3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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江戸時代の公家屋敷ってどんな感じ? 摂家・九条家の場合 間取り編

改めて江戸時代の公家屋敷ってどんな感じだったんでしょう?

以前、清閑寺家のお屋敷を3D制作しましたが、あまり公家屋敷の特徴は出ていません。
というか摂家クラスを除いた中・下位の公家の家は近世の書院造りと基本的に同じ構成をしています。
細部では建具やむくり屋根、室の呼称などに瀟洒な公家風を感じますが、
室町初期までは存在した寝殿造りの面影はありません。
現在、まとまった形で唯一残る冷泉家住宅でもそうです。

また、3D自体も指図の読み間違えから御座の間に二階があったのをわかりませんでした。

ちなみに指図には「二階蔵」とはっきり明記してある一方で、
簡単にカタカナで「ニクイ」と書き添えた部屋もあります。

最初、自分はお部屋が「何でニクイ?」、「憎いの?」と訳がわからなかったのですが、
他の指図等と見比べ、たとえばニクイの後に一文字付いているのがありまして、
その一文字もミミズが縦に立っている?ような崩し文字で判読不明でしたが、
よ~く見ると、どうも「有」の字だとわかりました。

そこで解けました!

「ニクイ」が→「ニクヮイ」→「ニクヮアイ」→「ニカイ」→「二階」、
つまり「二階有」だったのです。

だったら、最初から他の蔵や長屋と同じ「二階」の呼び名に統一すればよかったのに・・・・
と思うのですが、
当時のいわば大工さん、設計士さんたち用の指図で、自分たちが解ればそれで
よかったんですね。

でも何となく蔵や長屋は二階とはっきり明記、
一方、座敷などの主屋は「ニクイ」。
その使い分けに何か意味があるような気がしました。

当時、主屋が二階ということは、
公家や武家の上流階級の場合、敷地が狭い、身分があまり高くない?、金がない?・・・と思われ、
「ニクイ」とぼかしたかも? もう・・・完全なる妄想ですが 笑。

この指図関連の崩し文字、
江戸後期、明治に近づくにつれ、
楷書風に解りやすくなっている図が増えています。

思うに、寺子屋が普及し、一般庶民も漢字を書けるようになり、
それは大工の世界も同じ、
ただ、寺子屋では楷書で習うから、
現場の大工でも解るように字体も丁寧な楷書に変化していった・・・と。

こんな解釈でどうですかね?

戦国時代の書状など、
まさしく本人同氏でしか解らないような崩し文字、
戦乱の世でしたから文字も一種の暗号だったんだと思います。

崩し文字から楷書へ、
それは平和な江戸時代が長く続いたからかもしれません。

あの、ついでにもう一文字いいですかね?

座敷の間に一文字「ろ」と書き込んであるのです。
ろ? 「囲炉裏」の、ろ?
わからない・・・
わかる方いたら教えてください。

余談が過ぎました。すみません。

今回は寝殿造りの流れをくむ本来の公家屋敷を再現してみようと思い、
そこで選んだのが九条家のお屋敷でした。

ちなみに公家屋敷(寝殿造り系)と武家屋敷(書院造り系)の違いって何?
と思われる方もいると思います。
書院造りには床の間や棚、納戸構えに畳がありますが、
パッと見、すぐ違いがわかるのは何だろう?
と思い下手なイラストですがアップします。クリックすると拡大します。


書院寝殿造りイラスト


左が武家書院で右が寝殿造り系の公家屋敷です。
きわめて単純化してますけど、
書院、武家屋敷の場合、表門である南門から入ってそのまま正面玄関(車寄せ)に上がる、
そして待合の控えの間、書院(広間)と続く。

