましくしてると、いつも家族からは笑われます。
幕末の大和絵絵師の冷泉 為恭も公家さんに憧れて
ペンネームまで「冷泉」と名乗っていましたが、
その「冷泉」の名が仇となって幕末の尊王攘夷派からあらぬ疑いを受け殺されてしまいました。

自分もそうならないよう程ほどにしておかないと??

ということでこれからもよろしくお付き合いいただきたく存じあげそうろう。




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梅村京一朗短歌集 気泡の夢

もしこの御方がいなかったら「万葉集」は生まれていなかったかもしれない・・・
その御方とは、天武天皇、壬申の乱で大友皇子を破り帝位についた方です。
また、古事記、伊勢神宮もなかったかもしれない、と言われています。

現代につながる日本の骨格、国柄を作られた方です。
そんな偉大なる天皇の歌が万葉集にも幾つか載っています。

そのなかで私が好きな長歌(五、七、五、七を繰り返し最後に七、七で終わる和歌)を一つ、

み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間ま無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと その雨の 間まなきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来こし その山道を

意訳は、 
吉野の耳我の嶺みねに、絶え間もなく雪は降っていた。休む間もなく雨は降っていた。
その雪が絶え間もないように、その雨が休む間もないように、曲がり角ごとに物思いをしながら来たのだ、その山道を。

帝がこの長歌を詠まれたころ、
皇位を巡って自身は辞退し吉野の山中に難を逃れ籠っていたときの歌です。
心身ともに疲れ切った心境を詠まれているのだろうと思います。

しかし、この長歌の調べからは悲嘆さはあまり感じない。
五、七調で繰り返される吉野の山の雪重ねは、
自然と人との関わりの永遠性を感じさせる。
帝もそう思われたかもしれない。

帝は、各地から身分の差なく歌、舞、笛などが得意な男女を集めて、
今でいう「のど自慢大会」みたいな芸能大会を開くのが好きでした。
上手な者には褒賞を与え、大会が終わったあとも皆で夜を徹して酒を飲み
歌を歌ったといいます。

その歌垣があって万葉集が出来上がっていったのですね。

往古の大和の長歌を聞いてみたいです。

********** 自作短歌に入ります ***********

★ 焦らずに やり直してと 思いつつ 口には出せない ATMの後待ち  

ATMで順番待ちをすることはよくあります。
たまたまその夕方、通帳記入すためATMに寄ったところ、
先客の若い女性が振り込みに手こずっていました。
最初、失敗し二回目もたいへんそう、
「焦らずに、やり直せばいいよ」と内心思いながら待っていると、
どうやら上手くいったのか、そそくさと立ち退きました。
記入が終わって後ろを振り返ると、
なんと隅に彼女が立っていました!
なんだ失敗したのか・・・・

後列に並ぶ人たちの迷惑になると思い退いたのでしょうね。
私はちょっと後悔しました。
なぜ一言「大丈夫、後ろは気にしないで」と言えなかったのだろう・・・と。

彼女はきっといつも損をしているのだろう・・・
気遣いばっかするから。
気の小さな彼女の背を押してくれる彼氏がいるといいなぁ・・・と思いましたね。

そして、彼女を通して自らの小心さを実感してしまったのです。(2016-10-19)


★ 優しさは 衝動的なもの エレベーターの ブザーに思わず 降りるあなたが

エレベータボタン

エレベーターでのこと。ちょっと混んでいたので人が入ってきたらブザーが鳴った。
その場合、後から入った人が降りると思うけど、
今回は違った。先に乗っていた男性がふぃっと降りてしまったのです。
エレベーターは閉じ上階へと上がりました。

その男性はネクタイも少し疲れた感じで定年間近い、何か出世とは縁遠い雰囲気の人でした。
でもドアが閉まるときの彼の表情を一瞬見たとき彼の柔和な目と合いました。
誰かが降りないと動かないエレーベーター。
彼の優しさは条件反射でした。考えるよりも体が先に動いていたのです。

彼の人生、職場がどんなものだったかは知らない。
けれども、その一瞬の優しさは頑張って生きてきた結果なのだと、
私にはそう思われて敬服してやまないのです。(2016/10/20)


★ パスワード スペルを間違え そのままに 君の名を使う いまさら言えず


最近はやたらネット関連のパスワードが多くて今度は何にしようかと迷うとき、
思い切りのいい人は目を閉じて打ったキーがパスワード。
私にはそこまでの蛮勇?はない。
だから、こっそりと君の下の名をパスの一部に使わさせてもらう。
だが、そんなときに限ってスペルを間違えてしまう・・・
気の置けない友だから「名を借りたよ」といえば彼は笑うだけだが、
さすがに「スペルを間違えたからパスワードの精度が上がったよ」、とは言えない。
そんなヘマな男の歌です。(2016/10/16)



