3D京都

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一条天皇、道長、そして源氏物語

先日、本屋さんに寄ったところ、一冊の本の背表紙が目に留まりました。その小冊子には「一条天皇」とあり、その瞬間、なぜか吸い込まれるように本を手に取りました。すると何か、とても、たおやかな気持ちと香りを感じ、しばし瞑目しました。

遠く平安の御世が、今、自分の目の前に語りかけている感じでした。

考えてみれば、平安時代は不思議な時代です。常に怨霊たちに怯えながら、一方、和歌を交し合い交情を重ねていました、現代だったら、和歌を短冊に書いて渡すなど、思いもよりません。
でも、平安以降も、武士でも嗜みの一つとして和歌を詠じ、辞世の歌を詠み死んでいきました。
そういった「歌合わせ」の時代は明治とともに失われていきました。「文学」の名の下に・・・。

源氏物語が書かれた時代は、平安期のなかでも、ほんの10年、20年の間でした。
源氏物語絵巻

道長と政敵だった藤原伊周の妹の定子、そして道長の娘・彰子。二人は当時としても珍しい二人皇后?として立后されました。

定子の宮廷には清少納言、彰子の宮廷には紫式部、和泉式部らが侍って、華やかな平安の女流文学が花開きました。

当時、京(京都)の人口は15万人前後、官人が1万ほど、日本全体の人口は800万ほどだった言われますが、そのなかで、本当の意味で平安文化を享受、かつ演出した貴族たちは、三位以上の高級公卿、ほんの一握りの人たちでした。今日、現代人たちが想像している「寝殿造」の定番も、実はこの三位以上の公卿たちの邸宅を指していました。中級公家の藤原定家の家も寝殿造りの要を呈していません。

この狭い世界で平安文化が醸造された訳ですが、
さらに絞りこんで言うならば、一条天皇の在位された25年間、さらに幼少(7歳)で即位された期間を除いた成人時の実質10年間ほどが現代まで影響を及ぼしている王朝文化、源氏物語の世界ではないか?と管理人は思うのです。暦で言うならば、天皇が在位された寛和2年(986年)から寛弘8年(1011年)までの期間です。

一条天皇は第66代の天皇で、諱は懐仁(やすひと)親王。
天皇ご自身、文芸に深い関心を示され、『本朝文粋』などに詩文を残しています。また音楽にも堪能で、笛を能くしたとのことです。そして何よりも人柄が温和で宮中の多くの人たちに慕われたそうです。
また、定子、彰子ともに漢詩文を詠むなど学問にも深く通じていて、そういった背景があって一条天皇の後ろ盾のもと、それぞれの宮廷サロンが才女で溢れ紫式部などを輩出し、源氏物語が生まれました。

一条天皇のご真影です。
250PX-~2

考えてみれば、この時代は確かに平安な時代でした。もちろん、そうでないときもありました。総じて、という意味です。

たとえば、現在でも論議されている死刑制度ですけど、平安時代は公には死刑はありませんでした。あの保元の乱まで約300年間もの間です。帝(みかど)のおられる内裏は神に祈る場でもあり常に清浄な空間が求められました。ですから、その臣下である公卿たちも血を忌み嫌いました。また仏教の影響もあったでしょう。ですからどんな政変が起きても流刑が一番重い罪でした。

また、当時の皇室の系図を見ると、御生まれになった親王方も多くが源氏姓、または平氏姓を賜り臣籍降下 しています。後世のように東宮または養子の方を除いて、他の親王方は多くが出家に出されたのですから、もし、親王に生まれるとしたら平安時代がいいですね^^。

しかし、その一方で。一条天皇の御世。在位25年間の間で、元号が6回も変わっています。
疫病や天変地変、あるいは政変による怨霊たちを和らげるため?、いろんな背景があったのでしょうね。道長の兄であり有力者であった道隆も疫病(一説には酒の飲みすぎ)で亡くなっています。

さて、ここで藤原道長が登場する訳ですが、運と同族の御曹司たちや兄たちの出来の悪さ、そして道長自身の力量によって権力を掌中にしました。

彼は才女を集め、紫式部の源氏物語のパトロンともなっています。時にはどこまで進んでいるか覗きにまで来たといいます。また清少納言の日記によれば、道長は細かな事に拘らない豪放磊落な性格だったとあります。

ちなみに道長の画像です。もちろん後世のイメージ画像です。
藤原道長


俗に源氏物語のモデルの一人として道長が挙げられていますが、そうだとも言えるし、そうでもない・・・とも思っています。道長本人の日記を見ますと、誤字脱字だらけでも平気で書き、けっこう本音も書いてたりしてます。そのなかで流石の道長も「麿がモデルぞ」などとは書いてはいません。流石に後世、源氏物語があんなにも有名になるとは思っていなかったでしょうから。

では誰がモデルか?

