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3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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見果てぬ夢 岩倉具視と一枚の肖像写真

今回、岩倉具視のことを書こうと思ったのは、京都御所の3Dを作る過程のなかで、京都御所が今日まで残ったのには、岩倉具視による熱心な保存事業があったからこそ。という事実を知ったからです。

経緯は明治天皇が京都を行幸されたとき、御所の傷みを憂い、保存を命じましたが、それを中心となって進めたのが岩倉公でした。当時は西欧化に追い着き追い越せ、という気風のなかで日本の伝統的なものが軽視されました。御所でさえ、桑畑にしようか、という議論が出たほどです。当時、生糸が一番の輸出品でしたからね。

具視はそうした風潮に対して疑問を持っていました。

その一端を示すものとして、明治4年~6年にかけて派遣された岩倉使節団を撮った一枚の集合写真があります。

岩倉使節団と岩倉具視
岩倉使節団の写真。

この写真の中には、岩倉具視を中心に、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった錚々たる維新の元勲たちが揃っています。そのなかで一人異彩を放つのは具視です。彼だけ袴を穿き頭に髷を結っているからです。

使節団の派遣目的の一つは欧米との不平等条約の改正と交渉でした。ですから大久保たちは欧米列強にバカにされないよう洋服を着用しました。ですから、大久保たちは再三具視に髷を切るよう頼みましたが具視は頑として受け付けませんでした。ホトホト困った一行は最後は具視の息子に説得を依頼。具視も流石に息子までに言われるとは・・・・と、ようやく受け入れた経緯があります。

幕末の万延元年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため「遣米使節」を米国に派遣しました。このときの使節団は武士の正装に威儀を正し、所作も礼法にかなったものでした。初めて見た米国人たちは「これが侍」というものなのか、と、その、優雅な身のこなしに驚きと畏敬さえ覚えたといいます。彼らが見たそれまでの植民地の住民たちとは明らかに違っていたからです。

ニューヨークでは50万人もの市民が街頭に集まるなど盛大な歓迎を受けました。

この万延元年の使節団と岩倉使節団を比較するのは、当事者が幕府と明治新政府の違い、派遣目的の違いなど単純に比べられるものではありませんが、少なくとも万延元年時は侍のプライドを持って対面した。一方の岩倉使節団は侍を捨て、プライドを捨て、不平等条約の撤廃という実を取るため洋服に替えた。このことが欧米列強にどう映ったか?御しやすいと思われたのか、猿真似と思われたのか、私にはわかりませんが、少なくとも多少なりとも侮蔑と偏見はあったと思います。具視には、洋服を着るなど、なぜ欧米列強に媚びなければならないのか、国として欧米より古い歴史を持つ日本のプライドはないのか・・・といった忸怩たる思いがあったと思います。

しかし、岩倉具視はなにも伝統だけに固執せず、使節団で見聞した欧米の先進度に目を見張り、条約云々よりもまず国の産業を発展させることだと理解し帰国後はさっそく鉄道の敷設に取り掛かるなど、保守と革新を合わせ持った合理性がありました。

岩倉具視の功績を挙げれば幾つもあると思いますが、三つだけ挙げるとするならば、
何といっても王政復古の大号令を主導し維新を成し遂げたこと。上でも書いた岩倉使節団の中心として西欧の産業を導入し日本の近代化に尽力したこと。薩長の間に立ち明治新政府を主導。諸政策の立案、実行に寄与したこと、などが挙げられます。

岩倉具視公家姿
岩倉具視の公家姿。絶頂期かな。

では、彼が維新でやり遂げたかったこと。それがどこまで実現したのか?栄光と挫折、見果てぬ夢。それがどんなものだったのか、あくまで私のイメージの中ですが、自分なりに思い描いてみたいと思います。

岩倉具視といえば明治維新の立役者の一人でよく知られています。ただ、策謀家、黒幕的イメージで今一度人気度がありません。なかでも、孝明天皇の急な死を巡っては暗殺説が唱えられ、その首謀者の一人に具視も有力視されてきました。誰が得したか?の観点から見れば、開国を頑強に拒否し幕府を頼りとしていた帝に対して、倒幕を掲げていた薩長、岩倉等の討幕派でした。そこで、討幕派の暗殺では?という噂が今日までくすぶり続けて来た訳ですが、もちろん、陰謀論の域を抜けません。

