3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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「小 壁」の誇り・・・もしくは矜持

天皇家と徳川将軍家ってどう違うの?と言っても全然違うので今回は住宅史のある一面から、その違いをちょっと浮き彫りにしてみたいと思います。表記のタイトル「小壁」ですが「こかべ」と言います。まずはこの「小壁」とは何ぞや?から入っていきたいと思います。建築用語辞典によれば、鴨居から天井までの間の壁のことを「小壁」というそうです。じゃ、その小壁が天皇家と将軍家に何の関係があるの?となってくるわけですが、まずは、その小壁の写真からアップします。クリックすると拡大します。
小壁(京都御所)
京都御所を見学したときの写真です。鴨居はよく襖などの引き戸の上を横に通していますね。写真で見る限り小壁の部分は白い漆喰で無垢のままです。この白い漆喰の小壁が天皇家・朝廷の御所の特徴の一つです。他にもいくつか載せます。
小壁2(京都御所)
とか、
小壁3(京都御所)
もう一枚
小壁4(京都御所)
いずれも小壁が白いのがわかりますね。では次の一枚はどうでしょう?
御涼所
これは白い漆喰ではないですね。鮮やかな唐紙が張り付けてありますね。この部屋というか建物は、京都御所のなかのプライベート空間・庭のなかにある御涼所の部屋を写したものです。他の紫宸殿はじめ清涼殿、学問所、御常御殿と公の建物はすべて白漆喰の小壁ですが、寛ぎの場所であるここは数奇屋風に唐紙が貼ってあるんですね。御所のなかでもこのように厳格に使い分けされてる訳です。では将軍家はどうでしょう?江戸城はもう遺構がないので二条城二の丸御殿を見てみます。
遠侍間
玄関・車寄せから入って最初の御殿の遠侍の間です。ご覧の通り小壁はもとより天井まで豪華な装飾が施されています。一方、京都御所の常の御所の御座所を一枚。
御常御殿上段の間
そして二条城二の丸御殿大広間の写真。
二条城大広間
一目瞭然、小壁と天井がまったく違いますね。人から見れば御所の方がいたって質素に見えることでしょうね。でも実際、朝廷にお金がなくてこうなった訳では毛頭ないですよ。江戸時代、確かに朝廷は石高は低く抑えられましたが、即位式はじめ御所の建造は幕府の役目だったんです。武力では幕府には敵いませんが、権威という面では、将軍自身が天皇から「征夷大将軍」を授けられ初めて権力を行使できる訳ですから、その言わば後ろ盾とも言える朝廷の御所を粗末に造るはずがありません。もしそうだったら将軍の恥・名折れです。ではなぜ地味な白漆喰?これはもう天皇家・朝廷の伝統なのです。ここで一つささやかなエピソードを書きます。寛永5年(1628)、時の後水尾天皇の二条城行幸を終えた後、速やかに行幸御殿が仙洞御所に移されました。後水尾天皇が譲位されたからです。このとき、面白いのは二条城にあったときの行幸御殿は二の丸御殿と同じように華やかな紺碧障壁画で小壁から天井まで部屋丸ごと華麗に埋め尽くされていたのが、仙洞御所に移された時点で、天皇家の要望により小壁は無地の白漆喰、天井も無地にわざわざ改築されたんです。つまり華々しさよりも清廉さが皇室の伝統であり、また宮中祭祀の面からも、それが御所の姿に相応しかったんだと思います。そうです、本日の表題「小壁の誇り」とはこのことです。以前読んだ本のなかで、外国から来た観光客は御所のことを地味と思うだろう?中には江戸時代、武家に抑えられ貧乏暮らしだったんだなぁ・・・とか軽く書いているのを読んだことがありますが、その人に今回のエピソードを伝えてみたいものですね。ちなみにこの小壁や天井に唐紙を張り紺碧障壁画で飾るようになった初見は、家康が関が原の後、慶長7年(1602年)6月に藤堂高虎を普請奉行に起用し、同年にはほぼ再建なった伏見城だと思われます。再建された建物の瓦にはまだ建前上、豊臣の臣下でしたから豊臣家の家紋、桐紋が使われていたそうです。この家康が伏見城を再築したときが文献にみられる最初だと思われます。これは建築史学の平井聖氏や川上貢氏、また小壁の分野では後藤久太郎氏が精力的に究明してみえます。よく安土桃山時代というと絢爛豪華な文化をイメージしますが、実際はそのイメージだったのは少し後の秀忠・家光の寛永時代のことです。秀吉のころは、彼自身関白として朝廷の臣下の立場であり、住む住宅も小壁は白漆喰が普通でした。それが秀吉が死に家康が豊臣家に対抗する手段として、より豪華な屋敷を、そして権威付けのための小壁や天井の装飾化を進めたのが実際ではないかと思っています。時代はどうであれ、朝廷は時の権力に関係なく、あの清浄で雅な空間を京都に演出し続けたのです。なお京都御所の一部の写真は朝日新聞出版刊「京都御所」(三好和義・写真)と二条城は京都新聞出版センターの「世界遺産 元離宮二条城」を掲載させて頂きました。

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コメント

Re: 内法長押上小壁の装飾 


後藤さま、
ご返事遅れて申し訳ありません。体調の方もほぼ前に戻り元気になりました。
11月1日付でブログ記事をアップ致しましたので、宜しかったら覗いてみてください。
ありがとうございました。

>  装飾小壁の初見は、伏見城では無く、元和3年~造営計画が始まった徳川和子(まさこ)の入内に備えた御殿だと思われます。
>  川上先生が最初に伏見城説を日本建築学会の大会で発表されたのですが、この時後藤も装飾小壁・絵天井の初見は、伏見城では無く、元和の徳川和子入内御殿群中の小堀遠州が奉行を務めた御殿である由の発表を行いました。
>  川上先生と後藤の間で議論になり、伏見城の御殿の装飾小壁は内法長押の上の小壁で有ることは証明できず、史料上では元和の御殿であることで両者の見解が一致しました。
>  これについては、日本建築学会の大会の梗概集に載っておりますが、残念ながら日本建築学会のデ-タベースには入っておりません。もしご希望なら論文をpdf化してお送りしますので、PCのアドレスをお知らせ下さい。ただこれでは議論の様子は分かりません。当時の発表に立ち会った、当事者で無い在命の研究者にお尋ね下さい。例えば京都女子大学の斎藤英俊教授などは現役ですので答えてくれると思います。

内法長押上小壁の装飾 

 装飾小壁の初見は、伏見城では無く、元和3年~造営計画が始まった徳川和子(まさこ)の入内に備えた御殿だと思われます。
 川上先生が最初に伏見城説を日本建築学会の大会で発表されたのですが、この時後藤も装飾小壁・絵天井の初見は、伏見城では無く、元和の徳川和子入内御殿群中の小堀遠州が奉行を務めた御殿である由の発表を行いました。
 川上先生と後藤の間で議論になり、伏見城の御殿の装飾小壁は内法長押の上の小壁で有ることは証明できず、史料上では元和の御殿であることで両者の見解が一致しました。
 これについては、日本建築学会の大会の梗概集に載っておりますが、残念ながら日本建築学会のデ-タベースには入っておりません。もしご希望なら論文をpdf化してお送りしますので、PCのアドレスをお知らせ下さい。ただこれでは議論の様子は分かりません。当時の発表に立ち会った、当事者で無い在命の研究者にお尋ね下さい。例えば京都女子大学の斎藤英俊教授などは現役ですので答えてくれると思います。

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