3D京都

いにしえの京都を3Dで再現します。短歌、史話、公家さんも書きます。

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古代出雲大社神殿を復元してみた その壱

前回、出雲の旅の縁もあって中古(平安時代)に高さ16丈(48m)にも達する高層の神殿が存在したことを裏付ける巨大な柱穴と柱の痕跡が発見され、俄に現実性を帯びたことから大林組が初めてその神殿を復元、ブログにも復元したイラスト図を紹介しました。(クリックすると拡大します)

出雲大社の本殿の復元想像図
大林組の高さ16丈(48m)のCG復元図


DSC_0074.jpg
宇豆柱として大社境内に復元されている宇豆柱。


宇豆柱(古代出雲歴史博物館)
発掘された宇豆柱(古代出雲歴史博物館)


実際に大林組の復元図にもこの柱が計9本取り入れられています。

この三本を束ねた宇豆柱の根拠となったものが、出雲国造の千家に代々伝えられてきた「金輪造営図」。この図には、一番細い側柱でも直径3mあり、要である9本の支柱に至ってはどのぐらい太かったか想像もつかない。梁も幅1.12m、高さ1.35m。全長は18.8また図には「引橋の長さが一町」とあり、これもまた長大な上り階段の図になっている。

出雲大社本殿金輪造営図


また「御内殿」と書かれている本殿内の様子も現在の本殿間取り図に似ている。

出雲大社本殿内部図
現在の本殿内部の間取り図。出雲大社のHPより引用。

以上のことから従来からの「金輪造営図」はその信憑性が疑われていましたが、柱の遺跡の発見により実在説がクローズアップされてきた訳です。

では、伝承によれば、さらに太古の昔には高さ32丈(96m)もあった、とされていますが、さすがにこれは架空の話としてかなり疑問視されています。

しかし、古代はピラミッドやローマ帝国のコロセウム、万里の長城、始皇帝陵や日本の仁徳天皇陵のように世界的に大建設の時代でもあった訳で、その点で言えば出雲大社もその例外でない、という言説も引き出される。

では、いつ、どんな形で建てられたのか?まったく雲をつかむような話ですが、一つ一つひも解いてゆきたいと思います。ただし、何度も言いますが、私は建築についてはまったくの素人で様々な矛盾点と、華麗の盛り込み過ぎ? もありますがご容赦を。

まず96mの神殿が何時頃建てられたのか?ですが、
はっきり言って神話と実際の歴史の線引きが難しいのが日本の特徴。どこから行こう?

日本には戦前まで使用されてきた皇紀という暦があります。今年だと2677年になります。
紀元は初代神武天皇が即位された紀元前660年(西暦換算)です。ここから日本が建国されました(諸説いろいろありますが)。
で、神武天皇の父はニニギノミコト。ニニギノミコトの父がアメノオシホミミノミコト。で、アメノオシホミミノミコトは天照大御神(アマテラス)の子供にあたります。年数的に当時長命だったとして三代200年遡ると天照大御神の時代は紀元前860年頃という推測になります。

で、これを出雲大社絡みで、その繋がりを辿っていくと、天照大御神の弟で勇猛なスサノオ神があまりの腕白振りに高天原から追放。たどり着いた地上の地が出雲。ここでヤマタノオロチを退治。出雲地方を拠点に地上世界を治めることになりました。そしてスサノオから六代目の子孫がオオクニヌシ(大国主)。
地上を治めるオオクニヌシに対して天照大御神は自分の子、さきほどのアメノオシホミミノミコトがオオクニヌシに代わって地上世界を治めるよう先遣隊の使者・タケミカヅチノカミを出雲に遣わし、そこでオオクニヌシの子・タケミナカタノカミと力比べをするがタケミナカタノカミが完敗。ここにてオオクニヌシは地上の国を天照大御神、天孫・アメノオシホミミノミコトに譲ることになりました。ただし条件として子々孫々まで巨大神殿を建てスサノオ一族、オオクニンシを祀ることを求め、これが認められ現代の出雲大社へと連綿として続いた。これが大社建立の経緯ですが。わからないのはオオクニヌシがスサノオの六代目子孫なのにスサノオの姉である天照大御神は自分の子を派遣。この六代差の違いは何?天照大御神は太陽神ですから不老不死。六代目のオオクニヌシの時代でも健在。で子のアメノオシホミミノミコトも不死?。で、結局、いつ? ということになりますが、
少なくとも神武天皇の二代前がアメノオシホミミノミコトですから、皇紀以前、即ち紀元前760年あたりを出雲大社の創建といたします。なんか自分でもよく理解できてない気がします・・・。

