3D京都

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天武天皇、日本の「国柄」を創られた御方

今回は日本国の礎、国柄を創られた畏敬なる帝王・天武天皇(大海人皇子)について取り上げてみたいと思います。
前々から天武天皇はその後の日本の「暮らしと文化」、衣食住の歴史にも大きな影響を与えた方と考えており、

かなり自分的な推測、独断、学説的裏づけのない内容に基づきますが、
自分なりに考えを整理したく書くことにしました。

天武天皇


まず、天武天皇の系譜、事績について簡単に触れておきます。

第四十代天皇。在位は673年~朱鳥元年9月9日(686年)。
皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となる方です。時代的には白鳳文化と呼ばれます。

あの万葉集で天智天皇と額田王を巡って恋の争いをしたことは有名な話です。

また天武天皇の事績で避けて通れないのが、古代の皇位を巡り国内が二分する形で内乱となったて壬申の乱(672年)ですが、今回はさらっと書き流します。

また、天皇の出自を巡っては、日本書記に生年が書かれていないことから、
天皇の権力でもって天武朝の都合のよいように書き換えられた、捏造された・・・、

あるいは実は天智天皇の弟ではなく兄だった、極端な説では日本にやってきた百済王子だったとか、
かなり、眉唾的なものも含めて様々な謎解きが乱立しています。

私もそれについては興味がありますが、明確な資料もなく、憶測に惑わされるばかりです。

そのなかで、すんなり「そうかも」と思えたのが、
to-pa さんという方のホームページの「追加覚書④ 大海人考」の記事。

その一部を抄出すると、


① 大海人皇子については、実母は書紀の記述通り皇極天皇(宝皇女)であろうが、
   実父については舒明天皇(天智天皇の父)と再婚する前、実は用明天皇の孫である高向王(たかむくおう)と一度結婚しており、そのとき宝皇女との間に生まれたのが漢皇子(あやのみこ)と大海人皇子(どちらが兄、弟かは不明)。漢皇子はその後夭折したとも推測され(歴史に名のみ残るから)、残った大海人皇子が歴史の桧舞台に登場してくる。
つまり天智天皇とは同母であるけれども、大海人皇子は宝皇女の前夫の子でり彼は天智の『同母兄』ということになる。
そう推測すると書紀に記されていない生年との整合も取れてくる。

では何故、書紀に『天武は天智の弟』と記述されたのか? この疑問に関しては、日本書紀を編纂したのが、当の天武政権であったという事実から推測できる。
 日本書紀の編纂を天武より命ぜられそれを実行したのは天武の実子の『舎人親王』。恐らく彼は、書紀のアウトラインについて父の天武と綿密な打ち合わせを行っていたと推測される。つまり、壬申の乱の扱いについて、それを『簒奪』でなく当時の中国思想の『禅譲のコンセプト』に合致させるべく『兄から弟に政権が移譲された』という形に創り上げるよう、直接本人から指示されたと考えられ、舎人親王は父親の言を受けて、その流れに沿って事実関係を調整して記述した、と思われる。  しかし同時に彼は、息子として父親の生年を偽って記述する事はやはり出来ず、天武の年齢についての疑問が後世残ることを承知の上で、敢えて生年を記さず崩御の年のみ記した訳である。編集責任者本人が、自分の父親についての記述の『矛盾や脱落に気付かなかった』事は絶対に有り得ない。彼は、実父の指示の通りに天智の実弟として書紀に記述し、同時に父の年齢については封印したのである。

そして、その日本書記は、
和銅7年(714)から6年の歳月をかけ30巻に完成しています。
当時の帝紀や風土記、豪族の史記など膨大な資料を収集、纏めており、まさに国家的事業です。
天武天皇の並々ならぬ執念が伺えます。