★ 窓格子 夜風に吹かれて 寂しかろ トイレに寄れば カタカタと鳴り 


格子窓1

感傷的といえばそれまでですが、
アルミサッシはどこか鉄よりも弱々しい感じがして夜風に吹かれたら
風邪をひくのではないかと・・・実は自分が寂しいんですけどね。(2016/10/16)


★ 紙の上 コップを置けば ふんわりと 気泡の夢 朝に飲みほして


tomatoo.jpg


もし、ホテルのラウンジのコースターに置かれたコップだったら
そんなことは起こらないだろうと思える朝だった。

悪い癖でいつも新聞を広げながらトマトジュースを飲む。
直そうと思うのだけど長年の悪習はなかなか断ち切れないもの。

で、いつものごとく、紙の上(新聞紙と書くと詩的でない・・・)にコップを置いたら、
その朝に限ってとても柔らかい感触がしました。ふんわりと微かに浮かんだ感じ。
まさか紙の上のリニアコップ?、な、ことはない。
いつもなら「また、新聞紙の上においてすみません」と恐縮してるはず。

けれど、「紙とはこんなにも物を柔らかく包み込むものなのか」と
なぜかその朝はそう思えてなりませんでした。
そしてコップの上には無数の気泡が浮かんでいて、
気泡のなかには無数の夢の原子が詰まっている・・・

寝ぼけている?
でも、いい。
私は思う存分、朝のトマトジュースを飲みほしました。(2016/10/20)


★ シリアルの チャックをしっかり 締めすぎて なかなか開かない 不機嫌な朝


今度は不機嫌な朝、
不器用で短気で幼い自分。やっぱりなぁ・・・と思う朝。(2016/10/13)


★ 幸せの 黄色い蝶が 一つがい 空に舞っている 澄んだ秋の日の

黄蝶

そのまんま、黄色い蝶が舞っていた。
調べたけど黄色い蝶はいくつもの種類があってどの種族かわからない。
でも、ハンカチもいいけど蝶の方がもっといい。
なぜなら生きているんだから!
澄んだ秋の青空に、「幸せ」など関係なく蝶は飛んでいる。
だから私は見ていて飽きないのです。(2016/10/15)


★ 起重機が 軽く見える 丘の上の ほどよき遠さの 安らぎを得る


遠近法のマジック。
それは何も絵画の世界だけではない。
近くもなく遠くもなく、
その中間に一つのベンチが置いてある気がする。

そこに座ると、重いものは軽く、軽いものはさらに軽く、
そして心の比重も軽くしてくれる、そんな程よい安らぎが
ベンチには置いてある・・・(2016/10/5)


★ サボテンの 花が咲いたよ 廃業の 店先のドアの 重石にされても

サボテンの花

咲いたよ、真っ赤なサボテンの花が。
店がやめても、主が去っても、外に吹き曝しにされてもそれでも咲く。
ちゃんと私は見ているよ。(2016/10/6)


★ 半袖を 夏が通り抜け グランドを 走る少年は 汗を拭わず

Tシャツ

半袖のTシャツの袖の先、肌に鳥肌が立つ朝が来るようになったら夏はもう過ぎ去っている。
グランドをひたむきに走る少年の汗は、もう滝のように流れる熱い夏のものではない。
額にうっすらと玉の汗をかくだけだ。
それでも少年に汗をかかない季節はない。
だったら冬はどんな汗をかく?
雪の結晶形??
もうすぐ12月ですね。(2016/10/12)


★ 四つ入りの 和菓子を探す 拘りて 家族で一つの 箱を囲んで

四つ入り和菓子

いつからかスーパーや店に寄ったとき、四個入りの和菓子を買って家に帰るようになった。
別に何個でもいいのですが、家で家族四人、一人に一つ同じ菓子箱から出して食べるのが
一つの楽しみになっています。
きっかけは、やはり御婆さん(母)。
お年寄りの食は細い。一つ食べれば十分。
そしてあっさりした和菓子が好きです。
喜ぶ顔を見ると、
今度はどんな和菓子を買おうかと思案するのです。(2016/9/29)


★ あぜ道の 草に隠れて 見えぬ先 耕作放棄地の 野は広がりて


耕作放棄地

最近の一つの目標は「歌会始」の短歌に入選すること。
今年はお題が「野」で、とにかく一首のなかに「野」が一つでも含まれればOK。
だから。今年は「野、の、ノ、NO」と首をひねる日があったりしましたけど、
意識すればするほど歌ができない寡作な自分なのでなかなか出来ない・・・・