紀元前760年あたりは日本では弥生時代。この頃の建物は基本、柱や梁は太縄で固定されていたと思いますから、さすがに96mは無理だと思います。
本格的に高層に成っていったのは3世紀半ばから7世紀の古墳時代だと思います。
古墳時代といっても長いですが、そのなかでも5世紀後半にかけて在位した雄略天皇の時代は
日本国内でも鉄を製造する技術が生まれ、それまで百済や新羅等の朝鮮半島や大陸の宋などから輸入していた鉄があまり必要となくなり、朝鮮半島との関わりも減っていき、その分、日本国内の統治に主体が置かれたと思います。

その国内産の鉄の主産地が出雲の砂鉄。いわゆる「たたら」技術です。これにより出雲も豊かになり大社本殿の高層化も進んだと思います。また鉄の関係や日本海側で朝鮮半島とも近い出雲は建築技術についても交易を通じ、従来の縄で縛る工法から柱に梁を通す貫抜き工法が他地域に先駆け大社の高層化に拍車をかけた可能性もあると思います。
たとえば、高句麗では5世紀には木造塔が造られ、。百済では6世紀に木造九重塔(弥勒寺、高さ60m等)、新羅においても、善徳女王が636年に建立した皇竜寺九重木造塔は推定高さが80mもあったと言われています。
このように、高層の木造建築を建てる下地はあったと思います。

以上の事から、もし、出雲大社の32丈、96mの高殿が建てられたとしたら5世紀~7世紀の間。また、縄文・弥生期にかけて土器や建物に盛んに塗られた黒と朱色・漆の縞文様や入れ墨文化。古墳時代、この文化は大和政権の畿内では見られなくなり、、主に地方、とくに西日本にはまだ残っていた可能性があります。とすると、出雲大社の古神殿も、今見るような白木造りでなく、濃い赤と文様で飾っていたのではと思います。
今日みる大社の簡素な白木の建物は伊勢神宮のように大和政権の影響下に飲み込まれていった流れとも考えられます。
あっ、私は伊勢神宮が地味で云々と言っている訳ではないですよ。あの伊勢の崇高な清浄感は日本古来の伝統であり、「素があって赤が映える」、それが日本なのだ、と言いたいのです。

それでは、復元3Dのアップに移ります。
1黄昏とスモッグ(遠景)
霧に僅かばかりの輪郭が、ピラミッド型・・・・??

例の如くというか、朝靄に包まれる古代出雲大社神殿。神殿に穴?が空いている。
そう、木組みですから。

2黄昏とスモッグ(中景)
段々近づく神殿。

山の稜線も見えてきました。
どんな感じなんだろう? 何かワクワクする。
と、自分で言ってみる 恥。

3黄昏とスモッグ(近景)

おっと、まだ霧は消えません。徐々に期待感が迫ってまいります。
無駄にCG枚数を増やしている・・・かも。


4古代出雲大社神殿正面(スモッグ)3

まだほんの少し靄がかかっています。


5古代出雲大社神殿正面2

やった!
いきなり頂上階段だ!

と、まあ、書いてる自分自身が喜んでいるのが・・・なんとも・・・。
最近、しばらく3Dとご無沙汰しておりましたから。

階段手前には埴輪の守り人がいます。人型の埴輪は最大クラスで1.4~1.6mほどの高さがあります。ということは、階段手摺の方が高いです。高さ96mとのバランスもありますから。
ここから基壇部が30度で25段、基壇から36度の斜め階段を87段前後?。登り切った途中の踊り場(拝殿兼用)の高さは約35m。ここまで直線距離にして150mあります。基壇部は8mの高さがあります。登りきった踊り場からは垂直階段が本殿の欄干までエレベーターのように上昇します。
ちなみに階段は一般家庭だと45度前後の傾斜角度で13~14段が多い。踏み段の高さは25cm前後。一方、外の社寺等の石段は角度30度前後で踏み段の高さは一般家庭と同じか少し高い。
6古代出雲大社神殿正面俯瞰
古代出雲大社神殿の全貌です。

