3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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源氏物語の舞台・六条院を再現してみよう!

しばらくご無沙汰して申し訳りません。

光源氏の邸宅・六条院を3D化するのに半月かかりました。
やはり生活してますからね。いろいろ用事あります。

さて、その六条院ですが、
どこから書いていこうかと迷いますね。

源氏物語に関する書籍はたくさんありますから。
今回は邸宅なので、その関連本を集めましたが、
それでも多い。

そのなかで、やはりというかとても参考になり、引用させていただいたのが、
大手建設会社の大林組で発行している「季刊大林-源氏物語」です。


刊行は1991年。
もう25年ほど前で、それ以降、寝殿造りの研究がどれだけ進んでいるかわかりませんが、
現在、この日本に寝殿造りがいっさい残っていない状況で、
大林プロジェクトさんは、源氏物語評釈で知られる玉上琢彌先生(故人)
のもと、源氏物語の様々な場面から類推し、まるで実際に存在したごとくの「六条院の復原」に纏め上げました。
とても労力のいるプロジェクトだったと思います。

その季刊大林の平面・立面復原図、イラスト等に基づいて3D化してみました。(クリックすると何れも拡大します)


六条院全体図
六条院の全体図です(季刊大林から引用)。


そして六条院のなかでも、
わけて重要な光源氏の住まいであった東南の春の御殿の間取り図、

六条院春の町間取り図



これらの参考資料がなかったら私も3Dで作れなかったと思います。

その3Dからまず二枚ほど、

朝靄の六条院アップ

朝靄の残る桜の花越しの春の御殿。
六条院の中心・光源氏の正殿であり、妻の紫の上の御所です。


そして靄がはれた御殿、
桜越しからの六条院春御殿



六条院は四季それぞれの風物をなぞらえた四つの御殿から構成され、ゆかりの女性たちの住まいとしました。

六条院の全貌
六条院の全貌



東南は上述した光と紫の上の春を表現した御殿、

六条院春御殿南東から



そして東側からのショット

東からの六条院春御殿



※ 六条院を囲む築地塀ですけど一部変更しました。
六条院東門
六条院東門、ここが正門でした。門の左右だけ白い漆喰壁に変えました。


当時、高級貴族の寝殿造りであっても、どうも邸宅をかこむ築地塀は
版築土塀で、一部、門の左右だけ白の漆喰塀にしたようです。あの平清盛の六波羅邸でさえもそうでした。

また屋根も板葺きだったようですが、今回は板葺きでもより薄い板を重ねた杮葺きにしてみました。
識者によっては平安時代はまだ板を薄く伐る技術が確立していなかった、との論及もありますが、
やっぱり六条院には杮葺きがふさわしいのでと思い。


これらの点を変更しました。

そして東北の夏の町(季刊大林では敷地ごと町とよんでいます)。
ここは花散里の預かる邸宅で、
花散里とは、光の亡き父・桐壺帝の女御であった麗景の妹で、
麗景には子がなかったため帝の死後、後ろ盾もなく源氏の庇護のもと、
ひっそりと暮らしていました。
そこへ訪れた源氏が花散里を見初めしばしの逢瀬、

しかし気の多い源氏にやがて半ば忘れられ、
後に源氏がやや人生に疲れたときに、
再び会う機会が訪れ、昔となんら変わらない花散里のやさしい性格に
癒される・・・・といういきさつでこの夏の町の主になりました。


またここには馬場があり女房衆の観劇の殿もありました。

西南の秋の町は、
秋好中宮の御殿で秋を楽しむための庭がすばらしいものでした。

南西からの六条院春の御殿



秋好中宮は、
源氏の恋人でもあった六条御息所と前坊(桐壺帝の弟。一時東宮だった)との間の一娘、
伊勢の斎宮でしたが、後に源氏の養女となり、源氏自身の息子である冷泉帝の女御へと入内させました。

ちなみに母の六条御息所は、
光源氏の最も早い時期の恋人の一人であり、
強い嫉妬のあまり、生霊として源氏の子を宿した葵の上を呪い殺すなど、
源氏物語のなかでも異彩を放つキャラですね。

そして西北、冬の町、
ここは明石の御方の住まい。
光源氏が須磨・明石に流されたときの恋人。
父の身分が地方の受領だったため、
他の女性たちに比べ低く、
そのため冬の御殿は寝殿造りの形をなしていないはワンランク下の御殿。
それでも、後に源氏の一人娘(のちの明石の中宮)を産んだことにより、紫の上、花散里に次ぐ地位を得るようになります。

