3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 後編

今、後編を書き出しているところですが、
14日のブログで東京帰りのついでに背景用写真を撮ってこよう、と書きましたが確かに撮ってきました。足に豆ができるほど歩きました。でも、皇居東御苑は金曜はお休みで入れないんですよね、知らなかった。いきなり出鼻をくじかれた感じ。
仕方なく明治神宮に移動。そこでパシャパシャ撮ってましたが、そのときのこと。灯篭を撮っていたら突然背後から40代くらいの女性から「今、撮りましたよね、見せてください。私が写ってるかもしれなから、写ってたら削除してください!」といきなり言われ、小生は呆気にとられながらも、「軒からぶら下がっている灯篭ですから角度は上、写ってませんよ」と言うと、「とにかく見せてください」の一点張り、逆らってこじれるといけないから素直にオープン、スライドしても天井と灯篭しか写ってない。その女性はそれを確認するとやっと納得し、「背後から撮る音がしたから私を撮っているかと思いました」と言うと、そのまま行ってしまった。
何だこれ?、「すみませ~ん、撮ってくれませんか!」とか、「一緒に撮りませんか?」とかは今まで言われたことはありましたが、
今回のように、いきなり「見せろ、削除しなさい」と上から目線で、しかも妙齢の女性から言われたのは生まれて初めてです。
その場では、そのままやり過ごしましたが、今、こうして記事を書きながら、何かムラムラと怒りがこみ上げてきました。私は後から思い出してジワジワと怒りがこみ上げてくる情けないタイプなんですよね・・・・苦笑。ただ、怒りはあんまり引っ張らない性分、翌日にはケロっとしたりします。でも、これはこれで怒りが継続しないのは反撃もできない・・・と何か損した気分になったりして、平凡な男だぁ、としみじみ思います。
 
こんなこと言ったらこのブログ見てる女性の方から顰蹙を買うかもしれませんが、「誰が、アラフォーなんか撮るかよ」とその女性に言い返したい。でもやっぱ、面と向かっては言えない。「助けてください!絡まれてます!」と逆襲に遭いかねない。最近、駅で痴漢と叫ばれ線路に逃げたり、轢かれて死んだ男性のことで世相の話題になってますが、今回、私が遭遇した女性も自意識過剰?で「男性を色物で見るような尊大さが見え隠れしましたね」。時代は「女尊男卑」・・・・あぁ、生きずらい。

脱線しました。本文に入らねば。

中編では、聚楽第に天守は存在したか? という切口からいろいろと書きましたが、今回は本丸のなかに入っていきます。飛雲閣は本丸のどこか?それと聚楽第が解体され後の同閣の数奇な運命、あるいは誤解を自分なりにひも解いていきます。で、まずは本丸内がどんな構造、御殿の並び、林泉の形をしていたのか? 私の作ってみた本丸想像図を基に見解を述べてみたいと思います。想像図を再度掲載します。

聚楽第本丸拡大図(3D京都)
聚楽第本丸の主要部拡大図

本丸内は大きく分けて四つのエリアに分けられると思います。東側の堀沿いは主要な通路となっており北の丸へと通じています。本丸は北と西、そして南の三か所あり、南から入る日暮御門が本丸の正門と思われます。四区画のうち南門に近い南東部に表御殿があったと思われます。玄関から入ったところが遠侍、大名等の控えの間です。奏者の間は大名・公家等の従者の控え間でした。式台の間とも言います。そして対面所があります。二条城でいう大広間と同じです。ここで諸大名・公家と謁見します。規模、間取り等は和泉国の番匠岸上家に伝来したものが残されており、内部は表書院、裏書院、中門、公卿の間等に分かれています。ちなみに室町時代、「主殿造り」と言って、対面や仏事を行う間、寝室などが一つ屋根の下に完結した生活形態の場をそう呼ぶとのことですが、これは、渡り廊下で寝殿や対屋をつなぐ寝殿造りや用途に分けて式台、遠侍、大広間、小書院等が連なる「書院造」とも違っていて戦国時代を経て信長の時代まで続いた建築様式でした。それが信長の安土城あたりから変化があり、秀吉の大阪城、聚楽第へと経るに従って近世の書院造の完成をみていきました。書院造の五大殿である遠侍、式台、大広間(対面所)、小書院、御座の間が揃ったのも聚楽第あたりからで、それが徳川の二条城の二の丸御殿でより大きく踏襲されました。

