FC2ブログ

3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

Entries

公家町土地区画整理事業事始め 補遺(絵図編)

予め申しました「公家町土地区画整理事業事始め」の補遺(絵図編)を書きます。
前も書きましたが幕末はそれこそ日替わり弁当のように明日は何が起こるかわからない激動の時代でした。ですから京絵図や内裏・公家町を描いた内裏図なども頻繁に改訂版が出ました。

しかし、1868年の慶応4年から明治元年に代わると絵図の改訂ラッシュも終わります。絵図というよりも本格的な京都の地図が刊行されるようになるのは明治10年以降です。

明治元年から10年の間は京の変革に伴う混乱期でもあり絵図の出版も少ない時期でした。それでも急造感はありますが幾つか刊行されてます。

それらの絵図を時系列に載せ、自分なりに解説を加えていきますね。

ではまず、最初はもう何度も出してます「文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)」、そして同じく慶応4年刊の「京町御絵図細見大成」を再度掲載し、そこがどう変貌してゆくのか解説します。(クリックすると拡大します)

内裏・公家町絵図の方から始めます。
文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)
文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版

そして明治2年刊の「京都町組図略」。
明治2年刊京都町組図略
「京都町組図略」

昭和22年に京都市がまとめた「京都市史 地図編」に所載されている絵図です。もう70年も前に編纂されたもので、みな、白黒です。開くと埃が出て思わず咳をしました。

昭和22刊京都市史 地図編表紙
「京都市史 地図編」の表紙

地図は色分けしてありますが、これは番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)といって、明治維新後の1869年(明治2年)、京都の町衆たちの手によって、江戸時代からあった住民自治組織であった「番組(町組)」を単位として創設された64の小学校の学区別にわかるよう色分けされたものです。小学校と自治行政がセットになってます。

ですから、この絵図は京都の明治への幕開けを告げる絵図といえます。

で、そこから御所周辺をクローズアップしてみます。御所周辺の番組は、 室町(13番)が御所の北、東が京極(28,29番)、西が滋野(18、19番)、南が梅屋(20番)等になります。記事で何度も書いてます下長者町の中院家屋敷も、滋野の19番地にあたります。
明治2年刊京都町組図略(拡大)
明治2年の御所周辺のクローズアップ

まだ廃藩置県前の明治2年ですから幕府機関の名称が消えたぐらいで公家町にそれほど変化はありません。でもこの2年、天皇が東京へ行幸、そしてそのまま政府機関も東京へ移り、東京奠都が実行されました。公家はじめ保守派には根強い奠都反対論があって京の都は混乱気味でした。公家町はそのさなかの、風前の灯火ともいえる最後の姿を伝えています。もう公家のなかには東京へ住居を移す家も出ていましたからね。

そして数年が経ち、明治6年刊行の「京都大絵図」に描かれた京都。大政奉還後、太政官代と書かれていた二条城が京都府に代わってます。政府が東京に行ってしまいましたからね。
明治6年刊行京都大絵図
明治6年刊行の「京都大絵図」

これも「京都市史 地図編」からの引用なので白黒です。大き過ぎてわからないので例によって御所周辺のズームへと参ります。
明治6年刊行京都大絵図(御所周辺)
明治6年の御所周辺図

明治2年のと比べると、ボツボツ公家町に空き家、空き地が出てきます。たとえば南の丸太通りに接した九条家邸は家名の記載がありません。九条家はわざわざ家ごと東京へ引っ越しました。だからというか今も上野の国立博物館の敷地に一部が「九条館」として残ってますよね。

目立つところでは加茂川(賀茂川、鴨川は少し上流を言うらしい)沿いの伏見宮邸、梶井宮邸、日光里坊。さらに南の二条家下屋敷、山階宮邸とかもない。細かいところでは御所東の学習院(公家学校)や南の公家・風早家の隣・長谷家がない・・・。御所下の有栖川宮邸は京都裁判所になってます。藩邸では中院邸の北向かいの水戸藩邸が消えている。後、仙洞御所の東にあった禁裏付の武家屋敷邸群も消えている。鴨川対岸にあった九条家の下屋敷邸も空欄になっている。丸太通り下の近衛家河原邸は女紅場(女学校)になっている。という感じで空き地、住所不明。、民間への売却・払い下げが進んでいます。

