3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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公家の長谷家について

タイトルの件遅くなってしまいましたが、以前、読者の方から公家・長谷家について幕末等当時の京都御苑内にあった同家屋敷の坪数や家屋敷の様子・来歴など、もし、わかったら教えて頂きたい・・・とのご依頼がありました。ひょっとして長谷家のご縁の方なぁ・・・とも思いましたが、果たしてどうでしょう?ちなみに同家は「はせ」とは呼ばず「ながたに」家と言い表します。

まず、依頼のあった同家の幕末明治維新の家屋敷の史料は「華族建家坪数控」(京都府総合資料館蔵)にはありませんでした。せっかくのご依頼に応えることができず申し訳ありませんでした。

お詫びといっては何ですが、長谷家が在住してみえた京都御苑内の位置関係を表示します。
公家町の地図です。仙洞御所の南、下にピンクで囲った所が同家のお家でした。
公家町-長谷家 
これに現在の御苑の航空写真を添えます。やはり同じくピンクで囲っています。
長谷位置航空写真

後、以前にも掲載しましたが、幕末の京都御所周りの写真もアップします。
むかって左が仙洞御所の塀、右が広橋家、正面奥が長谷家の塀です。これが唯一の長谷家の関連写真でしょうか?
仙洞御所築地塀

長谷家の来歴についてウィキペディアからも一部引用しながら書いてみます。

長谷家(ながたにけ)は桓武平氏高棟王流で、西洞院時慶(従二位・参議)(1552年 - 1640年)の五男長谷忠康(正三位・民部大輔)(1612年 - 1669年)を祖とする堂上家です。

後水尾天皇の側近だった西洞院時直(従二位・参議)(1584年 - 1636年)及び平松時庸(従二位・権中納言)(1599年 - 1654年)を兄とし、交野家の祖交野時貞(大膳大夫)は弟にあたるそうです。
家格は名家、従二位・参議を極官とします。
江戸時代の家禄は30石。明治時代以降は子爵となりました。公家は半家などの下級公家も含めて、全家、子爵以上を叙爵されました。(長谷家は名家に属します)。でも30石はきついですね・・・。多分、蔵米だと思いますけど、現在の米価で百数十万円でしょか?暮らしていけたのでしょうか?何か家業とか副収入あったのかな?後でも述べますが、この下級公家の貧窮さもあって幕末、お公家さん達のデモもありました。

同家の方では、長谷信篤が比較的知られています。
信篤は、文化15年2月24日(1818年3月30日)から明治35年までと85歳の長命の方でした。
経歴としては、
幕末・明治期の公卿・華族(子爵)・政治家。京都府知事(初代)、元老院議官、貴族院議員などの要職を歴任しました。長谷信好の子。母は猪熊慶礼の娘(正室)。正室は坊城俊政の娘。子に長谷信成がいます。

幕末、従三位に叙され、いわゆる、安政勤王八十八廷臣事件のお仲間の一人です。

王政復古時には正三位参議。王政復古の大号令に伴い、東久世通禧や岩倉具視らとともに新政府三職のひとつである議定に就任。その後、京都府知事に就任。明治8年(1875年)、京都府知事を退任。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして活躍しました。

その、安政勤王八十八廷臣事件の件ですが、
日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内することとなりました。しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行いました。

その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなりました。

勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止され、幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなりました。

この事件の背景としては、江戸時代、公家社会は禁中並公家諸法度以後の諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていて、更には、五摂家や武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていました。

条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった訳です。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえます。

明治維新は下級武士の革命とも言うべき側面がありましたが、公家の場合でも同様な背景があったんですね。

ちなみにこの事件のとき信篤は41歳、下は18歳から上は62歳とまでと幅広い年齢各層でした。

後ですね、旧華族家資料所在調査報告(学習院)から長谷家関係の資料を掲載します。

    宮内庁書陵部 明治天皇聖蹟資料 (日記備忘、長谷信篤 家記慶応三年等)写

    宮内庁書陵部(三条公本) 長谷信篤日記 写

    東大資料編纂所 長谷家譜(系譜並びに事蹟)原本

    東大資料編纂所維新資料 子爵長谷信成談話 写

       〃         鷹司輔照書簡  写
       〃         長谷家家譜   写
       〃         長谷信篤書簡  写

また余分ですが学習院大学の起こりは京都御所にあります。公家のための学校としてスタートしたんですね。当時の指図も持っていますので、機会があればアップしたいと思っています。幕末のお公家さん学校がどんなものか、一部の方には興味が湧くと思います(笑)。