暗殺説については幕末史の専門家でもないので、詳しいことはわかりません。また、その道の学者、研究家からいろんな説が唱えられているので今更素人の私が出る幕はないのですが、岩倉公の記事を書く流れ上、避けることもできず、少しだけ触れますね。

岩倉具視の義妹で女官であった堀河紀子が毒殺に加担した、との俗説もありますが帝が崩御された当時、堀河紀子は宮中にはいませんでした。具視と同じく蟄居していました。また帝の皇女を二人産んでいます。帝はお酒を好まれ、当時は政治の混乱期でしたから帝の気苦労も大変で毎夜12時まで深酒に及んだと言われています。それも体調を崩す一因にもなったと思います。

和宮の降縁で功をあげた具視に対し帝も信頼しました。また幕府に対して速やかな攘夷の詔勅をだしましたが、これには「10年以内にやりなさい」という付帯事項が添えられました。10年以内とは、実質、棚上げのようなものです。

帝は君主であり異国を侵入させない攘夷を国是として国内の世論をまとめる立場でした。当時の欧米諸国の侵略は、まず最初に通商から入り、担保付の高利な貸し付けを行い、返済できなければ債務の帳消しに租借地を得、そこを橋頭保にさらに浸食してゆく、というものでした。

帝は具視からもそうした情報を得ており、だからこそ、勅のなかに10年以内に外敵を追い返す力をつけなさい、という一文を加え、帝も260年間、大政を委託していた幕府の統治能力が必要だと考えていました。

朝廷主導の公武合体は孝明天皇のお考えであり岩倉具視も同じでした。

そもそも維新の尊皇攘夷の始まりは、嘉永6年(1853年)に来航したペリー率いる黒船艦隊です。ペリーは日米和親条約の締結を求め軍事的圧力で恫喝してきました。ペリーは取り敢えず親書を幕府に渡し、また来年来航すると言い残し、去る際にも江戸湾で艦隊の示威行動して帰っていきました。

対処に苦慮した幕閣の老中首座・阿部正弘は朝廷に意見を仰ぐという幕府開創以来なかった拠に出て、これで一変に朝廷の権威が復活するきっかけになりました。また朝廷だけでなく広く外様大名、町民にまで対応策の募集をするなど、とても自由な考えの開明派老中でした。その阿部正弘に同調したのが薩摩の島津斉彬や、松平慶永でした。個人的な感想ですが、この阿部正弘の自由過ぎる考えが倒幕を早めたと考えています。幕府だけでは対応できない・・・という権威の失墜を招いてしまったからです。でも、逆に言うと影の維新の立役者とも言えますね。

で、最初に行動したのが外様雄藩の大名。島津斉彬はその代表格。幕末維新は外様大名から始まったのです。

しかし、阿部正弘の急死と同じく斉彬の急死で、外様大名も含めた幕府大名連合で難局を乗り越えようとした策は潰えました。しかし、幕府だけでは黒船に対応できないことを知った全国の志士たちが活動を始めました。井伊直弼による弾圧もありましたが、直弼の暗殺によりさらに志士たちの「尊皇攘夷」運動が活発になりました。

「尊皇攘夷」を掲げる志士たちは多くが下級武士たちでした。その下級武士たちは尊皇攘夷の大義をかかげ徒党を組み藩にたいして圧力をかけていきました。たとえげ長州の藩主・毛利敬親などは、家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれたといいます。敬親の場合はいい意味での「そうせい候」で、自ら吉田松陰の門下生になるなど、身分の隔てなく有能な家臣を引き立てそれが維新に繋がりました。

どうも幕末の殿様は「良い人」っぽい面が無きにしも非ずですが、これも下級武士たちの突き上げには逆らえなかった。下手すれば押し込めされてしまう。そんな幕末の下克上があったと思います。

尊皇は幕末の倒幕・佐幕関係なくどちらも共有するものでした。ただ攘夷については現実には無理だと知っていても倒幕のため、藩での主導権を握るため、あるいは下級武士が伸し上がる方便として利用した側面もあったと思います。

それは公家の世界でも長く五摂家の門流で半ば家臣として奉仕してきた中・下級公家にとっても同じことが言え、岩倉具視も大原重徳と共に八十八卿列参事件(安政5年、1858年1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。関白・九条尚忠が勅許を与えようとしたことに多くの公家たちが集団で反対行動をおこした事件)を主導するなど、それまでの公家の上下関係を崩しました。これも一種の攘夷の名を借りた抵抗運動だったと思います。