さて、想像図では対面所に渡り廊下で舞台(能等)に繋がっていますが、これでいいのかわかりません。二条城では行幸御殿が遠侍等より南に位置し、渡り廊下の中間に舞台があります。行幸御殿は天皇の御座所で休息的空間。舞台を観覧されるときは対面所に御座されたのでしょうね。表御殿の御座所ですけど、こちらは格式ばらず内向きの対面の場。二条城でいう黒書院にあたります。そして東につながる御座の間は秀吉(もしくは秀次)の休息、寝所です。二条城では白書院と呼んでいます。

御座の間の北側には台所や料理の間、長局があります。規模も大きい台所は料理場の用途だけでなく、庶務・雑務の事務方や女房衆、家臣の控え間であったりと、いろんな使われ方をしました。料理の間は配膳・盛り付けの意味もありますが、囲炉裏があって家臣同士の談笑や時に家老の部屋とか、女房衆の世間話の場であったり休息の小部屋があったり、まぁ、多目的スペースでした。元々は殿様の暖を取ったりする寛ぎの場だったんですよ。さらに奥は侍女や女房衆の生活の場であった長局。とだいたいこのような構成になっています。一応、それなりに配置したのである程度は当時の御殿の様式がわかると思います。

表御殿とは廊下で繋がっている行幸御殿。本丸西南のエリアに設定しました。表御殿もそうですが広い苑池を眺められるようになっています。屋根は檜皮葺で上の箱棟は黄金で飾られています。隣は中宮御殿。皇后のお住まい、どちらも内向きの対面、休息の御殿となっています。北側には表御殿と同じように台所、長局があったことでしょう。また、寝所であった御座所、それと中宮のため化粧殿もしくは化粧間があったでしょう。行幸時だけの御殿ですから棟数も少ないです。行幸が終われば解体・移築されるケースが多いです。しかし、行幸時は華やかに飾り立てられました。秀吉の御伽衆であった大村由己が著わした「『聚楽行幸記」の記述によれば、行幸御殿の屋根には金龍、御殿の側面には鶴が描かれていました。まさに秀吉絶頂の天正16年(1588年)の後陽成天皇の滞在された五日間だけの存在というか装飾でした。

そして、行幸御殿の南、池のなかに飛雲閣が立っています。御殿からみれば日当たりのよい南向きから同飛雲閣の北向きの正面が眺められます。飛雲閣へは長い渡り廊下で結ばれ向かって右にゆけば風呂である黄鶴台へ、左に曲がれば飛雲閣。舟で渡るなら同閣の室内にある舟入の間へ直接舟着、平安言葉でいうならば詩歌管弦、舟の上で様々な遊興、そして時に芸術論も交わしあったかもしれない。飛雲閣は茶席であり、内々の対面、饗応の場であり、独立した三階建ての楼閣です。回遊庭園のそこかしこから優美な姿が見れたことでしょう。では御殿からなぜ渡り廊下で繋がれた位置関係にしたのか?

実は3Dで作りながら思ったのは、「この楼閣は二階の高欄から、三階から外の景色を眺めるためだけではない。また、対面、饗応、遊興の場だけでもない。実は「行幸御殿、書院の広縁から、そのまま眺められる」ことを前提に正面を北向きにしたのではないか?という着想です。だから、飛雲閣は元々は南向きだったけど移築の際、北向きに180°変えられた、という説には肯けません。最初から北向きに建ててこそ、その美しさが映えるように設計された。そんな気がしてくるのです。

飛雲閣の二階、歌仙の間の外の妻戸には歌仙の姿とともに御簾が描かれています。一見、本物らしく見えますがそうではありません。戸板に直接描かれたものです。俗に言う「騙し絵」ですね。なぜ、立派な三重楼閣にだまし絵が必要?、不思議です。これは私の個人的な感想ですが、書院の縁側から「だまし絵を見て楽しむ」、また、その遊び心を楽しむ。時には画題を変えたり。そんな、ペインティングもできる楼閣だったかもしれない。だから御殿は南向き、飛雲閣は北向きが必要だった。こんな想像はかなり突飛ですが、3Dで作っているとなぜかそう見えるのです。

飛雲閣36歌仙の壁画


後、池の方ですけど、飛雲閣へ直接舟入する黄鶴台を伴った建物は桁行も長く、それに見合った池となると現在の金閣の鏡湖池よりも大きなサイズでないとバランスは取れないと思います。ですから、飛雲閣があったとするならば中編でも書いたこの山里地域しか思い浮かびません。ここには茶室もありました。三井家蔵の「聚楽第図屏風」に山里地域を描いたはずの六扇目が欠損しているのは本当に残念ですね。

