3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。随筆、短歌も詠みます。

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新選組のまぼろしの本営・不動堂村屯所を想像復元してみる その(一)

新選組といえば知らぬ人はいないほど、
歴史上の人物(集団)のなかでも大人気を誇っています。

なぜに好きかと言えば、

一歩間違えれば単なる人殺し集団、強請タカリの愚連隊になるところを、
幕末の時世、幕府の汚れ仕事を一身に受け、諸藩が官軍に靡くなか
最後まで幕府に殉じた姿。

また、近藤勇や土方歳三、沖田総司、斎藤一など魅力的な登場人物たち、
それに山南敬助の悲恋など隊士たちの人情話、
はたまた、池田屋事件の凄惨を極めた捕り物など血肉沸き立つ戦い。
極め付けは、幕臣最後の抵抗・五稜郭の戦いで散った土方歳三。
彼は自分に附いてきた少年隊士に託し、遺品と写真を実家に残しています。
そのときの貴重な写真が「クールビューティー」かと思うほどカッコいい。
これで女性ファンも一気に倍増。

土方歳三

もうお膳立てはすべて揃っている。
成るべくしてなった歴史のヒーローたちだったと思います。

人気にも程があるというか、盛時200名近くいた隊士の名が平隊士も含めみ~んな歴史雑誌等に
記載されていますが、そんなこと他に聞いたことがありません。(赤穂浪士もそうだけど人数が違う)
実はその隊士名簿には「脱走」とか意外に多く、
中には「鳥羽伏見の戦いの前に脱走」という隊士もいて、
いわゆ新選組の「恥」以外のなにものでもない。

維新から150年も経っても、なお名簿に載り、そう書かれるなんて可哀想・・・とも思いますね。
本人だって「あぁ助かった、御一新後は家族でも持ってひっそりと暮らそう」と、
ぐらい思っていたでしょうし・・・
子孫の方からしても「ご先祖様、なんでお逃げになったんですか」とボヤきたくなるかも。
あぁっ!、脱走したから子孫の方も存在してるんですよね。うぅ・・・・ん、自己撞着・・・。

あの、これは余談ですが、
明治に入って元徳島藩主の蜂須賀候がたまたま宮中に参内したおり、
応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを一本失敬したところ、
ちょうどそこに来られた明治天皇が気づかれ「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに言われたそう。
蜂須賀といえば先祖の小六は山賊だったともいわれてますからね。

後、これは学習院でのエピソード、
徳川家の令嬢が授業中、担任の先生が徳川家康のことを「狸オヤジ」と何度もいったことから、
「おじいさまは狸なんかじゃありません!」と思わず号泣したそうな。

そんな話聞くと、やっぱ死ぬときは子孫に迷惑かけないようにしないとな、と思ったりします 笑。

まぁ、いろいろありますけど、
とにかく、
今も大人気の新選組にあやかって、
「3D京都」も何か新選組の記事を一発!
と密かにねらってるのですが、

そこは人気の新選組。
今まで学者・研究家、民間の諸先輩・先人たちによって
もう書くネタがないと思うほど語りつくされています。

つまり「3D京都」には付け入る隙はないのです・・・。

でも何かないかと思案するうち、
そう、そうです!
新選組の幻の屯所・不動堂村屯所があるじゃないか!
場所も特定できないほど資料がない不動堂村屯所。

それに対してよく知られている壬生村浪士屯所(八木邸、前川邸)、
と西本願寺屯所。
本徳寺本堂
姫路の本徳寺本堂、新選組が西本願寺の北集会所を屯所としていたころの遺構で移築されたもの。


でもこの二か所はあくまで居候、仮住まいの屯所でした。

それに対して不動堂村屯所は最盛期の自前の最初で最後の屯所でした。

指図もなく、ただ「こんな建物・部屋があった」という当時の西本願寺の寺侍の記録や
生き残り隊士の後日談だけを根拠に、
そして当時の本願寺の施設や藩邸、宿坊、幕府施設、古写真など参考に、
無謀にも屯所の3D復元にチャレンジしようと思ってます。

