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3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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新発見!! 中院家指図は幕末最後の公家屋敷だった! 後編

後編となりました。
後編では中院家の指図に集中します。

さて、問題の中院家の指図ですが、
先回も書きましたように京都大学の「中院文庫」のなかに所蔵されています。
中身は「当家拝領屋敷」として、明和度下屋敷一袋にまとめられています(図はクリックするとどれも拡大します)。


中院家下屋敷明和度下屋敷一袋(表紙)


年次的には明和度(1764年)から慶応2年(1866年)にかけて行われた中院家・拝領屋敷の替地の記録と、替地を証明する禁裏付き武家等の裏書きした証明文を添え、それに屋敷指図が二つ差し入れてあります。
正直、替地の流れが順不同な所もあってわかりずらいです。
要は公家町における中院家の屋敷の移転を記録したもので下屋敷も幕末には本邸扱いになるなど一定ではありません。基本的には中院家は屋敷を二つ抱えていました。

その点について、中院家の場合も江戸時代、数十と発行された内裏・公家町の絵図から移転の流れを確認した方が掴みやすいと思いますので、同絵図をもとに簡単に中院家の推移を書きますね。
まず、延宝5年(1677年)の絵図には内裏の北東、鬼門(猿が辻)近くに屋敷がありました。下屋敷は見当たりません。次に宝永6年(1709)のものには、鬼門近くと当時の譲位後の東山院の御所(内裏の南)の南側にある屋敷と二カ所ありどちらが本邸か今いちよくわかりません。天保8年(1837年)も東山院の旧地が御花畑と言われる明き地になったせいもあって御所南の屋敷については少し南に移転しましたが公家町に二軒屋敷を所有しているのは変わりありません。

それが文久3年(1863年)になると、御所北東の屋敷は変わらずありますが、御所南側にあった屋敷が消えています。ただ公家町から烏丸通を隔てた下長者町(現在の護王神社)には新たな下屋敷がすでにあって二邸所有には変わりありません。
三年後の慶応2年(1866)になると御所鬼門の邸も消えています。これは内裏の北東面が大きく欠けていたのを正四角形(猿が辻は除く)に拡張したことによる立ち退き。中院家は度重なる替地によって公家町からはみ出てしまったのです。
でも、その分というか、公家町外の下屋敷(事実上の本邸)が1172坪の面積へと拡張しました。


文久改正内裏御絵図(1866年)の中院家
文久改正内裏御絵図(1866年)。


赤で囲った所が公家町からはみ出た中院家屋敷(文久改正内裏御絵図より引用、 慶応2年頃。京都府総合資料館所蔵)。家紋入りなのでここが実質本邸。現在の護王神社の境内が屋敷地だった。

この拡張には元治元年(1864年)の禁門の変による兵火で京都の南・今の京都駅あたりまで延焼した際、内裏・公家町のほとんどは類焼はなく無事でした。しかし中院家は戦いの中心部・蛤御門に近く公家町の外だったことも手伝って焼失してしまいました。(前編で掲載しました京都指掌図 文久改正の元治の大火図を参照してください)。

公家町からは追い出され(結果的)、火事には遭うはでとんだ災難でしたが、さすがに幕府・朝廷も捨て置けず同下長者町の屋敷を改めて拝領する形で拡張しました。焼け太りといったら失礼ですが、建物もかなり立派なものに再建されています(指図から見るに)。

では、新屋敷の御殿はいつ建てられのか? 
まず拝領し直し敷地が拡張されたのが慶応2年10月(1866年)。
中院家下屋敷届け出(1172坪)


再拝領され拡張された烏丸通下長者町の宅地図。敷地は1172坪で西側の凸を除いて南北34間、東西32間のほぼ正方形に近い敷地形状です。東側が御所と接する烏丸通、正門もこの通りに接しています。地番に拾九番組とあるのは明治以降の小学校の校区を番号毎に割り振った番組制のことを言い、江戸末からその原型がありました。御所の西あたりはちょうど19番組にあたりました。
中院下屋敷南側替地裏書(慶応2年-1866年)

上記拝領を証明する裏書の内容です。慶応2年とあります。


そして、再拝領された屋敷を一枚に分かりやすくまとめた敷地図。
幕末中院家下屋敷の敷地図

どうでしょう?

