3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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近世の公家屋敷を代表する九条道房邸が完成。 その弐各部編-①

つくつくぼうぅ~し ♪
蝉たちの最終ランナー、ツクツクボウシの鳴き声が
さかんに耳に入ってきます。

それはそれで良いのですが、
実はお盆の温泉から帰ってきて
今頃になってお疲れが表面化、
悪寒が収まらず、耳鼻科に行ったら喉が炎症してるとのこと。
薬を飲んで今は小康状態、だいぶ気分もよくなってきました。

それでも、頭も重い感じですから、
書斎のささやかなソファーで昼寝。
書斎の窓からは小さな森も視えます。

書斎の窓


すると、
半寝、寝ぼけ頭に突然、
鳥やセミ、虫たちの鳴き声の大洪水が襲ってきました!

虫といえばコオロギのごとく、
古から日本ではその鳴き声が愛でられてきました。
日本人は言語的に左脳でその鳴き声を受け止めるから
そのまま鳴き声として、ときに音楽として感じる。
それに対して、海外の多くの(あるいはほとんど)言語は
右脳で感情表現するため、
「鳴き声」ではなく「雑音」として聞こえる・・・?

と、よく聞きますが、
実際のところどうなんでしょう?
自分も雑音とは思いませんが。

し~か~し・・・ソファーで横になって聞こえてきた鳴き声たちは、
思わず「うるさい!」と思ってしまいました。

普段なら雑音なんて思わないのに、
疲れたときは日本語の言語感覚も右脳にスイッチしてしまうのでは?
と、つい愚痴を交え思ってしまうのです。

窓越しに、その鳴き声たちが今も入ってきてます。

ツクツクボウシとカラスはとてもわかりやすい。

でも後の、
チュウゥ、ピッピッピーピピ!、ミーンミーン(ミンミンゼイの生き残り?)、クヮッ クゎッ、ビンビンジップイィ!、
グヮ~ラ ガァーラ、ピピューピエー!、ガエガエガァ~ン、ピコピコピーヒコピッフェイ!、
ジェイ ジェイ ジェイ、ククゥーク、グワァ~、シュルゥルーと、
まぁ訳の分からん鳴き声で、あぁ、めまいがしてくる・・・。

と思ったら突然、ツクツクボウシが鳴き止む。
変わって別の鳴き声が主導権を握る。
と、今度は一斉に鳴き止む。
えぇ、えぇっ!どうした!

鳴き疲れた?
しばしの沈黙が森を支配。
ただ枝葉が音もなく揺れている・・・・

と、そのとき、森の分道を横断する鳥の親子連れが目に入ってきました。
えぇ! 何、ウズラの親子?キジ?
どうみてもカルガモの親子には見えなかったし・・・

と、そうこう首をひねっているうち、
再び生き物たちがまた一斉に鳴きはじめました。

この有様は何だったのか?
ただ思ったのは「自然は巡る」。

前文が長すぎました。
筆も遅い。

さぁ、今から本題に入ります。


各部編ということで、
今回は正門及び中門廊、殿上・使者の間、台所門などの屋敷の東側部分について
3DCG図を載せますね。

正門側東家屋群
(屋敷の東側部分)



で、正門のアップから。
正門&築地塀

門の形式は四足門です。
公家の場合、特に摂家は四足門が正門です。
四足門といっても実際は門柱の支え柱を含めると計六本の脚になります。
伊達政宗が建てた瑞巌寺の中門を参考にしました。
形に品があるし、ほぼ同時代の建築ですからね。サイズは少し小さくしましたが。

左右の築地塀ですけど、
実は西本願寺の築地塀をテクスチャに使わさせて頂きました。
なによりも品、色合いがよく格調高いです。
かといって、帝の御所には及ばない、
一歩引いた謙虚さも何気に感じるよい塀です。
塀の壁面の五本筋の線は
皇族や摂家及びそれに連なる門跡寺院や大寺などの築地塀に用いられ、格式の一番高いのがこの五本筋になる訳です。

でも実際は天皇・皇族と直接の接点がなくても、
行幸の途中に休憩で寄ったとか、あるいは〇〇御用達とか
なんか無理やり?に名分をとって付けて五本線になった寺とか
意外に多いですよ。

ちなみに、
摂家の当主と皇族の世襲親王が都大路ですれ違った場合、
どちらが先に輿、あるいは馬から下馬し挨拶したか?
どちらだと思います?
実は親王が先に挨拶したのです。
五摂家は天皇に次ぐ位といわれいました。

でも実際は親王の方が将来の天皇になる可能性もあるのですから
摂家と会っても、先に馬上から軽く会釈するだけでしょうね 多分。

では親王でなく東宮家(皇太子)だったら?
どちらなんだろう?
同時かな?