ただし、確実なる資料はないので、
あくまで3D京都の「私的想像の産物」とみなしてください。

なお、引用資料としては、
同屯所の資料は少なく、
もう10年以上前のものになりますが、

2002年2月号の歴史読本。
歴史読本表紙

この中で、万代修氏の論説「幻の新撰組屯所を追う」。

同じくこれも10年ほど前の山村竜也氏の「幕末・新選組雑学辞典」を
参考・引用させて頂いております。

まず、その不動堂村屯所が存在した場所ですけど、
諸説ありますが、
現在、下京区東堀川通り塩小路下ル松明町にある
「リーガロイヤルホテル京都」の一隅に屯所を示す碑と説明板が設置してあって、
この辺り、正確には道を隔てた反対側に存在したようです。

新選組・不動堂村屯所跡地図
不動堂村屯所跡をしめす地図です。


ついでに、リーガロイヤルホテルも、
リーガロイヤルホテル京都


その同ホテル前の隅に碑があります。
これがそう。
リーガロイヤルホテル京都前の屯所碑2


気を付けないと見落としそうな場所ですね。
説明板を拡大すると、

新選組・不動堂村屯所跡説明板

こんな感じで、
西本願寺から不動堂村屯所へ移った経緯や同不動堂村屯所の大雑把な建物配置が記載されています。

この屯所の建物については、
当時、西本願寺の侍臣だった西村兼文が記述した「新撰組始未記、壬生浪士始末記とも」中で、
「一町四方の広大な敷地に大名並みの絢燗豪華な屋敷を新築した」と記している文中の一部で、
指図等の間取り・建物配置図はなく、「こんな建物があった」というだけ。

その各建物ですが、
表門、高塀、玄関、長屋、使者ノ問、及ビ長廊下、諸子の部屋々、近藤・土方等ノ幹部の居間、客舎、厩、物見、
仲間、小者ノ部屋二至ル迄、勝手好ク美麗ヲ尽シ落成ス」とあります。

他の屯所の記述については、
昭和まで生きた新選組最後の生き残り・池田七三郎は、『新選組物語』(子母沢寛著)のなかで、
「屯所は、真中が広間で、右にも左にも広い廊下がずうーッと通って、右側は部屋が幾つもならんでいて、
これに平同志がいる。左側にも同じくたくさん部屋があるが、これは副長助勤の人達が入っている。
今でいうと大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」と回想している。
(文章は山村竜也氏から引用)。

当時ではありませんが、
関連する京都の古写真を二枚ほどアップします。

不動堂
不動堂村屯所の名称の元となった不動堂です。
現在のリーガロイヤルホテル京都の道を隔てた向かい側が北不動町といいますので、
このお不動さんだと思います。


不動堂村屯所の古写真
不動堂村屯所付近とありますが、古写真とまでいえるか・・・・。


上記二枚は、
「写真で見る維新の京都」(石田孝喜著 新人物往来社刊)から引用しています。

次に不動堂村屯所が存在した時期ですが、
慶応三年(一八六七)六月十五日~十二月十二日の約半年間に過ぎません。
この短期間しか存在しなかったこともあって、「幻の新撰組屯所」と呼ばれる所以です。

ちょうど時を同じくして慶応三年六月十日、新選組隊士総員に幕府から幕臣取り立ての
通達がありました。隊長の近藤勇は直参旗本300石にまで出世しています。
当時の隊士たちはさぞかし喜んだでしょうね。
このころが新選組の最盛期でした。

晴れて幕臣になったということで、
新選組も仮住まいの西本願寺屯所が手狭になったことや体面もあって、
新規に寄宿でなく自分たち自前の本営を新造することにしました。
というか、西本願寺にとっても暴れん坊の新選組には散々手を焼いていて一刻も早く
出て行ってほしいと思っていましたから、
渡りに船と喜んで賛同しました。
ところが新選組には新造するような大金はありません。
そこで、新選組はいろいろ難癖をつけてなかなか出て行こうとせず、
業を煮やした寺側がお金を用立て屋敷を用意することになりました。
土方歳三の作戦勝ちですね 笑。