また同年、二回目の京都博覧会(一回目は西本願寺)がいきなりというか京都御所・大宮御所で開かれています。公家町が京都の新しい産業経済の波に飲み込まれていく感じですね。それにしても、いくら天皇が東京に遷られても京都における行在所には変わりないのに御所で博覧会を催すなど、この不届き者! とも言いたくなります。福沢諭吉だって「和魂洋才」が大切だと言ってるじゃないですか。せめて御所は政経とは離れた環境にしてほしかったですね。

それでは、翌年の明治7年の「京都絵図」。上記同様「京都市史 地図」から引用。
明治7年刊京都絵図

これもデカ過ぎてわかりずらいので御所周辺へ拡大。

明治7年刊京都絵図(拡大)
明治7年の御所付近図拡大

何と!公家町が空っぽになっているぅ! 悲しい・・・。
前年6年の絵図では所々抜けてはいたけどまだ公家町として存在していたのに、この一年の間に何があった?やっぱ、上知令とかで競売にかけられ猛烈な勢いで撤去、乱開発されたのだろうか? 九条邸の跡だって料亭になってしまいました(だから拾翠亭が残ったかもですが)。にしても激し過ぎる。そんなに急がなくても・・・・。と思うのですが、やっぱり人が住まなくなると家というものは一気に廃屋化して治安上も宜しくないのかな。でも、幾らか残して行政・公的施設として活かす道はなかったのか? えぇっ!槇村知事殿!(逸話:「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆の諸行事を禁止した。そんな人)。

旧九条邸池
料亭になった九条家屋敷。池越しに拾翠亭が見える

でも空っぽすぎる。ホントかな?絵図合ってますよね?明治7年で合ってますよね?。確か明治10年の御苑整備事業(大内保存)で残る公家屋敷も撤去された、と記録に残っており、それからすれば空っぽ過ぎるのでは? 適当かな?とも思いますよ。まぁ絵図は絵図か・・・な。

気分を取り直して、次、明治9年の絵図にいってみます。
京都区分一覧の図(明治9年・御所近辺)
明治9年に刊行された京都区分一覧の図の御所近辺の拡大図。

これは昭和51年に臨川書店から刊行された「新修 京都叢書」の第23巻の古地図集のなかの絵図です。白黒ではありますが細かい文字までわかる精緻な絵図です。


ちなみに同絵図の装幀は、
明治9年刊京町面絵図面細見大成表紙
こんな感じです

で、絵図を見ていくと、加茂川に近い方に「御用邸」とありますね。皇族の方の宿泊所になっていたのでしょうか? 御用邸の下に公家の愛宕家、それに長谷家もあります。えっ?、いつのまに御苑の外に屋敷を構えてた? 京都に残る覚悟を決めていたのかな? うん? 愛宕家も今の御苑内じゃなかったっけ? さっそく、愛用の「文久改正内裏御絵図(慶応4年丁版)」の公家町外堂上一覧を見る。やっぱり載ってない。東京は「や~だね」ということか? ちなみに京都に残った公家は冷泉家だけでなく後に京都に戻ってきた公家さんも含めて36家ほどあります。(その36家の公家屋敷遺構は残ってないのだろうか? もう霞会館かご子孫に伺うしかないかも・・・でも、自分にそんなツテもないし)

いきなり、というか元公家町のなかを水路らしきものが描かれてますね。辿っていくと鴨川に繋がります。やはり水路。排水路かな?生活水路かな。調べてみると、どうも禁裏御用水と言って明治時代まで使われていた水路らしい。禁裏御用水は、加茂川の上流から2本の水路で分流され、相国寺の北側に沿って境内を横切り、今出川を越えて御所まで引かれていたそうです。敷設されたのは、豊臣秀吉により京都が大改造された桃山時代からと結構古い。御所の建物や敷地塀のまわりの側溝を流れ、庭に引いたり公家町を巡って後は市中に流れていったものだそうです。知らなかった。幕末の内裏絵図にも全然載ってませんからね。やっぱり明治だ。(mixiの琵琶湖疏水コミュさんから引用させて頂きました)
琵琶湖疎水の第一疎水が完成した明治23年の翌年には御所用水として新たに御苑内に送水されたそうです。