で、やっとこさ、一つできた。ちょっとシリアスな一首で年の初めの「歌会始」には
ふさわしくなと思いましたけど、それでも今の時代の一つの断面を表現していると思い
応募することにしました。
ところが締め切りは9月30日。
もう過ぎていた・・・
ということで幻の「歌会始」応募作品です 笑(2016/10/4)


★ 蜘蛛の巣の 水を弾きて 銀になる そこに映り込む 一片の空


実は空というよりも、その銀の水玉に映る自分を見ていた気がする。
そんな小さな表面に映るわけないけど、心象風景として見えたのかもしれない。
蜘蛛の巣も時に水銀を流したような美しいときがある。
でも水銀は毒ですよね。
やっぱり蜘蛛の巣には一片の空が映っていて、それを見ている
自分がいたのでしょう。(2016/10/21)


★ 落ち込んで ポケットに手を 突っ込めば 割引券のありて その店に行く

デニムポケット小


こんなときは、最初は苦笑い。そして、しばらく経つと今度はオカシ笑い。
で、最後は店を出て大笑い。(2016/23)


★ リビングの 家族が見える 夜更けても カーテンで隠さない 光る家のあり


彼は物怖じしない。夜になってもリビングのカーテンは開けたまま。
しかも家の周りは遮るものはない。
丸見えだ。お嬢ちゃんが一生懸命ピアノを弾いている。
リビングにはいろんな物が見えるし散らかっているのもそのまま丸見え。
まるで、彼の家だけライトを浴びた小劇場のようだ。

誰が見ていうよが構わない。開放的といえばあまりにも開放的。
私には到底真似できないしやらない。

彼の家はまさに蛍の家だ。(2016/11/2)


★ 作り笑い 君は営業職 知合いて 買わなくても今は 頬の緩む仲 
 

どんな出会いでも最初は作り笑いの一つもあると思う。
営業職ならなおさら。
でも一流の営業職は「どちらが客がわからない」ほど、客の
方があれこれ心配したり世話を焼いてくれる。
遠い親戚より近くの友です。
「買ってよ」と言わなくても、もう毎月、定期便が走っている。
そして気が付いたら「おお、お互いに客じゃないか」と言い合う。

一つ言えることは、会社の同僚よりも愚痴が言えるからかもしれない。
(2016/11/5)


★ 椋鳥は 悲しからずや 嫌われて 夜の並木に 咆哮する


都市の並木道にはよく椋鳥が群れています。
夜はうるさく糞もいっぱい落としている。
もう迷惑以外のなにものでもない。
カラスだって山に帰る?のに。
並木沿いの薬局に寄ったときも
椋鳥の話になって市側でも対策に困っていると言う。

そんな椋鳥でもなんか一つは良いこともあるだろう?
「あったら教えてください、短歌に作りたいから」と店主に聞いたら、
怪訝な顔をしていた。
やっぱりないのかな・・・。(2016/10/15)





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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(二)

少し前、ビデオリサーチというところから突然電話がありアンケート調査に協力してください、とのお願いがありました。
あぁ、あのテレビ視聴率の会社ね。多少、好奇心もあって「あぁ、いいですよ」と承諾しましたが・・・

さっそく調査資料が届き、見たらその大判の分厚いデカい封筒にビックリ!
一瞬、後ずさりし、とりえあず後でまた中身見ようと思っていたら、
電話がけたたましく鳴り催促のお願い、また数日たって督促。まるで最後通牒のよう。
さすがに重い腰をあげようと資料を出したら、もう、ものすごい分量の質問項目。
国勢調査の十倍、いや二十倍はあるかも、
とにかく150~200項目前後あったかな?質問の数。

もう断ろうかと思いましたけど、
封筒のなかには図書券が数枚・・・・

もう断る訳にもいかないと、やっとこさで質問項目に答えてゆきました。
かかった時間・・・・半日・・・・

こんな膨大なアンケートはもう二度と御免だ!
と思いましたね。
時給1000円として半日かかったから計4000円の手間賃になる計算だけど、
図書券の額は・・・・

まぁ、お金のことは冗談ですが、
みなさんも、ある日、電話があるかもしれませんよ~~。

この膨大な調査資料はある意味ビッグデータでもあり、
番組の視聴率だけでなくいろんな参考データに使えると思いました。
どう活かされるかは私にはわかりませんけどね・・・。