ざっと各町をおさらいしましたが、
六条院自体の全体規模は四町。
当時の公卿に与えられる平均的な敷地は一町(120m四方)と決められていましたが
六条院はその四倍の規模を有し一辺が260m前後もありました。
いかに源氏の権勢が強かったかを示しています。

六条院は、
光源氏が太政大臣という最高位に上りつめ、
その子夕霧も元服、
まさに一族隆盛の極みにたてた理想の邸宅と言えます。

ちなみに、実際、3Dで六条院を再現してみると思うのですが、
確かに四町という広い規模でも、
それを四区画に分けそれぞれ寝殿を建てると意外と狭い感じがします。
寝殿造りに欠かせない南庭、広い泉に囲まれた浄土式庭園は一町の広さがあっても
まだ足りない・・・と思いました。

そう思うと、
この六条院もあくまで紫式部の理想というか脳内の産物で、
当時、そこまでのものはなかったのでしょうね。
式部のパトロンともいわれる道長にしても、
彼だったら建てられる力はあったと思いますけど、
やっぱり何か建てられない理由があったんでしょうね。
(たとえば源氏のように愛人が少ない?)。

さて、本邸の春の町に移りますけど、
中心である寝殿の規模は七間四面。
七間四面とは正面七間の母屋を中心にさらにその四周に庇の間がつく規模、
さらのその周りに高欄を廻らせています。
七間四面は当時の高級貴族のほぼ定番で、
寸法的にいうと、左右桁行で約25m。
奥行きは15m前後となります。

ちなみに現在の京都御所・紫宸殿は九間と大きく桁行長さも35mを超えています。
また高さも20m平安当時とは違いとても高い建物になっています。
これも大極殿が失われ、即位の大礼等が紫宸殿で行われるようになったからだと思います。

六条院正面
六条院の寝殿正面、左右に約25mあります。


屋根は寝殿以外の殿舎もみな桧皮葺きになっています。

当時は位が五位以上の者でないと桧皮葺にできませんでした。

その位ですが、
貴族・公家の定義、さらに明治の華族制度でいうならば、
五位以上が公家、六位以下が蔵人、つまり一般の中下級の実務官僚となっていて、
この五位と六位の違いがすごく大きくまさに天国と地獄の分かれ目(ちょっと表現がオーバー)。
江戸時代など、六位の者など口のなかで「じゅごい、じゅごい、じゅげむ・・・(従五位・・・寿限無)」と呪文
のごとく唱えたとか唱えないとか? 

逆に三位以上は公卿といわれ高級貴族に属します。
他位にはない特典・待遇があります。

いわゆる寝殿造りもこの三位以上の貴族たちの邸宅のことをさし、
平安中l期の当時、日本の人口が800万前後、京の都が15~20万、
朝廷で働く官人が約7000~1万にいたと推定されますが、

そのなかで源氏物語に出てくるような寝殿造りに住めた者は公卿クラスで30人ほど、
四位、五位でも功績(摂関家への上納金が多かった?)があり昇殿を許された者も含めて100人程度。

つまり本当の意味で王朝文化を享受したのは、その百家族。

ある意味、この百家族のなかで源氏物語は厚みを増し、回し読みされ、筆写されていったのが
実相だといえます。

本当に一部の人たちの狭い範囲・空間ですよね。

でも、その一握りの人たちにより読み継がれ、
江戸時代、本居宣長によって「ものの哀れ」論として感性の体系化がなされ、
現在もなお「日本的なるもの」として大きな文化的影響を受け続けているのも
何か感慨深いものです。

物事は狭いなかでより固まり純化される側面があると思いますが、
この源氏物語に象徴される平安の王朝文化とは、
なんでこんなにも濃密で官能的で、
独自な文化、感性が形成されていったのか・・・?

今の日本人と同じ感性?
ご先祖さま?