次の絵図・明治12年刊行の「明治12年改正再刻京都区組分細図」をみていきます。
明治12年改正再刻京都区組分細図
明治12年改正再刻京都区組分細図(国際日本文化研究センター所蔵)

この絵図はカラーでお見せできました。前述しました町組制度に沿って色分けしてあるのがよくわかりますね。

で、これも御所周辺の拡大図に移ります。
明治12年京都府区組分細図(御所周辺)
明治12年改正再刻京都区組分細図の御所周辺拡大図

見ると、えらいカラフルになってますね。主な建物も具体的に描かれてますね。御所の北・旧准后御所跡は師範学校になってます。有栖川宮邸は相変わらず裁判所。加茂川沿いの空欄になっている旧伏見宮邸、梨本宮邸(梶井宮から名前が変わった)の隣の元日光里坊の跡は療病院になってます。元公家町を通っている御所用水もより明確に描かれていますね。旧九条邸は幾つか建物が描かれていてやっぱり料亭になっていたのですね。うん?長谷家が消えている。

面白いのは、加茂川対岸に巨大な「釣生洲」が突如出現していること。しかも三階建ての高楼まで建っている豪華な料亭です!。幕末、ここは何があったんだろう? 幕末の絵図まで遡ってもやはり空白地帯。町屋町だったのかな?九条家の下屋敷があった付近にも思われるのですが。
釣生洲というのは、川魚料理をメインにした会席料理の店、料亭のことで、今も夏の風物詩となっている鴨川に迫り出した川床の懐石料理。それらと共通した京のグルメ処だったんですね。

そして時は巡り少しおいてご紹介するのは明治18年刊行の「京都區組明細圖・ 改正新版」(国際日本文化研究センター所蔵)の御所周辺の拡大図。
京都區組明細圖・ 改正新版(明治18年)
京都區組明細圖・ 改正新版(明治18年)・御所付近

明治12年の絵図よりも御所周辺がスッキリした感じですね。
明治天皇が旧公家町・御所の荒廃を嘆かれ改めて整備するようお命じになったのが明治10年から始まった「大内保存事業」。その結果、御苑内で御所が類焼しないよう有栖川宮邸、また元々准皇后御殿で後に師範学校になっていた建物も撤去。料亭に使われた九条邸も拾翠亭や厳島神社を残して撤去。有栖川宮邸は主屋が現在の烏丸通に移築され長く京都地方裁判所の所長宿舎として使われてきましたが現在は「有栖館」として保存利用されています。
加茂川対岸にあった豪勢な釣生洲が消えてますね。潰れた?

大内保存事業で撤去されなかった宮家・公家邸は、桂宮邸、閑院宮邸、賀陽宮の三邸だけです。このうち桂宮邸は二条城へ、閑院宮邸は宮内省の京都支所として利用、かなり改変されていますが今も残り一般に公開されてます。ただし、畳の部屋もないですよ。まるで学校の廊下と教室を歩くような雰囲気です。風雅はないです。流石に正門は立派ですよ。あれ?でも、戦前、華族會館京都支所として使われていた御所北、今出川交差点角そばにある門は閑院宮邸からの移築と聞いてます。では、今の閑院宮家の門はオリジナル? なんかよくわかりません。三つ目の賀陽宮邸は明治末まで残されますが大正天皇の御大典後移転され今は存在しません。

賀陽宮本邸
賀陽宮本邸の門

御苑内のものか今一つハッキリしません。賀陽宮は中川宮という方がわかりがいいかもです。幕末、幕府寄りの公武合体派であったため明治になって日陰の身に・・・、そんなこともあって明治末まで京都に留まっていたんですね。

仙洞御所の南には新たに明治14(1881)年、常設の博覧会場が建設され以後明治30(1897)年に岡崎(現左京区)に博覧会館が新説されるまでここで博覧会が開かれました。絵図にはその常設会館が載っていますね。で隣には「観象台」が載ってます。天気予報を予測するところ、今の気象台ですよね。正直、何でこんなところに建てたんだ。という感じですが、命じたのはやはり合理主義の権化?槇村知事でした。彼は京都の発展に貢献した人物ですが、一方、日本の文化・伝統には無頓着でした。