さて余談が過ぎました。

初回の、その(一)では、新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所について、その場所や
まったく新規の新造ではなく、既存の大きな宿坊(か、それに似たもの)を利用して、敷地の拡張や
一部増築で対処したのではないかと書きました。

今回もその線で書きますが、

幾つか気になったことがあったので、
当時の地図を再度確認してみました。

京都市及び京都市史編纂所が昭和49年刊行した「京都の歴史 全十巻 第七巻 維新の激動」
の巻末に添付してある慶応四年時の幕末京都の詳細な地図です。

刊行は昭和49年と古いですが京都市が総力を挙げ編纂した通史ですので
綿密な資料に基づいた事跡、町割りがかなり正確に描かれています。
サイズも縦65センチ、横60センチもある大判の地図です。

参考までに地図の写真をアップします。
大きな地図ですので横向き左が北にあたります。机の上から撮りました。落ちなくて良かった 笑。

幕末慶応四年京都地図(大判)


ここに当時の朝廷・公家を始め、社寺、幕府機関、諸藩藩邸、町屋、そして当時の
道路や水路の位置、郊外の村や田畑の有様などが色分けして表示されており
幕末の様相が一覧できる貴重な地図です。

地図を縦にもどしてもう少し解りやすく洛中を中心再度アップ。
幕末慶応四年京都地図_新選組不動堂村屯所地図
幕末慶応四年京都地図


紫色が朝廷、薄紫が公家屋敷、黄色が藩邸等武家地、薄緑が寺、黄緑が神社、
ピンクが市街・町屋、薄いグレーが新政府、無色が郊外・田畑等。

なお新政府には二条城や京都守護職屋敷などの接収された旧幕府機関も含まれます。
郊外は別としても市中のなかでも相国寺はもちろのこと、西本願寺の北隣にある本圀寺って
また広い寺域ですね両本願寺よりも広い!
今は山科区に移転して当時の面影はありませんが、
江戸時代の京都における日蓮門徒の勢いを感じますね。

地図に関することですが、厳密にいうと慶応四年(1872年)9月7日までは慶応、翌日の8日から明治に改元されました。
ですから上記地図は幕末と明治が重なる訳ですね。

で、肝心の新選組の不動堂村屯所の場所というよりも敷地はどこにあり
広さはどれ程あったのか? ですけど、

地図の屯所の周辺図を載せます。
新選組不動堂村屯所推定敷地図


その(一)で「リーガロイヤルホテル京都」とその一隅に屯所を示す碑と説明板の位置を示しましたが、
リーガロイヤルホテル京都前の堀川通の向い側、角が塩小路通で交わる位置から南側一帯が
不動堂村屯所の推定敷地図です。
ピンクで囲った所が屯所の敷地ではと推測します。今はアパホテル等が建っていますね。
堀川通も幕末に比べかなり拡張しています。

その(一)でもふれた西本願寺の侍臣だった西村兼文によれば、
屯所は一町四方、約3000坪あったと、新撰組始未記に書いていますが、
京都市編の上記地図の縮尺でみると、どうみても3000坪もあったようにはみえません。
三方を道路に囲まれ、北側・塩小路側の東西間口は広くても60m。
堀川通の南北は長くても100m。坪数にすると広く見積もっても2000坪ほど。

新選組が大嫌いだった西村兼文がなぜ屯所のことを「大名屋敷のよう」と大げさに誉めるようなことを書いたのか?
ちょっと疑問ですが、
考えてみたら本願寺(興正寺)が用意した屋敷ですから、
「どうだ!立派な屋敷だろう。感謝しろよ」と言いたかったのかも。

そして屯所の敷地ですが、
塩小路及び堀川通の道沿いには民家が並んでいます。そしてその内側は空き地となっています。
そこには屯所らしき大きな建物はなく並ぶ民家も宿坊だとしても小さいし奥行きもない。

地図でみる限りは屯所の痕跡はありません。
しかしここにあったのは事実です。
しかも隊士150名(脱走した隊士も多かった)を収容できるほどの施設が・・・・・?