築地塀を左に過ぎますと台所門があります。

台所門



台所門といっても、そういう規格・形態の門があるわけではありません。
どちらかというと、
正門が当主や帝の行幸、公家等位の高い貴顕の士がくぐる門。
それに対して台所門は日常的に家臣や使者、その他ご用向き、
また時に物資、衣食住材などを搬入するいわば「実用門」です。
ですから漆喰の長屋門風にちょっと公家風の色を添えて屋根は「むくり屋根」にしました。
漆喰壁の下部は「なまこ壁」を添えました。
形態としては、金沢城石川門のなまこ壁を参考、というかテクスチャに利用させて頂きました。
金沢城石川門のなまこ壁は「せん瓦」を壁に埋め込みをれを白漆喰で塗り固めた四角形の
初期の形態を残しています。この場合は「せん瓦」を使っていますが、
記録によれば、創建当初の江戸初期からこのような「なまこ壁」にしていたと思われ
何らかの瓦を使用していたと思われます。
ちなみに当時の洛中洛外図屏風を見ても、蔵等、下部を下見板で囲う形態は多く
見られますが、なまこ壁風のものは見落としかもしれませんが見当たりません。
今日、あちこちで見かけられる「菱形」のなまこ壁も
どうも江戸初期には見られず、江戸も中期以降になったからではと思っています。

ですので、今回の台所門も下部は下見板にしようかと思いましたが
それでは味気ないと思いましたので、
江戸初期からの形状が踏襲された同石川門の「初期方なまこ壁」を採用することにしました。

正門を入りまして、
その先に見えるのは中門廊。と右脇には輿や牛車を置く車宿や家来の待機する供待ちが併設しています。


中門廊と棟上門



この中門廊こそ寝殿造りの構成要素の重要な一つであり、
創建当時の九条家もこの中門廊にはかなり拘ったと思います。
もしなかったら当時メインだった書院造りになっていたと思います。
中門廊とは、
正門と正殿である寝殿とを途中で仕切る中門に渡り廊下と塀の要素を加えたものです。
中門自体は屋根を支える柱はなく左右の渡り廊の屋根に支えられる形で屋根が重なる
「棟上門」の形式です。

それから同中門廊には柱の礎石がありませんが、
平安時代の寝殿造りは基本掘っ立て柱で、地中を掘り石で固めた上に柱を置いています。
ですから地上には礎石がない訳です。

中門廊の左隣には門廊に接して唐派風の玄関・車寄せがあります。

玄関車寄せ2


儀式や天皇のご来臨など正式なときは中門をくぐり寝殿正面の階段に輿が運ばれそこから寝殿に上がって
いきましたけど、
当主や公家等はこの車寄せから寝殿や殿上・公卿の間へと出入りしていました。
平安の寝殿造りにはなかったものですが、このへんは復古寝殿造りに書院造りの
影響が出ている感じですね。

さらに左隣には目隠しの衝立越しに三段の階段が付属しています。
普段の家臣や来客の供の臣などはここから殿上間等に出入りしていたのでしょうね。

当時は厳格な身分制度でしたから
高位の公家等が下の者から見られないようにしていたのでしょうね。
現在も残る冷泉家屋敷にもありますね。

それではさらに左、南に転じていきますと塀重門が見えます。


塀重門15



この仕切り塀が表の中門廊や寝殿、殿上・公卿間等の表御殿とを分ける塀であり、
またここに塀だけでなく、塀重門があるのは、台所門を入って表御殿に入る必要、
あるいは表御殿と繋がる必要があるときのためだと思います。