本丸北東には奥御殿、正妻である北政所の御殿があったと思われます。表御殿とは直接つながらず、想像図に描きました対面所や広間、小書院、御座の間、その他棟も大阪城の奥御殿を参考に描きました。大阪城は1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて築かれ、聚楽第の方は1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成しています。両方ともにほぼ同時期に建てられましたから共通点はかなりあったと思われます。

後、北西の天守のあるエリアですが、これも中編で書いた公家・吉田兼見が記した『兼見卿記』の天正18年(1590)1月18日の記述のなかで、豊臣秀吉の側室の摩阿姫(前田利家の三女。後に加賀殿と呼ばれる)が聚楽天守に住んでいる記述があって、もし、そうなら信長の安土城と並んで天守に居住した数少ない事例ですが、実のところ、この記述が天守なのか、二階建ての楼閣風の御殿だったかは判然としません。しかし秀吉は内裏から聚楽第へ通じる道沿いの家は二階建てにするよう布告を出していますから、城内に二階以上の御殿や楼閣、望楼が点在してもおかしくはありません。秀吉には加賀殿以外にも大勢の側室がいましたから、ここ天守直下のエリアは今でいう高層の高級マンション(当時は二階以上)が立ち並び、そこで側室たちが住んでいたかもしれません。その情景の一つが、「ふと、窓から顔を出した加賀殿と遭遇した兼見」ということです。

以上、ざっと想像図の本丸内を解説しました。飛雲閣が明瞭に存在した確証はなく、結局、振り出しに戻った形ですが、それでも一つだけ最近出てきた聚楽第および飛雲閣の移築についての新説を書き添えたいと思います。

太閤豊臣秀吉が2代関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後の京における新たな正式の邸宅として現在の仙洞御所あたりに築かれた城郭構えの屋敷を「京都新城」といい、その呼び名は最近になってからのことで当時は「太閤御屋敷」とか記されていました。

中むかし公家町絵図(1611~1615)
中むかし公家町絵図

この絵図は江戸時代初期の地図「中むかし公家町之絵図」というもので現在の仙洞御所にあたる場所が当時は北政所の広大な邸宅だったことを伺わせます。即ちこれが「京都新城」のことです。よく聚楽第破却後の建物は多く伏見城に移築されたと言われていますが、そのときの伏見城は指月城とも呼ばれ、その後、地震で倒壊、新たに木幡山伏見城として再建されました。地震時は火災は発生しなかったようで、そのまま用材として木幡山に転用されたそうです。ですから、その時点では聚楽第からの移築遺構も残っていた可能性がありますが、関ケ原の合戦の火ぶたとなった慶長5年(1600年)8月の石田三成による伏見城への攻撃でほとんど焼けてしまい、この時点で移築遺構は焼失してしまったと思われます。

しかし、京都新城の方は秀吉没後も北政所が住み続け、聚楽第にも近かったことから、同京都新城にも聚楽第の破却後の建物がいくつか新城に移築された可能性があります。そのなかには飛雲閣もあったかもしれません。その同京都新城も寛永元年(1623年)、北政所が没し、寛永4年には後水尾天皇の譲位後の仙洞御所としてここも破却されてしまい京都新城は消えてしまいました。当時の常としてここの建物も破却時、京の寺院や公家屋敷等に移されたと思われますが、ちょうどその時期と重なるように現在の西本願寺飛雲閣の黄鶴台から「寛永五年三月から寛永六年八月迄‥」という墨書が発見されたことから、これを飛雲閣移築の時期と考える説が俄に浮上してきました。ただ、聚楽第の移築遺構というよりも、京都新城に建てられた遺構として西本願寺に移築された、との説でこのへんが従来の移築説とは違います。本願寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)に豊臣秀吉の遺構だと記され、これが聚楽第からの移築遺構説の根拠となったものですが、秀吉の遺構という意味では聚楽第と京都新城は共通しており、そのへんの混乱から、本来なら京都新城からの移築のはずが聚楽第に置き換わってしまった・・・・そう推測できる可能性もあります。