そのことで、ふと目に浮かぶのは江戸時代、あの水戸光圀が始めた「大日本史」の編纂作業。
光圀死後も二百数十年継続し、明治時代に完成。全397巻226冊(目録5巻)からなる膨大な歴史書です。
基本、尊王思想に基づき、全国に散在する史書を、あくまで事実と検証に基づき編纂したものです。
後世の世に正しい歴史を伝え、振り返ることにより、有意の志士、物事の善悪や行動の指針としようというのが目的でした。

そこからは、権力者による権力者のための書物という、下賎な勘ぐりは感じません。
二百数十年継続かけたその熱意が証左です。

天武天皇の日本書記も同じように、
あくまで律令国家に基づく国造り、そのための骨格となす正史。
それが何よりもの国家目的だったと思います。

偶然というか天武天皇と光圀には似たようなエピソードがあります。

光圀は三男で同母の兄(長子)の頼重がおりました。本来、長子の頼重が家督を継ぐべき立場でしたが、
当時の御三家との関係上等の都合により光圀が藩主になりました。
そのことをずっと苦にしていた光圀は、自分の跡継ぎにわざわざ兄・頼重の子を養子に向かえ、次の藩主に迎えました。

立場は違いますが、天武天皇も大友皇子との皇位争いを避け、自分は引く形で吉野に隠遁しました。
しかし、大友側からの暗殺の危機や諸豪族からの決起を強く迫られ、
結果的に壬申の乱へと繋がりました。

きっと、天武天皇も、理想の国造りに駈ける想いと兄弟との争いの板ばさみに合い、
苦悩の選択だったと思います。

679天武8年5月5日、天武天皇は皇后以下6皇子とともに吉野に行幸され、そこで盟約を結ばれました。
この吉野会盟の目的は後継者問題、複雑な皇室内部の勢力関係に悩んだ天武天皇が主だった皇子達を集め、結束を固め、争わず、助け合って国をささえていくようを誓いさせました。

私はこの吉野会盟は天照大神との黙契だったと思います。

前書きが長くなりました。
系譜、事績について入っていきます。

まず第一に挙げられるのは、

一、日本ではじめて天皇を称したのは天武天皇だと言われています。また国号を「日本」と定めたのも同じく天武天皇です。

二、新しい冠位48階制を定めるなど新しい国家像に相応しい官制・律令改革を実行しました。

三、日本国内、最初の貨幣とされる富本銭が鋳造されたのは、天武天皇の時代です。

四、代変わりごとに宮を移す旧慣をあらため、都市計画に基づいた永続的な都の建設を目指しました。それが藤原京です。
しかし、    天皇は完成を見ず崩御され、その意思は持統天皇に引き継がれたました。

五、文化面では、古来からの伝統的な土着文化、文芸・神話伝承を掘り起こし記録しました。もし、天武天皇が壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような古代の文化は、伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われています。

六、また神道面では、
民間習俗を積極的にとりこみ、五穀豊穣の新嘗祭を神道の要となる国家的祭祀に体系化しました。
また伊勢神宮を皇祖神の中心に据え、国の繁栄の拠り所にもしました。
今日まで続く二十年ごとに立て替えられる御遷宮も、やはり帝の発意でした。


伊勢神宮



祭祀のなかでも、特に重要視されるのが大嘗祭。
同大嘗祭は天皇の代替わり、即位の大礼の時だけに行われるもので、
大嘗宮という祭祀のための建て屋に新天皇が篭り、
天から降りてくるとされる天皇霊と寝食をともにすることによって真の天皇と認められる儀式です。

このような神秘的側面については、
たとえば、壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子(天武)は、
迹太川という川のほとりで天照大神を幻視されたと伝わります。
また、天皇は、宗教や超自然的力に関心が強く、『日本書紀』には天文遁甲をよくするとあり、
壬申の乱では自ら式をとって将来を占ったり、また天神地祇に祈って雷雨を止ませたといわれています。