薩長は倒幕を旗印に戦いましたが、実際には幕府に追い詰められた結果、倒幕に向かうしかなかった。一方、最後の将軍・慶喜は十分に薩長を倒せる軍事力を擁しながら一端、鳥羽伏見の戦いで具視が用意した錦旗が上がると朝敵の汚名を着せられるのを恐れ家臣たちを見捨てて江戸へ逃亡。ひたすら恭順の意を示すため謹慎生活に入ってしまった。これも元々勤王家の慶喜だから、ということもありますが、やはり内乱になることを恐れたからだと思います。本当のことは死ぬまで言えない「国家のため捨て石になってくれ」などとは死んでも言えないと思います。慶喜も違った意味で維新の功労者だったかもしれません。幕府側も薩長も他藩も武器を欧米から買うため借金するときもありましたが、あくまで担保の要らない範囲内に留めていました。外国勢力から港等を租借地として取られないようにです。現在進行形でスリランカなどその憂き目に合ってますからね。

維新時において不思議に思うのは、武士たちばかり目立つことです。農民も町民も、豪農や豪商までも目立ちません。長州の豪商であった白石正一郎など、長州藩や志士たちをかなり支援していますが明治になって得たものは赤間神宮の宮司。薩長の手づるを使えば政商にも財閥にもなれたかもしれません。でも宮司に徹しました。幼くして亡くなった安徳天皇をお祀りする・・・最後まで本当に勤王だったのですね。

維新には何らかの不文律があったのでしょうか。いくらお金を持っていても商人である以上志士としては認められない。逆にいくら貧乏な下級武士でも士分なら志士の仲間に入れる・・・みたいな。

話がだいぶ反れてしまいました。岩倉具視の話でしたよね。

具視にとって目指した王政復古とは何だったのでしょうか?

一つのヒントと思えるのは、明治2年の天皇の東京奠都の後、具視は京都に戻った後に突然病を理由に補相の辞職を求めています。輔相という職は国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職で、国政においてのナンバー2の高官です。病ということですが、思うに都を東京に移す遷都に反対だったのでは、と思います。

王政復古の旗印を掲げ維新を成し遂げたのですから当然、京都が中心であるという認識です。

そして政治制度として目指したのが太政官制度。太政官とは政体書によって設置された最高行政機関であり、立法・行政・司法の機能を備え、職名は律令制の名称がそのまま継承されました。政体書とは、 明治新政府が五箇条の御誓文に基づいて慶応4 (1868) 年閏4月 21日に発布した政体組織法のことをいいますが、要は五箇条の御誓文に基づいて天皇を中心とした律令制度の国家を再興しよう、との趣旨でこれがいわば王政復古の核心です。

律令制は典型的な中央集権体制で、遠く奈良時代から国家の根幹として制度化されたものです。「皆等しく」のいわば土地私有を制限した社会主義的な側面がありました。その要となるのが天皇です。しかし現実的にはやがて土地私有が許され貴族化し、さらに武士が台頭し、将軍による幕閣政治が始まりそれが維新まで続いてきた経緯があります。

いまさら、土地私有を禁じるなど無理なことですし、何より中央集権体制を維持するには強固な官僚制度が必要です。ですから明治新政府も幾度か太政官組織を改変しましたが、急激な時代の変化に対応しきれず、結果、明治18年の議会・内閣制度の導入、明治22年の大日本帝国憲法の発布により太政官制度は終りを告げました。ただ名称については昭和になるまで、たとえば現在の財務省は大蔵省という律令制度の名称をそのまま使いました。具視と同じ考えで公家で維新の功績により伯爵になった大原重徳も同様に「王政復古とは何だったのか!」と怒りをあらわにしましたが、もう周りが「王政復古など古い」という考えが主流になり、民権運動の広がりも相まって欧米の政治制度こそ導入すべきものとして日本的なもの、伝統が疎かにされるようになりました。

議会制度は民主主義に基づくものですが、民主主義そのものが最善とは思わない考えもあります。次善の策として真の政治制度が確立されるまでの暫定的な制度。という捉え方もあるからです。多数決ですから少数意見をどう吸い上げるか、得する者と損する者、ときにヒトラーを生み出してしまうような衆愚政治な側面。

人がみな平等なのは、産まれるときと死ぬときだけだ、という即物的な平等感もあります。

個人的には、フランス革命で叫ばれた自由と平等、友愛の精神よりも先に「慈愛、慈悲」の心を持つことが大事だと思います。また、それが日本的感性だと思います。自由と平等の概念にはどうしてもイデオロギー的な対立軸を感じてしまうからです。

岩倉具視晩年
岩倉具視の晩年の肖像写真.