京都新城(書き込み付)
洛中洛外図屏風(岡山蔵本)に描かれた京都新城。

上掲の洛中洛外図には「ごしんでん」、また同時代の東博蔵本の洛中洛外図には「〇〇たいゐん」と付箋がつけられ、当時、北政所の邸宅として新城が描かれている様子がわかります。ただ雲に隠れて細部は解らず飛雲閣に似た楼閣も見当たらない。しかし、現在の仙洞御所にひろがる大池が京都新城当時、アコガセ池と呼ばれた池を利用していることから飛雲閣には十分なスペースであり、舟遊びにも適していることがわかる。また同新城は聚楽第の本丸より広い。以上のことから、私なりに推測すると、「どうやら飛雲閣は京都新城からの移築らしい。ただ秀吉が建てた遺構という意味では同じ。そこから混乱が生じ、いつのまにか聚楽第からの移築説が流布してしまった・・・」との仮説が有力な気がします。実際の落としどころとして。ただ、確証はありません。後、付録ですが、洛中洛外図の左奏上の内裏には二重御殿が描かれています。あの三井蔵本の聚楽第図屏風にも描かれている二重の行幸御殿と同じ構図です。ひょっとして聚楽第行幸御殿の移築かもしれない?

結局のところ、飛雲閣が聚楽第からの移築である、という証拠はなく存在自体も証明できません。それでも今回は解らないなりに論点だけは整理してみました。あくまで自分の脳内での整理ですけど。

※ 京都新城については、ウィキペディア及び内藤昌、油浅耕三両氏の論文「豊臣家京都新城-武家地の建築」から一部引用させて頂きました。

後、せっかくですから江戸・天明期に描かれた本能寺方丈の向い唐門を紹介します。この門は聚楽第からの移築と伝わり、現在、これも移築ではないかと言われている大徳寺唐門よりも大きく豪華な彫り物、装飾で飾られた門でしたが天明の大火で失われてしまいました。

都名所絵図本能寺向唐門図
都名所絵図に描かれた本能寺の向唐門


『追記』

書き忘れたのでちょっと付け加えます(H29.6.29)。

今回、飛雲閣を巡って、聚楽第にその存在ありや? 天守閣の存在ありきや?と、甚だ不明瞭な内容になってしまいましたが、一つ、歌人の感性?から、「ひょっとして」と思ったことがあるので書きます。豊臣秀吉の祐筆・御伽衆であった大村由己の記した聚楽第行幸記のなかで次のような表現、言葉の比喩が使われています。「遥閣星を摘でたかく、瓊殿(けいでん)天に連れてそびえたり(瓊殿とは玉のように美しいの意味)。甍のかざり瓦の縫めには、玉虎風にうそぶき、金龍雲に吟ず」。難解な表現ですが、要はいかに聚楽第の甍、天守や殿閣が高く洛中に聳え、その美しいことこの上ない、ということだと思いますが、さすがに秀吉の手前、大きく盛ってはいると思いますが、後陽成天皇の行幸直後に書かれたものですから、その華やかさが伝わってきます。

この表現のなかで気になる言葉があります。「遥閣星を摘でたかく」のところです。星を摘む?そこから連想するのは、そう飛雲閣の三階の名称「摘星楼」です。似た表現でしょう?大村由己はこの詩的な言葉が好きだったのでしょうか。ひょっとすると「摘星楼」の命名者は大村由己かもしれない。なんの根拠もないですけど・・・。

ただ、仮に秀吉が聚楽第に楼閣を建て、その楼閣名を自分で「飛雲閣」と名付けたか?あの秀頼に対する溺愛ぶりで有名な手紙の一節「一日ハ ふしは ( 普請場 ) まで おくり候て まんそく ( 満足 )申候。さりながら、人おおく候て、くちをおもひのままニ すい不申、 いまに わすれがたく おもひまいらせ候。 やがて 参り候て、くちをすい可申候」。 意訳すると、先日は、普請場まで 見送ってくれて 満足です。 でも、人が多くて、思いのままに 口を吸う ( キスする ) ことが出来なかったのが残念で、忘れられません。 すぐに行って、口を吸いましょう、との内容ですが、ご丁寧にも「おかか ( 淀殿 ) に口を吸われてはなりません。 油断なさるな。」とまで書いている。もう明け透けといっていいか、本能のまま書いてます。その秀吉が飛雲閣?ましてや「摘星楼」などというロマンチックな命名をしただろうか?無理でしょう、秀吉は歌人ではありません 笑。きっと御伽衆の大村に「もう、お前に任せる!いい名前つけにゃ」、「ははぁ!承りました。では、摘星楼にします」と言ったかもです。なんとなくその情景が目に浮かびます。私もかなりアレの方かも、ですが・・・・。

「星を摘む」か・・・。やはり飛雲閣は聚楽第に建てられ京都新城に、そして西本願寺に移築されたのだろうか?一つの比喩を巡りそんな連想がわいてきました。

※ 上記「聚楽第行幸記」のなかの一文は狩野博幸氏の著「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」から引用しました。






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