改めて指図をアップします。
中院家下屋敷指図(明治4年)

拝領した屋敷地の面積と形状、そっくりではないですか?
というかまったく同じです 笑。

敷地的にはピッタリ符号しますが、
じゃ、肝心の建物はいつ? となる訳ですけど・・・。

当時の時勢を時系列にみていくと、
慶応3年10月14日(1867年11月9 日)、徳川慶喜によって朝廷へ大政奉還がなされる。
明治元年/慶応4年1月3日から 6日(1868年1 月27日~ 30日)、鳥羽伏見の戦い。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められ、同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。そして明治4年に政府から上地令が出され京都の公家・藩屋敷が収公される。

と、まさに風雲急を告げる幕末・明治維新です。建てる時間などあったのか?と疑問さえ出てきますが、それでも時期を探っていくと、慶応2年10月の屋敷拡張から慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いが始まる前の僅か一年と数か月の間しか建てるタイミングはなかったのではないかと思えてくるのです。この間には大政奉還もあって、公家の間には不安と同時に維新という時代への高揚感はあったと思います。ですから、一気に建てたかもしれません。

それでも、本当に指図にみるような立派な公家屋敷が再建された?
と半信半疑な気持ちに一つ終止符を打ったのが
明治4年に布告された上地令。京都府総合資料館で保存している「華族建家坪数控」に記録されています。

中院家1
「華族建家坪数控」の中院家の文面一枚目。
中院家2
「華族建家坪数控」の中院家の文面二枚目。

この布告により京都の公家屋敷や諸藩の屋敷も政府に収公されることになりました。
各屋敷から土地面積と建坪を記した申告書が出されました。
中院家の屋敷も当然、届け出がありました。
このときの土地面積と形状、そして建坪が指図とピッタリ一致するのです!
とくに主屋の建坪、それに二階も。後の付属屋も土蔵と納屋の違い、あるいは一部の改変などあると思いますがほぼ同じ面積。


申告ですから出鱈目は書けません。
現実に幕末最後に建てられた公家屋敷。しかもその指図が残っていた!


そう私は結論付けました。

さぁ、ここから指図の中身について自分なりの意見、感想を書いていきます。

まず、指図についてエリア分けしたものを載せます。
中院家下屋敷指図(明治4年)_色分け

青で囲ったエリアが公家空間黒が書院造エリア緑が家臣、家政エリアそして赤がプライベートな奥向き空間。ざっとこんな感じに分けることができると思います。
全体的な特徴として言えることは基本は書院造ですが寝殿造をイメージさせる雰囲気が全体的に漂っていることです。

現在の京都御所は焼失により安政度(1855年)に建てられたものですが、そのベースとなったものは寛政度(1790)の御所です。寛政度のものは公家の裏松光世による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式でとくに紫宸殿と清涼殿は平安の寝殿造を基調としてました。それが安政度にも踏襲された訳ですが、これは何も御所だけのことではなく公家の世界でも自らの矜持とアイデンティティを見出すため平安への復古思想には強い憧れがありました。具体的には摂家住宅の寝殿や中門廊に寝殿造の様式を取り入れました。ただ実際にそこで住むのではなくもっぱら儀式空間、公家の体面としての建物でした。実際には寝殿と書院が併存する形をとりました。やはり住むには畳が敷かれ建物が幾部屋にも仕切れる書院造りが便利だったからでしょう。
寝殿造と書院造りの違いは何? 単純に思いつくのは寝殿造は板間、天井がない(化粧屋根裏はある)、御殿の間仕切りがなくワンルーム。建物の主(あるじ)と用途に従って建物が対になり渡り廊下で繋ぐ。渡り廊下は中門廊を経て泉水の釣り殿・泉殿に至りそこで遊興を楽しむ、というイメージなのですが、近世の書院については、上記とダブりますが、たとえば常御殿のように一つの御殿で起居し飲食し応接し学問に励むといった、御殿を幾つもの部屋に仕切って実用的に住む、そんなイメージを抱きます。