先の大戦で負け、昭和天皇が人間宣言をされたとき、宣言文の最後に五箇条の御誓文を付け加えるよう要望され、添付されることになりました。天皇は、「民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたのであって、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」と、言われています。

岩倉具視にとっても同じ思いだったと思います。
ただ、それを太政官制度の下で成し遂げたかった・・・それが岩倉具視の見果てぬ一つの夢ではなかったかと思うのです。もちろん時代は変わっていますから、太政官制度に民意をどのように反映させるか、官僚をどのように登用するかなど、の諸問題はあったと思いますが、日本の伝統と文化、情緒に根差した制度を目指していたと思います。

それとともに、議会制度に当初反対していたのも天皇の存在、権限、権威を憲法でどこまで輔弼できるのか?また次代の天皇に不利なものにならないか、と、天皇の位置付けをかなり心配していたようです。公家らしい心配ですね。

見果てぬ夢は何も岩倉具視だけのものではなく、

たとえば、明治維新時、新しい時代の官僚に登用されるなどの恩恵を受けた武士は全体の三分の一だけだったと言われています。取り残された元武士には困窮する者も多かったといいます。その時流に取り残された士族、元武士をどう救済してゆくのか・・・それを一番心配していたのは西郷隆盛だったと思います。鹿児島に帰り私学校を起こしたのも元藩士に学問の場を作り職を得る手助けをしたい、という思いもあったのでは?しかし、現実は士族たちの不満を抑えることはできず西南戦争に至ってしまった・・・西郷は前線で指揮を執ることもなく部下に任せたといいます。口が裂けても言えない言葉。「国のため捨て石になってくれ、私も共にいく」・・・

木戸孝允は維新の日の目を見ることなく倒れた志士たちの無念を供養するため、京都東山に明治天皇の思し召しにより創建された京都霊山護国神社の整備に心砕きました。自身が病気だったということもありますが、心のなかには「自分たちだけ生きて申し訳ない」というまるで戦友に接するような晩年だったといいます。

そして、岩倉具視の晩年は現在に残る京都御所と御苑の保存・整備に心傾けました。また、元大名に比べ暮らし向きが豊でなかった公家出身の華族の救済にも力を入れました。

「御所の守り人」、それが公家・岩倉具視の最後のお勤めでした。


※追記(2018-09-12)

9日(日)のNHKの大河ドラマ「西郷どん」のなかで、徳川慶喜が薩摩を割譲の条件にフランスから大量の資金を得る密約が交わされ、それが西郷の耳にも入り「国を売るとは許せん!」となって一変に倒幕に舵を切った場面が出てきましたが、それってホントなのでしょうか?初耳です。ドラマ上でも根拠の不明な風聞になってますし。西郷を良い人に描こうとし過ぎて脚本に無理がある気がしました。幕末も戦国と同じで食うか食われるかの世界です。武士は戦いに勝って何ぼの世界ですし、西郷さんも、ありのままに描けばいいと思います。時に武力でなければ道も開けないこともあります。西郷さんだって鬼にもなれば仏にもなる。ハッキリ言えるのは西郷隆盛は余人をもって代え難しです。他の誰が代わりをできたでしょう。英雄は英雄ですよ。それと、竜馬暗殺の伏線にもなる終盤の描き方、次週、どうもっていくのか注視してます。


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コメント

NoTitle 

五反田猫様
コメントありがとうございます。

後宮の記事にコメント頂いたのに何か岩倉公の記事に付いてしまい失礼しました。ブログのスタイルシートの記事№の更新を忘れてました。

帝の御常御殿の御寝所ですけど、襖12面に虎の絵が描かれて怖いですよね。不届き者から帝をお守りする絵ですけど、女官も怖がるかもです。
  • 京一朗 
  • URL 
  • 2018年09月10日 23時25分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

京一朗さん 建築から見た比較というのは面白い観点ですね。 今まで宮廷の後宮についての論文もありますが、文学関連が多いので、新しい見方で楽しみです。

全編の図面をみて感じるのは、江戸の居住環境は貧しいですね。
急成長の都市では宿命なのですが、庶民は六畳一間に家族が住んでいるのですから、大奥でも似たようなものですね。
その点 御所では和歌を詠むには自然が必要で...壺は大事ですよね。

