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3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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『文久改正内裏御絵図』を落札しました!

昨夜11時、ヤフオクで『文久改正内裏御絵図』を落札しました! 
落札額

落札額は5500円。

最初は2000円から始まって最後は5500円。無事落札できました。
入札
入札はほぼ6人ほどの間でデッドヒートし、最終は1万円越えかな、と思いましたが越えずになにより。絵図って結構人気あるんですかね。

落札した絵図は、ちょうど「新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった!」で、証拠材料の一つに使った絵図ですからグットタイミング! 「京都市歴史資料館」の蔵元図に比べれば色落ち、剥離、欠けなど保存レベルは低いですが、それでも当時の生本物・木版刷なので嬉しいですね。サイズも36×50cmと大きいので判読もバッチリ、見て楽しい絵図。(まだ受け取ってないですけど)。
同資料館のに比べれば、左に添え書きしてある禁裏・公家町外の一覧図がないのは残念ですが、とにかく、偶然に生の幕末に触れた感じで良かった!

禁裏御所附近絵図■36×50cm■木版彩色
こんな感じ。

この禁裏・公家町絵図は江戸期を通じて40種ほど出ましたが、そのなかでも文久、慶応のわずか6年間に改訂や新版を合わせると17種も出て当時・幕末の激動と激変をまさに表しています。
これら絵図のなかでも最も爛熟期に達したのがこの「文久改正内裏御絵図」。多色刷を駆使した豪華さ、各屋敷の家領国高、家紋、正門の位置まで描かれまさに江戸の最後を飾る最高級品でした。版元は平野屋茂兵・小川彦九郎で最も人気を博しました。

でも、文久改正内裏御絵図、立て続けに4~5回ほど改訂され、それこそ同じ年に出されたものもあり、月単位の時代特定もままならない代物。

そこで、他の絵図も含め、中院家の変遷をキーワードに幕末絵図を追ってみます(いずれも図の左が北になります)(以下は主に京都市歴史資料館蔵からの引用)

まず、安政2年(1855年)の内裏図から、
安政度内裏図(2年1855年)
安政度内裏図(安政2年、1855年)。

内裏の左上、実際の位置は北東の角が大きく欠けています。これは鬼門封じではなく土地そのものが欠けています。内裏だから正四角形が当然だと思いますが当時はそういうこと気にしなかったんですかね?

次から公家町の推移をみてみます。最初に天保8年、1837年頃の「禁闕内外全図」から。
禁闕内外全図(天保8年・1837年)囲み付
禁闕内外全図。天保8年、1837年の木版。

天保8年、1837年頃の内裏・公家町絵図には公家町内に中院家屋敷が二カ所あります(いずれも赤で囲ったところ)。御所の北東(猿が辻)少し上と御所南下にありますね。

次に、文久3年、1863年頃の内裏図(池田奉膳蔵版)、
内裏図(文久3年1863年)池田奉膳蔵版(囲み入り)
内裏図(文久3年1863年)池田奉膳蔵版)

中院家屋敷は内裏の北東、図で見ると内裏の左上にありますが(赤で囲った所)、もう一つの御所南(新在家町)の屋敷は消えています。隣家の清水谷家と綾小路家に吸収された感じです。文久前の安政2年に同屋敷の一部が返上されていることも影響しているかもです。内裏は北東角地はやはり大きく欠けています。公家町外(下長者町通)に下屋敷はまだありません。

次に、内裏細見之図(慶応2年-1866年)、慶応2年(1866年)のもの。
内裏細見之図(慶応2年-1866年)_囲み

ここでは中院家屋敷は内裏・公家町内に二カ所あります(いずれも赤で囲ったところ)。公家町外の下屋敷はまだありません。御所の南・新在家町(図では右)に一邸、そして御所の北東角、猿が辻と真向いに位置する所にもう一つ。下屋敷的扱いかと思います。ただここの屋敷地は文久3年版の内裏図では有栖川家の屋敷になってました。それが中院家に替わり有栖川邸は御所の道を隔てた直ぐ南に移り、屋敷も大きく拡張大されてます。御所の北東角の大きな欠け地はすでに拡張され正四角形になっています(慶応元年に拡幅された)。そこになぜか中院家の屋敷だけはみ出ています。ただでさえ御所が拡張され道幅も狭くなっているのに何故わざわざここに?、まるで一時的な住まいみたいです。

そして今回落札した、同じ慶応2年に出された文久改正内裏御絵図、
文久改正内裏御絵図(1866年)の中院家
文久改正内裏御絵図。

この絵図では、御所北東の屋敷はなくなり、同じ御所南の中院家邸も消えて新たに公家町外、今回の対象になっている下長者町通(現在の護王神社)に本邸を構えています。
手元の絵図で見る限りはこのような推移になっていますが正直混乱してきました。
改めて中院文庫の拝領記録を見てみると、御所南の新在家町の屋敷は明和2年(1766年)に拝領され、その後、安政2年に(1857年)同土地の一部が返上されていて、慶応2年に新たに下長者町通の屋敷を拝領しています。
ただ、文久3年の内裏図(池田奉膳蔵版)には御所南の新在家町の屋敷は載っていません。でも明治4年の上地令には所有物件として記載されています。拝領の文言には「御届出書」とあるので、上知令が出る前の拝領地の確認だった、ということも考えられます。

また御所の北東・旧有栖川宮邸にあった屋敷は下長者町通の新邸が出来上がるまでの仮住まいだった可能性もあります。上述しましたように立地が不自然ですからね。それと安政2年の新在家町の屋敷の一部返上も本邸を下長者町通に移した理由かもしれません。

下長者町の屋敷の拝領時期が届け出た日付と同じ慶応2年10月とすると、元治の大火には被災していないことになります。個人的には元々ここには、中院家が買得した抱え屋敷があったのでは?と推測しています。ですから大火で焼け、しかも公家町にはほとんど類焼しなかったこと。その辺の経緯があって弱り目の幕府も公家の中で上位の中院家にご機嫌を取る必要があった。結果、中院家でも公家町内では手狭で理想の復古屋敷を建てることは難しく、下長者町通の広い拝領地で実現することにした。言い方は悪いですが、焼け太りを上手く利用した・・・と思うのですが、これって私にとってかなり都合のいい解釈なんでしょうか? 多分、そうですよね・・・。でも何度も言いますが上質な指図を見ていると、そんな思いが付いて離れないのです。

先日、ブログで「被災した」と書いた手前、恥ずかしい次第ですが、まだ拝領の日付と絵図との整合性を確認できてないので訂正に躊躇しているところです。
指図に戻りますが、裏書のトップには代々、江戸幕府の大工頭を務めた中井の名と棟梁とあるので、土地の拝領と屋敷の新築はセットだったのではと思います。今、言えますことは、下長者町通は元治の大火(1864年8月)で焼失していて中院邸の建築が元治以前には遡らないということ。指図が明治4年の上地令の届け出と同じ内容の面積・形状と建坪であること。以上の観点から、「中院家指図は幕末最後の公家屋敷」であることに変わりはないということです。

※追記
今回の禁裏・公家町絵図ですが一つ共通している所があります。なんだと思います?
実は~いずれも北東の鬼門(画面では左上)に触れる公家町地域は見事なほど明地になってます。公家町の外に家を持ち御所に通うのも大変だし、ここに引っ越してきたら・・・と思うのですが誰も戻りません。家相にそれほど拘らなかった江戸時代でも鬼門だけは頑なに恐れたんですね。260年間も明地だったとは、驚きと同時に誰も「貧乏くじ」を引かずに済む平等?なんかお公家さんらしい平和な時代でしたね 笑。


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