今回の中院家の指図を俯瞰すると各御殿が渡り廊下で繋がれ、寝殿もあり片翼だけど中門廊も付いているなど、少しでも平安の復古と雅を表現してみようという一般堂上公家の意気込みが伝わってきます。

それでは指図から描き起こした間取りに従ってご案内します(例によって現代なら不動産価値にしていくら、などと下世話なこと書いてますがご容赦を)。描き起こした間取り図。
中院家指図描き起こし図(2018-02-04訂正)
中院家指図から描き起こした2D図。

烏丸通、東側から正門である四脚門を潜ります。四脚門は門のなかで最も格式の高い門と、とくに平安の貴族には好まれましたが、この中院家の門は、門が塀から少し奥まった所にあり両脇を袖塀が囲むという、まるで格式の高い寺のような格調と威厳があります。当時の公家町のなかでも珍しかったのではと思うと同時に、やはり中院家の公家屋敷の本領に拘る意地を感じますね。

門を抜けると素直過ぎるほど真正面に玄関・車寄せがあります。まさに武家好みの書院玄関です。南側下には番所、その南には輿車舎があります。主人のための牛車、あるいは輿を収納するスペースです。ここにも拘りがあります。ちなみに牛車ですけど、平安の貴族に好まれた牛車ですが、室町の武家の世になってからは将軍だけしか乗れないようになりました(こんなこと考えるのはきっと義満だな)。

そうそう真南になんと台所があります! 現代の一般住宅ではあまり考えられないことです。夏場、食べ物腐ったりしなかったかな・・・と、思わず心配してしまいますね。当時は家相など鬼門だけは重要視しましたがそれ以外はとくに拘りなし。敷地が広く拝領屋敷ということもり、間取りはけっこう自由度があったみたいです。

北に向きを変え車寄を横目に中門を潜ります。ここから寝殿にかけてがまさに寝殿造のアイテム。本来ならここから東側にも中門を挟んで渡り廊があり釣り殿に繋ぐという按配なのですが、そこはいろいろ制約がありここでは片翼の中門廊だけ。でも意気込みは感じます。きっと、儀式などでは牛車(輿)で中門を潜り寝殿正面の階(きざはし)に横付けしそこから昇殿という流れだったと思います。ちょっとマニアックな事いえば、隣の書院内の廊下は畳敷きです。一方、寝殿は板間です。こんなところにも違いを見せています。また寝殿には当たり前かもしれませんが床の間がありません。書院と横並びしているのも面白いですね。
中院家指図描き起こし図拡大(2018-02-04訂正)
2D図の主要建物の拡大図

玄関から入った中は定番通り使者の間、家臣の詰所があります。ここを通り書院へ案内され対面したのでしょうね。そして時には客人に所望されて寝殿を案内し公家自慢をしたことでしょう。あの、書院の西側ですが壁全体が床の間・飾り棚・押し入れになっています。指図の読み間違えかなぁ? でも間違いではない。書院としては珍しく片側が一面壁なのですね。多分、当主の居間が覗けないようにしたのかも。書院南の詰所は家臣の控えの間であり、主人や奥向きへの警護の面もあったと思います。書院に南廊下側にはトイレ、廊下を挟んだ南側にはお風呂もあります。客人用なのでしょうね。こんな所見ると、やはり、書院の方が実用的なんだよなぁ・・・とも思います。ちなみにトイレ・風呂については当主の奥向きの居間、奥方や家族用、女中衆用と別れているところが面白いですね。でもトイレはともかく一般家臣の風呂はない? やはり当時は宿直の家臣・下男以外は通勤勤務だったんでしょうね。女中もそんなにはいなかったと思います。長局的な建物がないですからね。ただ、南西の端の中居間には二階がありそこで女中・下女など寝泊まりしていたと思います。場所的に物見でもなく、数寄・遊興空間にも見えないですから。