ちなみに以前も書きましたが、
この塀重門が寝殿造りのアイテム・中門廊が近世になって簡略化
されこのような形式となったものです。

思うに中門廊はイメージ的に幾重もの門や回廊を潜って寝殿に辿り着く、その風雅な道行を楽しむ。
あるいは中門廊を通して釣り殿に渡る等の貴族らしい美意識が建築に反映しているのに対し、
近世の塀重門や塀は、
近世になってより固定化された身分制度を屋敷内でも厳格に仕切る。
また武士の時代であり防御面からも幾重の塀が設けられた、
いわば建築の様式美よりも、より実用的に屋敷内を閉鎖的に分け隔てる。
そういった側面が強いと思います。

この九条家邸も中門廊から寝殿に至る部分を除いたら塀ばかりです。
逆にいうとこの中門廊から寝殿に至る道程こそ、
近世・公家たちの寝殿造りを残す最後の砦、拠り所だったと思います。

あのこの塀重門、
実は浜離宮の門で、とてもりっぱな門です。
ですので参考・アレンジさせて頂きました。


門を抜けますと、
右に使者の間、左に台所門、門番所が見えます。


使者の間階段
(使者の間と階段)


使者の間の舞良戸(引き戸)や明かり障子は漆塗りも装飾金具もない地味なものにしました。
表御殿とのバランスがありますからね。
また屋根も寄棟造と比較的単純な屋根形式にしました。


門番所
(門番所)


使者の間はそのまま読んで字のごとく、
ここで使者と九条家の諸大夫等が応接し、時に当主に取り次いだんでしょうね。

幕末、
ときの関白・九条尚忠は朝廷において絶大な権力を誇りました。
当時、アメリカ公使のハリスから執拗に求められていた日米修好通商条約条約の調印について、
困り切った幕府は江戸時代を通じて初めての朝廷に勅勘を仰ぐという拠に出ましたが
朝廷からはいい返事はきません。
ますます困り果てた幕府は、もう関白・九条尚忠に頼るしかない、と同関白に積極的に接触。
当時、どちらかというと幕府との融和派だった尚忠もこれを受け奔走しようとした矢先、
まさかの岩倉具視ら若手平公卿たちから猛烈な反対運動に合い、孝明天皇の激怒も買い
関白職も失職してしまいます。
その後復職しましたが、尚忠は幕府との協調路線を推進し、
公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、
また尊皇攘夷派の怒りを買い今度は謹慎を命じられてしまいました。

そんな経緯が幕末にはありましたが、
この使者の間を上がっていろんな志士や人物が出入りしたんだろうなぁ・・・と思いますと、
九条道房邸とは場所は違いますが、3D化していると何か感慨深いものがあります。

また、九条道房が甥の将軍・家光と親しく接した友好関係は、
奇しくも幕末まで続き、それが若い公家や志士たちの怒りを買うとは・・・
道房もきっとそこまでは想像していなかったでしょうね。

さて使者の間を過ぎてもう少し北に進むと右側にまた塀が現れそこからは西方向に台所等もみえます。


詰所と台所方面


では巡った道を戻ります。

塀重門越しに正門等の屋敷北東側がみえます。

南側から見た正門付近


塀重門を抜けると車宿が見えます。
車宿と供待ち


というかこの部分はちょっと前に作った光源氏の六条院から持ってきたものなので、
供待ちはどこ?
輿や牛車はどこから入れるの?
と言われそうですので、
冷泉邸の供待ちでお茶を濁します  笑


公家屋敷(供待・正面)


ちっと小さいですかね?

翻って屋根部分を見てみます。


屋根と妻側比較



一応、差別化ということで、
寝殿や対面所の妻側は飾り金具で飾りましたけど、
控えの間でもある殿上・公卿間の方はなしの簡素なものにしました。

それとこれは中門廊の中、
中門廊下内部



本来の中門廊ですと寝殿側の壁はなく吹き曝しなのですが、
元の指図を見ると両サイドとも壁があるので同じようにしました。

そして今回の最後の一枚、


さぁ!

中門を抜けて寝殿前

中門を抜け、
広い寝殿の庭に出ました!

以上、その弐各部編-①はこれで終わり。
次週は引き続き、その弐各部編-②を載せますので、
どうか見てくださいね。




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