3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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後白河法皇の法住寺殿はどんなイメージだったのだろう?

NHKの大河の方もこれから清盛と後白河法皇との丁々発止が展開されてゆきますが、その舞台ともなった後白河法皇の院御所である法住寺殿はどのようなイメージだったのだろうか?管理人も当然、そんな興味があったのでここで一つ無謀にも「法住寺殿」を再現してみよう!ということになりました。なにせ、当時、治天の君とも言われた最高権威・後白河法皇の御所ですから方十町四方と広いこと広いこと!御所内には、広い池から三十三間堂、五重塔や今熊野社などの寺社が御所を取り巻いていました。まずはその俯瞰図から紹介します。なお図は淡交社刊「よみがえる平安京」から一部引用させていただきました。
法住寺殿俯瞰図
この俯瞰図から見てもその広大さがわかるというものです。

今回はこの法住寺殿について幾つかの資料をもとにそのイメージを展開してゆきたいと思います。そして例によって御所の間取りとか寺観も含めた3D化をどこまでできるかわかりませんが挑戦してみます。

まず、法住寺殿の位置ですが、現在の東山区、京都駅からちょうど東に鴨川を渡り直進したあたり、今も残る三十三間堂あたりがそうです。院政期の清盛の六波羅泉殿との位置関係も合わせ、それがわかるマップを載せますね。マップは光村推古書院刊「京都時代マップ 平安京編」から一部引用させて頂きました。
六波羅・法住寺周辺地図
これで見ると六波羅は北の方角、法住寺殿はその南に位置するのがわかります。両者間がこんなに近かったとは意外でしたが考えてみれば三十三間堂を後白河法皇に寄進したのも清盛。当初は二人の関係はあくまで院とその臣下という至極まっとうなものだったんですよね。

それでは法住寺殿の歴史を少し振り返って見ます。
法住寺殿は後白河上皇が永暦2年(1161年)に鴨東の七条周辺に営んだ院の御所で、女御で寵愛した平滋子(建春門院)との生活の舞台となった場所です。その契機は、この地に上皇の乳母であった藤原朝子とその夫の藤原通憲(信西入道)が居所を構えていたところだったと言います。この家は1159年の平治の乱で焼失しましたが、ここへ同じ乱で敗死した藤原信頼の京内の邸を移築して御所とし、造営にあたっては10余町を取り込み、その際、そこにあった多くの堂舎ほかを壊し捨てたので衆人の恨みを買ったとも。

広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられ、狭義の法住寺殿はこの南殿を指して言うそうです。南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もありました。1163年(長寛元年)には、蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立されました。また新日吉神社、新熊野本宮も法住寺殿内に建立され、1176年(安元2年)、後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てらました。
法住寺殿南殿復原図.
法住寺殿の中心である南殿の間取り図です。これは、吉川弘文館刊「寝殿造の研究」(太田静六著)から一部引用させていただきました。またその復原図もありますので合わせて載せます。この方は角川書店刊「平安京提要」(角田文衛監修)から一部引用させて頂きました。
法住寺殿南殿復原図

ちなみに現在の蓮華王院(三十三間堂)は清盛が寄進したものは建長元年(1249年)の火災で焼失しました。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されていますが、現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたといいます。正確には1001体の仏像が雛壇上に並んでいます。当時の仏教を厚く信仰し鎮護国家の要にしようとして法王の意気込みが伝わってきますね。

当時の法住寺殿の有様は「年中行事絵巻」にも、同絵巻の冒頭の朝勤行幸を描いた場面があり往時の法住寺殿、そして儀式の様子がわかる貴重な絵巻です。その絵巻の一部を載せますね。
年中行事絵巻
南殿において朝勤行幸の様子が描かれています。当時は高倉天皇の行幸もしばしばあり、これに随行した小督(こごう)の美しさは輝くばかりだったとか。しかし中宮の建礼門院徳子の父であった平清盛の怒りに触れ、坊門院範子内親王(高倉天皇第二皇女)を出産したのちに清閑寺で出家させられたのは平家物語に語られる悲話の通りです。ちなみに年中行事絵巻は中央公論社刊「日本の絵巻 第八巻 年中行事絵巻」から一部引用させて頂きました。

同絵巻は12世紀後半(平安末期),後白河法皇の命により宮廷や公家の年中行事,四季の遊楽などを記録するため制作された60余巻にも及ぶ絵巻です。原本は蓮華王院(三十三間堂)宝蔵に収蔵され,宮中典儀の軌範となりましたが,しだいに散失し,ついには江戸初期の内裏の大火で焼失してしまいました。わずかに残った原本を1661年(寛文1)前後に住吉如慶・具慶父子が模写した朝覲行幸,斎会,賭弓,内宴などを内容とする16巻をはじめ,諸家に伝わる模本類によって,わずかに当初の3分の1ほどの図様として残されています。

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2017年5月8日更新

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