一つ考えられるのは新選組が慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで敗れた後、不動堂村屯所に戻ることはなく、
そのまま幕臣として江戸に赴いて同年1月時点では空き家だったこと。
本願寺側はその空き屋敷を同年後半には壊し整地して分譲もしくは賃貸した可能性もあります。
ちなみに明治に入って同跡地の一部668坪を安寧小学校に売却したとあります。

改めて書きますが隊士150名を収容するには最低限でも1800~2000坪の土地が必要だということです。
これは江戸期の最大規模の宿坊が宿泊定員100名で1500~2000坪の土地を必要としていたからです。

この長い奥行きは客室棟を多く必要とした宿坊の立地に向いており、
また屯所には同時に30人も入浴できる大きな風呂屋もあったといい、
この有様は、まさに大勢の参拝客のために必要だった宿坊そのものであり、
やはり当時、元々ここに規模の大きい宿坊があって、
そこを屯所用に土地の拡張(南側)」と増改築を行ったと考えるのが
妥当だと考えます。

(ひょっとして屯所の敷地は1000坪ほどで正庁である主要建物が集まり、一部隊士は周辺の町屋に分散して起居
していたかもしれません)

その宿坊についてですが、資料もなく当然間取りや建物の配置などわかりませが、
それでは復元しようもないので、

西村兼文、池田七三郎が残した記録・口述に似た間取りで、且つ、
100名以上は収容できる大規模な宿坊を探しました。

手元には宿坊の指図などほとんどないのですが、
そのなかで唯一、条件を満たす宿坊を発見しました!

あの、おかげ参りで有名な伊勢の「御師(おんし)」の宿坊・御師邸です。
そのなかでも最も規模の大きかった「三日市大夫次郎邸」です。

御師三日市大夫次郎邸指図2
御師三日市大夫次郎邸の指図。

そして外観を描いた絵図。
御師三日市大夫次郎邸指図

御師とは、
人びとの様々な願いを受けて神前で祈祷を行う神官のことですが、
古来より伊勢神宮では一般人の供物を捧げ祈願することは禁じられていたので、
御師が代わりになって祈祷しました。
そして、参拝客の祈祷と宿泊を御師邸で行うようになりました。
江戸時代は神仏習合でしたから宿坊も御師邸もほぼ同義語でした。
ですから同じような形態・建築であり、違いは神前と仏前の祈祷ぐらいかな。

御師の門
かつての御師の門。立派ですね。三日市大夫次郎邸の門ではありません。


御師は戦国時代でも織田信長や秀吉、家康などの大名を檀家に持ち、
時には武運長久の祈祷だけでなく、大名のために兵糧米を調達したり、負け戦の時には
かくまったりと大きな力を持っていました。

そして江戸時代に入ると伊勢信仰はさらに高まり、
庶民が競って「おかげ参り」をしたのは周智のごとくです。

年間を通して何十万という参拝客が来ましたから、
盛時、伊勢には800軒もの御師邸があったそうです。

そして、そのなかでも最大規模の代表的な御師邸が上述しました「御師三日市大夫次郎邸」です。

御師三日市大夫次郎邸古写真
三日市大夫次郎邸の古写真。昭和13年ごろ。大島順一氏蔵


「御師」については、
今回、㈱大林組で発行している「季刊 大林 №43 特集御師」から
一部、挿入図と文章を引用させていただきました。

御師


その「特集 御師」に宿坊指図・間取りを解りやすくまとめた概略屋敷図がありますので載せます。

御師三日市大夫次郎邸

御師三日市大夫次郎邸の概要図。右側の南が正門です。

この図で見ますと、
右側の正門を入ってまっすぐに、途中、内門をくぐって玄関に上がると、そこには大きな浴室があります。
参拝客のための汚れを落とす場でしたでしょうね。ちょうど、不動堂村屯所の大風呂を連想します。
また大浴場の続きにはこれも大きな台所があります。
100人を超える宿泊客にはこれでも手狭だったかもしれません。

そして、そこから広い中廊下を進むとちょうど奥の真ん中に広間があります。
左右にはやはり廊下を隔てて幾つもの客室棟があります。
広間の上段は神楽殿でここで祈祷が行われました。
参拝客はこの広間で頭を下げ祈祷を受けていたのでしょうね。
食事などもこの大広間にまとめて用意されたでしょう。

本願寺の宿坊の場合なら、
神楽殿に変わって本尊を祀る内陣、広間が外陣となっていたでしょう。

江戸時代、武家・公家・大名などの屋敷は正門に近い側が「表」、
奥が「奥向き」、いわゆる奥方・家族の住まいになってました。

しかし、宿坊の場合、参拝客が主役で屋敷の表から奥向きまでみな参拝向けの間取りでした。

では御師の家族はというと、図中の台所の隣、塀に囲まれた中にひっそりと暮らしていました。

同三日市大夫次郎邸は間口55m、奥行き130m、総面積1800坪、建物の総床面積は800坪に及びます。
この奥に細長い広い屋敷の客室の畳数合計は288.5畳。
宿泊客一人当たり三畳として計算すると収容定員は100名ほどになります。
もっと多いのでは?と思われるかもしれませんが、
当時は平屋建ての客室でしたからね。

どうでしょう?

