3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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朝堂院の3DCGが出来上がりました。

朝堂院が完成したのでブログにアップしますが、
その前に、今回の九州熊本から阿蘇、大分と群発地震で亡くなった方々にお悔やみ申し上げます。
また怪我や避難生活で辛い思いをしている住民の方の一日も早い生活復帰を願うばかりです。
日本にはたくさんの活断層があり、いつ、どこで地震が起きても不思議ではありません。
人事とはとても思えません。
国民みんながお互いに助け合っていかなければならない、と改めて痛感しました。

平安時代も多くの天災に見舞われました。
富士山も噴火しています。
朝堂院も地震や火災で幾度も焼失しています。

その朝堂院、
いつの時期のもの?

というよりも再建の度に変化していったなかで、
自分なりに気に入った部分を繋ぎ合わせたものになりました。

まずその3DCGから(クリックすると拡大します)、

朝靄に包まれた朝堂院
朝靄にけぶる朝堂院です。


そして、
薄日差す朝堂院
薄日の差し始めた姿、




光輝く朝堂院
光り輝く朝堂院が出現しました。応天門の前を進まれているのは鳳輦に乗り出御される桓武天皇です。

威風堂々としています。
まさに平安宮を代表する宮殿建築です。

その朝堂院の大きさ、
幾度か書いてますが、
改めて図上で比べてみようと思い、これもアップします。
平安神宮との比較

赤い部分が現在の平安神宮の規模、
朝堂院を模したというけれど、
その大きさの違いは圧倒的です。


もう一枚、
朝堂院&東京駅

これも朝堂院のなかに東京駅がスッポリ入ってます。
東京駅自体が長さ335mもある長大さですが、
朝堂院にはかないません。

よくもこんな大土木工事をしたものです。
しかも朝堂院は大内裏の一部なのですから。

さて、ここで時系列的に
朝堂院と同時期及びその後の時代にどんな繋がりがあったのか少し書いてみたいと思います。

再建を繰り返しつつ生き残ってきた朝堂院も
安元3年4月28日(1177年6月3日)の大火、
俗に「太郎焼亡」ともいわれる大火災で焼失し、その後、二度と再建されることはなく、
この地上から消え去ってしまいました。

ちなみに太郎焼亡では、
当時の京の町家の約三分の一にあたる二万戸が焼け、人も数千人が亡くなったそうです。

この朝堂院で最後の即位式を挙げたのは第80代高倉天皇でした。
同天皇は、あの後白河天皇の第7皇子、
母は平滋子。
滋子は平清盛の妻・時子の異母妹であり平氏と深く関わっていました。

でその平清盛、
権力者になるきっかけが
あの保元の乱(1156年)。
藤原摂関家の内紛に朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し争われたものですが、
この政変が貴族から武士へと権力が移っていくきっかけとなり、
平氏を束ねる清盛が源氏との武家の棟梁争いに勝ち、天下を握り朝廷を支配しました。
その平氏一門の拠点だったのが六波羅、
歴史の本や雑誌にもよく出てきます。

しかし朝堂院は出てきません。存在してるのに。

数年前、NHKの大河で清盛が放映されましたが、
そのなかの院政期に絶大な権力をもっていた白川上皇、鳥羽上皇、
そして後白川上皇と清盛の確執のなかにも朝堂院は出てきません。
ドラマのなかでは、政治の中心はあくまで院の御所であり、清盛の館・六波羅です。

平安の始、
桓武天皇は律令体制の再興をめざし、
大内裏を整備されました。
律令とは民に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に課せられる、というものであり、いわば天皇の前では誰もが平等であるとする一君万民思想でした。

当然、それを実現するためにはしっかりした官僚機構が必要であり、その象徴が大内裏であり朝堂院でした。

しかし貴族の台頭とともに土地の私領・荘園化が進み、律令体制は名ばかりのものとなってゆきました。
摂関・藤原家の時代はそのピークです。

そうなると膨大な官僚機構も必要なくあり、

朝堂院は律令の中心から即位式など国家儀式・年中儀礼の舞台へと変容してゆきました。

藤原道長も幾度も足を運んだことでしょう。
何よりも壮大な建築であり朝廷の権威を鼓舞するものでしたから。

で、たまに平安物の映画や歴史ドラマを視ても
寝殿造りの館で繰り広げられる詩歌管弦や勢力争いに陰謀うずまく世界、
一方で源氏物語に代表されるような後宮の華やぎばかりが強調されます。

やはりそこには朝堂院は出てきません。

ドラマで出すにはセットにお金がかかりすぎる?

戦国時代の方が人気がある?

個人的に思うことなのですが、
朝廷にはどこか律令体制を理想とする考えがあって、
それは藤原氏のような貴族にも残っていて(子孫の近衛文麿もそう?)、
その理想は、後に後白河法皇と源頼朝の確執、
後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒への戦い、
後醍醐天皇の建武の新政、
そして明治維新の岩倉具視へと繋がっていると思います。

今、手にする後白河法皇の残された「年中行事絵巻」にも朝堂院がしっかり描かれています。
また、「年中行事絵巻」があったから現在の平安神宮も建てることが出来たと思います。

要はいいたいことは、朝堂院は中世、清盛の時代までも存在し続けたこと。
それは当時の人々にとって今でいう「国会議事堂」のような存在であり大切なものだった、
と思うのです。

ですから朝堂院を舞台にした宮廷時代劇とか歴史番組、
そんなのぜひ視てみたいですね。


では3DCGを続けます。
斜めからの朝堂院
南東から眺めた感じ。まさにこんな感じ。



西から
西側から見た朝堂院


大極殿と左右の楼閣

大極殿と白虎楼・蒼龍楼、それに真横に一段高く仕切る瀧首壇。
瀧首壇は長岡京などの朝堂院にはなかったもので、平安京朝堂院がより儀礼の場へと
特化していったしるしと言われています。