とつい思ってしまうし、
あの百家族という狭い社会だったからこそ生まれたのではと考えます。

そして、その百家族の周りには王朝文化を影から演出していた才人、異能の
者たちがいたと思います(紫式部もその一人)。

あの源氏物語絵巻のデフォルメ度は半端でないです。ピカソも真っ青です。
もし絵巻の部分が残っていなかったら源氏物語は
今日のように有名にはなっていなかったでしょう。
やはりデフォルメの天才がいたのです。


さて、春の町に戻ります。
寝殿の東の対はおそらく光と紫の上の実質の住まい、
寝殿は儀礼が中心だったでしょう。

東の対
東の対

ここの蔀は朱色の飾り金具にしました。
この方が落ち着きますから。

寝殿を挟んで左右には壁のない透かし廊がありました。
西の対側の方には反り橋があり、
その下を鑓水が流れていました。

西の対
西の対と反り橋


そうそう寝殿の階段は当時、五段と決まっていましたが、
左右の対は三段でした!
知らなかった・・・
急遽、三段に直しましたが、
さらに寝殿と左右の対の床の高さが違っていました。
何と、寝殿だけ他の殿舎より30cm高いのです。

後で気づきましたが、いまさら修正となると・・・ヤメました・・・

個人的には30cmなど中途半端な段差などつけなくてもいいのに、
大体、階段の一段は20~25cmが標準なのに
平安の人たちはそんなに足が長い?
どうせ段差をつけるのだったら25cmにしてほしかった、
いっそ、バリアフリーの方が安全では?
と思うのは現代人の感覚ですよね 笑。

透廊の二人
透かし廊に佇む光源氏と紫の上


女三宮
ひとり庭を眺める女三宮。CGに出てくる人物は青幻舎刊「源氏物語 六条院の生活」から一部引用、利用させて頂きました。


女三宮は源氏の兄である朱雀帝の皇女。
後に源氏の正妻になりますが、不義の子・薫を産んでしまい
耐え切れなくなった宮は出家してしまいます。

南の泉殿に向けてはそれぞれ釣り殿がありました。
東側の釣り殿は切妻の屋根に庇をつけた縋破風(すがるはふう)にしてみました。
釣殿へ行く廊下の途中には中門がありました。
ここを抜け寝殿にか東対に上がりました。

西からの六条院春の御殿
西側からみた釣殿と庭園



この中門があると、
せっかく廊下伝いに歩けるのに一端、
ここで降りてそのまま歩いて釣殿に行くか、
再び廊下にあがるか・・・・
構造的にもったいないような気がしますがどうでしょう?

西の釣殿はあえて楼閣風に二層にし朱の漆に塗りました。華やかです。


釣り殿の二人
釣り殿から西対へ戻る源氏。隣の女性は誰だかわからなくなってきました。同じ装束ですし・・・



光源氏の前の住まい、二条院には西の釣殿にあたる部分に持仏堂がありましたので、
また後白河上皇の院の御所だった「法住寺殿」にも二層の釣殿が存在しましたので。
ただ上ることはできません。飾りです。
上れるようになるの鎌倉後期、室町時代の足利義満の頃になってからです。


六条院春御殿西の釣殿の光源氏



後左右の対の北側には北対の殿舎がありました。
ここへはそれぞれ東西に寝殿から伸びる壁付きの廊下があり、
巾も5mと広くなっていました。
この廊下は、廊下だけでなく中宮に使える女房・女官たちの部屋や食堂になっていました。
料理・炊事自体は外の雑舎で行われたようで、廊下の食堂は料理を盛り付けて食べるところ、
あるいは主人の膳を準備したところです。
鬼の間というのもありますが、ここはどうも毒味した部屋のようです。


六条院春御殿北全景


寝殿造りを見ていると、
どうしても普段の生活臭がありません。
近世のような独立した煙出しのある台所・庫裏も、
そしてトイレもみあたりません。

どうみても生活するには寝殿造りは不便だと思います。
基本、ワンルームで風や台風から守る外壁も、中を仕切る壁も
一部、塗り籠めを除きありませんでした。
壁の代わり、上げ下げする蔀戸がありましたが、
これも女性が上げるのはたいへんだったと思います。
平安時代は寒冷期だったと言われていますし。

でも寝殿を彩る御簾や壁代、障子(今でいう襖)の大和絵、
それに様々な調度品・家具類、
そして華麗な女房装束、
他のいずれの日本の時代よりも洗練された、
まるで住まいというよりもステージ、舞台のようです。

最後にですが、
幾つか書き添えたいと思います。

源氏物語の作者は本当に紫式部だったのか?

