3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう? 中編

前編に引き続き後編です、もとい中編になりました。
前編で『そもそも聚楽第には飛雲閣自体が存在しなかった。天守さえも存在しなかった?』、について、その書きかけというか
まだ、ほとんど入口にも入っていない状況ですが、一つづつ解明?してゆきます。というか書きながらどういう方向へいくのか?自分でもわからないです。そもそも浅学菲才の私が聚楽第に挑もう?と思うこと自体が間違っていますが、3Dで再現するとう流れのなかで「秀吉時代の飛雲閣を作るにしても聚楽第のどこに作ったらいい?」というわけになりまして、結局、深みにはまっていきます・・・笑。

さて、前編で幾つかの残された屏風には天守は描かれていても飛雲閣に該当するような楼閣がない・・・と書きましたが、実際、そうです。じゃ、どこ?となるわけですが、自分なりに探してゆくなかで、最初から西本願寺に建てられた?についても、どうも疑問符がつく。では、どこ?西の丸にも同縮尺の飛雲閣(現在のもの)を当てはめても飛び出してしまう。南二の丸は馬場とかあって、そんな遊興なスペースはない。北の丸だって普通の御殿だったら建つけど、そこに回遊式庭園及び舟遊びの池を含めたらやはりそのスペースはない。となると残るは本丸。ここしかない。

では本丸のなかで可能性のあるのは?
前編で、聚楽第研究の先駆者である櫻井成廣氏(故人)の作成された「聚楽第内曲輪推定復元地図」を掲載させて頂きましたが、
その復元図のなかで、本丸北東部にあたる所は後世、州浜池町という町名に残り、ズバリ、池泉を伴った立派な庭園があったと思わせます。大阪城の本丸を見ますと南側に表御殿があり奥御殿は直接廊下等で繋がらず独立した形で北側、しかも結構離れています。なぜ、こんなに離れてる?秀吉はねねとあんまり会いたくなかった? そんなこともないと思いますがどうしてでしよう?江戸城大奥とは大違いです。ひょっとして火事の類焼を防ぐため?籠城時の司令塔の分散? とか、まぁ、いろいろ想像します。

言いたいことは大阪城本丸の例でいくなら聚楽第も奥御殿は表とは離れ北東に位置したのでは?と思うわけです。しかも、当初は北政所・ねねが主の御殿だったとのではと。淀君が鶴丸を生んだら西の丸に追いやられ?てしまい、そこで西の丸があったと推定される場所は現在・高台院堅町と呼ばれ、どこからどうみても、ねね殿が暮らした御殿があった名残だと思われます。北の丸は秀次によって拡張された記録が残り、秀次はここに暮らしたのでは(関白就任以後は本丸、側室たちは西の丸?)と思われます。
後、残る本丸の南と西南部、ここには表御殿及び行幸御殿があり、さらに西側と南西部には茶屋等のある山里と当時も言われた広い場所があります。現在も地名に山里町、州浜町、下山里町と残り、ここにはかなり規模の大きい林泉庭園があったと思われます。このへんのところは上掲の櫻井成廣氏(故人)の「聚楽第内曲輪推定復元地図」をみられるとわかると思います。あらためてその復元図再掲しますね。


聚楽第復元想像図(櫻井成廣)
櫻井成廣氏の「聚楽第内曲輪推定復元地図」


飛雲閣があったとするならばこの山里地域しかないと思います。屏風絵でこの場所が描かれていれば所在がわかったかもしれませんが残念ながら三井家蔵の「聚楽第図屏風」にはこの山里地域がちょうど欠損(六扇目が欠損)していて、そこがどうなっていたか不明です。
となると、存在を確認する手段としては当時、聚楽第について書かれた文書、文献等から探ってゆくしかないと思います。