そして大極殿、
大極殿アップ

左右の回廊は壁のない吹き抜けになっています。
冬は寒かったでしょうね。
これも朝議の場というよりも儀礼典の方を重視している感じですね。


十二堂と回廊
十二堂と回廊

朝堂院の会昌門を潜ると、そこには十二の堂が左右に並んでいます。

長屋風な地味な家屋、一体なにに使うの?
と思われるでしょうけど、
このお堂群は朝儀または儀式に列席する大臣以下の朝廷の臣下が座して控える部屋でした。
大極殿に近い順に太政・左右大臣、次に大納言・少納言等の参議、さらに各省・寮の長官等の席順に従って
各堂が定まっていました。

ここも左右と裏は壁でしたが正面は柱のみでここも寒かったでしょうね。
かえって回廊の方が複廊で暖かい気がします。
個人的には、この長屋風の家がないほうがより院内が広く感じられていいような気がしますが、
でも、それではちょっと寂しいかも・・・ですかね。

含章堂で待つ大納言
十二堂の一つ含章堂です。じっと蓋持ちを従え控えているのは大納言の方です。


ここは大納言・少納言など三位以上の高官が控える場であり、
正三位の大納言の場合、
儀仗用の武具持ち、錦の蓋(日傘のようなもの)持ちを従える栄典がありました。
(人物等は「時代装束 時代祭資料集成」京都書院刊から引用しました)

ちなみにこの含章堂を含めた十二堂を見ていると
「年中行事絵巻」に出ていた幌舎を思い起こします。

幌舎というと仮設のテントのことで、
幌舎

こんな感じです。
五色のもありました。
堂のない内裏での儀式のときの控えに使われたようです。

テントというと何となく新鮮な感じですね。
絵を見ると四周を幕布で囲みその中にありますよね。

幕布というと思い出すのが戦国時代の合戦場における大将の陣を囲む幕、
でも天蓋、屋根はありません。
雨が降ったらどうするの?
平安時代のテントはないの?
と思ったりしますが、
実際、どうしていたんでしょう?
戦国時代、テントはなかったのか?

おそらく地方の社寺を陣に借り受け(半ば強制的)ていたでしょうけど。

朝堂院のこの長屋を見ていると何となく大陸風を感じます。
乾いた大地に吹きすさぶ砂塵、それが隊商たちのテントを生み、
宮殿にも常設の幕屋が建てられた?というふうに。

平安中期以降、日本は国風化していきますが、
半鎖国的な状態は明治まで続き、
鎖国によって失われた習慣や文化・文物、逆に鎖国ゆえの独自な文化、純化とがない交ぜに
今の日本に繋がっている気がします。
街を歩くと無国籍で無秩序な貌、無個性な材質たち、
遠く平安の昔には国家的な計画都市が作られたのに、
今の日本に美しいものは点から点へ偏在してしまっています(とくに京都)

また脱線しますが、
中国の建築文化を見ていると、なぜ木造なの?
と思ってしまいます。
実際は柱や梁は木だけど壁はレンガや石の家も多いです。
レンガを焼くにはたくさんの木材が必要であり、
だったら壁も板か土壁にしたらどう、木材を活かせるじゃん、と思ったり、
実は中国の家は木造風の屋根が載っているだけで中身は他の中近東や欧米の家と変わらない?
と思ったりします。

また中国の民家、とくに宮殿や寺・廟など多くの装飾・塗色で飾られています。
塗色はある面で木材の持つ呼吸・気流を遮断してしまう側面もありホントは白木がよいのだと思います。
現に京都御所がそうですから。

中国の乾いた大地では白木の木造の家はあっという間に風化し古くなってしまいます。
ですから塗色で補う、繕う、見栄えがよい、そう思えます。

先日、森のない神社をみました。
境内はきれいに砂利で整地され社殿がきれいにそろっていました。
けど鎮守の森がない・・・

外国に行くと、街の広場や教会・寺など森のない石畳の広場にあることが多いです。
むしろ日本の方が例外。

木造の家は実は周りを森で囲まれていないと心が耐えられないのです。

たとえば、京都の南禅寺から森をなくしたらどう思いますか?
きっと殺伐とした思いをするでしょう。

でも斑鳩の法隆寺へいくと、不思議と緑が無くても安心してみられる、
そんな気がするのは、
結局のところ、大陸の貌をした寺だからだと思う。

日本へ入ってきた禅とその建築が日本で広まっていったのは、
その禅そのものが、中国でも湿潤な気候で知られる長江南岸の「江南」に多かったから、
その親和性があったかもしれません。

でもやっぱり白木もいいけど、平安京の朝堂院の鮮やかな朱塗りもいい!
どちらもいいんですよ。結局のところ!

さて、次に
回廊を歩く女官
回廊を歩く女官です。
屋根をささえる虹梁には装飾を施しました。
そういうケース多いですから。
平安初期ということもあり中国風の文様も取り入れています。

それにしても後宮の女官が一人なぜ朝堂院の回廊を歩いているの・・・
と自分で言ってみる。

最後に、
夕日に沈む朝堂院に別れを告げ、今夜はこれで筆を下ろします。

夕焼けの朝堂院




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コメント

リンクありがとうございます 

乱読F様
遅ればせながらこちらもリンク致しました。

不思議な世界を送っていただき
ありがとうございます。


  • 梅村京一朗 
  • URL 
  • 2016年05月13日 23時48分 
  • [編集]
  • [返信]

NoTitle 

はじめまして。とても力作で面白いので、勝手にリンクしてしまいました。今後とも宜しくお願いします。

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