京都博覧会常設会場
京都博覧会用の常設会場の図面

その後の公家町、今の京都御苑は博覧会館や観象台も他に移され、大正天皇の即位のときに大規模な再整備が行われ現在の形が整いました。くどいようですが、御苑として公園化されたことは素晴らしいと思いますが、何もすべての公家屋敷を撤去する必要はなかったと思います。御所だけポツンと残されてもお可哀そうじゃないですか、お付きの公家屋敷も幾つか残されていれば、京都の中心にもっと緑豊かな歴史的・文化的景観が残されたと思います。残念ですね。

旧桂宮邸の門

先日訪れた、この屋根に白いシートが被せられたのは旧桂宮邸の門です。軒も痛んで傾いています。早く修理してほしいです。中にあった御殿は二条城本丸御殿として移築されています。明治以後、二条城は離宮とされましたから移築されたのだと思いますが、二条城にはすでに豪華な二の丸御殿があります。そこへ移しても影に隠れるだけです。御苑に残されてこそ宮邸の雅さが伝わります。

それから移された御殿は耐震不足ということで非公開になってます。もう何年経つでしょう?。元々、御殿の屋根は杮葺きの瀟洒な屋根でしたから瓦葺では負担もかかると思います。一番の耐震は杮葺きに戻すことだと思いますよ。もう、再度、御苑に戻してほしいですよ。一時、公明天皇の仮皇居になり和宮も住まわれた由緒ある建物ですし。

なんか愚痴になってしまいましたが、絵図を通して自分なりに幕末維新の公家町の推移を眺めてみました。

最後に、大正4年ごろの京都をしめした地図(京都市編 京都の歴史 第八巻・古都の近代から引用)を掲載します。
大正4年ごろの京都
大正4年ごろの京都をしめした地図(京都市編 京都の歴史 第八巻・古都の近代から引用)

公家町の面影はもうないですね。加茂川沿いに伏見家、久爾宮家の別邸があるくらいです。二条城の隣上には大きな監獄がありますね!1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦の捕虜収容所も兼ねていたのかな?

地図からはいろんなことが想像できますね。後は読まれた方それぞれで読み取ってみてください。

それでは次回からは公家町土地区画整理事業の具体的な線引きに入っていきたいと思います。
ここまでの駄文のお付き合い、ありがとうございました。


コメントの書き込み&閲覧はこちらから


ランキングアップします。ポチっと一押しお願いします!





関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

トラックバック

トラックバック URL
»»この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

左サイドMenu

ブログ内検索

短歌も詠います

短歌一覧はバナーを押して下さい。

タグ一覧


全記事(数)表示

全タイトルを表示

※表示しきれない記事タイトルは「前ページ」で見れます。

プロフィール

梅村京一朗

Author:梅村京一朗
(けいいちろう)、
寝つきの悪い夜は、いにしえの京を想いながら寝ます。すると鼓の音のように京の日々歳々が甦ってきます。・・・浅き夢みし男のブログ語りです。

お問合せメール

名前:
メール:
件名:
本文:

最新コメント

<>+-

ブロとも申請フォーム

アンケート

今日の言葉

京都お役立ち情報

短歌ブログランキング

マーケット情報

QRコード

QR

ブロぐるめLite


写真提供 ホットペッパー.jp
Powered byリクルートWEBサービス
developed by 遊ぶブログ

右サイドメニュー

最新記事

カテゴリー

openclose

人気ページランキング

開始日:2016/11/6

ブログパーツ

キーワード別記事リスト

月別アーカイブ

カレンダー

08 | 2018/09 | 10
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索・買物に利用して下さい

日本史ブログランキング

FC2カウンター

ブログ開設より2017年12月25日までのトータルアクセス数は11万近くを数えました。お礼申し上げます。リセットされた状況は下段に説明しています。

泣く‼ カウンターがリセット!

SSL(暗号化)に対応するためカウンターを一旦削除。再設定したらリセットされ「0」に・・・大泣き‼

2017/12/25日までのトータルアクセス数(一人一日一回のみカウント)は11万近くありました。最近はSSL等の影響でfc2のカウント数と実際の解析によるアクセス数の乖離が大きくなっています。日によりfc2の2~3倍が正味カウント数となっています。2018年を迎えたら、さらに2.5~6倍もの開きになっています。キーワード検索も表示ゼロで、どんな記事、内容に関心があるのか?こちらでも把握できていません。良い記事を書くための参考にしたいのですが・・・残念です。とりあえず現況をお伝えしました。