3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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秀吉の聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 「外観編」

一応、飛雲閣の外観3Dができたので3DCG図をアップしてみます。今回はCG図をメインにアルバム風に載せます。飛雲閣についての「聚楽第からの移築説」や「聚楽第の何処に存在したのか?」、「そもそも存在したのか?」などの考察については次回私見も含め書いてみたいと思っています。

まずは現在の飛雲閣の姿から、
現在の飛雲閣
現在の飛雲閣

聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正15年(1587年)9月に完成されました。した。天正16年4月14日には後陽成天皇の行幸を迎え(行幸は秀次のときを含めて二回あり)、また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われました。しかし、秀吉に子が生まれると後継であった秀次が謀反の廉で文禄(1595)7月に高野山で切腹。翌月には徹底的に破壊される憂き目にあいました。聚楽第がこの世に存在したのはわずか8年、とても儚いものだったことについては皆さんもよくご存じのことだと思います。

さて、今回作りました3Dの飛雲閣の外観。現在のものとは違い、「聚楽第に在った頃はどんな飛雲閣だったのだろう?」というモチーフをテーマに想像復元を試みてみました。ですから外観もけっこう違う面もあります。当然、自分の想像がかなり含まれていますが、参考にした資料、絵図屏風もあります。

豊臣秀吉の築造した聚楽第については、実際にこの世に存在した期間が少ないので資料そのものが少なく、いまだに「西本願寺飛雲閣は聚楽第からの移築? 伏見城経由? 本願寺が建てた」等々いろんな説が出ていて確定してません。自分的にも、その少ない資料を読んだり見たりすればするほど「飛雲閣が移築か?そうでないか、余計わからなくなってしまうというのが正直なところです。

でも、そうは言っても100%想像では夢がないので今回は、現存する幾つの屏風から「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」を参考に「聚楽第に在った頃」はどんな感じ? で描いてみた次第です。なお同屏風は青幻舎刊・狩野博幸著の「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」の内容に基づき写真・文章の一部を引用させていただきました。


秀吉聚楽第行幸屏風
秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風の一部

その「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」についてですが、平成20年に、上越市内の一般住宅から聚楽第の様子を描いたと思われる屏風が発見され、上越市立総合博物館が翌平成21年2月、同志社大学教授・狩野博幸氏に調査を依頼、結果、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた際の行列の様子を描いた作品であると確認されました。この新発見の屏風は、後陽成天皇が御所から西の聚楽第へ鳳輦(ほうれん)に乗り移動する様子、また随行する公家・大名、そしてその様を見ている町衆などの姿が活き活きと描かれているのが特徴で、聚楽第を描いた絵画は数例ありますが、このような当時の行幸の様子が描かれたものは、この秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風しか見つかっていません。

屏風の制作年代ですが、
描かれている町家や鳳輦の特徴から、聚楽第が存在した年代とは食い違いがあり、屏風は江戸時代前期、17世紀中ごろから後半にかけて制作された作品だと言われています。作者は当時の「町絵師」によるものではと推測されます。

ちなみに現在残る屏風のなかで聚楽第が存在した時期に描かれたものとしては唯一とされる「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)と比べますと、まず天守閣の形状が違います。三井屏風が望楼を載せた初期型に対し今回の秀吉行幸図屏風は望楼を残しながらも形は層塔型で壁は柱の出た真壁の漆喰塗、何となく秀吉よりも後の徳川二代目将軍・秀忠あたりを思わせる外観です。三井の方は二層の殿閣をはじめ様々な殿舎が描かれています。一方、行幸版の方は殿舎が少ないですね。両図共通に言えるのは飛雲閣らしき建物が見当たらないことです。人によっては飛雲閣自体が天守閣だった、との見解もありますが両屏風を見る限り天守には似ていませんね。大広間・対面所のような主要な殿舎群がちょうど二条城二の丸御殿のように南から北へ雁行するように描かれているのに比べ両図とも大きな池や築山があったとされる本丸西側の山里は雲に隠れ見えません。飛雲閣はここにあったのかもしれません。


三井版聚楽第屏風
「聚楽第図屏風」(三井記念美術館蔵)

この「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」については、実際の行幸時に描かれたものを複写され残された屏風ではないか?との推測もなされていますが、自分的には、徳川家康が幕府を開いて以降、豊太閤秀吉とその遺児・秀頼の権威が落ち消えていくなか、かつては華々しく聚楽第で行幸も行われた栄華の絶頂を屏風に残しておこう、という大阪方、秀頼方もしくはその縁を持つ人の意思があって描かれたのではないかと思います。ですから権力の象徴である天皇行幸を主題に描かれたものだと。

実際、「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」には、秀吉の御伽衆であった大村由己が著わした「『聚楽行幸記」の記述にある通り、行幸御殿の屋根には金龍、天守最上階の壁面、そして御殿の側面には鶴が描かれています。他の聚楽第屏風には描かれていない唯一のものです。当時、行幸時の御殿は行幸が終わると直ぐ破却され他に移築などされました。二条城の後水尾天皇の場合でも同様で仙洞御所等に移築されました。ですから、この龍と鶴の意匠も後陽成天皇の滞在された五日間だけの存在でした。その短い五日間がピンポイントで描かれているのですから、まさに聚楽第の栄華を描いた屏風だと言えます。

秀吉聚楽第行幸屏風天守拡大
聚楽第天守閣に描かれた鶴の壁画

今回の飛雲閣には、その鶴の壁画と黄金、黒漆、丹塗りを取り入れ表現してみました。
それでは、いろんな角度から見た聚楽第時代の飛雲閣?をアップします。まずは、正面北向き玄関から、

聚楽第の飛雲閣正面ズーム2


次に鶴の絵が描かれている二階歌仙の間など。実際の飛雲閣にはここに三十六歌仙の絵が描かれています。

聚楽第の飛雲閣正面の鶴絵
飛雲閣二階の鶴絵(聚楽第天守の鶴図を参考にしました)

後は続けさまにどんどん行きます。


聚楽第の飛雲閣舟入
飛雲閣舟入 舟でここから出入りしました。



聚楽第の飛雲閣二階斜めから
飛雲閣を二階斜めから


聚楽第の飛雲閣北東2から
南西から見る。赤っぽい壁は茶室。


聚楽第の飛雲閣北西から
南東から見る。


聚楽第の飛雲閣南から
飛雲閣は北向き玄関なので南が後ろにあたる。けっこ地味。というか後ろから見た写真ないので100%想像。


聚楽第の飛雲閣東側から
東から見る。


聚楽第の飛雲閣西から
西から見る。


聚楽第の飛雲閣真上から
真上から(汗)、飛雲閣って結構間取り多いんですよ。


聚楽第の飛雲閣と靄5-16
薄靄に包まれる飛雲閣。雰囲気出てますかね・・・

夜の聚楽第の飛雲閣5-16-1
闇夜の飛雲閣。二階鶴の絵が白く光っています。三階の摘星楼の唐窓も菱形文様が浮き立ちます。



夜の聚楽第の飛雲閣5-16-5
そして夜の飛雲閣の全景。


以上、拙作ながら「秀吉の聚楽第に在った頃の飛雲閣を想像してみた 外観編」でした。

※3D制作には「国宝本願寺飛雲閣修理工事報告書」を参考にさせて頂きました。




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