後半を楽しみにしております。
  • 五反田猫 
  • URL 
  • 2018年09月10日 08時57分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

五反田猫様
コメントありがとうございます。
伊勢にお参りすると、神域の厳かさと御神楽の音曲・舞に感激しますが、明治の日本、国家神道の導入、過激過ぎたかな。現在、信仰の自由の見地から公の機関が神社に地鎮祭をお願いしたりすると、左派の人たちから「憲法違反、信仰の自由を守れ!」とか声が出ますが、これも過激過ぎると思います。日本はやはり神道と仏教をベースに続いてきたのですから、この宗教風土を行政サイドでも大切にするのは大事だと思います。日本においての信仰の自由とは、その神道・仏教を風土のベースにしながら、一方で他宗教も自由に認める寛容さ。そのバランスが必要だと思います。何でも反対ではダメだと思います。
  • 京一朗 
  • URL 
  • 2018年09月06日 20時51分 
  • [編集]
  • [返信]

廃仏毀釈 

今でも海外で国宝級の仏像がオークションに出て話題になりますが、これらの殆どは、その時に流出したものですね。
大規模なものは、八幡、熊野、愛宕、厳島、諏訪など、明治以前は寺が主体だったものや、神仏習合だったものを、神社にするんだと塔や堂宇を毀った時に中にあったものです。
影響を受けたのは仏教だけでなく、伊勢講などは、伊勢神宮を天皇家の神社にする為に廃止、御師達は神宮神職になるか廃業の二択を迫られました。

明治維新の文明開化は西洋知識だけでなく、外来ではなく日本固有の神道への宗教革命でもありました。 キリスト教に対抗できる日本の国教を作ろうと壮大な構想のもとに、神祇官が復興、これは教部省となり、最後は内務省社寺局へとスケールダウンしました。 結局、国家が宗教に手を出して成功した例は少ないですから、日本でも同じでした。
江戸時代まで天皇家も公家も仏教の信徒でしたし、伝統仏教には、それだけの伝統の積み重ねとノウハウがあったのですね。 結局 信仰の問題は、心の中のものですしね。

明治の宗教改革は、調べているので、つい熱くなってしましました。
 
  • 五反田猫 
  • URL 
  • 2018年09月04日 08時45分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

五反田猫様
コメントありがとうございます。

明治維新で神仏分離令が出され、政府の意図を越えて廃仏毀釈が燎原之火のごとく全国に飛び火しましたが、あれは何だったんでょうか?

自分だったら、ご先祖様の位牌が眠る代々の菩提寺の仏様やお堂を壊すなど考えられません。ご先祖様が泣いているゾ、とは思わなかったのでしょうか?

それとも檀信徒の反感を買うほどお寺の檀家制度は腐敗していたのでしょうか?

それとも、神官たちが仏僧の上に位しようと煽動したのでしょうか?
それとも、維新に乗り遅れまいと、個々の人たちが暴走したのでしょうか?
日本らしくもっと宗教に寛容なはずが、維新は人の心まで変えてしまったのでしょうか?

先の大戦で、あれほど鬼畜米兵と言っていたのにイザ負ければ掌返しに戦前は軍国主義の悪い国だったと競って言い合うなど、何か情けないですね。
また、愚痴でした。すみません。
台風気を付けてください。
  • 京一朗 
  • URL 
  • 2018年09月04日 00時57分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

尊敬する岩倉公の事を取り上げて頂き、有難うございます。
この人の先進性は、王政復古といいつつ、旧来の公家社会の問題点を理解し、排除した事とおもいます。
すでにお書きになっているように、摂家による二重支配「門流」の廃止。 そして臣下による摂政と、関白の廃止。

これにより、天皇の元に臣下が働く体制、ここに四民平等が加われば、立派な近代的国家の基礎が出来ました。
今の大河ドラマでは、何とも怪しいオッサンで、金に汚いように描かれていますが、多分 明確なビジョンは持っていたと思います。 それだけに、維新後の京都の凋落や、公家文化の衰退には心を痛めていたようですね。

多くの人々が「文明開化」の名の元に、古いものを捨て、新しいものを求めてゆく中で、失ってはいけないものに目を向けていたのは、やはり素晴らしいと思います。


  • 五反田猫 
  • URL 
  • 2018年09月03日 14時36分 
  • [編集]
  • [返信]

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