3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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大極殿(平安京)の3Dを作ってみました。

このブログを始めたころ、平安京の朝堂院(大極殿含む)の3Dを作成しましたが今回作った大極殿と較べると、
自分でいうのも何ですが、
「なんと下手くそな3Dだったんだろう!」との思いばかり。

日々、精進すれば上達するんですね・・・
でも、その分、手を抜けなくなるので負担も少々かかります。

初期の頃作った3Dは今とは別のアプリだったので、
パーツ、とくにテクスチャが引き継げないので、
一から作り直しってのも多いです。

さて、大極殿ですが、
今回の大極殿・・・・??どこかで見たような? (クリックすると何れも拡大します)。

大極殿正面


そう、そうなんです。
復元された奈良、平城京の大極殿をそのまんま3Dで作った感じ。
じゃ、写真で充分じゃん。

確かにそうなのですが、
3Dは3Dの良さがありますから。

では、今回の大極殿は平城京の焼き直し?
そうであるともいえるし、そでもないとも言える・・・

なお、大極殿の正面は柱だけ。吹きっさらし。
現在の復元された平城京大極殿のようにアクリル板で
保護されてません。
冬なんか寒かったろうなぁ・・・・と、当時の人に同情。

大極殿北面
北側からみた大極殿。階段と扉がそれぞれ三つあります。



大極殿斜め
斜めからの全体像。

実は平城京の大極殿を復元するにあたっては、
平安京大極殿に関する諸資料や現存する飛鳥・奈良時代の建物等から総合的に類推して
建てた物なのです。

ですから平安京とも繋がりがあります。
また、当時の宮殿建築についても、平城期と平安初期は
多分に共通点があります。


今日、思い浮かべる平安京の建築というと、
優雅な反りと丸びを帯びたイメージ(建築も含めて)がありますが、
平安初期は平城京のような角ばった直線的な所謂・飛鳥・白鳳建築を
引き継いでいました。

そこで、今回、心置きなく平城京風平安大極殿を作った訳です 笑。


大極殿側面
側面からの大極殿、当時の建築がちょっと角ばっていたのがわかります。


大極殿は即位儀礼や外国使節を謁見する最も権威ある建物でした。
朝堂院の中心に位置し、南正面には正門である重層の応天門、左右両翼に栖鳳(せいほう)、翔鰭(しょうらん)の両楼
を抱え聾えていました。その応天門を入ると、朝集堂が東西に並び、
朝堂十二堂が左右対称に配置されていました。
そしてその最奥の正面の正殿が大極殿です。



大極殿高御座遠景
殿内の天皇の玉座である高御座(たかみくら)


そして、


側面からの高御座

殿内での高御座。

殿内の梁?側面からみた高御座。あんまり殿内見せると3Dのアラが出てくる・・・


高御座+桓武天皇アップ
さらに高御座のアップ。出御されているのは平安京遷都を行なった桓武天皇。



前掲した殿内・高御座横に小さく二人の人物がたっています。
平安時代初期の高級官吏と女官の二人。
官服(朝服)を着ています。

平安初期の官服
光琳社出版刊行 「原色 日本服飾史」 井筒雅風著 から引用

平安時代の装束と言いますと、
源氏物語に見られるような衣冠束帯、十二単の着物を想像しますが、
平安初期は平城京とよく似た大陸風の装束でした。


平安京の大極殿は三次に渡って再建されています。

桓武天皇の造営した第一次大極殿は貞観一八年(八七六)の火災で焼失し、すぐに再建工事がおこなわれ
これが第二次大極殿です。
しかしこれもまた康平元年(一〇五八)に焼失し、延久四年(一〇七二)にいたってようやく第三次大極殿が再建されました。

この第三次大極殿は、保元二年(=五七)の信西入道藤原通憲による大内裏の修造の際に大々的に修理が加えられ、面目を一新しています。

信西といえば保元の乱を主導した者としての悪役のイメージですが、
その一方で、新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に能力を振い、国法に基づく律令国家の
再建をめざしました。

そのころはもう院政の時代でしたが、
大内裏や朝堂院、大極殿などが機能していたのが不思議です。
イメージとして朝政は時の院の御所で行なわれていたと、思っていましたから。


大極殿斜め2
斜めから見た殿内。

さて、
その、第三次大極殿も治承元年(一二七七)の「安元の大火(太郎焼亡)」によって焼失し、その後にはついに再建される
ことはありませんでした。
建武の新政を行なった後醍醐天皇も再建計画を立てましたが、
実現することはありませんでした。

当時、世の三大建造物といえば、
一に奈良の大仏殿、二に出雲大社の本殿、
そしてこの大極殿と言われていましたが、

その規模はというと、
正面左右の柱が九間(当時の柱間寸法は5m前後)、
柱の立つ基壇部分でいうと左右に約53m、
南北梁行が四間で約28m、
高さが鴟尾を含めると約30mの規模があり、
現代のビルに例えるなら10階前後のビルに相当します。

しかもその規模を木造で建てたのですから、
当時の技術力というか、もう驚異以外の何物でもないですね。

ちなみに朝堂院の正門である応天門から大極殿まで何と500mの距離!
約1キロ歩くのに12分かかると言いますから、
その半分、6分も歩かなければ大極殿にたどり着かなかった計算になりますから、
もうスケール大きいですね。
当時の人たちのエネルギーに脱帽です。

平安神宮は、その朝堂院の三分の二の大きさで建てられましたが、
確かに参道が500mもあったら子供はムヅカルしお年寄りも途中で行き止まってしまうかも。

そんなこと知らなかった自分はなぜ当時と同じ規模で建てなかったの?
と思っておりましたが、さりもありなん、としみじみ思うのでした。

ちなみに平安神宮の大極殿は屋根が一重ですが、
三度再建されたなかで、二重の入母屋建築だった可能性も平城京大極殿と照らし合わせる
充分ありえたことだったと思います。
逆に最初の大極殿は四注造りだったという仮説もあります。
また屋根瓦も現在の平安神宮のように屋根全体を釉薬を塗った瑠璃瓦で敷いたわけではなく、
軒瓦など一部に使われていた、との説もあります。

後、おまけというか、
京都盆地上空から見下ろした大内裏の境界線と大極殿。

大内裏と東寺五重塔



南からの大内裏
京都盆地と大内裏+大極殿正面2




以上、ざっと大極殿について書いてみました。


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