まさにモーゼのようなカリスマ的な預言者ともいえる御方であり、
その成してきた事績は、日本という国家の骨組みと国柄を作られた
偉大なる帝王だったと思います。

そして、七番目に書くのが、
天武4年4月17日(675年5月19日)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、とくに四足動物の牛・馬・犬などの肉食を禁止した詔の発布です(最初は四月から九月までの農耕期に限定した模様)。
この詔勅が後々の日本の食文化に反映され、米、野菜、魚介類をが中心に、また日本の衣食住・暮らしにも大きな影響を与えていった、その端緒だったと思うのです。

肉食が盛んになったのは、この終戦後、まだ70年あまりのことですよね。

この禁令を踏まえ、
衣食住・暮らしにもどんな影響を及ぼしていったのか?
ここからは、まったく私自身の考察と推測で書いてみます。

まず幾つかのエピソードを披露、

数年前、NHKの大河ドラマで「篤姫」が放映されました。

その一シーンのなかで、
皇女和宮とお付の女官たちが、足袋を履かず素足で廊下を歩いているのを、
大奥の徳川方の中臈や侍女たちが見かけ、思わず失笑した場面が
印象に残っています。

なにも朝廷方が貧しい訳ではありません。
ただ、京の御所では素足がしきたりだったというだけです。

でも寒い冬、なぜわざわざ素足なの? と、当然思います。

天皇家は元来、華美を嫌い、御所も質素でした。
しかし白木のままの御殿は華美を通りこした清々しさがありました。

で一つ思うのは、着物に帯を締めると、不思議にあまり冬の寒さを感じないときがあります。
自分も以前、正月の年賀でご挨拶するとき羽織袴を着ていましたが、暖房のない座敷でも
寒く感じませんでした。

なぜ?思うに腹を締める帯の存在が大きいと思います。

人はとくに下半身が冷えやすいものですが、そこに帯でぐぃっと締めるとお腹がポカポカ温かく、
それが下肢まで伝わり、足袋を履かなくとも過ごせる・・・そして腰の姿勢も良くなり、全身に力が入る。
胃腸は脳とも自律神経で繋がっており、古来より米食の日本はお腹を大事に
してきたんですね。

鴨長明が日本の家は夏向きがよいと方丈記で言っていますが、
帯と重ね着で寒さを凌げる冬よりも夏の高温多湿の方が耐え難かったのでは、と思えます。

そしてこれは幕末のエピソード、
福澤諭吉だったかな?
日米修好通商条約の批准交換のために渡米した使節団の一人として行くにあたって困ったのは、
何十足ももってゆく草鞋の量、
基本、履き捨てですから、そりゃ荷物になりますよね。

わらじ



だったら丈夫な革靴を一つ履いていけばいいのに・・・と思うのですが、
やっぱり草鞋です。

当時、いくら鎖国といっても好奇心の旺盛な日本人ですから、
長崎の出島経由でいろんな物が入ってきました。ペリーの来航も
一年以上前から知っていました。

ですから、当然、知識階級の諭吉など知っていたはずです。

なのに?・・・・

足袋と帯、草鞋に共通するのはいずれも材料が植物です。
動物の皮などは使っていません。

日本の着物という形態、

古墳時代、奈良、平安初期の時代は、
大陸の影響もあって、袴も現在のズボンに近い裾を足に合わせた形で、
上衣も唐風で現在の着物のような袖口の広い感じではありませんでした。
女子も袴というよりもスカートに近い。
そして大きく違うのが皮の靴、当時は鳥の皮が多かった様、
また、腰帯も着物の帯ような幅広の布地ではなく、
どちらかというとベルトに近い。貴族などその腰帯に金銀をあしらっている。
おそらく皮のベルトもあったでしょう。
従って、後世の武士のように刀を帯に差すのではなく、ベルトから吊るす形、