この概要図を見て、

何となく上述した不動堂村屯所の間取り、配置に似てませんか?

この御師邸に、表にあたる使者の間や控えの間、対面所、客人の寝所など、
そして警備のための物見、収容しきれない隊士のための長屋、
近藤・土方の部屋はとりあえず宿坊の主の部屋を使う。
後、厩や重剣道場などを移築か増築すれば、
一応、新選組の本営・屯所としての対面は保てたのではないでしょうか?

そして、不動堂村屯所の敷地も間口が60mだとして、
後、南側奥に土地を拡張すれば2000坪ほどにはなり、
三日市大夫次郎邸がすっぽり収まる計算になる。


つまり屯所は、三日市大夫次郎邸と敷地形状、規模、間取、建物の配置等
よく似ていて、
「不動堂村屯所もきっと、このような形をした屋敷だったのだろう」と、

私なりに推測するのですが、
ほぼ9割方、自分の都合のいいように解釈してますので、そのへんは差し引いて下さい 笑


それでは、遅くなりました。
「新選組の幻の本営・不動堂村屯所」の復元想像図をアップします。
(クリックすると拡大します)

新選組不動堂村屯所復元想像図

いかがでしょうか?
聞き書き、伝聞を元に作ったらこんな感じになりました。
これを元に3D再現してみようと思っています。

正確な屯所の復元はタイムマシーンでもなければ未来永劫できません。
でも、この試みは一つの夢の実現と思っているのです。




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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(一)

新選組といえば知らぬ人はいないほど、
歴史上の人物(集団)のなかでも大人気を誇っています。

なぜに好きかと言えば、

一歩間違えれば単なる人殺し集団、強請タカリの愚連隊になるところを、
幕末の時世、幕府の汚れ仕事を一身に受け、諸藩が官軍に靡くなか
最後まで幕府に殉じた姿。

また、近藤勇や土方歳三、沖田総司、斎藤一など魅力的な登場人物たち、
それに山南敬助の悲恋など隊士たちの人情話、
はたまた、池田屋事件の凄惨を極めた捕り物など血肉沸き立つ戦い。
極め付けは、幕臣最後の抵抗・五稜郭の戦いで散った土方歳三。
彼は自分に附いてきた少年隊士に託し、遺品と写真を実家に残しています。
そのときの貴重な写真が「クールビューティー」かと思うほどカッコいい。
これで女性ファンも一気に倍増。

土方歳三

もうお膳立てはすべて揃っている。
成るべくしてなった歴史のヒーローたちだったと思います。

人気にも程があるというか、盛時200名近くいた隊士の名が平隊士も含めみ~んな歴史雑誌等に
記載されていますが、そんなこと他に聞いたことがありません。(赤穂浪士もそうだけど人数が違う)
実はその隊士名簿には「脱走」とか意外に多く、
中には「鳥羽伏見の戦いの前に脱走」という隊士もいて、
いわゆ新選組の「恥」以外のなにものでもない。

維新から150年も経っても、なお名簿に載り、そう書かれるなんて可哀想・・・とも思いますね。
本人だって「あぁ助かった、御一新後は家族でも持ってひっそりと暮らそう」と、
ぐらい思っていたでしょうし・・・
子孫の方からしても「ご先祖様、なんでお逃げになったんですか」とボヤきたくなるかも。
あぁっ!、脱走したから子孫の方も存在してるんですよね。うぅ・・・・ん、自己撞着・・・。

あの、これは余談ですが、
明治に入って元徳島藩主の蜂須賀候がたまたま宮中に参内したおり、
応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを一本失敬したところ、
ちょうどそこに来られた明治天皇が気づかれ「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに言われたそう。
蜂須賀といえば先祖の小六は山賊だったともいわれてますからね。

後、これは学習院でのエピソード、
徳川家の令嬢が授業中、担任の先生が徳川家康のことを「狸オヤジ」と何度もいったことから、
「おじいさまは狸なんかじゃありません!」と思わず号泣したそうな。

そんな話聞くと、やっぱ死ぬときは子孫に迷惑かけないようにしないとな、と思ったりします 笑。

まぁ、いろいろありますけど、
とにかく、
今も大人気の新選組にあやかって、
「3D京都」も何か新選組の記事を一発!
と密かにねらってるのですが、

そこは人気の新選組。
今まで学者・研究家、民間の諸先輩・先人たちによって
もう書くネタがないと思うほど語りつくされています。

つまり「3D京都」には付け入る隙はないのです・・・。

でも何かないかと思案するうち、
そう、そうです!
新選組の幻の屯所・不動堂村屯所があるじゃないか!
場所も特定できないほど資料がない不動堂村屯所。

それに対してよく知られている壬生村浪士屯所(八木邸、前川邸)、
と西本願寺屯所。
本徳寺本堂
姫路の本徳寺本堂、新選組が西本願寺の北集会所を屯所としていたころの遺構で移築されたもの。


