3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。随筆、短歌も詠みます。

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もう一つの桂離宮

当ブログへ来られた方こんにちは。
例によって現在進行形で公家・九条家のお屋敷の3D作りをしていますが、
愚痴言いますと、お屋敷全体のセットですから、
建物のパーツをいくつも作る必要があります。
ですからふぅふぅ言いながら作っていて、
完成は7月になりそう・・・・。

でも各パーツを作ることによって、
今後の3D作りの再利用につかえ時間短縮も可能・・・と
ひとり自分で期待してます。

さて水曜がきました。
そこで今回は「もう一つの桂離宮」と銘打って、
かつては京都の北・西賀茂に存在し、
桂離宮に勝るとも劣らないと言われた幻の別業・「西賀茂山荘(一条恵観山荘)」について
少しばかり書いてみたいと思います。

最初に参考及び引用させていただいた書籍を紹介します。

「茶室研究」堀内捨己著 鹿島出版会

「日本名建築写真選集 桂離宮」 新潮社 等です。

研究堀口捨己・茶室


ちなみに、同西賀茂山荘(旧一条恵観山荘)にあった山荘の一部、
30坪ほどの茶室(止観亭)が昭和34年に神奈川県 鎌倉市の茶道宗徧流不審庵に国の
重要文化財として移築・保存されています。

一条恵観山荘(止観亭)1

と、その間取りです。
一条恵観山荘(止観亭)2


後、いくつか部屋をアップしますね。


一条恵観山荘(止観亭)鎖の間2



一条恵観山荘(止観亭)鎖の間



そして二階棚
一条恵観山荘(止観亭)二階棚
室町時代の座敷飾りにも通じる茶の湯棚。



同西賀茂山荘を建てたのは、
後陽成天皇の第九皇子で後に摂家の一条家に養子に入り、
一条昭良と名を改め、関白を辞した後には恵観と号し、
西賀茂の地に山荘を営みました。

恵観には兄の後水尾天皇、近衛家に養子に入った近衛信尋など、
当時の寛永文化を担った錚々たる兄弟たちがおりました。
また恵観からすれば桂離宮の智仁親王は伯父にあたります。

西賀茂山荘が完成したのは、
慶安三年(1650年)頃。
約10年かけて造営されたといわれます。

智仁親王が桂離宮を創建・整備されたのが
元和二年から同元和六年(1616~1620)頃にかけて。
またその後を継ぐ智忠親王による現在みられるような完成をみたのが、
慶安三年頃と言われていることから、

両方ともほぼ同じ時代に完成をみましたが、
ただ桂の方の造営が約30年先行しており、
西賀茂山荘は多分に桂離宮の影響を受けていると思われます。

とくに、近世、数寄屋造りの端緒にもなった桂離宮以後、
寛永期には後水尾天皇はじめ上層公家・宮家等により
たとえば、近衛家の大和田御殿(現在の黄檗山万福寺あたり)や
後水尾天皇のまだ修学院離宮が営まれる前の長谷、幡枝、岩倉等の茶屋御殿と、
京都洛外に様々な茶屋が営まれ、一種の別業文化を生み出しました。

この時代の茶屋(数寄屋)建築の特徴の一つに、
「色付」というのがありました。
檜以外の多様な材木を使用する場合には、
煤玉や柿渋、透き漆などを用い暗褐色風にすることによって
木目の風趣や室内の雅趣に富んだ統一感をだすことができ、
まさに「数寄屋」に適した工法でした。

西賀茂山荘もきっといろんな工夫を凝らしたことでしょうね。

ちなみに両別業を比較すると、
敷地的には、桂が約2万坪、西賀茂が3万坪と、
西賀茂の方が広いですね。


地図で位置を確認しますね。
西賀茂山荘と桂離宮の位置関係
まさに京都の洛外・北と南に離れています。



さらに上空からの西賀茂山荘の敷地想像図
ピンクの点線内が敷地にあたります。
西賀茂山荘敷地想像図

中心に「醍醐の森」とありますが、
その由来はというと、
山荘の主・一条恵観が亡くなった後、
恵観の次男が醍醐家を興す際、
一条家から譲られたものだそうで、
以来、醍醐の森といわれ、おそらく
主屋等が建っていたのでしょう。
茶屋が鎌倉へ移築されたのもここからだと思います。

