3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。随筆、短歌も詠みます。

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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(二)

少し前、ビデオリサーチというところから突然電話がありアンケート調査に協力してください、とのお願いがありました。
あぁ、あのテレビ視聴率の会社ね。多少、好奇心もあって「あぁ、いいですよ」と承諾しましたが・・・

さっそく調査資料が届き、見たらその大判の分厚いデカい封筒にビックリ!
一瞬、後ずさりし、とりえあず後でまた中身見ようと思っていたら、
電話がけたたましく鳴り催促のお願い、また数日たって督促。まるで最後通牒のよう。
さすがに重い腰をあげようと資料を出したら、もう、ものすごい分量の質問項目。
国勢調査の十倍、いや二十倍はあるかも、
とにかく150~200項目前後あったかな?質問の数。

もう断ろうかと思いましたけど、
封筒のなかには図書券が数枚・・・・

もう断る訳にもいかないと、やっとこさで質問項目に答えてゆきました。
かかった時間・・・・半日・・・・

こんな膨大なアンケートはもう二度と御免だ!
と思いましたね。
時給1000円として半日かかったから計4000円の手間賃になる計算だけど、
図書券の額は・・・・

まぁ、お金のことは冗談ですが、
みなさんも、ある日、電話があるかもしれませんよ~~。

この膨大な調査資料はある意味ビッグデータでもあり、
番組の視聴率だけでなくいろんな参考データに使えると思いました。
どう活かされるかは私にはわかりませんけどね・・・。

さて余談が過ぎました。

初回の、その(一)では、新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所について、その場所や
まったく新規の新造ではなく、既存の大きな宿坊(か、それに似たもの)を利用して、敷地の拡張や
一部増築で対処したのではないかと書きました。

今回もその線で書きますが、

幾つか気になったことがあったので、
当時の地図を再度確認してみました。

京都市及び京都市史編纂所が昭和49年刊行した「京都の歴史 全十巻 第七巻 維新の激動」
の巻末に添付してある慶応四年時の幕末京都の詳細な地図です。

刊行は昭和49年と古いですが京都市が総力を挙げ編纂した通史ですので
綿密な資料に基づいた事跡、町割りがかなり正確に描かれています。
サイズも縦65センチ、横60センチもある大判の地図です。

参考までに地図の写真をアップします。
大きな地図ですので横向き左が北にあたります。机の上から撮りました。落ちなくて良かった 笑。

幕末慶応四年京都地図(大判)


ここに当時の朝廷・公家を始め、社寺、幕府機関、諸藩藩邸、町屋、そして当時の
道路や水路の位置、郊外の村や田畑の有様などが色分けして表示されており
幕末の様相が一覧できる貴重な地図です。

地図を縦にもどしてもう少し解りやすく洛中を中心再度アップ。
幕末慶応四年京都地図_新選組不動堂村屯所地図
幕末慶応四年京都地図


紫色が朝廷、薄紫が公家屋敷、黄色が藩邸等武家地、薄緑が寺、黄緑が神社、
ピンクが市街・町屋、薄いグレーが新政府、無色が郊外・田畑等。

なお新政府には二条城や京都守護職屋敷などの接収された旧幕府機関も含まれます。
郊外は別としても市中のなかでも相国寺はもちろのこと、西本願寺の北隣にある本圀寺って
また広い寺域ですね両本願寺よりも広い!
今は山科区に移転して当時の面影はありませんが、
江戸時代の京都における日蓮門徒の勢いを感じますね。

地図に関することですが、厳密にいうと慶応四年(1872年)9月7日までは慶応、翌日の8日から明治に改元されました。
ですから上記地図は幕末と明治が重なる訳ですね。

で、肝心の新選組の不動堂村屯所の場所というよりも敷地はどこにあり
広さはどれ程あったのか? ですけど、

地図の屯所の周辺図を載せます。
新選組不動堂村屯所推定敷地図


その(一)で「リーガロイヤルホテル京都」とその一隅に屯所を示す碑と説明板の位置を示しましたが、
リーガロイヤルホテル京都前の堀川通の向い側、角が塩小路通で交わる位置から南側一帯が
不動堂村屯所の推定敷地図です。
ピンクで囲った所が屯所の敷地ではと推測します。今はアパホテル等が建っていますね。
堀川通も幕末に比べかなり拡張しています。