で、文献等に入る前に、一応、私なりに聚楽第のとくに本丸を把握するために同本丸を拡大した想像図を描いてみました。櫻井成廣氏の復元図をベースに大阪城や二条城(徳川期)、とくに二条城の二の丸御殿など南から北西に雁行する御殿群の特徴は聚楽第を一つの規範にしていると言われ、聚楽第が存在した同時代に描かれた唯一の屏風と言われる三井家の「聚楽第図屏風」でも同様に南から北西へ俯瞰する形で描かれています。この雁行する様も想像図に取り込んでみました。後、聚楽第及び飛雲閣の特性も含めています。


聚楽第本丸拡大図(3D京都)
聚楽第本丸主要部復元図(3D京都)


ここには、いろいろと御殿・書院名とか書き込んでいますが、その説明は後にして、文献の方についてまとめてみます。

文献上、比較考察するのが一番わかりやすいのが天守閣なのでまずそちらから入っていきますね。

で、『聚楽第に天守閣は存在しなかった!』の検証について、
なぜ、天守はなかった?、とくに最近そう断定される方も増えています。
その理由として幾つか上げると、

① 天守台とされる石垣の痕跡がない。発見されてない。
② 天守に関わる伝承、地名がない。聚楽天守が他に移築された記録がない。
③ 聚楽第図屏風には4~5層の天守が描かれているが、当時の文献にそれを書
   いたものがない。
④ 大阪城のように天守に登楼した記録がない。
⑤ 秀次の祐筆である駒井重勝の日記『駒井日記』に天守に相当する高層櫓の
   記述がない。
⑥ 当時のポルトガル使節に台所まで案内しているが城のシンボルである天守
      には案内されていない。


等があって、掻い摘んで言うならば、当時の文献に屏風絵に見るような3~5層の天守の記述が見当たらない。
ということに尽きます。
一方、吉田神道の9代当主・吉田兼見が記した『兼見卿記』の天正18年(1590)1月18日の記述のなかで、豊臣秀吉の側室の摩阿姫(前田利家の三女。後に加賀殿と呼ばれる)が聚楽天守に住んでいる記述があって、少なくとも二階以上の建物、楼閣風の天守があった可能性もある。
公家・山科言経の日記『言経卿記』では文禄元年(1592)11月29日に殿主へ行き、金など見物した、とあります。このときの殿主が重層の建物だったのか? また、天守と殿主の違いは?
これらからみると、なんらかの天守の存在があったと思いますが登楼、階段を上がった記述はないので、どれほどの階層と規模かはわかりません。
櫻井成廣氏は飛雲閣が天守だったとの説を言われています。はっきりとそういわれているのは同氏だけです。
普通にみるならば、飛雲閣の独自な複雑な構造が天守には向いてないのでは?。舟入と言って屋内に舟を入れる施設が天守に必要か? 強いていうならば楼閣を天守替わりにした・・・・。

では、飛雲閣は天守ではなかった。と完全に断定も出来ない面もあります。
たとえば、規模でいうと飛雲閣の高さは14m前後、一方、彦根城は16.3m。一階平面であれば、飛雲閣が28×18m、彦根が20×13mと飛雲閣の方が広い。この飛雲閣が10mを超える高石垣に聳えれば天守の風格はあったと思います。

ちなみに金沢城には辰巳櫓といって他の城にはない、唐破風と千鳥派風が横に並ぶという形をしていて、飛雲閣によく似ています。その絵図を載せますね。

金沢城辰巳櫓
金沢城辰巳櫓(よみがえる金沢城 2 石川県金沢城調査研究所編 より引用)

この辰巳櫓、最初に創建されたのは文禄元年(1592年)。聚楽第が完成したのが天正15年9月(1587年)。聚楽第が完成しておよそ5年後、ほぼ同時代にあたります。絵図で見る限り壁など黒漆塗?の下見板になっていて何となく豊臣期の城郭風を感じさせます。隅櫓と言っても天守閣が焼けた後は場所の標高が城内で一番高いということもあって、その後の金沢城のランドマークとして存在感を占めました。隅櫓といっても立地と意匠性(この場合飛雲閣モデル)によっては天守閣と同等、あるいはそれ以上の風格を出せる、ということがこの辰巳櫓から垣間見えます。