奥方の御殿は独立してますね。きっと、寛いだことでしょう。廊下を挟んで家族の部屋もあります。
北側には当主の居間があります。ここも独立していてここだけで暮らせます。夫婦ケンカしたときなど顔を合わせなくてもよいから都合いいですよね 笑。当主の居間からは四畳半の茶室とご先祖様を祀る小堂があります。四畳半といっても京間ですからイメージより広いと思いますよ。親しい方などここへ招いてお茶をご馳走したことでしょう。

再度、南端の台所を見ます。入口には女中の詰所があります。姫や若様もきっとここで一端足止めされたことでしょう。ここは台所と女中部屋があって一番賑やかというかうるさい場所だったかも。当主や奥方・家族のための奥向きの台所を上台所といい、東隣の下台所は一般家臣・下男用かな。大勢が食べられるよう食堂もあります。上台所には裏玄関もあります。奥方などここからコッソリ買い物など行ったかもです。すぐ傍には役所があります。どんな役所?俗に言う「広敷」のような日用・生活雑貨の管理・金勘定などしていたかもしれません。板間を挟んだ南には届口があります。ちょっと判読しがたかったので正確ではありませんが、直ぐ後ろには出入り口もあるので、届け物は一端、ここで受け取ったかも、です。後、台所も含め所々井戸、手洗場も、主屋の周りは米蔵はじめ土蔵や納屋が点在しています。南端には下男用の長屋があります。トイレもあります。塀隠し?もあります。

一つ思ったのは、トイレがいずれも主屋に繋がっていること。まったくの外ではないのですね。幕末ともなると今の生活に近いような暮らしがあったかもしれません。ただ汲み取りでしたから臭ったかも。でも、そこはお百姓さんたちが喜んで引き取っていったことでしょう。

以上、中院家の指図を見ながら当時を思い描き邸内をご案内しました。



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コメント

訂正 

大さんでなく、近衞忠大さんでした。失礼しました。
  •  
  • URL 
  • 2018年02月09日 00時18分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

takaさん、コメントありがとうございます。
摂家の場合、玄関脇の詰所は客の案内とチェックが主ですが、それ以上に進物の受け取り業務が多かったとか。蔵なんか直ぐ一杯になったと思いますよ。近衛家さんは明治になっても常に来客が絶えず家人の方ももう、疲労困憊したとか・・・。華族の方も大変ですね。
今の近衛家の当主は近衛大さんでしたよね。この前、BSで見かけました。見るからにただならむ雰囲気で流石に名家中の名家ですね。
常に陛下のためお支えする気構えを持っている、というようなことを言ってみえました。
今度は文麿公のように時流の波に押しつぶされないようお願いしますよ、と、一庶民の私は思いますね。
  •  
  • URL 
  • 2018年02月09日 00時13分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

お久し振りです。非常に見応えがありました。大臣家の指図というのは非常に珍しいですね。いやあ、ホント主さんには頭が下がる思いです。

七千坪というのは結構広大ですが、やはり江戸時代にはよくある副収入がそれなりに大きかったのではと思います。職業柄高家と繋がりも深い武家伝奏の役割を担い、朝廷運営に三代に渡って携われたのが原因だと思います。

主さんが以前書かれていた吉田神道の力の源泉もやはり神位ですから、やはりそれは重要な収入源だったでしょうね。

しかし大相撲問題、評議会の話題の時に 村上源氏 の邸宅の指図書が見つかるとは何か運命的な物を感じます。

前回仰られていた皇統問題については、改めて深く考えさせられますね。確かにそういう考え方もありと思いながら、皇家の苦難の歴史に思いをはせました。奈良時代後期から平安時代は藤原氏にあらずんば皇家にあらずだったのが、良くも悪くも律令制が崩壊して逆に「皇家にあらずんば藤原氏にあらず」になった。これも 後三条天皇様 のおかげですね。

ちなみに臣下から皇位に就かれた方は二柱でした。

ただ、だからと言って誰でも宮家というのも危険ではあります。例えば今の 近衛家 の当主は父系が 肥後細川氏 で政治家のあの方の実弟ですから(苦笑
  • taka 
  • URL 
  • 2018年02月07日 15時00分 
  • [編集]
  • [返信]

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