3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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鳥羽離宮南殿&証金剛院の3Dが完成しました

訪問者の方、こんにちは。

まずは、御礼から。

ブログランキングの日本史部門で第二目標の五位以内、瞬間的には四位を獲得しました!
皆様のご協力ありがとうございました。
上位三位の方々のブログはとても素晴らしく、まだ新米の自分にはとても太刀打ちできませんが、皆様のネットを通じた応援をささえに今度はトップを目指して頑張ります。


今後もどうかご支援宜しくお願い致します。

と書いたら、何と、本日、9位に下がってしまいました。トホホ・・・。
また、明日があるさ。気を取り直します。

お礼といっては何ですが、今回の鳥羽離宮南殿のベストショットをご披露します。自分的にも「やった!」と気に入っているコラボ写真です。まずは見てやってください。クリックすると拡大します。

皇居東御苑に佇む鳥羽離宮南殿 
皇居東御苑から鳥羽離宮南殿越しに望む高層ビル群です。
ちょっと、この構図・風景は現実にはありえない光景ですが、もう時空を超えています(笑)。でもこの鳥羽離宮南殿、不思議と周囲に融けこんでいます。ちいちゃいけど、おじいさんも芝生で寛いでいます(笑)。
人によっは、江戸城本丸御殿の再現か?と思い違いされるかも・・・です。

では、本文に入ります。
実は今回、一番手間取ったのは、南殿に付属する寺院の証金剛院について、どう3D化するか?についてです。どうやら一重屋根で、ひょっとして御所の並びで屋根も桧皮葺?かと思ったのですが、いろいろ考えた末、平安末期の同時期で現存する醍醐寺金堂をお手本に作ることにしました。

同醍醐寺金堂は、入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間でほぼ証金剛院と同じサイズです。平安時代後期の建立で、豊臣秀吉の発願により紀州から移築したものだそうです。慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶しています。

その、紀州から移築のことですけど、元々は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)の本堂だったそうです。部材には平安時代のものが残っており、証金剛院を再現する際の参考になりました。ただ、鎌倉時代に改修を受け、移築時の桃山時代の手法も混在し、特に立ちの高い入母屋屋根は近世風な感じです。まずはその醍醐寺金堂の写真です。
醍醐寺金堂正面
やはり屋根の立ちが高く近世風ですね。

そこで屋根がそう高くなく優美な感じで、醍醐寺金堂にも良くにている大阪府河内の観心寺金堂も参考にすることにしました。写真も載せます。
観心寺金堂 

そして側面図です。 幸い同寺の金堂立面図を手に入れました。出典元は、文化財建造物保存技術協会編著の「観心寺金堂修理報告書」です。
観心寺金堂立面図

今回、この図面を元に立体化し、外装は醍醐寺金堂を模しました。

証金剛院作成の経緯は以上ですので、遅くなりましたが、3D作品をアップします。ちなみに過去にも書きましたが、証金剛院は南殿と共に白川法皇が講和三年(1101年)、鳥羽離宮に最初に建てた御所・御堂です。


まずは南正面から。
鳥羽離宮南殿(正面)
横に長いです。写真のファイルアップ率が心配・・・です。

次に、その正面の御帳台をアップしたものです。ここには高貴な方が座られます。白川法皇さま、とかです。
鳥羽離宮南殿(正面・御帳台)

東南から望む俯瞰図です。桧皮葺の甍群が並ぶさまは、まさに日本建築お得意の雁行形です。 
鳥羽離宮南殿(東南側)

次はZ型に甍が並んでいます。けっこう迫力がありますね。
鳥羽離宮南殿(上空から) 
次いきます。
鳥羽離宮南殿(東側)
ちょっと見えにくいですが透渡廊の反り橋も見えます。

次は、東南から見たパース図です。
桧皮葺の御所群が雁行するのは、なかなかの見ものですね。

次は例によって暗めで地味な北側から。
鳥羽離宮南殿(北側)
証金剛院に続く渡り廊下は花頭窓を添え、ちょっと寺院風にしました。


では最後に、安芸の宮島をバックに鎮座する鳥羽離宮南殿です。背景写真は、広島観光ホームから引用させて頂きました。
宮島をバックに鳥羽離宮南殿 

以上、たくさんの写真が続きましたが、最後まで見て頂きありがとうございました。

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次の目標は三位以内!、どうか目標を達成するため、 


謹んで

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コメント

平唐門を造りました 

takaさま、

こんな時間にすみません。午前零時を超えてしまいました。ブログにもアップしました鳥羽離宮用の平唐門や三間四面堂、六角堂、三十三間堂のお色直し?などに時間がかかり、コメント返信遅れて申し訳ありません。

改めて、院の近臣について深い説明を頂きありがとうございます。自分もいろいろ勉強になります。

前、雑学で、江戸時代までの天皇陛下は、玉体という天皇位の間は、病気でも滅多やたらにお体を触れなかった・・・とか聞いたことがあります。

こんな一面も上皇に譲位されたかも・・・です。

それでは、おやすみなさい。

  • 梅のコージ 
  • URL 
  • 2012年12月03日 00時06分 
  • [編集]
  • [返信]

瞬間四位 

達成おめでとうございま~す^0^/ そして鳥羽離宮南殿の3D画像アップ、ありがとうございます。やはりこういう分野がいまだに興味を持たれている方がいらっしゃる事に我が事の様に嬉しくなりますね。

皇居東御苑から望んだ離宮、宮島とのコラボ、本当に素晴しい出来栄えで感激しました。やはり平家縁の宮島とのコラボは特別な感情が湧きあがります。

さて、前回の畳の件ですが、あれは『延喜式』と『海人藻芥』の中の畳事から出典しております。

>院の近臣とは、官位を飛び越こえた存在なんですね。まるで徳川将軍のお側用人みたいですね。

そこは非常に重要な部分であります。そもそも何故上皇・法皇にならなければいけなかったか? 何故院政なのか? と申しますと、それは天皇位におられる限り宮中での決まり事は守らなければいけません(徳川政権で言う秀忠ですね)。ところが退位された場合は宮中での決まり事を越えた存在で縛られる事はありません(大御所、家康です)。従ってそれなりの力さえあれば自由に席次も決められ、自由な意思で政治が出来るようになり大権を持てるようになり院宣が詔勅の上に行くといった事態になります。

そして治君の君を守衛し、摂関政治を打倒した中心勢力として活躍したのが所謂院の近臣です。側用人というのは幕府の公式アドバイザーですが、院の近臣は院の個人的なアドバイザーと行ったところと申したほうが良いでしょう。院の近臣の代表者として藤原道長の孫能長(最終贈太政大臣)や、夜の関白と異名を取った葉室中納言顕隆等がおります。

以上の事から考えると、やはり鳥羽離宮における院の側の紫座というのは院の近臣と見ざるを得ないのです。院の個人的アドバイザー→公式の納言以上の官職という道筋をたどるのが当時の流れだったのでしょうね。

さて、これから寒くなり風邪もひきやすい季節になりましたがお体に気をつけながら、無理の無い範囲で続けてください。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年11月29日 13時09分 
  • [編集]
  • [返信]

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