聚楽第が完成してまだ日も浅い5年後に建てられたということは、多分に聚楽第を意識し、そこには飛雲閣をモデルとして建てた可能性もまったく無いわけでもない。。
と、いうことは飛雲閣有り、且つ天守の風格、あるいはその替わりとなった楼閣風の櫓だったかも・・・ということです。

あぁ、混乱してきた・・・

一方、天守はあった!、ともうかがえる文献資料もあります。
以下は、日本建築学会論文報告書から内藤昌、大野耕嗣、中村利則の三氏で書かれている「聚楽第-武家地の建築」より、一部引用させて頂きます。

大坂夏の陣図屏風
大阪夏の陣図屏風

三井家蔵の「聚楽第図屏風」には天守は四重で描かれ、最上階には華頭窓と廻り縁高蘭を飾る望楼型天守となっています。黒田家旧蔵本の「大阪城天守と比べると最上階を除き外装が黒下見板張りになっている大阪城に比べ聚楽天守の方は白亜総塗籠の壁に変わっていてより耐火性と華麗さを強調しています。確認される限り最古の塗籠天守と思われる。
この新たな塗籠様式は、この後、文禄元年(1592)肥前・名護屋城に造営された天守の最上階から数えて三重目まで、妻と平の派風形状はもとより望楼型の様態すべてが聚楽天守と合致していています。
当時、名護屋城へ下向した公家・菊亭晴季の日記「菊亭家記録二」に「名護屋の御要害天守以下聚楽に劣ることなし」とあり、
同じく下向の常陸水戸城主の佐竹義宣家臣の手塚滝俊の書状によると「御城(名護屋城)の石垣なども京都にもまし申し候由、石をみな割てつきあげ候、てんしゆ(天守)なともじゆらく(聚楽)のにもまして申し候」とあって、聚楽第と名護屋城天守の様式的関連性を裏付ける参考となります。四重と五重の規模の差はあっても、この聚楽第天守は名護屋城天守の前身となった存在と言えます。


肥前名護屋城図屏風天守
肥前名護屋城図屏風

これらの文献をみますと「確かに天守はあった」と思えてきます。
当時の第三者的立場の人間が言っている訳ですからある程度信憑性はあると思います。
以上、「天守はなかった」
    「天守に代わる楼閣風三重隅櫓(飛雲閣)があった」
    「天守はあった」、の三っつの観点からそれぞれまとめてみました。

そしてさらにもまして頭が混乱してきました。「いったい、どっち?」。
ちなみに、三井家蔵の「聚楽第図屏風」について、「寛永洛中絵図」によって裏付けられる部分があって、その信憑性は高い、とのこと。そして同三井家蔵本の聚楽第の景観年代について、すくなくとも建築的には天正15年(1587年)9月(秀吉移徒)から同19年正月にかけての期間と思われます。

個人的な感想ですが、
あの建築道楽で派手好みの秀吉が京都の本城として聚楽第に天守を建てないことなど考えられないです。
信長の時代、文禄12年ごろ(1569年)に足利義昭の邸宅として建てられた城郭造りの二条城にはすでに三重の天守があがっていいました。また聚楽第の前身であった秀吉の京都の本拠地、二条第・妙顕寺城」にも天守がありました。
とにかく秀吉のいるところ皆天守が付いてまわっているんですよね。
それが聚楽第の場合、こうも、その究明が混迷するとは・・・・やはり僅か8年しか京都に存在しなかったから、ということに落ち着いてしまうんですかね。なんかつまらない 笑。

長々と天守のこと書きました。肝心の飛雲閣についてまだ書いてない・・・・すみません、今回は「飛雲閣は聚楽第の何処に存在したのだろう?「中編」としてまとめ、次回こそ後編で締めたいと思いますのでどうかよろしくです。





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