3D京都

いにしえの京都を3DCGで再現します。史話、短歌も詠みます。

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近代、日本はなぜ江戸を捨てたのか?

何も深い意味はなく、急に秋めいた季節柄、幕末・文明開化の頃を、ふと思案してみました。

何から書いていいのか筋立てもないですが思いつくまま書きます。

私は建築が好きで、とくに素材を生かし、
伝統的な装飾と様式を施した明治以前の古建築が好きです。

明治になって日本の従来の建築(社寺や民家は除く)は欧化政策のもと、
急速に西欧風に変わっていきました。

明治初期の東京の旧大名邸の古写真など見ると、
漆喰と鎧板壁・窓格子などに囲われた多聞二階長屋が明治中期にもなると、
一階は壁が取り払われ商店などの店先に変わっていきました。クリックすると拡大します。


幕末江戸
双葉社刊 「完全版 江戸の風景」より引用 


正直、急改造された多聞長屋など美しくはないです。
ただ、いつの時代でもそうですが経済的効率が優先し都市は雑多な町に変わるものです。

その経済優先も実は利便性に富んでいるからこそ急速に近代化していったと思います。

明治政府が頭の髷を禁止し、明治天皇にさえ洋服(軍服)への変更をお願いしたのも、
西欧列強と対等になるため、非文明国(西洋からみて)と侮られないための政策でしたが、

これも実際には上からの強制だけでなく、やはり近代文明を取り入れるためには洋服の方が
利便性があったからだと思います。

一方、女性が旧来からの着物を着続けたのは、今でいう専業主婦、直接的な経済活動に
携わる機会が少なく、また着物が日本女性に似合っていたから、男もそれを求めていたから、
と考えます。

まとめると、明治の近代化は富国強兵だけでなく、その底流には西洋文明の利便性、華やかさ、
活動性・多様性があったからこそ国民も受け入れたのだと私は思っています。

では、「なぜ、江戸時代は捨てられたのか?」、その理由を私の独断的な推論で言うなら、
それは「仕事・生活の公私がどちらも土足禁物の畳の上、床の上で行なわれていた」からと考えています。

もちろん物事は長か半か単純に割り切れるものではないですが、
わかり易くするため、あえてそう決めつけました。

江戸時代、日本を実質・支配していたのは徳川の江戸幕府、
直轄領は400万石、間接・その他も含めれば計800万石の領地・資産を有し
当時の日本の3~4分の一を占めていました。
圧倒的な権力・軍事力でした。

よく時代劇などでも将軍を前にして老中や若年寄が出てくる場面や
今でいう書記官にあたる祐筆、秘書官にあたる御側衆、
それと大岡越前のような北・南町奉行所の捕り物帳がよく演じられるパターンですが、

ではそれ以外の幕府の官僚機構はどうなっているの?誰か出てこないの?
と問われれば即答できません。
というか聞いたことありません。

そこで調べてみるとピラミッドを頂点とした結構複雑な官僚組織であることがわかります。

現代で言う各官庁の大臣という高級官職名は古来の朝廷からずっと変わっていませんが、

一方、幕府の方は地方大名であった頃の家政機関・軍事体制がそのまま肥大し官僚化した感じで、
官職名も内々の家臣や奥向き・従僕、武士用語がそのまま使われた感じ。

たとえば老中とかも、正式な官名というよりも、先代から仕える格上の老臣・相談役?、爺や?
的な印象を持つのですが、いかがでしょう?

端的に言うならば、幕府の統治・官僚機構は曖昧な面が多く、
文官と武官の明確な区分がなかった。律令下でいう外庁・内庁の役割が明確でなかった。

これが朝廷組織なら内庁が王様(日本なら天皇)の家政機関、外庁が今でいう内閣下の政務・実務機関ですが、
幕府にはそれが曖昧だった。

今はない江戸城の本丸御殿の指図とか見ると、一応、表・中奥・大奥の区分がありますが、
幾棟もの御殿が皆廊下で繋がっている間取りを見ると、やはりどこまでが政務の場所か
分り辛いです。

一つ言えるのはどの御殿も等しく「履物を脱ぐ床上」ということです。

これが平安京のような律令体制・朝廷下かなら(後の藤原氏の私物化は別として)
大内裏は天皇の住まわれる内裏と実務を行う諸官庁の建物、国の催事・行事を行う大極殿等に
明確に分かれていました。

この内裏と外庁に分かれた職住分離下であるなら、
おそらく諸官庁の建物は土間・板敷を土足でそのまま使う、
より便利で実務的な建物としたでしょう。実際そうでした。
そして、そこには机と椅子があったでしょう。

後の明治中期以降になると、
高級華族や財閥などの屋敷は、住居は和風の床の生活、公務・事務は洋館とに分かれる
ようになりました。湿気の多い日本では住む方は通風のよい床と縁の下がある方が住み安いですからね。
何百年も残っている古い寺社建築などいずれも床が高いです。
洋館は当然土足ですけどね。

江戸城本丸御殿は、将軍以下の職住が一体の軍事体制がそのまま住居にも反映され、
履物を脱いで上る床と廊下でつなぐ未分離な殿舎群が三百年間続きました。
全国の大名も同様でした。

明治以後、あっと言う間に江戸から大名屋敷や商家群が消えたのも、上記のように、
いわゆる生活の場は床、仕事の場は土間という職住の分離がなされなかった側面が
大きいと思います。

冒頭にも申しましたように、人はより利便性のある物に変えてゆくものですし、
近代はまたそれを必要としていました。
日本人ならなおさらです。

床から土間(土足)に変わったことは、
明治以後の様々な経済、文化、都市造り、服飾に大きな影響を与え現代に続いています。


歴史にifは禁物ですが、

もし、近世、徳川幕府のような武家政権でなく、
朝廷を頂点に全国の大名を朝臣の貴族として朝廷に取り込み、
政治・軍事・司法は中央政府(朝廷)、
各地の私領地の管理・農商工は貴族の裁量という風な、
中央集権化の体制になっていたなら、

江戸の街は、全国の町は、近世日本の面影をもっと残しながら西洋文化
融合していった・・・のではと夢想します。


また、もし、黒船襲来のとき、国軍という国家の中央軍が存在していたら、
明治維新とは大きく違った展開をみせたことでしょう。

どんな展開かはまったくわかりませんが、

吉とでるか、凶とでるか、ブログを書きながらひたすら想像を巡らすのです。



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2017年5月8日更新

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