ちなみに醍醐家は明治になって侯爵を綬爵。
昭和期の当主、忠重は、海軍に入り海軍中将にまで進み、
侍従武官、第5潜水艦隊司令官、第6艦隊司令長官などを歴任しますが
戦後、戦犯に指定され1947年(昭和22年)オランダ軍によって銃殺刑に処されました。
オランダにすれば貴重な植民地を失ったことへの八つ当たりにしか見えませんけどね。

さて、航空写真から今度は西賀茂山荘の古図に
中心の屋敷地を配置してみますね。

西賀茂山荘敷地&屋敷想像図



あの、西賀茂山荘があった土地の住所を書くのを忘れていましたので書き添えます。
京都市北区西賀茂南川上町というあたりがそうです。
賀茂川を挟んで東南には上賀茂神社、
西賀茂山荘からも競馬が見えたそうです。
南川上町から船山(標高317m)の南西には正伝寺。

正伝寺の方丈は、伏見城本丸の御殿の1つが移建されたものと言われ、
廊下の天井は「血天井」と称され、伏見城落城の際に自刃した
鳥居元忠らの血痕が廊下の天井板に残っているのは有名ですよね。

船山の麓には霊源禅寺という寺があり、
後水尾上皇も行幸されています。
西賀茂山荘はこの霊源禅寺と隣り合う形で東に緩やかに傾斜した土地、
約3万坪の敷地を占めていたようです。
船山を借景とすればもっと広いかもしれません。
主屋及び茶室はその中の一部にあたります。

古文献によれば、
山荘内には、
蹴鞠場(文字通り蹴鞠をする場)、
春日社、
仮御座所、ここには霊元天皇も行幸されています。
葦の池、
船着き及び船宿、
と、主屋以外にも嗜好を凝らした茶屋が池傍等にあったようです。
また、桂離宮と同じように舟遊びも盛んに行われたのでしょうね。

屋敷廻りについては、
西番小屋、
表番小屋、
表門、
中門、
裏門、
森下門など、
複数の門があったようです。

また、
杜若池や弁財天を祀った竹生島の池、
宮の池、奈古曾の池、扇の滝など、
ここでも舟遊びや管弦が行われ、
さらに桜の馬場や的場、様々な花壇や茶園もあったようです。

これらの記述は、
醍醐家の当主・冬香が著した「温故録」のなかに書かれていて、
いわゆる四十八景の名所を書きこんでいます。

桂離宮にはない馬場など、
西賀茂山荘の広大さがわかります。
西の船山を借景にするなど、
どちらかというと修学院離宮にも似た雰囲気を感じます。

以上については、その多くを
「茶室研究」堀内捨己著 鹿島出版会 から引用させていただきました。


主屋及び茶屋についても
「温故録」に幾つか古い指図が残っていて、
せっかくですからアップしますね。

西賀茂山荘古絵図(温古録)


そして幕末・慶応年間の指図、
西賀茂山荘古絵図(慶応・醍醐家)


後、主屋及び離れも含めた中心の屋敷全体の指図を
自分なりに作ってみたのでこれもアップします。

ただ江戸時代を通じて、当然、増改築も行われ、
姿形も変わっていると思いますが、
それらをまとめてみました。
西賀茂山荘屋敷間取り図

どこまで正しいか?はなはだ不明瞭ですが、
とりあえず雰囲気だけでもわかるかと思います。

これもいつのことかわかりませんが、
茶室内の仕様とかわかっていますので3Dで作ってみたいと思っています。
(茶屋の3Dは珍しいのでは?)・・・いつのことやら・・・・

以上、
幻のもう一つの桂離宮「西賀茂山荘」について描いてみました。





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