一方、公家屋敷の方は、
寝殿造りの遺風で南門はなし。あくまで池泉の世界。
東西、どちらかの四足門(平安時代、四足門の方が唐門より格が高かった)から入って、
そのまま中門廊という塀と廊下と中門が合わさった棟門をくぐり、寝殿正面の階段から昇殿→というパターン。
ただそれは、そこの主人か上客。
普通は中門廊の内玄関から上がり、
公卿座等の待合で待機、そして透渡廊という壁のない吹きさらしの廊下を渡り寝殿へ到着、という感じ。

もちろん例外もあり一概にはいえませんが、
たとえば寝殿造りだと、天皇の住まわれる内裏だけは南門がありました。

そうそう、平安時代は唐門よりも四足門の方が格が上だと括弧書きしましたが、
今では西本願寺や二条城の豪華な唐門を見ると、何で当時は下だった?
と、ちょっと疑問をもつと思います。

平安時代の門の序列としては、
四足門、棟門、唐門、上土門の順でした。
棟門とは二本の支柱に支えられた門で塀の上に乗っかている感じ。
上土門は平べったい板屋根に土を載せた形の門で、中世の絵巻を見ると
よく出てきます。

絵巻の上土門
絵巻に出てくる上土門です。


現在、遺構はほとんどなく、唯一、法隆寺の塔頭・西園院に残っています。
ただ現在は土の代わりに檜皮葺になっていますが。

その遺構をアップします。
法隆寺西園院上土門と唐門
手前が上土門、奥が平唐門です。


もう一枚のせます。
細川邸上土門(洛中洛外上杉本)

絵巻からクローズアップした屋敷は細川家。
あの織田信長が上杉謙信に送った有名な洛中洛外図屏風(上杉本)に描かれています。
描かれた時期は1570年前後と思われます。狩野永徳の作で国宝にもなっています。

細川家は室町幕府の管領で大きな権力を有していました。
その細川邸の門を見ると、
やはり上土門と棟門が並んでいます。
ただ上土門の上は土ではなく檜皮葺に葺かれていますが。
塀は上土門の左右だけ白い漆喰になっています。
この1500年代中期、室町末期という時代でさえも、
漆喰は貴重な材料で、塀の屋根に瓦はなく、主屋も玄関車寄せだけ檜皮葺で
後はちょっと板が厚めの杮葺き。
意外と質素だったんですね。

現在の感覚から見た近世の豪勢な城、御殿のイメージは信長以後
の事だったんだと改めて感じました。

で上土門ですが、
よく見ると左右の側面が曲線を描いた板派風を立てています。
ちょっと見、平唐門の妻側に似てなくもないです。

思うに、初期の唐門の形態である平唐門(側面の妻側が唐派風になっている)の原型がこの上土門だったのでは?と
推測します。

初期は土を盛っただけの上土門が、
土から、板葺き、檜皮葺か本瓦葺きと上質になって行く過程で、
板だけでそれらしく見せていた派風も屋根全体が反り、曲面を持つ屋根に進化。
さらにそれを支える支柱も4本~6本となり平唐門へ昇格。
そして信長の時代になると、
正面にも唐派風を加えた、向かい唐門が出現、
この向かい唐門が今日みる豪華な唐門へと発展しました。

こうした過程を経て、
近世の最も格式の高い門へと昇格したと考えるのです。

唐門というと、
中国伝来のものと思われがちですが、
日本で派生した門です。

それも上土門が原型だったからこそではと、
今、書きながら解釈してます。

土を載せるだけでは貧相だから、
板の派風でも立てて飾っやろう・・・と、
誰かが言った一言が案外、唐門の始まりだったかもしれませんね。

またまた脱線してしまいました。

本題に戻ります。

今回の3D制作に選んだ九条家の屋敷指図(元図の複写)をアップします。

九条家指図(寛永)
京都府総合資料館蔵


参考資料として、

九条家指図(京都府総合資料館)

九条家寝殿及び建地割図(宮内庁書陵部蔵)

鷹司家寝殿図(宮内庁書陵部蔵)