古代出雲大社神殿の全貌です。ピラミッド形をしています。
基壇下から屋根の千木が交差しているところまで高さ96m。正面幅が148mの正四角形。角度はエジプトのクフ王のピラミッドと同じ約52度。かなり急角度です

階段の続きですが、仮に一般家庭と同じ45度前後で高さ70mまで階段を掛けたとしたら踏み段の高さは50cmはあると思います。普通の人が上るレベルではありません。2mを越える巨人でも厳しい。角度自体が転落死覚悟です。
ですから今回の神殿では木造部の斜め階段は36度にしました。それでも踏み段の高さは32cmあります。足の長い人でないと苦労します。斜め階段は地上35mで終わりますが、仮に本殿上部まで同じ36度の通しの斜め階段にしたら、直線距離にして200mは越えます。段数は何段あるだろう?さらに一般家庭と同じ25cm高の踏み段にしたら300m?
とにかく途方もない長さで、この階段を頂部まで上るのは勇気と根気がいります。というか、その前に横風に吹き飛ばされかも。階段自体が不安定ですから、平安時代の48m神殿のようにある日、何の前触れもなく忽然と倒れる可能性大です。

そんなこともあって、96m神殿では基壇部石段(8m)と少しの広場(踊り場)、高さ35mまでの木造斜め階段。踊り場を挟み本殿入口まで高さ37mの垂直階段を上るという三段構えの階段にしました。これで、やっと、自分でも上れるかな、といった感じです。この建築構造が当時可能だったかどうかわかりませんが階段だけ捉えたらこういう形状になりました。

神殿そのものはピラミッド型です。何よりも建物の安定感を重視し下半身安定型にしました。残る問題は柱の太さと長さ、柱に梁を通す貫き構造が可能だったかどうか? 縄文時代のように縄で縛る、あるいは日本建築でよく見られる「長押」といって横板で柱間を釘打ちして張る工法だと無理。それこそ清水寺の懸け造りレベルでないと。柱の太さは大社独自の三本の木を鉄輪で束ねるやり方で可能かも。長さは継ぎ手で柱同士を繋げていくか、レゴ方式で各段の構造が上を支える形にするか、絵的にも良くないといけないし現実的に考えると難しいですね。
大阪城天守閣と古代出雲大社本殿
参考までに大阪城天守閣と対比させてみました。写真は一部加工してます。

階段続きになりますが、
今回の3D作りを通して思ったことは、まず、当たり前のことですけどエジプトのピラミッドは人が上ることは想定していない。だから角度52度で一辺240mほどの正四角錐を作ればいい。しかし出雲大社本殿の場合は神殿であり人が、神官が上り祀る必要がある。従って長大な階段が必要になる。


そこで目に浮かんだのは、あの仁徳天皇陵(大仙陵古墳)。クフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵と並ぶ「世界三大墳墓」として知られています。面積だけで言ったら世界最大です。

堺市の公式サイトによれば、

古墳最大長:840メートル
古墳最大幅:654メートル
墳丘長:486メートル
墳丘基底部の面積:103,410平方メートル
後円部 - 3段築成。
直径:249メートル
高さ:35.8メートル
前方部 - 3段築成。
幅:307メートル
長さ:237メートル
高さ:33.9メートル

となっています。
現状は深い森に覆われ、形状は高さ300mの上空からでないと全貌が見えないといいます。

7仁徳天皇陵CG
築造時の仁徳天皇陵イメージ図。双葉社刊の古代日本「CGでよみがえる古代の日本の姿」より引用。

世界最大規模の古墳と言われながらエジプトのピラミッドに比べ有名ではありません。大きな切り石を148mの高さまで積んだピラミッドは見た目派手でいかにも「古代遺跡」といった感じです。実際、紀元前2500年は下るそうですから、やはり世界遺産の代表格でしょう。
一方の仁徳天皇陵の方は高さは36m。石積みではなく盛り土(正確には石で表面を葺いている)。現在は森に覆われ、一見、小高い丘のようにしか見えない・・・・。

