3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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戦国時代、天皇を支えた禁裏小番の公家たち

今日は戦国時代の内裏を取り上げてみたいと思います。
表題にあります「禁裏小番」とは、大納言以下の公家(公卿・殿上人)が5もしくは6番の小番(グループ)に分かれて内裏の当番宿直を担当したもので明治維新まで行なわれました。
その禁裏小番について今回取り上げるものですが、まずは当時・戦国時代の朝廷を取り巻く時代背景を説明したいと思います。

広義の意味では「室町時代」とは、足利尊氏が1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの235年間程を言いますが、実際の時代区分としては、建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、南北朝合一(1392年)から応仁の乱勃発1467年)までの約75~100年間を狭義の室町時代とし、応仁の乱以後の秀吉の天下統一までの約120年間ほどを戦国時代と捉える場合が多いと思います。

今回はその戦国時代の朝廷・内裏を取り上げてみる次第です。

応仁の乱前後の内裏の大きさは方一町、100m四方の大きさでかなり狭くなっています。室町幕府の敷地など内裏の二倍以上ありました。ちなみに江戸・幕末の頃には内裏も室町の頃と比べ10倍もの面積になっています。

朝廷と室町幕府の位置関係を示す当時の地図を掲載します。ただこの地図は応仁の乱以前のものです。出典は「京都の歴史 第三巻・近世の胎動から引用させて頂きました。
室町時代の京都地図
当時の力関係がわかると思います。

地図だけではなんですから1520年頃描かれたとされる町田本洛中洛外図に描写されている当時の御所をアップしますね。
室町時代の内裏
この絵を見ますと柱は角柱、紫宸殿の隣にある清涼殿は常御殿になっています。平安の寝殿造りと室町以降の書院造りをミックスした感じになってます。

せっかくですから当時の指図もアップします。これも「京都の歴史 第三巻・近世の胎動から引用させて頂きます。
室町時代の内裏指図

さて、戦国時代の三代にわたる帝(天皇)の事蹟を紹介します。といっても、いかに朝廷が衰微していたか、という説明になってしまいますが・・・。

まず、第103代天皇の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、嘉吉2年(1442年) - 明応9年(1500年)ですが、寛正5年(1464年)に後花園天皇の譲位を受けて践祚してまもなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、この頃から朝廷の財源は枯渇し衰微しました。ですから、明応9年、58歳で崩御されたときは葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった言います・・・。

次に即位された後柏原天皇(寛正5年(1464年)- 大永6年1526年)は、即位の礼をあげるまで21年も待たなくてはならなかったと言います・・・。

さらに次の後奈良天皇(明応5年1497年) - 弘治3年(1557年)も、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、即位して10年後の天文5年(1535年)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができました・・・。

ただ三代の天皇ともに敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、戦乱や疾病に苦しむ民を思い写経や寺社へ祈願、幕府へのお諭しなど、優れた御方たちだったのはせめての救いでした。

ここで当時の朝廷の貧窮さについて、たとえば当時、塀も崩れて三条大橋から御所の明かりが見えたとか、その貧窮さが伝えられていますが、どうもそれは誇張され過ぎた話のようです。
戦国時代の朝廷の経済に詳しい奥野高広氏の研究によりますと、当時、朝廷の経済は衰微したといっても、まだ全国に皇室御領が49箇所存在し、大永元年(1521)から永禄12年(1569)までの年間の平均収入は750貫文、今の金額に換算すると約6000万円ほどはあったそうです。一貫=8万円の計算ですが、これは小和田哲男・静岡大学教授の研究に基づくものです。ついでまでに室町時代前期の皇室の平均収入を調べると(奥野氏による)7500貫文、約6億円はあったとのことです。つまり戦国時代に入って収入が10分の1に激減したということなんですが、他にも諸大名の寄付もあり、現代から想像するよりかは良かったのではないかと思っています。

さて、ようやく本題の「禁裏小番の公家たち」にたどり着きました。ふぅ・・・。

管理人の言いたいことは、
戦乱に明け暮れた戦国時代といえども朝廷、すなわち天皇は京都からいっさい動座(他所に避難する等)されず、日本の中心・京に構えてみえたことです。このことが天皇の権威を維持し続け、天下統一を目指した信長、秀吉、家康の三者への権威に基づいた調停役として戦国を終わらせたことです。また動座されなかったことにより、天皇が他者にとって変へさせられることもなかったと思います。皇統は守られたのです。

そして、明日とも知れない戦国の世、天皇を日夜お守りし、内裏に詰めた「禁裏小番」の公家たちの天皇を守る必死の思いが伝わるのです。

これが言いたかったことです! 少し興奮しました・・・。こんなに文章が長くなるとは思いませんでした。でも、戦国時代の朝廷がどのようなものだったか、少しでも参考になれば幸いです。

さぁ、鳥羽離宮の3D製作の方も頑張らなければ。

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コメント

 

この記事については全く同感です。彼等の我慢と働きがあってこそ現在の皇室に繋がっていたという歴史は決して忘れてはならないですね。特に所謂摂関家清華家等の最上流の公卿達は自分達の生活が困れば有力大名の領国に下向して朝廷以上の収入を得ていたのに対して、皇室と禁裏小番の公卿・公家達は京都を動かず、あるいは山科家の様に下向したとしても朝廷への援助の為に頭を下げに行く、そういった血の滲む努力をしていたのですから驚かされます。

ところで 奥野高広氏 の著述は資料としては一級品ですが、その考え方には非常に大きな違和感があります。例えば現代、首相の仕事を貯金0で年収100万円で全てこなしているとします。そうなると首相の仕事は大きく滞り貧窮国となりますが、100万円の年収でもあるじゃないかと見るか? そんな年収しかないと見るか? で大きく見方が異なります。

歴史の資料を見ると後土御門天皇の玉体が放置されていた事は事実ですし、後柏原・後奈良両天皇の即位の儀式が思うように開けなかった事も事実です。その事実を差し置いて朝廷に七百五十貫文ばかりの収入があるからといって貧窮していなかったという論や、戦国時代の大名や武将達の免罪符には決してならないと思います。

例えば前田利家、彼は織田信長公の茶坊主を斬り捨てて出奔しましたが、永禄四年(1561年)の森部の戦いで活躍して帰参しました。その時の領地は三百貫文(もしくは四百五十貫文)と言われていますし、山内一豊に至っては岩倉織田氏の家老だったというだけで五百貫文の領地を貰っております。つまり朝廷の収入というのは、中堅所の武将の初任給とほぼ同等程度のものしかないと言えます。

織田信長公は権力基盤を獲得する為に朝廷を利用し、豊臣秀吉は朝廷権力に依存し、徳川家康は朝廷を畏怖していたと言えますが、三者三様に朝廷にはそれなりの力ある者として敬意と恐れを有していましたが、室町全般(戦国時代)は朝廷を軽んじるしか能がない武将達が蔓延った最悪の時代と言えるでしょう。

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