でもこの二か所はあくまで居候、仮住まいの屯所でした。

それに対して不動堂村屯所は最盛期の自前の最初で最後の屯所でした。

指図もなく、ただ「こんな建物・部屋があった」という当時の西本願寺の寺侍の記録や
生き残り隊士の後日談だけを根拠に、
そして当時の本願寺の施設や藩邸、宿坊、幕府施設、古写真など参考に、
無謀にも屯所の3D復元にチャレンジしようと思ってます。

ただし、確実なる資料はないので、
あくまで3D京都の「私的想像の産物」とみなしてください。

なお、引用資料としては、
同屯所の資料は少なく、
もう10年以上前のものになりますが、

2002年2月号の歴史読本。
歴史読本表紙

この中で、万代修氏の論説「幻の新撰組屯所を追う」。

同じくこれも10年ほど前の山村竜也氏の「幕末・新選組雑学辞典」を
参考・引用させて頂いております。

まず、その不動堂村屯所が存在した場所ですけど、
諸説ありますが、
現在、下京区東堀川通り塩小路下ル松明町にある
「リーガロイヤルホテル京都」の一隅に屯所を示す碑と説明板が設置してあって、
この辺り、正確には道を隔てた反対側に存在したようです。

新選組・不動堂村屯所跡地図
不動堂村屯所跡をしめす地図です。


ついでに、リーガロイヤルホテルも、
リーガロイヤルホテル京都


その同ホテル前の隅に碑があります。
これがそう。
リーガロイヤルホテル京都前の屯所碑2


気を付けないと見落としそうな場所ですね。
説明板を拡大すると、

新選組・不動堂村屯所跡説明板

こんな感じで、
西本願寺から不動堂村屯所へ移った経緯や同不動堂村屯所の大雑把な建物配置が記載されています。

この屯所の建物については、
当時、西本願寺の侍臣だった西村兼文が記述した「新撰組始未記、壬生浪士始末記とも」中で、
「一町四方の広大な敷地に大名並みの絢燗豪華な屋敷を新築した」と記している文中の一部で、
指図等の間取り・建物配置図はなく、「こんな建物があった」というだけ。

その各建物ですが、
表門、高塀、玄関、長屋、使者ノ問、及ビ長廊下、諸子の部屋々、近藤・土方等ノ幹部の居間、客舎、厩、物見、
仲間、小者ノ部屋二至ル迄、勝手好ク美麗ヲ尽シ落成ス」とあります。

他の屯所の記述については、
昭和まで生きた新選組最後の生き残り・池田七三郎は、『新選組物語』(子母沢寛著)のなかで、
「屯所は、真中が広間で、右にも左にも広い廊下がずうーッと通って、右側は部屋が幾つもならんでいて、
これに平同志がいる。左側にも同じくたくさん部屋があるが、これは副長助勤の人達が入っている。
今でいうと大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」と回想している。
(文章は山村竜也氏から引用)。

当時ではありませんが、
関連する京都の古写真を二枚ほどアップします。

不動堂
不動堂村屯所の名称の元となった不動堂です。
現在のリーガロイヤルホテル京都の道を隔てた向かい側が北不動町といいますので、
このお不動さんだと思います。


不動堂村屯所の古写真
不動堂村屯所付近とありますが、古写真とまでいえるか・・・・。


上記二枚は、
「写真で見る維新の京都」(石田孝喜著 新人物往来社刊)から引用しています。

次に不動堂村屯所が存在した時期ですが、
慶応三年(一八六七)六月十五日~十二月十二日の約半年間に過ぎません。
この短期間しか存在しなかったこともあって、「幻の新撰組屯所」と呼ばれる所以です。

ちょうど時を同じくして慶応三年六月十日、新選組隊士総員に幕府から幕臣取り立ての
通達がありました。隊長の近藤勇は直参旗本300石にまで出世しています。
当時の隊士たちはさぞかし喜んだでしょうね。
このころが新選組の最盛期でした。