近世九条家の屋敷について 近世公家住宅の復古に関する研究 藤田勝也

江戸時代摂家住宅とその性格 平井 聖

近世における摂家住宅の寝殿について  平井聖

日本住宅の受容と展開に関する研究(4) 大岡敏昭 三好紀美子

幕末の宮廷 下橋敬長談 東洋文庫

高埜利彦氏著「朝廷をとりまく人びと」 吉川弘文館

後、中井家文書など。

上記の諸先生方の論文・著作を参考・引用させていただきました。

この九条家の屋敷、
建てられた年代は明確ではないですが、
寛永8年、1630年頃と思われ、
当時、九条家の当主だった九条道房が将軍家光の養女を正室に娶り、
新たに奥向き御殿を増築したときの指図と思われます。
そのころの内裏周辺の公家町絵図をアップします。


寛永度公家町図
寛永度公家町図

この絵図を見ますと、
九条家の屋敷が三ケ所あることがわかります。
仙洞御所(上皇の住まい)の北にある上屋敷、その隣には隠居屋敷もあります。
で、同御所の西南にあったのが下屋敷で今回取り上げる九条家屋敷です。
同屋敷は本邸である上屋敷が火事で消失、道房への当主代替わり、結婚等により、
一時期、本邸になりました。しかしここもやがて火事で焼失。屋敷地はさらに南に下がり、
今日、唯一残る九条家の遺構・拾翠亭がある区域が幕末まで本邸として定着しました。

なぜ九条家かと言いますと、
江戸時代を通じて五摂家は平安の寝殿造りの復古に取り組んできました。
有職  故実の権威・裏松固禅による内裏の平安復古の研究がなされ、
それが具体的に寛政の内裏建造に反映・実現されると、
さらに復古への運動が加速します。
鷹司家など、藤原道長の東三条殿の寝殿の間取りと酷似した
寝殿を建てたりしてます(透廊はありませんでしたけど)。

鷹司家寝殿図(寛政)
鷹司家の寝殿(寛政):宮内庁書陵部蔵

一方で、近衛家のように大書院に車寄せといった書院造りを建てるケースなど、
五摂家のなかでも、その取り組みは一様ではありませんでした。

そのなかで、
元和・寛永の江戸初期から一貫して寝殿造りの復古に拘ってきたのが九条家であり、
五摂家の残された指図のなかでも、
寝殿はもちろん、中門廊、二棟廊、透廊、公卿座と寝殿造りのアイテムを一式そろえた屋敷が
今回の寛永期の九条家屋敷だったのです。

ですから公家好みの自分としては、この屋敷を3D化することにより、
江戸期のもっとも良質な公家屋敷の再現を試みようと思った次第です。

ちなみに五摂家のなかで、皇別摂家といって皇族から養子に入った摂家が近衛、一条、鷹司と三家ありました。
九条家は男子で継いできました(一時期、他家の公家から養子が入りましたが、その公家も元々、九条家からの養子が入り
継いでいます)。

このような背景もあり九条家の摂家としての誇りは高いです。
明治以降、近衛家が文麿公など今でいうリベラルな面を持っていましたが、
九条家は逆で、公家の伝統保守派の旗頭的な家系でした。

今も平安神宮の宮司をされている九條道弘氏は京都在住で
藤原一族の末裔で組織する藤裔会の会長もされています。

それでは九条邸の間取り概説、案内に入ります。
指図記載の崩し文字、大工用語?など
素人の自分にはわからない部分も多いですが、
自分なりにまとめてみました。
まず、元図に基づき自分なりに解りやすくイラスト化した図を載せます。

寛永期九条家屋敷指図

正門は東の四足門です。
寝殿造りは通常南に面していますが、
今回のケースでは北面しています。
近世を通して、公家・武家の区別なく、
意外と方位に拘らない屋敷が多いです。