で、実際の用地交渉や建屋造作については、
西本願寺でなく末寺?の隣の興正寺にやらせました。
本願寺も幕府と一緒でイヤなことは他人任せでいい身分ですよね。

実際の進捗となるとなかなか進みません。
あらかじめ内々で知っていた幕臣登用の慶応三年六月には
完成させるよう新選組も興正寺に矢の催促をしました。
ずるずると時が経ち期限が三か月と迫ってしまいました。

考えてみえば新築の屋敷など、
三か月で完成には土台無理がありますよね。
大勢の隊士を収容するにはそれなりの大きな規模でないといけないですし。

そこで巷間言われているのが、
不動堂村屯所はまったくの新築ではなく既存の建物・屋敷を利用し、
それに増改築したものではないか?
という説。

そのへんについて万代修氏は、

慶応三年二月の時点でも建設場所が決まらず、
屯折を新築するだけの時間的余裕が無かった。
そして対処に行き詰まった興正寺サイドが、緊急措置として同寺が保有する既存の建物を
新撰組に明け渡した可能性が強い。
当時、不動堂村あたりは本願寺から歩いても10分と近く、
しかも周辺は興正寺門主(華園澤稻)の所有地で、多人数を収容する施設(宿坊と思われる)があったこと。
最古の地籍図(明治初年)に「アキヤ」と書かれてあり、幕末期の古地図にも該当場所が垣問みられる。
などが、その根拠としている。

このまったく新築ではない、という裏付けの一つに万代修氏は、
近藤勇の従弟で新撰組隊士・宮川信吉が書いた慶応三年六月二十四日付けの書簡
のなかで「新規に屋敷を補い」と書いている。
これは新屯所の補充であり、新築の意味とは採れない。
幕臣になってプライドも高い新選組が移転先が新築であったならば、
誰はばかることなく誇らしげに「新築」と書いたに違いない。
現実には既存の建物を増改築したものだったから「補い」という、一段トーンを落とした表現を
用いたのではないかと?

確かに、その可能性は十分あったと思います。
風雲告げる幕末、慶応3年10月14日には大政奉還が行われ、
翌慶応(明治元年)4年1月3日には鳥羽伏見の戦いが勃発します。
この間、 不動堂村屯所に住んだのは大政奉還の四か月前、
そして翌年には鳥羽・伏見ですから
まったくの新調の本営・屋敷など
造る余裕などなかったのが実際ではと思います。

興正寺の周辺は、
諸藩の藩邸もなく大きな屋敷はなかったと思います。

改めて、池田七三郎が口述した「屯所は、真中が広間で、右にも左にも広い廊下がずうーッと通って、
右側は部屋が幾つもならんでいて、これに平同志がいる。左側にも同じくたくさん部屋があるが、
これは副長助勤の人達が入っている。今でいうと大きな高等下宿か寄宿舎のようなものでした」との回想は
やはり宿泊と宗教空間を兼ね備えた宿坊以外にはあまり考えられません。
しかも参拝客だけでなく、僧侶の学寮も含めた別格の宿坊だったのではないでしょうか?
(宿坊は神社仏閣の参拝客のための宿泊施設、神仏どちらでもそう呼ぶ)

真中に位置する、あまり明るさを必要としない広間(書院座敷)は宗教空間、時に勤行する空間かも。
そして廊下が左右の宿泊部屋との聖と俗を分ける。
そんな感じがしますね。

江戸期以前の建築においても、
通常は寺の本堂や方丈、武家屋敷でも広間の回りは縁側か廊下で外と面してます。書院など雁行型で繋がっています。
長屋のような部屋も廊下には接していても広間などはない(土間・板の間等は広間、いわゆる書院座敷には
該当しない)。
大名の泊まる本陣や普通の旅籠にも真ん中に広間などは考えられない。
遊郭は?
以前、角屋を見学したけどそんな間取りはなかった。

という風に、宿坊は独自な間取りをしています。

続編では、
隊士150名前後を収容するにはどれほどの規模の宿坊が必要だったのか?
また宿坊から新選組隊舎へと、どのように変貌を遂げていったのか?
自分なりの試論として間取図面を作ってみたいと思います。




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2016年12月7日更新

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