晴れて幕臣になったということで、
新選組も仮住まいの西本願寺屯所が手狭になったことや体面もあって、
新規に寄宿でなく自分たち自前の本営を新造することにしました。
というか、西本願寺にとっても暴れん坊の新選組には散々手を焼いていて一刻も早く
出て行ってほしいと思っていましたから、
渡りに船と喜んで賛同しました。
ところが新選組には新造するような大金はありません。
そこで、新選組はいろいろ難癖をつけてなかなか出て行こうとせず、
業を煮やした寺側がお金を用立て屋敷を用意することになりました。
土方歳三の作戦勝ちですね 笑。

で、実際の用地交渉や建屋造作については、
西本願寺でなく末寺?の隣の興正寺にやらせました。
本願寺も幕府と一緒でイヤなことは他人任せでいい身分ですよね。

実際の進捗となるとなかなか進みません。
あらかじめ内々で知っていた幕臣登用の慶応三年六月には
完成させるよう新選組も興正寺に矢の催促をしました。
ずるずると時が経ち期限が三か月と迫ってしまいました。

考えてみえば新築の屋敷など、
三か月で完成には土台無理がありますよね。
大勢の隊士を収容するにはそれなりの大きな規模でないといけないですし。

そこで巷間言われているのが、
不動堂村屯所はまったくの新築ではなく既存の建物・屋敷を利用し、
それに増改築したものではないか?
という説。

そのへんについて万代修氏は、

慶応三年二月の時点でも建設場所が決まらず、
屯折を新築するだけの時間的余裕が無かった。
そして対処に行き詰まった興正寺サイドが、緊急措置として同寺が保有する既存の建物を
新撰組に明け渡した可能性が強い。
当時、不動堂村あたりは本願寺から歩いても10分と近く、
しかも周辺は興正寺門主(華園澤稻)の所有地で、多人数を収容する施設(宿坊と思われる)があったこと。
最古の地籍図(明治初年)に「アキヤ」と書かれてあり、幕末期の古地図にも該当場所が垣問みられる。
などが、その根拠としている。

このまったく新築ではない、という裏付けの一つに万代修氏は、
近藤勇の従弟で新撰組隊士・宮川信吉が書いた慶応三年六月二十四日付けの書簡
のなかで「新規に屋敷を補い」と書いている。
これは新屯所の補充であり、新築の意味とは採れない。
幕臣になってプライドも高い新選組が移転先が新築であったならば、
誰はばかることなく誇らしげに「新築」と書いたに違いない。
現実には既存の建物を増改築したものだったから「補い」という、一段トーンを落とした表現を
用いたのではないかと?

確かに、その可能性は十分あったと思います。
風雲告げる幕末、慶応3年10月14日には大政奉還が行われ、
翌慶応(明治元年)4年1月3日には鳥羽伏見の戦いが勃発します。
この間、 不動堂村屯所に住んだのは大政奉還の四か月前、
そして翌年には鳥羽・伏見ですから
まったくの新調の本営・屋敷など
造る余裕などなかったのが実際ではと思います。

興正寺の周辺は、
諸藩の藩邸もなく大きな屋敷はなかったと思います。

改めて、池田七三郎が口述した「屯所は、真中が広間で、右にも左にも広い廊下がずうーッと通って、
右側は部屋が幾つもならんでいて、これに平同志がいる。左側にも同じくたくさん部屋があるが、
これは副長助勤の人達が入っている。今でいうと大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」との回想は
やはり宿泊と宗教空間を兼ね備えた宿坊以外にはあまり考えられません。
しかも参拝客だけでなく、僧侶の学寮も含めた別格の宿坊だったのではないでしょうか?
(宿坊は神社仏閣の参拝客のための宿泊施設、神仏どちらでもそう呼ぶ)

真中に位置する、あまり明るさを必要としない広間(書院座敷)は宗教空間、時に勤行する空間かも。
そして廊下が左右の宿泊部屋との聖と俗を分ける。
そんな感じがしますね。

江戸期以前の建築においても、
通常は寺の本堂や方丈、武家屋敷でも広間の回りは縁側か廊下で外と面してます。書院など雁行型で繋がっています。
長屋のような部屋も廊下には接していても広間などはない(土間・板の間等は広間、いわゆる書院座敷には
該当しない)。
大名の泊まる本陣や普通の旅籠にも真ん中に広間などは考えられない。
遊郭は?
以前、角屋を見学したけどそんな間取りはなかった。

という風に、宿坊は独自な間取りをしています。

続編では、
隊士150名前後を収容するにはどれほどの規模の宿坊が必要だったのか?
また宿坊から新選組隊舎へと、どのように変貌を遂げていったのか?
自分なりの試論として間取図面を作ってみたいと思います。




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