今では南向きの家が人気があり、
家の北側の敷地は隣との境すれすれの場合が多いです。

でも当時は屋敷は拝領地であり、敷地も広く、
北面しても採光を取りやすい、といった側面もあったと思います。

でもこの九条屋敷の場合、北面していても屋敷構成は寝殿造りの流れに沿った構成をしています。

四足門の下、南には門番所と台所門があります。
長屋門のような門だと思います。
表向きの台所で使う調理材料とか荷物とかここから運びこんだんでしょうね。

門番所のそばに雨水など溜める天水桶があります。
時代劇にも小道具としてよく出てきます。


天水桶
天水桶

指図には明記されてませんが、その印から多分そうだと思います。
屋敷内に二十か所近くあります。
当時はロウソクの漏れ火とか小火クラスはけっこうあったと思います。
そんなとき速攻で使われたでしょうね。
後、雨でなく水屋から買った炊事用水、洗顔・手洗い、飲料とかにも使ったかも。

正門からそのまま進むと中門廊があります。
右手には車庫があります。
当時の用語では車宿といい、牛車を停めるスペース
摂家では必ずありました。
貧乏公家(失礼)など、必要なときだけ輿をレンタルで借りたりしていました。付き従う従者込です。
車庫の周辺は主人を待つ供待ち、随身所といって警護の侍の詰所もありました。

正式な昇殿は中門をくぐり寝殿正面の階段(五段)を上がるという作法ですが、
通常は中門廊にある内玄関から上がりました。

上がると地位に沿って、三位以上の高級公家は公卿間へ、
三位以下五位以上の者は殿上間へ、
その他家臣は家臣の間がそれぞれ控室。

南に下がると使者の間があります。
幕末の志士などここで密談したかもです。

公卿間等の隣には同じく三部屋あります。
記載はありませんが、摂家の家老にあたる諸太夫や用人などの詰所があった気がします。
また客人の宿泊にも使われたでしょうね。

なんとなく表向きはトイレが少ない気がします。
使者の間の西に風呂・トイレがあります。
けっこう大きなスペースですから、ここは
客人用だったでしょうね。
使者の間は部屋割りのない広い一間ですから、
大部屋というか、ときには使者の従者たちの雑魚寝場だったかも。

寝殿に向かっては二つの渡り廊下があり、北の方が透廊。壁のない廊下で、
通常の寝殿造りだとここに反り橋があり、床下を鑓水が流れているのですが、
この屋敷の場合はどうだったんでしょうね?

下、南側の二棟廊は廊下の中間に柱・壁があるため二棟あるように見えますが
実際は一棟です。
巾が広いですから多分南側は部屋になっていたと思います。
平安の寝殿造りでも女房衆の部屋や食堂になっていましたからね。

寝殿は居住空間のまったくない儀式専用の場でした。
母屋と庇からなります。外に面した壁は南側を除いて蔀戸と妻戸(板扉)が立ち、
外縁を高蘭が巡っています。中は七部屋ほどに別れ、
それぞれの身分に応じた部屋割りなど、複雑な儀式に対応できるようになっていたのでしょう。
公家の場合、年中行事が多いというか、仕事でしたからね。

平安時代のときの寝殿は儀式・対面と生活とが同居してましたけど、
寝殿の隣に独立した対面所があるこの屋敷の場合、
応接と居住と別棟に分けた近世・書院造りの影響が出ていますね。
九条家寝殿妻側立図
九条家寝殿妻側立図(今回の寝殿のものではありません)

寝殿の北には庭、多分、池泉があったはす。
階段下の左右には左近の梅、右近の柚子が植えてありました。
柚子?
でも、柚子って柑橘系なんですよね。
だから橘系には間違いはないということ。
でも、だったら橘でいいじゃん。
とも思いますが、柚子の方が管理が楽?
なんてね。