という詮索よりも、実は、管理人は、当時の源氏物語が生まれた、時代の空気、背景を知りたいと思うのです。

主人公の光源氏を見ますと、皇子でありながら臣籍降下しています。それは当時、普通に親王たちがそうしています。また道長のように朝廷で権力を持つ源氏の公卿も現れます。
一方、娘三人を入内させ、皇子を生ませ外戚となった道長は、光源氏にも描かれた、この世の最高権力に登りつめた者の華々しさ、そして晩年の病魔に苦しみ、ひたすら阿弥陀信仰に救いを求めた道長は光源氏の晩年にも似ています。

そしてここに、それらの最もなる背景として、一条天皇その人を挙げたいのです。

天皇は前述しましたように、みんなに慕われました。そして賢明な天皇は本当は親政をしたかったのですが、道長との協調を選びました。一条天皇の在位中、宮中は、とても華やいで、和み、文芸が盛んな、まさに平安な期間だったと思います。
そういった平安な期間だっからこそ、源氏物語が生まれたと思います。まとめるならば、その時代の空気を生んだのが一条天皇その人の徳、人格、それは俗世の最高権力者である道長の毒気をも抜いて朝廷に安息をもたらし、そのなかで式部は創造を膨らませ、物語に集中できたのでは、と考えています。

一条天皇には定子、彰子以外にも4人、合わせて6人の后妃がいました。二人を除いた四人は無名な方々ですが、天皇が31歳で崩御されたとき、幾人かは、臣下の家に再縁しています。一条天皇の遺言だったかもしれません。后妃それぞれに幸せがあったと思います。

この定子、彰子を愛し、六人の后妃を慈しんだ一条天皇に、やはり源氏物語は似つかわしいと思います。

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コメント

一条天皇と源氏物語 

とはこれまた風流と言ったところですね。私が良く聞く説として紫式部と清少納言はライバルであってかつ仲が悪かったが、その大きな理由は藤原道長をパトロンに持つ上東門院の女房であった道長派紫式部と一条院皇后宮の女房で彼女がパトロンであった伊周派清少納言の政治的な対立であった、というものがあります。

人間は単純ではありませんので様々な理由があるのが当然でそれも一つの理由とも言えますが、私自身は『源氏物語』を読むにつけ単純に紫式部は道長派として藤原道長に同調していたとは思いがたいものを感じています。もっとも今の作詞家や小説家が自分の体験を必ずしも描いていないのと同様、当時の和歌や物語から読み取るのは中々危険な事ではありますが。

例えば光源氏の出自、彼は桐壷帝の第二皇子として第一皇子に何かあれば帝位につくべき人であり、読書始めの段では「世に知らず聡う賢くおはすれば」と才能豊かでありながら、高麗人の観相、源姓賜るの段では「そなたにて乱れ憂ふ事やあらむ」と帝位に就けるなと言われ、さらに観相後は父桐壷帝から「無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ」と外戚が居ない事を匂わせています。最初の桐壺だけを読むだけで如何に当時皇位に即いた人間の意志が尊重されていなかったか? 当時皇位を即くのが才能とは全く関係の無い政治的な背景だったか? それが良く解かる一文です。

また『源氏物語』では当時の女性がどの様な男性を理想としていたかが良く解かります。例えば絶世の美男である貴公子と言えば在原業平、源融、全て皇室の血筋であり摂関家出身で世に聞こえる貴公子はいません。皇室の血筋で今で言う超イケメンが理想の第一、次に息子の教育方法です。乙女に描かれている夕霧の元服について、世の人は「太政大臣の息子だから四位だ」と思っていたのに対して光源氏は「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」として六位として大学に入れるというなんとも謙虚にして、女性関係とは対照的な生真面目さが光る一文があります。この事からすると、子育てに対する生真面目さや周囲に対する謙虚さが理想の一つであったと思われるのです。

貴族子弟には「蔭位制」があり一位の指定は従五位下以上の官位が授けられるのが常で、大学出身と言えば周囲から「苦労人」と哀れまれるのが常です。藤原道長が誤字脱字だらけと書かれておりますが、『古事談』巻六で大江維時が花の名を漢字で書いた所当時の貴族達がこぞって字の読み方の教えを講う、そこまで学力が低下していたのが実情でした。

藤原道長はこういう和歌を詠んでおります

この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも無しと思えば

陽成天皇を廃位し、花山天皇を陰謀によって退位出家させ、摂関権力が最高潮に達した道長によって詠まれたいかにも自分の王朝と言わんばかりの増長した雅さも謙虚さもない和歌。私には『源氏物語』から、一つには浮名ばかり聞こえる男性に対する、もう一つは権力者、特に藤原氏に対する最大限の皮肉が見えてきます。

愛知県は元々寒いですけれど、今年は特に冷えますね~ 大阪も山側は真っ白ですよ。去年の12月は寒く無かったのですが・・・・・ 今年はホワイトクリスマスも夢では無いかも知れませんね。風邪等ひかれないようにしてくださいね^^

梅のコージさんは吉良の近くですか? それは非常に驚きました。『太平記』には様々な隠された要素があるのと同様、元禄赤穂藩士の事件についてもかなりの陰謀の匂いがあると個人的には思っていますがここは平安関係なので省きます。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月11日 09時44分 
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