その(一)でもふれた西本願寺の侍臣だった西村兼文によれば、
屯所は一町四方、約3000坪あったと、新撰組始未記に書いていますが、
京都市編の上記地図の縮尺でみると、どうみても3000坪もあったようにはみえません。
三方を道路に囲まれ、北側・塩小路側の東西間口は広くても60m。
堀川通の南北は長くても100m。坪数にすると広く見積もっても2000坪ほど。

新選組が大嫌いだった西村兼文がなぜ屯所のことを「大名屋敷のよう」と大げさに誉めるようなことを書いたのか?
ちょっと疑問ですが、
考えてみたら本願寺(興正寺)が用意した屋敷ですから、
「どうだ!立派な屋敷だろう。感謝しろよ」と言いたかったのかも。

そして屯所の敷地ですが、
塩小路及び堀川通の道沿いには民家が並んでいます。そしてその内側は空き地となっています。
そこには屯所らしき大きな建物はなく並ぶ民家も宿坊だとしても小さいし奥行きもない。

地図でみる限りは屯所の痕跡はありません。
しかしここにあったのは事実です。
しかも隊士150名(脱走した隊士も多かった)を収容できるほどの施設が・・・・・?

一つ考えられるのは新選組が慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで敗れた後、不動堂村屯所に戻ることはなく、
そのまま幕臣として江戸に赴いて同年1月時点では空き家だったこと。
本願寺側はその空き屋敷を同年後半には壊し整地して分譲もしくは賃貸した可能性もあります。
ちなみに明治に入って同跡地の一部668坪を安寧小学校に売却したとあります。

改めて書きますが隊士150名を収容するには最低限でも1800~2000坪の土地が必要だということです。
これは江戸期の最大規模の宿坊が宿泊定員100名で1500~2000坪の土地を必要としていたからです。

この長い奥行きは客室棟を多く必要とした宿坊の立地に向いており、
また屯所には同時に30人も入浴できる大きな風呂屋もあったといい、
この有様は、まさに大勢の参拝客のために必要だった宿坊そのものであり、
やはり当時、元々ここに規模の大きい宿坊があって、
そこを屯所用に土地の拡張(南側)」と増改築を行ったと考えるのが
妥当だと考えます。

(ひょっとして屯所の敷地は1000坪ほどで正庁である主要建物が集まり、一部隊士は周辺の町屋に分散して起居
していたかもしれません)

その宿坊についてですが、資料もなく当然間取りや建物の配置などわかりませが、
それでは復元しようもないので、

西村兼文、池田七三郎が残した記録・口述に似た間取りで、且つ、
100名以上は収容できる大規模な宿坊を探しました。

手元には宿坊の指図などほとんどないのですが、
そのなかで唯一、条件を満たす宿坊を発見しました!

あの、おかげ参りで有名な伊勢の「御師(おんし)」の宿坊・御師邸です。
そのなかでも最も規模の大きかった「三日市大夫次郎邸」です。

御師三日市大夫次郎邸指図2
御師三日市大夫次郎邸の指図。

そして外観を描いた絵図。
御師三日市大夫次郎邸指図

御師とは、
人びとの様々な願いを受けて神前で祈祷を行う神官のことですが、
古来より伊勢神宮では一般人の供物を捧げ祈願することは禁じられていたので、
御師が代わりになって祈祷しました。
そして、参拝客の祈祷と宿泊を御師邸で行うようになりました。
江戸時代は神仏習合でしたから宿坊も御師邸もほぼ同義語でした。
ですから同じような形態・建築であり、違いは神前と仏前の祈祷ぐらいかな。

御師の門
かつての御師の門。立派ですね。三日市大夫次郎邸の門ではありません。


御師は戦国時代でも織田信長や秀吉、家康などの大名を檀家に持ち、
時には武運長久の祈祷だけでなく、大名のために兵糧米を調達したり、負け戦の時には
かくまったりと大きな力を持っていました。