で、西隣は対面所。
ここは六部屋ほどに分かれ、
主・道房の書斎や寝室、東側は対面・接客の場になっていました。

寛永11年の将軍・家光の上洛時にはここ対面所で
家光を饗応しています。

寝殿及び対面所の南には上下の台所があります。
主や客人は上、家中の者は下、という所だと思いますが、
でも広いですね。
ここには納戸・物置以外にも広間や御局の部屋(侍女の頭?)、番所とかもあって
ちょっと下男・女中には居づらそう・・・

ちなみに江戸時代の摂家の家臣構成ですけど、
「幕末の宮廷」下橋尊長談や高埜利彦氏著「朝廷をとりまく人びと」等によれば、
トップの諸太夫以下、侍・用人・近習・中小姓、勘定方・青士・茶道の八階級が士分、
士分以下が小頭・中番・下僕等から構成され、
女房衆、侍女、下女等含めれば常勤で100名以上、非常勤など含めれば150人(二条家の場合)以上、
石高の多い九条だったら200人近くいたかもです。
家臣は勤番(夜警や警護)を除けば多くは通勤していました。
女中衆は二階建ての長局に起居していました。

後、名義貸しだけの家臣もいました。
九条家の紋どころを店先に掲げる権利を得る代わりに
家礼としての謝礼金を差し出しました。

さて以上が表向きで、
ここから奥向きに入ります。
対面所を出て廊下を北に進むと二階建て文庫があります。
おもしろい位置にありますね。
寝殿と対面所を仕切る塀がなかったらまさに西の釣り殿風に思えてならないのですが
いかがでしょう?

文庫から西に進むとただ一本、奥向きに通じる廊下があります。
廊下を出ると正室の間に着きます。
ここも六室からなる立派な書院で対面所より広い感じ。

やはりというか、
奥様が家光の養女(実際は福井の松平忠直の姫)ですし、
奥向き増築のための支度金も入ってますし道房も気を使っていたでしょうね。
でも、この鶴姫、道房との間に五女をもうけていますから夫婦中はよかったかも。
ただ、気を使いすぎたのか?道房は39歳で亡くなってしまいました。

正室の間の南には家族の部屋が6室ほどあります。
姫君が5人もいましたから華やかというか、使える侍女たちも毎日忙しかったでしょうね。

そんなとき、正室の間の北西にはプライベート空間がありました。
一番奥がサウナ、蒸し風呂ですね。
隣は衣装部屋に化粧の間、他にもいくつかの部屋、
寝所もあったでしょう。
道房が夜、奥向きいったときはここで夫婦寛いだでしょうね。
またここには二階蔵があって、
二階には四周を高欄が巡っていました。
物見の櫓というか、
今でいうバルコニー。ここで外の景色を眺めたり
お茶を飲んだりしたのでしょう。
奥向きは狭いですから、ここは息抜きの場だったでしょう。

ちなみに、
洛中洛外図屏風(池田本)には、
なんと当時、内裏の清涼殿の奥に二階建ての楼閣があったのです!
九条家と同じように高欄が巡っていました。


寛永の内裏(楼閣付)

安土桃山、元和・寛永と、
当時の京は
戦乱の荒廃から立ち上がり
多くの社寺や城、豪華な御殿が再興され、
町衆も裕福な商人などは競って
三階建ての漆喰の蔵や数寄を凝らした二階屋を建てるなど
大土木工事、建設ブームにわきました。

そんな高揚感に溢れた時代ですから、
当然、公家、とくに摂家もその影響を受けたでしょうね。

九条家の場合、そのシンボルがこの二階蔵座敷、数寄空間だったと思います。

長々と書きました。
次は3Dで再現。
どんなものになるか心配ではありますが頑張ってみます。

公家の事となるとなぜか熱が入りますが、
当ブログを読んでいただいてる方々のアンケートでも、
二番目に見たいのが「公家屋敷」です。

公家に興味があるのはけっして自分だけではないと
思ってます。

いつか公家が主人公の大河時代劇ができるといいですね。

では。


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