古代の服装1



皮の靴など平安中期から明治まで使われることはありませんでした。
公家などもわざわざ木を掘った木靴でした。

考えてみれば、ズボンには皮のベルトが締め易く、袴・着物は帯がしっくりくる。

この、洋装に近い古代の服装から平安中期以降の着物に変わっていった一つの理由に、
やはり天武天皇の肉食の禁止令が端緒となって動物の皮・毛皮ガ消えていき、
それに代わって帯と重ね着による和装になっていった気がします。
(一部、軍馬や武具などには使われました)。

草鞋についても、畳との親和性が高く、
草鞋を脱いで床に上がり畳を歩いても、草鞋の感触と違和感はなく
心身とも和らいだ気がします。

もし革靴だったら、土足のまま椅子と机、靴はベッドで脱ぐ、
そんな生活だったかもしれませえ。

平安京大内裏の役所群も机と椅子でしたから。

天武天皇自身、神道、仏教の熱心な保護者であり深く帰依されていました。

神道には、イザナギ・イザナミ女神の黄泉神話にも象徴的に描かれている、人の死や出産などの血を
不浄なもの、ケガレとして忌み、そして祓うことにより清浄さを蘇らせる土着信仰がありました。
それは、動物を食べる肉食についても死と血を伴いますから同列でした。

最近の発掘調査により、日本の縄文文明は、
栗や木の実などを採集し、植物性食物を主食にし、動物性食物(肉や魚、貝など)、とくに肉はあくまで副食としていたことがわかってきました。
おそらく、その時代からすでに、ケガレ信仰の下地があったと思われます。

生きた人間や動物を生贄として神に捧げた他の多くの古代文明とは根本的に違っていました。

また仏教も殺生を禁じ慈悲を尊ぶ教えでした。

これら民俗的、宗教的バックボーンと天皇の禁止令により、
後世、幾たびか同じ禁令が出され、平安時代には300年もの間、死刑制度が廃止されました。

また、大陸の文化と比較した場合、
日本には明治以前まで、牛や馬、豚、羊などの動物を肉食・乳用に家畜として管理・育てる牧畜文化はありませんでした。
東南アジアの稲作文化圏でも肉は食べられ、小乗仏教でもとくに肉食は禁じていません。

肉食の文化は、
動物性の油脂を使った灯りや服飾、毛皮の絨毯、タペストリー、骨細工、儀式の供物、革の装身具や生活雑貨、と様々な生活文化に多用されました。

それに比し日本では、たとえば、
神に捧げる供物は、海の幸(魚介類・海草類)、山の幸(山菜、筍やキノコ類)で、
肉類はありません。山に生息するイノシシといえども山幸には含まれません。

世界史的にみても、肉食を習慣としない
日本の方が少数派であり、外から見れば異質な文明と言ってもいいと思います。

(インド世界のヒンドゥー教が禁じている肉食は牛肉であり、同じ牛系だと思う水牛は食べてもOKでした。
日本では一部、肉、毛皮を扱う人々は穢多として差別されました。)

温和で協調を好み、自己主張も少なく恥の文化に裏打ちされた「自己抑制」、
歴史的にも残虐度がすくなく(もう他国と比較にもならないレベル)、
家畜制度の複合的な要素である奴隷制度や去勢の延長線上になる宦官制度もなく、

これら日本の国柄は、やはり天武天皇に繋がるのです。

戦前、日本はこれを国体(中心に天皇)と称し、最後の最後まで守るために戦いました。

人によっては軍国主義、覇権、権力者の保身と捉える方もいますが、
その必死さには、それらを越えた、何がなんでも守る使命感、切実感があったと感じがします。

遠い未来を幻視した天武天皇の意思は、
混迷した現在の世界において、日本の国柄が内包する世界観が必要とされる時が来る事を
見透かしていたかもしれません。

補記:私自身は肉はあまり好きではありませんが滋養だと思って少々食べています。
肉食を否定するものではありません。
ただ、肉食を習慣化しなかった日本の国柄とは何なんだろう?
と、その疑問を自分なりに考えてみたかったからです。



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