付録ですが、長谷家についてのご依頼に応えられなかった分、そのお詫びの印に長谷家の本家筋にあたる西洞院家の幕末・家屋敷の坪数について載せますね。同家は家禄260坪。写真二枚ほどアップします。
西洞院家坪数1 
そして二枚目の、
西洞院家坪数2 
「華族建家坪数控」によれば、同家の拝領地は約460坪、瓦葺本棟が124坪ほど。土蔵10坪、瓦葺厩5坪、瓦葺湯殿4坪、瓦葺物置7坪、空き地は310坪ほど。まだまだ余裕がありますね。冷泉家とほぼ同じですね。でも、本家筋の西洞院家が長谷家より家格の低い半家とは、なんでしょう?家禄だって西洞院家の方がだいぶ多いのに・・・?ですね。家令は山田仙太。現代でも通用する名前ですね(笑)。

以上、長谷家のご報告でした。

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微風様 も大変公家や京文化にお詳しくていらっしゃりますね。恐らくご子孫の方か? 学者ではないか? と推察しておりますが。

確か従三位肥後局は、あの阿茶局で有名な神尾家に後に嫁いでいますね。ある意味神尾家には女傑に恵まれていたと仰っても過言ではないでしょう。

さて長谷家ですが、単なる噂話の可能性は当然あります。その可能性を捨てては決していけないとは思いますが、同時に日記や記録に具体例として名前が挙がっているという事実も忘れてはいけません。歴史を研究している者にとって、日記や記録が全て噂話、宛てにならないの一言だと今現在学んでいる歴史全てが虚言妄言の類になるでしょう。そしてそれが噂話の場合、何故長谷家の名前が挙がったのか? という事も考える必要があるかと思います。

絵を良くして雅=盗賊・荒事は無い、というのはある意味そうでしょうが、天台座主明雲は仏法を極め『千戴集』にも掲載される歌人ですが、戦場で信州の逆賊木曽義仲と戦って討死しております。持明院家も基久が豊臣方として大坂城に入り討死する等している事から、公家=雅一辺倒という概念はあたらないように思えます。

三男時充は『天保改正諸家知譜拙記』によれば25歳で切害との記述もありますが、その記述についても解明しなければなりません。その他、長谷家以外の『翁草』の「某卿解官の事」等に描かれた公家の背景を見ると、信憑性は決して無視できないのではないか? と思います。
  • taka 
  • URL 
  • 2012年12月05日 08時09分 
  • [編集]
  • [返信]

嫡子忠福 

三男時充については前記のとおりですが、忠康の長男忠福(ただふう)は、元服叙爵してまもなく5歳で禅林に出家得度しています。これについては、「?」という気がするのが普通かと思いますが、これは父親の忠康や本院(後水尾院)の意向であるよりは、二男時茂がお気に入りであった女院(東福門院)や明正院の思し召しのようです。

  • 微風 
  • URL 
  • 2012年12月03日 20時50分 
  • [編集]
  • [返信]

噂話? 

大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容。

おそらくこの元記事は、妙法院門跡 尭恕法親王の日記(寛文9年11月12日条)かと思いますが、実際のところは伝聞で真偽はかなりあやしいかと。

個人的には何らかの非行はあっただろうと推測しますが、絵が得意と伝えられ、、『隔蓂記』(寛文7年12月12日条)に鳳林承章から渡宋天神像を依頼されるほどであった若公家が押し入り強盗をするほど悪党であったとは、まるでイメージが合わないのです。しかも後水尾院がお忍びで市中にお出かけになる際、ただ一人の随行者であったことがしばしばであった時充が、いきなり盗賊の棟梁になれるのかも疑問です。

ちなみに長谷家の初代忠康室は北畠一族である旗本星合具枚の娘満子です。これは東福門院のお声がかりで長谷家に嫁したものであり、満子の叔母は女院の信頼する梅子(仕東福門院。女官預。従三位。肥後局)でした。このため長谷忠康の息子たちは下級公家の出ではあったものの女院からかわいがられ、特に早世した図書頭時茂は美貌であったことから、その幼児期には新院(明正天皇)からの思し召しも極めてめでたかったと伝えられているほどです。

当時、後水尾院から不興を被っただけで、新家程度なら即座に廃絶されるのが通例です。そうしたこともなく明治維新まで無事に家が続いたのですから「盗賊の棟梁」は話としてはおもしろいものの、おそらく事実とはかなり異なる脚色が加えられていると思います。
  • 微風 
  • URL 
  • 2012年12月03日 17時35分 
  • [編集]
  • [返信]