あの六条院にかつての愛した女性たちを集め住まわせる様は
女というよりも男目線で描いている感覚がします。

当時の風習として、
男女の婚姻は妻問婚(つまどいこん)が多く、夫が妻の下に通う婚姻の形態でした。
源氏もいろんな所へ通っています。一夫多妻はもとより多夫多妻であった面もあると思います。
藤原氏の摂関政治成立の原因のひとつにもなり、
藤原氏を妻に持つ天皇の子は、母の一族である藤原氏のもとで養育され、その子が長じて天皇になる、
という形で藤原道長は権勢を誇る立場になれました。

これは嫁ぎ先というよりも実家第一という側面があり、
そのため、実は平安貴族・皇族の女性など家の財産を相続する権利がありました。
母系社会的でした。

現に、院政期に、鳥羽上皇と美福門院の皇女であった八条院暲子内親王は両親の莫大な財産を相続し、
その財力を背景に内親王の猶子である以仁王を使い平家打倒へと裏で動いた経緯があります。

ですから当時、女性でも一定の権利、通婚の自由もあり、
そんな時代背景のなかで、
男がハーレムで女性を侍らす?
そんな男の願望のようなストーリーを式部がホントに書こうとしたのでしょうか?
物語を書いたのは紫式部だけれど、
コンテを描いた男の存在が関わった気がしてきます。

よく光源氏のモデルに源融や源高明、さらに道長説もありますが、
個人的な考えとしては明確なモデルはいないと思います。

では源氏物語はなぜ生まれた?

そう推理すると、
見えてくるのが、あの百家族の存在、
その頂点は藤原道長であり、
彼の存在なくして紫式部も宮中に居れないし、
また書けないと思います。

実はモデルはいなかったけれど、
光源氏のようになりたいと願望する男はいた。
それが道長であり、紫式部に書かせたのではないかと
想像するのです。

物語のなかに、
冷泉帝がでてきます。
源氏の父である桐壺帝の第十皇子とされましたが、
実は父の中宮であった藤壺中宮との間で生まれた不義の子、自分の息子でした。

その息子が即位して冷泉帝になり、
やがて自分が光源氏の息子であったことを知ります。

そして、源氏が実の父でありながら自分の臣下でいることに悩み、
源氏への譲位を仄めかしますが源氏から固辞されます。

譲位をあきらめた冷泉帝は、
かわりに源氏に准太上天皇位を贈るなどして孝養を尽くそうとしました。

ここで引っかかるのは、
不義の子である冷泉帝がなぜ、ほれほどまでに源氏に孝行を尽くそうとするのか?
不思議でなりません。
普通なら怒りが先でしょう。

この冷泉帝の存在、
そして太上天皇位ではなく准太上天皇位を贈られた事、

ここから導き出されるのは、
これは道長自身の願望の表れではないか?ということです。

道長は娘を入内させ皇子を産み
太政大臣としてこの世のあらゆる権力を握りました。
でもあくまで藤原氏の氏の長者であっても天皇の臣下です。

道長自身、息子を天皇にし、自分が太上天皇になる野心など
抱いていなかったと思います。
しかし最高権力に上り詰めた男ですから願望はあったと思います。

そこで自分を皇子から臣籍降下した光源氏に仮託し、
太上天皇になる物語を紫式部に書かせることで
この世では果たせない夢を物語のなかで果たしたかった・・・。

それが式部との黙契であったと。

歴史上、皇族以外で太上天皇になった者はいません。
義満がその一歩手前でしたが死んでしまいました。

道長は分をわきまえていました。
なぜなら源氏物語のなかでさえも、
太上天皇ではなく准太上天皇という架空の天皇位で終わらせたのですから。




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コメントありがとうございます 

前から見ていて頂いたとは露知らず
ブログの更新も怠け気味でした。
申し訳ありません。
でも、とてもウレシイです。

こんなブログですけど
今後ともよろしくお願い致します。

  • 梅村京一朗 
  • URL 
  • 2016年05月13日 23時20分 
  • [編集]
  • [返信]

ワクワクしてます♪ 

はじめまして。
ずっと前からこちらのブログのファンです。
遂に六条院を手掛けられるんですね!

これからの更新を本当に楽しみにしています♪
  • マドリードの老猫 
  • URL 
  • 2016年05月13日 12時16分 
  • [編集]
  • [返信]

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