そして江戸時代に入ると伊勢信仰はさらに高まり、
庶民が競って「おかげ参り」をしたのは周智のごとくです。

年間を通して何十万という参拝客が来ましたから、
盛時、伊勢には800軒もの御師邸があったそうです。

そして、そのなかでも最大規模の代表的な御師邸が上述しました「御師三日市大夫次郎邸」です。

御師三日市大夫次郎邸古写真
三日市大夫次郎邸の古写真。昭和13年ごろ。大島順一氏蔵


「御師」については、
今回、㈱大林組で発行している「季刊 大林 №43 特集御師」から
一部、挿入図と文章を引用させていただきました。

御師


その「特集 御師」に宿坊指図・間取りを解りやすくまとめた概略屋敷図がありますので載せます。

御師三日市大夫次郎邸

御師三日市大夫次郎邸の概要図。右側の南が正門です。

この図で見ますと、
右側の正門を入ってまっすぐに、途中、内門をくぐって玄関に上がると、そこには大きな浴室があります。
参拝客のための汚れを落とす場でしたでしょうね。ちょうど、不動堂村屯所の大風呂を連想します。
また大浴場の続きにはこれも大きな台所があります。
100人を超える宿泊客にはこれでも手狭だったかもしれません。

そして、そこから広い中廊下を進むとちょうど奥の真ん中に広間があります。
左右にはやはり廊下を隔てて幾つもの客室棟があります。
広間の上段は神楽殿でここで祈祷が行われました。
参拝客はこの広間で頭を下げ祈祷を受けていたのでしょうね。
食事などもこの大広間にまとめて用意されたでしょう。

本願寺の宿坊の場合なら、
神楽殿に変わって本尊を祀る内陣、広間が外陣となっていたでしょう。

江戸時代、武家・公家・大名などの屋敷は正門に近い側が「表」、
奥が「奥向き」、いわゆる奥方・家族の住まいになってました。

しかし、宿坊の場合、参拝客が主役で屋敷の表から奥向きまでみな参拝向けの間取りでした。

では御師の家族はというと、図中の台所の隣、塀に囲まれた中にひっそりと暮らしていました。

同三日市大夫次郎邸は間口55m、奥行き130m、総面積1800坪、建物の総床面積は800坪に及びます。
この奥に細長い広い屋敷の客室の畳数合計は288.5畳。
宿泊客一人当たり三畳として計算すると収容定員は100名ほどになります。
もっと多いのでは?と思われるかもしれませんが、
当時は平屋建ての客室でしたからね。

どうでしょう?

この概要図を見て、

何となく上述した不動堂村屯所の間取り、配置に似てませんか?

この御師邸に、表にあたる使者の間や控えの間、対面所、客人の寝所など、
そして警備のための物見、収容しきれない隊士のための長屋、
近藤・土方の部屋はとりあえず宿坊の主の部屋を使う。
後、厩や重剣道場などを移築か増築すれば、
一応、新選組の本営・屯所としての対面は保てたのではないでしょうか?

そして、不動堂村屯所の敷地も間口が60mだとして、
後、南側奥に土地を拡張すれば2000坪ほどにはなり、
三日市大夫次郎邸がすっぽり収まる計算になる。


つまり屯所は、三日市大夫次郎邸と敷地形状、規模、間取、建物の配置等
よく似ていて、
「不動堂村屯所もきっと、このような形をした屋敷だったのだろう」と、

私なりに推測するのですが、
ほぼ9割方、自分の都合のいいように解釈してますので、そのへんは差し引いて下さい 笑


それでは、遅くなりました。
「新選組の幻の本営・不動堂村屯所」の復元想像図をアップします。
(クリックすると拡大します)

新選組不動堂村屯所復元想像図

いかがでしょうか?
聞き書き、伝聞を元に作ったらこんな感じになりました。
これを元に3D再現してみようと思っています。

正確な屯所の復元はタイムマシーンでもなければ未来永劫できません。
でも、この試みは一つの夢の実現と思っているのです。




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2016年12月7日更新

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