長谷家について 

西洞院家と石井家が半家で、その他の傍流平松、長谷、交野の諸家が名家であったのは、近衛家の当時の当主近衛基熙の指図です。そのようにしたのは、いろいろと屁理屈はあるのでしょうが、発端であり原因は一条冬経が序列を超えて関白に任じられた折、縁者(父親の一条教輔の母親は西洞院家出身)として任官の儀式の際に西洞院時成が随身をつとめることを請われ、断りきれずに引き受けたことから、「近衛家門流にもかかわらず不届き者めが!」という感じなのか、それ以降西洞院家は冷遇され続けたとか。
  • 微風 
  • URL 
  • 2012年12月03日 16時35分 
  • [編集]
  • [返信]

こちらこそ 

よろしくお願いします。

長谷家は恐らく廃嫡する事で難を乗り切ったのではないでしょうか? 江戸時代とはいえ、三位と言えば公卿。むやみやたらに公卿を取り潰すというのは、朝廷も幕府も世間体を気にして出来なかったのでしょう。

嫡子は忠福だったそうですが年不明ながら出家されていますし、三男時充は切害されたそうですからどちらかでしょう。

家督は四男の忠能(従四位上 兵部権大輔)で落ちついたそうです。

 

takaさま、
貴重なお公家さんの情報をありがとうございます。
確かにお公家さんも体面を保つため、いろいろと苦労が多かったみたいですね。
儀式の時だけ、バイトで雇う俄か家来もたくさんいたでしょうね。
大名行列の臨時雇いと一緒ですね。

長谷家について、まさか、ご先祖様が盗賊の棟梁とは想像できませんでした!
というか、良くお家断絶にならなかったですね・・・?

これからも宜しくです。

                    梅のコージ




の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。

それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。

逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。
From: taka * 2012/11/05 15:54 * URL * [Edit] * top↑
長谷家について
長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。

大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。

長谷家について 

長谷家が取り上げられているので、ついでに長谷家の話題を一つ。

大田南畝の随筆『一話一言』に掲載されている話の中で、寛文九年の記事があります。その記事というのが長谷三位殿嫡子が盗賊の棟梁として那波屋十右衛門の邸宅に押し入ったという内容で、長谷三位殿というのは恐らく長谷家の祖 長谷忠康卿 の事では無いか? と言われているそうです。

ブログの文中に「なにか家業はあったのでしょうか?」と記述されていましたが、この記事を見るとやはり正味三十石の手取りしか無かったと思われます。

江戸時代公家の財政について 

どうも。いつも楽しみに拝見させていただいております。長谷家については不思儀ですよね~ 西洞院家の分家は平松家・長谷家・交野家等がありますが、何故か分家がみな名家なんですよね。その理由についてこちらも調べてみようと思っています。何か解かったらこちらに書き込みしますので。

さて、当時の公家の生活の貧窮度合いについてですが、五摂家といえども決して暮らし向きは楽ではなかった。否、五摂家だからこそ暮らし向きはきつかったのでは無いでしょうか? というのも摂家というのは公卿の中でも最高の家格を有する家、現代でも政財界のトップクラスの人達が100均で買った食べ物等が食べられないのと同様、他の公家よりも格式高い生活を心掛けなければならない分余計に大変だったと思います。

例えば九条家は宝暦年間には伝来の什器を質入する程困窮し、幕府に買い戻すため知行地二千余石を差し出す代わりに二万両を借りたいと申し出て断られているそうです。摂関家の中で本当に全く生活の心配がない家があるとすれば近衛家くらいなもので、他の四家は決して裕福ではなかったと思われます。

摂関家以外だと良く言われるのが家元制度が経済基盤(例えば琵琶や蹴鞠の飛鳥井家、歌の冷泉家等)であるとされていますが、許認可権をもつ公家は特に裕福とされています。例えば清華家の村上源氏久我家は江戸幕府で源氏氏長者の位こそ徳川氏に取られていますが寛文六年には当道座の管領権が認められ、盲人集団(つまり高利の金貸集団)を支配して莫大な財力を有していたと言われています。

それ以外にも鋳物師集団を支配した蔵人所・小舎人を世襲している地下官人の真継家や、暦と全国の民間陰陽師や祈祷の許認可権を持った半家の土御門家、そして全国の神社のトップである半家の吉田家等も裕福だったそうです。

逆にそういう特権を有していない公家、つまり家業の家元しかない公家は総じて貧窮度合いが激しかったかも知れませんね。

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