というイメージから、やはりピラミッドには敵わない。と思っている方も多いかと思いますが(勝ち負けとかおかしいですけどね)、実際に両方を比べた場合、大きく違うのは用途の違いです。

前述しましたように、ピラミッドは人が上ることは想定していない。仁徳天皇陵は天皇の墳墓であり、かつ、人が登って葬送の祀りや国家の威信を示す儀式の場でもあった。これが大きな違い。

では、人が登るためには何が必要か?
それは階段です。

人が普通に登れる階段は角度30~36度であり踏み段高さは25~30cmほど。
このサイズで、たとえばピラミッドに階段を懸けたらとんでもない長さになり現実にはありえないし、事実、階段など必要なかった。人が登りませんから。
一方、仁徳天皇陵は頂部において儀式を行ったから階段が必要だった。高さ36mの円部頂きまで。すると、その高さまで階段を設ける必要がある。
大林組が復元した48mの出雲大社本殿には直線距離で一町、100mを超える階段があります。しかも48mといっても実際は本殿入口までの高さですから実寸30mの高さまでの階段。仁徳陵は頂部が平たくそこで儀式を執り行うわけだから36mまで階段が必要になる。出雲大社本殿より長い階段ということになる。しかも48mの出雲大社本殿の場合、途中、踊り場等ない。それこそ一部、神官等だけが上る構造だと思います。

仁徳陵は三段から構成され、それは陵の美観、保全だけでなく、長い階段の途中休憩、踊り場であり、また身分の上下に基づいて三段の踊り場に人が集まったかもしれない。

そうすると、階段+踊り場でより長大な階段が必要になる。200mを越えるのではと思う。
仁徳陵の墳丘長が486mと長いのも実は階段を設ける為という実用性、必要性があったからその長さになった。
また、海岸線が今より近かった古墳時代。百済や新羅等の使節や国内の有力豪族に天皇の権威、国家の威信を示すため陵には高さも必要だった。今でいう16階建てのビルに相当する36mの高さは、それなりに威信を示したと思いますし、「人が登れて儀式が行える」、「一定の高さで威信を示す」、その両方が両立できる高さが36mに納まった、と考えるのですが、いかがでしょうか?


自分なりに3Dで出雲大社本殿を復元する過程、ふと、思い至ったことです。

それから、陵を飾り勢威を示す舞台装置としての円筒埴輪も今回、その有意性に気づきました。

10円筒埴輪と列柱
円筒埴輪
12円筒埴輪
円筒埴輪と列柱

自分で神殿を作りながらあくまでパソコンのイメージ上ですが、円筒埴輪の並ぶ前と並んだ後とでは全然雰囲気が違う、ということです。もちろん並んだ後の方が断然、神殿全体のイメージが引き締まり壮観さを演出します。

円筒埴輪は大きいものでは2mもある物が発掘されています。
ただの土を焼いて作った円の筒? と、軽く考えていましたが、それは間違いでした。

仁徳天皇陵が完成した盛時、陵は2mはある円筒埴輪1万5000基が列状に並び(宮内庁書陵部紀要による)、白い葺石は536万5千個(重量1万4千トン)も葺かれました。当時、燦然と白く輝き外国の使節を始め多くの人々は、その壮大さに驚いたことでしょう。

古代出雲大社神殿を再現しながら実は仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を今一度認識し直す機会でもありました。

では、CGを続けます。

9古代出雲大社神殿正面3



13短甲の武人


階段手前で守衛している武人の鎧は古墳時代、短甲といって、一定の鉄板を鋲や組紐、皮で綴り合わせた鎧で日本独自のものだそうです。光琳社出版刊 原色日本服飾史 井筒雅風著 より引用。 

11階段と葺石
長大な階段を横から見る。
タケミナカタノカミ

階段を上るのは、ひょっとして大国主の息子・タケミナカタノカミか??

15古代出雲大社神殿列柱
古代出雲大社神殿の列柱群

16古代出雲大社神殿中空列柱
そして、その空中列柱群。
17古代出雲大社神殿を望む
その壱の〆、古代出雲大社神殿の上部を中撮。

最後は駆け足で記事をまとめました。

次回記事では、その弐として、古代出雲大社神殿の細部をご紹介したいと思っています。



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